この3年の時、私にとっては中国語学研修と同じくらい重要な出来事がありました。別にどこへ行ったとかというわけではありません。
ある時、授業の後、私ともう1人友人が『史記』の授業を担当されていた先生に呼ばれました。その友人というのはずっと出典調べなどを協同でやり、お互い中国のことが好きで入学してきた者同士ということもあって、かっこよく言えば切磋琢磨してきた仲と言えるでしょうか。彼は現在大学で中国語の非常勤講師をしてます。
さて、それはともかく、先生から呼ばれて何事かと思っていると、その先生が参加している研究会が文部省の科研費をもらって研究作業をするので、その手伝いをしてくれないかという話でした。具体的には、『史記』の索引を作るという話でしたが、どんな索引なのか当時の私にはさっぱりでした。4年生では就職や卒論もあり、なかなか時間がとれないだろうから、我々にお鉢が回ってきたのですが、こんなチャンスは滅多にないと思い、我が身の非力を顧みず引き受けることにしました。
淡々と書いてますが、これは私にとっては非常にうれしいことでした。それまでも漢文が好きで、中国のことが好きでしたから、クラスの中では誰にも負けないぞという自負は持っていましたが、それが先生に認められたと実感したからです。まあ、先生からすれば、他の大学の先生との共同研究ですから、連れていって恥をかかない程度に漢文が読める学生を捜していたら、たまたま私が目に付いたくらいの気持ちであったのでしょうが。
この研究会は文教大学の水沢利忠先生、謡口明先生、東京大学の戸川芳郎先生、筑波大学の中村俊也先生、京都の青木五郎先生などをメンバーとして、それにそれぞれの先生の下で学んでいる大学院生が参加していました。ただ、筑波大学は大学院生ではなくオーバードクターの方々ばかりで、逆に文教大学はまだ中国専門の学科ができて日が浅く、最上級生がまだ学部の2年生でした。
私と友人は、既にレールが引かれていて、ただ単純に割り当てられた作業を黙々とやればよいのだろうという位に考えていましたが、実際にはそうではありませんでした。具体的にどんな索引にするか先生方の真剣なやりとりがまだまだ続いていたのでした。
初めての顔合わせに連れていっていただいた時は、私にとって他の大学の先生や学生と会う初めての体験でしたので、大学合格発表以来の久々の緊張でした。これが学問の世界というものか、と訳も分からず感動したものです。
この研究会の成果は、それから数年後に汲古書院から『史記正義の研究』として刊行されました。数年後に1冊の本となって出たと言うことは、実はこの研究会の作業が、ほんの一夏で終わるようなものではなかったことを表わしています。
『史記』には上述したように三家注という注釈があります。本来、注釈ですからそれぞれの著者がそれぞれで執筆したものであったはずです。もちろん現在ほど出版・流通事情がよくない時代のことですから、それほど気軽なことであったとは思えませんが、三家注も後からできたものは先にできたものを参照したりしていたかもしれません。実はこの三家注は成立が少しずつ前後しているのですが、果たしてどれほど先行注釈を見ているのかが学界では問題になっています。
これまで三家注と言ってきましたが、それは『集解』『索隠』『正義』の3つを指します。このうち前2者は単行本(注釈ですから『史記』本文に付された形で存在しているので「単注本」とも言います)が残っています。ですから、もともとどんな書であったのかわかります。が、最後の『正義』には単行本(単注本)が残っていないのです。
後世、『史記』を版行する時、この3つの注釈書をまとめて載せるようになり、それが現在我々が一番身近に見る『史記』のテキストになりました。ところが、この3種類の注釈を載せる(「合刻」と言います)時に3者で同じ事を言っている注釈はわざわざ3つとも載せる必要性がないと言うことで、1つを残して削ってしまいました。また合刻した当時の感覚で必要ないと思われるものを削除されてしまったようです。その結果、『史記』の三家注合刻本に載っている三家注は必ずしも本来の姿ではないという事態が起こりました。これはこれでべつに構いません、三家注それぞれの単行本(単注本)が残っていれば……。そうです。『正義』だけは後に単注本が滅んでしまい、今は三家注合刻本から元の姿を想像するしか手はないのです。
ところで中国の古典には、歴史上一度は失われてしまったけれど、後になってひょっこり出現した書というものもあります。そのような例で一番可能性として高いのは、中国では亡くなってしまったけれど、朝鮮・日本には残っているという場合ではないでしょうか。残念ながら日本にも『正義』の単注本は残っていないようですが、過去には存在していたようです。それを見て、『史記』の三家注合刻本の余白などに書き足した(書き留めた)本が日本には残っています。前にも名前を出した瀧川亀太郎はそれを発見して『史記会注考証』の中に失われていた『正義』だとして取り込みました。これには厳しい批判もありましたが、とにかくそれ以来、失われた『正義』の復元が地道に続けられてきたのです。
話がだいぶ専門的な方に流れてしまいましたが、この研究会の中心人物である水沢先生および小澤賢二先生はともに『正義』の復元に努力してきた方で、研究会も最終的には、この正義の索引を作ることで研究の更なる進歩に資することになったようです。もちろん索引だけではなく、これまでの『正義』ならびに『史記』研究を総括した論文も収められています。
今後も、どこからかまだ未発見の『正義』が見つかるかも知れませんが、とにもかくにも今回の作業が『正義』研究の大きな一区切りになったのではないかと、この研究会を通じて私なりに実感しました。
結局、大学3年の時に先生に誘われたこの研究会の作業は実に数年の歳月がかかってしまったのでした。これほど『史記』を丹念に読んだ(と言うよりも、索引作りのために「見た」と言う方が正確かも知れない!)のはこの時が初めてだったので、その後の卒論や修論の時に非常に大きな助けとなりました。また東洋大学以外の先生や学生の方々と知り合うことができたというのも非常に大きな収穫でした。
(第10回 完)