第12回 卒論

バイトをしながら週2コマの授業に出席しつつ、卒論を書き始めました。テーマは「秦漢思想史」と、とりあえずは少し大きめの(間口の広い)タイトルにしました。

このテーマは多少、内容面で変遷はありますが、私にとっては実は大学入学以前からのテーマでした。ずいぶん前に書いたように私は徳間書店の「中国の思想」シリーズで中国古典に本格的に(この程度で本格的というのは気恥ずかしいですが……)足を踏み入れたわけですが、最初に読んだ『韓非子』に完全にはまってしまいました。ですから、ごくごく単純に韓非子ファンとして、「なぜ儒家思想が中国で国教となったのか」を知りたくなったのです。知りたいと言うよりも自分なりに納得したいと言った方が正確かもしれません。そこで法家思想の1つの頂点である秦帝国とそれを乗り越え儒家思想を国教と定めた漢王朝にわたる思想史をたどろうと思ったのです。

結果的には時間切れという理由と自分の力不足から秦帝国をざっと見る・眺め回す程度で終わってしまいましたが、いちおう商君の変法以来の秦国の歴史を振り返り、自分なりにまとめたつもりです。

できばえとかは、今更思い出したくもないですが、当時は現在のようにコンピュータが普及してなかったので論文はすべて手書きでした。間違えたら修正液で消して、乾いたらその上からまた書くという作業でした。我が校の先生はこのあたり極めて寛容で、ワープロ原稿でも構わなかったのですが、当時のワープロでは中国語を扱うことは事実上不可能で、また中国古典に出てくる旧字やへんてこりんな漢字を入力することも不可能だったので、古典で論文を書く者も現代文学などで論文を書く者も、ほとんど全員手書きのようでした。これほどコンピュータが発達した今となっては、もう二度とあんなに多量の文章を手で書くことはないだろうなあ、とある種の懐かしさすら覚えます。しかしそれも10年くらい前の話なのですから科学技術の進歩には目を瞠るものがあります。不可能と書きましたが、やるとすれば、途方に暮れそうな「外字作り」でやるしかなかったです。

卒論のためにずいぶんと本を買ったり、図書館で借りて全部コピーしたりということをしましたが、幸いにも国会図書館や内閣文庫・東洋文庫などまで足を運んで資料集めをする必要はありませんでした。基本文献が『史記』ですから、さすがに大学図書館でかなりの資料が集まるものです。

卒論で一番困ったのは中国人の研究論文・著作でした。基本的には論旨の通った論説文体ですから、多少辞書を引きさえすれば、中国語を読むのに苦労はありませんでした。が、問題は中身です。かなりの本でマルクス主義・唯物史観に基づいた論調が見られるのです。

私は決してマルクス主義や共産主義を排除するつもりはありませんし、むしろ学問としては同じ問題を異なる切り口で見せてくれる(我々日本人とは視点が異なる)、という意味においてはむしろ評価すべき点もあると考えています。しかし、中国古代の社会は共産主義とか資本主義とかの遥か以前の段階です。それを共産主義用語で解説されても何のことかさっぱりです。確かに中国では、たとえ古代思想の分野でも共産主義なり唯物史観なり毛沢東語録なりの文言を散りばめて書かないと出版はおろか発表さえさせてもらえない、という噂を聞いていましたから、やむをえないのでしょうが、お陰で中国の著作物を見極める目を少しは養うことができました。またしばらく見ているうちに、前書きだけ毛沢東の言葉を引用し、本文は全くそんな影すら見えないものもあることに気づきました。

最近はこういったこともかなり減ったようですが、古典に関する中国の出版物を選ぶ時は気をつけた方がよいでしょう。見極め方の1つとして注釈にどんな本を引用しているかを見ることです。ひどいのになると始めから終わりまで「マルクス・エンゲルス全集」や「レーニン全集」を引きまくっているのもあります。きちんとした研究書なら、テーマとしている書や該当する時代の正史、関連する古典作品などを引いているはずです。

あと、本文はどうでもよいとして、気の利いた図表や図版が載っているものも、そこの部分だけは役に立ちます。また注釈だけでなく、引用書目にどんな本を挙げているかも、同様に大事なポイントです。この部分はリファレンスとして次のステップへの足がかりにもなります。

さて卒論ですが、先生からは「まず目次を作りなさい」と指導されました。それは、そうすることによって論文の骨格や見通しがはっきりするからです。漠然とテーマだけ決めても、そのテーマに沿ってどういう風に議論を進めていくかは全然考えていない、というのが3年生の終わり頃の状態です。目次とか章立てとかを考えることで、自分の頭の中で問題点が整理できます。やはり論文ですから、自分なりの問題を提起し、それをどう検証していくかという背骨が肝心なわけです。が、いざ目次を考えはじめて、私も書きたいことははっきりしているのに、どう論旨を展開していこうか頭の中は全く真っ白でした。

私の場合、儒教はなぜ国教の地位に就けたのか、という疑問が出発点でしたから、その対局にある秦の法治主義は何がいけなかったのか、ということをまず調べようと思いました。そうすると秦代の法治主義は商君から始まったので、そこから秦国の政治史を追いかけてみようと思いました。

当時、思った以上に秦に関する本(中国で出版されたもの)が手に入りました。時代的にも秦国史というよりは春秋戦国時代ですから、中国史の中でも最も出版点数が豪華な時代の一つではないでしょうか。先に述べた唯物的論調に悪戦苦闘しつつ、そういった本を読んでいきました。そしてそこに引用されている『史記』などの原点に戻って自分なりに解釈し、果たしてその本の主張が妥当かどうか検討していったのです。

しかし秦というのは不思議な国です。どうしても西方の後進国という立場からか、外国の人材をどんどん登用し活用し抜擢しています。もちろん保守派の反撃もあり、いろいろな紆余曲折がありますが、それでも驚くほどです。たとえて言うならば、現在の日本サッカーの監督みたいなものでしょうか。どんどん外国人を呼んできてある程度やらせて、また次の人へバトンタッチ、かなり似ていると言えるかも知れません。

結局、くどいようですが、私の卒論はそんなこんなで秦代だけで終わってしまいました。ほんのちょっと漢初に触れた程度で、儒教国教化などというものの麓までもたどり着きませんでした。仕方なく、この続きは修士論文で、ということにしました。

(第12回 完)

2014年9月28日