大学院の2年次は当然のことながら修士論文を書かなければなりません。授業は3コマだけでしたからそれほど負担にはならないはずなのですが、上にも述べたとおり、3コマ中2コマは1年次と全く変わらない演習があり、なおかつ新入生がいないため、この2コマのための予習もかなりの労力を強いるものでした。また私は大学4年の時から週に4日から5日のアルバイトをしていましたので、修論のために割ける時間がそれほどふんだんにあるというわけではありませんでした。ただ時間に追われる方が何事も集中してやれる、と誰かが言っていたように、むしろこのくらいのペースがちょうどよかったのだと思います。もし授業もなく毎日自宅でのんびりしていられたら、とても修士論文など書けなかったでしょう。
さて私の修士論文のテーマは卒業論文と同じく秦漢思想史でした。前にも書いたように、なぜ儒教が国教となったのか、なぜ法家を中心に据えた秦帝国はあんなにも簡単に亡んでしまったのか、その理由を自分なりに納得したかったからです。卒業論文では時間が足りなかったこと以上に自分の力不足もあって、秦帝国の歴史をたどるだけで終わってしまいました。ですから修論はその続きでもあります。
卒論と同じく、第一に資料としたのは『史記』と『漢書』でしたが、この頃、雲夢秦簡の発掘成果も広く知られるようになり秦代に関する著作も増えていました。『史記』や『漢書』に関する著作や秦代・漢代に関する書籍は「手当たり次第に」と言うほどでもないですが、かなり買っていました。捜してみると結構あるもので、これらをあちらこちら拾い読みしているうちに夏休みがやってきてしまいました。
卒論を書く頃、ある先輩から資料をどれだけ集められるかを心配しているのはまだまだ序の口で、本気で取り組むようになると集めた資料をどう切り捨てていくかが大仕事だよと言われて、その当時はあまりピンときませんでしたが、その意味が実体験としてわかった感じでした。調べようと思えばいくらでも調べるべき文献はあり、読まなければいけない論文や古典も出てきます。しかし時間的制約や分量的な制約もありそれらの取捨選択が夏休みの課題でした。
時間的な制約については、もっと早くから準備を始めていればいいだろうと言われますが、やはり1年次は授業もあり、気になる論文をコピーしたり本を買ったりしておく程度が関の山です。分量的な制約については、要するにだらだらと長い論文を書けばいいと言うことではない、ということです。偉そうな言い方かもしれませんが、ある程度の分量にまとめ上げるというのも、もちろんその中にきちんと起承転結、問題提起・証明・結論という筋を立てつつですが、とても大切なことであり、一つの能力だと思います。はるか昔、大学受験の頃、国語の試験の話ですが、予備校の教師から「決められた字数で答案を作成するのも大事な能力だ」と言われたのを思い出します。
そんなこんなでなんとか仕上げた修士論文ですが、今思い返しても出来のよくないものです。情けない限りです。ただ論文というのは「慣れ」というのも結構大切で、本当に論文らしい論文が書けるようになるのは、5、6本くらい目からだと親しい先生や先輩からも言われました。そう考えると私など、卒論と修論で2本面ですから、レポートに毛の生えたようなものしか書けなくて当然なのかもしれません。それでも自分なりにいろいろ考え、あれこれ思案し、ああでもないこうでもないと試行錯誤して作り上げたというのは、やはりよい経験だったと思います。
ところで内容や出来はともかくとして、肝心の「なぜ儒教だったのか?」という疑問の答えですが、自分なりの結論としては儒教が他の諸子の思想をうまく取り込み、また帝国体制の維持という現実に対応したことが勝利の原因だったと思いました。戦国末からどの学派も程度の差こそあれ「諸派兼学」的な傾向が見られ、他派の思想を否定するのではなく、「そんなことなら、私の説の中にもあるよ」という風な、諸派を総合して更にその上に立つようになってきます。端的なのは司馬遷の父・談の「六家要旨」でしょう。そういう風潮に乗りつつ、なおかつ漢帝国の存在やその支配を正統化する、なおかつその支配の継続を保証するような理論構築に成功したのが儒家だったと言えます。もっとはっきり言ってしまうと、戦国末から漢代にかけて諸子の思想をうまく折衷し漢帝国向けの理論が形成されていったが、その理論・思想をたまたま「儒家思想」と読んだ、ということなのかもしれません。
(第17回 完)