当時の東洋大学大学院文学研究科中国哲学専攻は修士課程しかありませんでした。そのため大学院受験の時に、博士後期まである他の大学を受験する人もいましたし、東洋の修士を終えてから他の大学院へ入り直す人もいました。当時は、文部省が「博士を増やせ」と号令をかける少し前で、またバブル時代でしたので、大学院へ入るよりは就職、という雰囲気もありました。
私の場合は、大学院に入る時に両親と二年で修了して就職するという約束でしたので、その先の進学というのは考えていないと言えば嘘になりますが、現実問題としては考えていませんでした。ですから就職問題です。ただ、これも前に書きましたが私は大学4年の時から中国書籍の輸入販売では知られた東方書店でアルバイトをしていましたので、修了後はそのまま社員として就職してしまおうかと考えていました。バブル期だったので他にも選択肢はありましたが、大学院卒というのは就職には不利で、それに東方書店で働くというのも私にとっては魅力的でしたので、これといった就職活動もしていませんでした。その後の氷河期と呼ばれた就職活動を経験された方には怒られるかもしれませんが、4月になればきっとどこかの正社員になっているよ、というのが当時の私の感覚でした。
そんな大学院2年の秋、当時東洋大学大学院に非常勤で教えに来られていた中野達先生から白水社で社員募集をしているというお話をいただきました。公募というのではなく、白水社から知り合いの先生に声がかかり適当の人材を推薦してもらうというものだったようです。当然中野先生以外の先生にも声がかかっていたでしょうし、中野先生も私以外の人にも白羽の矢を立てていたでしょう。ただ、結果的に運よく私が選ばれました。一応「語学書編集部」所属ですが、私の場合当時白水社で進行していた中国語辞典の担当編集者としての入社でした。この中国語辞典の編集にまつわる話は、大阪外国語大学中国語科の同窓会誌に依頼されて一文を草したことがあります(⇒【こちら】)。また東洋大学中国学会報にも主編者である伊地智善継先生について書いたこともあります(⇒【こちら】)。ですから、この「暇つぶしエッセイ」で取り上げるのはやめておきます。どうぞ、そちらをご一読ください。
(第18回 完)