同衾者はいません(笑)

昨日から関西ツアーです。二泊三日なので金曜日までです。

いつもの定宿に泊まっているのですが、今回はダブルの部屋でした。一人で泊まっているのに、わざわざダブルベッドの部屋なんて、ホテルの予約の手違いなのでしょうか。

個人のビジネス客もいますが、どちらかというと二人連れや家族連れのインバウンド客が多そうに感じます。まずはダブルの部屋から埋まっていきそうなものだと思うのですが、急なキャンセルでも出たのでしょうか。

ベッドが大きいのは嬉しいですが、その代わりこの部屋にはデスクがありません。毎回のように泊まっているシングルルームですと、ベッド脇に比較的大きなデスクがあり、そこにノートPCを広げて作業をしています。しかし、今回の部屋にはデスクがなく、ベッドの脇には小さなローテーブルがあるだけです。

ノートPCが辛うじて置ける程度の広さしかありません。それはまだ我慢の範囲ですが、そのローテーブルと一緒に置いてあり椅子が、ローテーブルと高さが大して変わりません。つまり座ってパソコンを操作するのに姿勢が非常に悪くなります。かなり前屈みにならないとなりませんから。

これはホテルでの仕事の効率に大きな影響が出そうです。とはいえ、たったの二泊なのでがまんしないとなりませんね。

今日の配本(24/10/30)

プルードン

エドゥアール・ジュールダン 著/伊多波宗周 訳

「所有とは何か。それは盗みである!」「神、それは悪である」。ピエール=ジョゼフ・プルードンといえば、これらの挑発的な警句がよく知られている。彼の分析は、ときに難解で論理が見えにくくなることもあったが、労働者運動をはじめ、さまざまな社会運動・社会構想に多大な影響を与えてきた。マルクスから最初の「科学的」社会主義者と称され、また自らを「アナーキスト」と称する、革新的な思想家であったプルードン。本書は、彼の主著のみならず、多作だったそのテクストをふんだんに盛り込み、しかも、社会思想家としての側面だけでなく、哲学者としての側面にも踏み込んで、思想の全体像を明らかにする。今世紀を代表するプルードン研究者であり、フランスにおけるアナーキズムの代表的理論家である著者エドゥアール・ジュールダンによる、待望の一冊。

歴史は続いている?

昨日の朝日新聞は、衆院選挙一色のような紙面でしたが、その中に小さいですが、こんな記事が載っていました。奴隷貿易に関する記事です。

奴隷貿易と聞くと、学生時代に歴史の授業で習ったという記憶が蘇ってきます。多くの人にとっても同じような知識ではないでしょうか。つまりは身近な、現実的な問題ではなく、歴史的な出来事という認識です。

しかし、いまでもこういった声明を出すくらいですから、当事国にとっては身近な、生々しい出来事なのではないかと思います。特に加害者ではなく、被害者側にとっては、何年経とうが、否、何百年経とうが忘れられない記憶なのでしょう。

そんな奴隷制度に関して、少し前にあたしの勤務先からこんな本を刊行しております。文庫クセジュの『奴隷制廃止の世紀1793-1888』です。新書サイズのお手頃な一冊です。文庫クセジュなので、フランスの事例が中心ではありますが、十分参考になると思います。

フランスや仏領植民地の動向を中心に、奴隷制度が廃止されるまでの過程や様々な考え方、出来事を包括的に説明した入門書

とありますが、こういうニュースを聞くと、廃止されたとはいえ完全には終わっていないのだなあと感じます。日本がアジア諸国に対して行なった先の戦争などはまだ100年も経っていないわけですから、やはり被害者にとっては、つい最近のことなのでしょうね。

今日の配本(24/10/28)

産業革命
起源・現在・歴史

ロバート・C・アレン 著/長谷川貴彦 訳

本書は、狭義の経済史的アプローチだけではなく、グローバル・ヒストリー、環境史、科学史、社会史・文化史など多様なアプローチを通じて、産業革命の歴史を概観している。
総じて、本書では、「産業革命はなかった」とされてきた修正主義的な見解に対して、新たな観点からの産業革命の意義を擁護している。

最寄り駅にもかつて同じようなものがありました

衆議院議員選挙の本日、朝日新聞には本にまつわるこんな記事が載っていましたので、ご紹介します。

まずは投書欄です。

商店街に自由に本を持ち寄り、持って行っても構わない施設があるそうです。思い出してみますと、わが家の最寄り駅の一つ、JR中央線の武蔵小金井駅にも似たようなものがありました。

改札内の通路に木製の本棚が一つ置いてあって、読み終わった本、要らない本を持って来て自由に置いていってよかったのです。そして、そこに置いてある本は誰でもが自由に持って行って構わないことになっていました。もちろん本を置く、本をもらっていく、どちらもお金はかかりませんし、誰かが本の状態や内容をチェックしているわけでもありませんでした。

こういう施設、今もあったらよいと思うのですが、中央線の高架化工事で駅舎の建て替え工事が始まると共になくなってしまい、工事が終わってからも復活はしていません。残念なことです。

続きまして、社会面に載っていた記事。塀の中と外の読書会のお話です。

刑務所内でも読書会が行なわれているのですね。受刑者はよく本を読むようですので、こういう取り組みは受刑者にとってもよいのではないでしょうか。本のもつ力を感じさせるエピソードだと思います。

ことばとジェンダー

昨日と今日は神保町ブックフェスティバルです。かつては古本祭りと呼ばれていたような気がしますが、名称変更になったのでしょうか。フェスの方は、出版社などが屋台を出すイベントだけを指すのでしょうか。そのあたりの事情や区分け、よくわかっておりません(汗)。

話は変わって、最近ちくまプリマー新書の『翻訳をジェンダーする』を買いました。筑摩書房の公式ページには

翻訳小説の女性達は原文以上に「女らしい」言葉で訳されている。翻訳と社会と私達の密接な関係を読みとき、社会に抗する翻訳、フェミニスト翻訳の可能性を探る。

と書いてあります。翻訳だと性別が強調されるというのは、以前にも何かで読んだことがあるような気がします。別に翻訳ではなくとも、日本の小説でもそういう傾向があるようなことも読んだ覚えがあります。つまり、小説の登場人物のセリフって実際には使われていないような表現が多い、といったことです。

何で読んだのだろうかと思って、わが家の書架を漁って見つけたのが写真の本です。ちくまプリマー新書の『「自分らしさ」と日本語』、河出新書の『女ことばってなんなのかしら?』『自称詞〈僕〉の歴史』、岩波新書の『ジェンダー史10講』などなど。

これらのどこに探している内容が載っているのか、相変わらず思い出せませんが、ことばとジェンダーをテーマとした本ってこれら以外にもたくさん発売されていますね。まあ、あたしも日常的な言葉遣いは、いわゆる女言葉ですので、翻訳などで使われている女性のセリフに近い話し方をしていると思います。

どこが変わったのでしょうか?

韓国の作家ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞して以降、ハン・ガン以外の作家、そして韓国文学にも注目が集まっているようです。まあ、書店に行っても肝心のハン・ガン作品が売り切れで並んでいないので、それ以外の韓国文学を並べるしかないという事情もあるかもしれません。

ハン・ガン作品は、月末までには書店に並び始めると思いますが、あたしの勤務先の事情で言えば、注文があまりにも多くて、すべての注文には応えられず、一冊も入ってこないという書店も多数出て来ると思います。申し訳ありません。

さて、そんな韓国文学ですが、『フィフティ・ピープル』が新しくなって再登場しました。もともとは2018年に刊行された作品で、あたしも読みましたがとても面白くて読みやすい作品でした。それがこのたび「新版」として再び発売されたのです。

手に取るまでよくわかっていなかったのですが、これは訳者が旧訳に手を入れて新しく出し直したのではないのですね。原書が新しくなって韓国で発売されたので、それを底本にして新たに日本語訳も出したものだそうです。訳者のあとがきによれば、原書では八割以上のページに何かしらの手が入っているそうで、表現にもかなりの変更が加えられているそうです。

そうなると、読後感は変わってくるのでしょうか。たぶんあたしなら、いますぐに新版を読んだとしても、旧版の読後感を鮮明に覚えているわけではないので、違いに気付かないと思いますが(汗)。

タイムマシーンが出来たら……

このところ、裁判の再審請求とか、それで無罪を勝ち取ったとか、その手のニュースを目にする機会が何度かありました。冤罪はあってはならないことだと思いますし、無実の人の疑惑が晴れるのは喜ばしいことだと思います。

ただ、被害者側、遺族側からすると「じゃあ、真犯人は誰? いまどこで、何をしているの?」という感情が生まれると思います。怒りや怨み、悲しみの感情を誰に、どこにぶつけたらよいのか、わからなくなると思います。

再審で無罪になったからと言って、その犯罪が無かったことになるわけではありません。必ずどこかに真犯人がいるはずです。それを改めて見つけ出すことは可能なのでしょうか。そこでふと思ったのは、タイムマシーンが出来たら、事件の当時へ行って、真犯人が誰なのかを確認したい、ということです。

でも、その場に居合わせたとしたら、犯人が誰なのかを見ている場合ではなく、その犯罪を止めるべきではないかとも思います。目の前で人が殺されようとしているのを指をくわえて見ているだけでよいのでしょうか。

しかし、そこで自分が手を出して、犯罪を未然に防いだとしたら未来を変えてしまうことになります。それは果たして許されることなのでしょうか。もちろん、犯人が誰かを確認して警察通報したとしても(信じてもらえるのかはひとまずおくとして)、未来を変えてしまうことになります。

いわゆる歴史上の事件や謎を、タイムマシーンで確認しに行くのは夢や浪漫があって楽しそうですが、なまじ近い時代になると出来事に関わってしまいそうなので怖いですね。