さて、前回は授業のことよりも、だいぶ愚痴っぽい話をしてしまいましたので、もう少し授業や勉強の話をしたいと思います。
私は秦漢思想をテーマにしていましたので、どうしてもその時代を扱った書として司馬遷の『史記』は避けて通ることができません。もちろん3年生のこの時点では、まだそこまで明確にテーマを決めていたわけではありませんが……。
その『史記』の注釈として現在に至るももっとも権威あると言われているのがこの年の演習で講読した『史記会注考証』です。授業では全書から1篇を取り出して返り点を施した松雲堂のものを使いましたが、原本は古本屋で10万円位するでしょうか。全10冊で、とても手の届かない存在ですが、幸いにも台湾からリプリント(縮刷版)が出ていました。確か1万円くらいだったと思います。縮刷版ですから文字も小さく、年をとったらつらいかも知れませんが、20歳そこそこの学生には十分読める代物です。私はこれを買いました。もちろん授業だけなら先の1編だけのもので構わないのですが、注まで読めば必ず他の変の記述が必要になりますし、この先卒論などで『史記』は必ず使うことになりますから、買っておいても損はないと考えたからです。
この『史記会注考証』ですが、察しのよい方なら書名でおわかりになると思いますが、ものすごい注釈の量です。そもそも『史記』は、三家注と言って、唐代までに付けられた3種類の注釈が『史記』本文と一緒になって出版されることがほとんどです。が、唐代の注釈ですからそれに対する批判・補充も含め歴代さまざまな意見が出されています。それだけ『史記』が中国人(読書人)によく読まれてきたという証明でもありますが……。それらを『史記会注考証』という本では、それなりの吟味をしつつ、かなり広範に集めています。時にはほんの数文字の本文に対して、三家注と考証が延々数頁にわたることもあります。自分の考えを述べている文章ならまだしも、「会注」ですからとにかくいろいろな人の意見が載っています。それらをきちんとその注釈者の原文に帰って確かめ、読み進んでいくのです。こうして調べていくと、時には考証の引用が、正確でないこともあります。自分の都合のよいように引用した、と言ったら聞こえが悪いですが、そのように感じられる部分もありました。
このような引用書の原典チェックはたいへんですが、『史記会注考証』は親切にも巻末に、著者・瀧川亀太郎が参照した日本・中国の書物のリストを載せてくれているのです。実際に「考証」の中で引用している時は、書名は省略、著者名は略称、ということが多いですが、このリストを見ればきちんと正確な名前も書名もわかるようになっています。これは教材に指定されていた1篇だけの本では載っていない部分で、全書の最後にこんな付録があるということは、授業中に先生から聞いて初めて知ったことでした。私は家に戻ってから改めて自分の買った『史記会注考証』の最後を見直しました。日本と禹域(中国)に分け、何人の人の名前が並んでいることでしょうか。それはともかく、もしこれらの引用箇所に出くわした場合、果たして東洋大学の図書館だけで調べきれるものだろうか、という気もしました。が、卒論や各自の課題ではありませんので、特にしっかり原典に当たらないと解釈上問題がある場合を除いて、先生は大学の図書館で見つからない原典までは厳しく要求されませんでした。もちろん先生はどの本なら大学にあるか、だいたいわかっていますから、そうとう珍しいものでないと誤魔化せませんが。
『史記』については、まだ語らなければならないことがありますが、それは稿を改めることにして、残りの『楚辞』と『章太炎年譜』の授業について述べます。
『楚辞』は今は亡き金岡照光先生の授業でした。ただし最晩年の病気がちのお体で、先輩方の話で伺う印象とはだいぶ異なりました。しかし、今振り返ってみると金岡先生のすごさを多少なりとも感じることのできた授業は、その当時の大学院の授業は知りませんので学部のレベルでは、我々のこの授業が最期であったと思います。金岡先生は敦煌学の世界的権威ですから、それに近い授業を受けられればよかったのでしょうが、学部ではまだ無理だと思います。そもそも学部3年生くらいでは「変文」と聞いてわかる人はまずいなかったでしょう。というわけなのかどうかは知りませんが、とにかく我々が読んだのは『楚辞』でした。テキストは朱熹の『楚辞集注』です。中国の本にしてはかなりきれいな印刷・紙質の本でした。授業に進め方は非常にオーソドックスで、その日当たった者が本文を訓読して解釈するというもので、金岡先生はご自分から学生を指名することをされず、「今日はどなたがなさいますか?」と非常に穏やかな口調で学生の自主性を求めていました。ただ学生の側からすれば、むしろこの方が楽であったことも事実です。なぜなら自分たちで前もって相談して担当の順番を決めておけば、あとはその担当者に任せ予習をさぼることができるからです。実に不謹慎な考えですが、おおかたの学生の態度とはこのようなものではないでしょうか。むしろ履修者のほとんどが、1年間で1回は当たることになるんだからと、むしろ積極的に順番決めに加わっていたような気がします。
金岡先生は、わからないことに対しては非常に寛容でした。調べてきてこれ以上はわからなかった、調べきれなかったという我々の発言に対しては極めてやさしく「あ、そうですか」と答えてくれました。が、「やってません=予習をしてきてません・調べてません」という言い方に対しては非常に厳しかったです。否、大学の3年にもなれば、それがふつうなのかも知れませんね。
ある時、担当していた者がうっかりしてほとんど予習をやらないできてしました。金岡先生はかなり怒りながらも、仕方なく他の者を指名しましたが、上述のようにほとんどの学生は担当者にその日の分を任せきってますから、予習してきているわけがありません。結局、クラス全員金岡先生に烈火のごとく怒られたのでした。
『章太炎年譜』はこれまでの授業の中では異質でした。まず私自身、年譜というものをこの授業で初めて読みました。また章太炎と言えば清末の人ですから、いくら一流の学者とはいえ文章は必ずしも我々が漢文としてなじんでいる古典中国語ではありません。古典中国語の痕跡を残しながらも現代文が混じる、非常に読みにくい文章でした。日本で言うと森鴎外や夏目漱石の文章のような感じ、と言えば、正確ではないにしろ感じはつかんでもらえると思います。
ただ文章は年譜ですから、箇条書きに年を追って起こった事柄を並べているだけなので、背景となる歴史事実をわかっていれば、「ああ、これはあのことね」と納得のできるものが多く、少し慣れてくると、それほど読みづらさを感じなくなりました。むしろ一番厄介だったのは、人名でした。友人・知人などになると必ずしも本名で書かれているわけではありませんので、いったいこれが誰なのかさっぱりということがしばしばで、先生に「これは某々のことだ」と言われて初めて、ああそうなのか、とわかる始末でした。後から辞典などで調べてみると、確かにその人物の項に別称や別号として『年譜』に登場した名称を見つけることができました。
そんな感じで中国の近代思想というものにも触れることができたのですが、この時点では私の興味は古代思想にありましたので、それほど強烈な印象が残ったわけではありません。が、今となってはそれが心残りというか、惜しいことをしたなという気持ちでいっぱいです。それはこの後、大学院に進むようになって、私が急激に近代思想にも興味を持つようになったからです。
(第9回 完)