時は流れる

懐かしいという言葉は不謹慎に聞こえるかも知れませんが、あれからもう19年ですか?

ベストセラー『倒壊する巨塔(上)』『倒壊する巨塔(下)』が刊行されたのが2009年ですけど、あれから世界は変わってしまったような気もします。

世界というよりも、争いのスタイル、戦争のあり方が変わったと言った方がよいのかも知れません。いわゆるテロとの戦争です。テロはもちろん非難されるべきですが、中国政府などテロを口実に民衆を弾圧する手段にも使われていて、なんとも使い勝手のよい言葉ですね。

テニスと差別

文春オンラインにこんな記事がありました。

大坂なおみ、日本で批判されてもアメリカでの評価が高まる理由

スポーツの世界に政治的な主張を持ち込むことの是非についての日米比較といった感じの記事です。日本でもようやく最近になって変わってきたと感じますが、スポーツ選手や芸能人が政治的発言をするのをタブー視するような風潮がまだまだ残っています。

「よく知りもしないくせに門外漢が口を出すな」という訳のわからない講義もあれば、やはりスポンサーの意向というのも大きく左右しているようです。でも、スポンサーと言うことであればアメリカのスポーツ選手や著名人だって同じこと。その政治的発言のせいで企業がスポンサーを降りるとなったら、むしろスポンサーが槍玉に挙がりそうですね。

それはさておき、この記事の中に「女子テニス界は昔から白人中心社会で、黒人選手は活躍しても人気が上がらなかった」という箇所があります。確かに、テニスと聞くと金持ちがやるスポーツというイメージが日本でも流布していると思いますが、それもあながち的外れでもなかったわけですね。

そんなテニスの世界における差別に関心をお持ちの方にお薦めしたいのが『ラブ・ゲーム テニスの歴史』です。人種差別だけを扱った本ではなく、テニスの歴史そのものを描いたノンフィクションですが、その中で差別問題も重要な部分を占めています。内容紹介次のようなもの:

第1部では、発祥から19世紀を経て20世紀前半までのテニス史を、当時の時代背景や先駆的な選手たちと絡めて概観する。第2部では第二次世界大戦後のテニスを扱い、オープン化に至るまでの流れ、性差別や人種問題などが論じられ、とりわけ選手の同性愛についての議論は興味深い。第3部では70年代以降、企業と結びつき、テレビ中継によって娯楽として根付いてから、80年代にテニスブームが去った後、現在までの流れを追う。

いまでこそ女子テニス界で大坂なおみを始めとする黒人も大活躍していますが、その歴史は意外と浅いということがわかると思います。そう言えば、メジャーリーグでも、初の黒人選手を称えて全員が同じ背番号でプレーする日がありましたね。アメリカのスポーツの歴史で差別は避けて通れない問題なのでしょう。

夏祭りとか墓参りとか

盆休みも終わり、今年の夏も、暑さはともかく、気持ち的には終わりつつある、という感じがします。今年の夏はいつもとは違う、とはしょっちゅう言われていたことですが、花火大会や夏祭りが軒並み中心になったり、やっても規模縮小になっていることもずいぶんと報道されていました。

しかし、夏祭りってそんなに大事なものでしょうか? いや、農耕儀礼としての祭りは大事なものだと理解していますけど、現在のように、ただ人が集まって騒いで羽目を外すだけのような祭りにどれほどの意味があるのか、とも思います。なにせ、あたしは幼少のころからお祭りが嫌いな人間でしたので……(汗)

親戚の伯母さんが、小さいころのあたしを連れて近所のお祭りに連れて行ってくれたことがあるそうなのですが、あたしは「つまらないから早く帰ろう」と言っていたそうで、お祭り好きな伯母さんも諦めてあたしを連れて帰路に着いた、という話を後になってから聞かされました。そんな筋金入りの祭嫌いなあたしです。

しかし、世の中には都会で暮らしていても、年に一度の地元の祭りのために帰省するという人もいるんですよね。あたしには信じられないことです。まあ、今年の場合はコロナで祭りが中止でしょうし、県を跨いだ旅行は控えるように言われていますので、帰省もしなかったのかも知れませんが。

帰省と言えば、テレビのインタビューでよく聞くのは、お墓参りに行って来た、という話です。お盆って、わが家でも迎え火、送り火を焚くのでわかりますが、自宅へご先祖様を迎えるんじゃありませんか。だとしたら、空っぽのお墓に何をしに行くのでしょう? むしろ、お墓参りってお彼岸の時期にするものではないかと思うのですが、違うのでしょうか?

ちなみに、わが家は祖父の命日が1月7日(なんと、昭和天皇と同じ日)なので、1月の半ばとか、あるいは12月の早めにお墓参りをする習慣が昔からあったので、お彼岸もスルーです。もちろん、お盆にもお墓参りはしません。

どうしても行きたい?

昨日のニュース番組では、お盆の最終日の話題が報じられていました。

コロナ禍にもかかわらず、そして県を跨いだ移動は慎重にと言われていましたが、それなりの人が旅行に出かけていたようです。とはいえ、行楽地からすれば例年の半分以下というところも多かったようで、大部分の人は自粛したお盆休みになったようです。

ニュースなどの街頭インタビューで思うのは、どうして皆さん出かけるのだろうか、ということです。もちろん近所のスーパーへの買い物などは別ですが、銀座とか新宿とか、どう見たって近所から来ているわけではなさそうな人たち、ああいう人たちはどうして感染リスクを冒してまで都心へ出かけてくるのか、あたしにはさっぱり理解ができないのです。

旅行についても、一人暮らしの親が心配だから、家族は東京に置いて自分一人だけで帰省する、という人もいましたが、家族揃って沖縄や北海道を始めとした観光地へ旅行している人の意識、非常に不思議に感じます。

あたしのように、ふだんから外へ出かけない、旅行へ行かない人間には、全く理解できない感覚です。子供がいて、ずーっと家の中にいるのではさすがに辛いだろうという気持ちなら少しは理解できますが、だけど、それだからといって行楽地に出かけるのはいかがなものかと思ってしまうのです。この猛暑では近所の公園で遊ぶというのも危険ですから、選択肢が少なすぎますね。

マイカーで別荘に出かけ、そこでは買い出しも数日に一回で済ませ、家族以外誰とも接することなく過ごす、というのならありかも知れませんが、だとしたら自宅に籠もっているのと何が違うのだろうか、という気もします。

「溶けそうなくらい暑いです」とインタビューに答えている人たちが、あえてそんな時に外出している理由が聞きたいところです。しかし、それよりももっと不思議なのは、そういうニュースを伝えるテレビの男性アナウンサーが、ほぼ例外なくスーツ姿でいることです。中には三つ揃い姿の方も多数見かけます。これでは「殺人熱波」というニュースも嘘っぽく聞こえてきます。

読書だって立派な《Go To トラベル》になりませんかね?

今朝の朝日新聞「声」欄に載っていた投書です。娘さんが本が大好きだという内容なのですが……

さて皆さんは、この投書を読まれてどういう感想を持たれたでしょう?

担任の先生の心配もわからなくはありません。一見するとクラスメートから仲間外れにされているのではないかと疑ってしまいそうな情景でもありますし、やはり学校生活というのは勉強を学ぶだけでなく、社会生活を学ぶところでもあるわけですから、クラスメートとほとんど交わりを持たないようであれば、それはそれで問題だと言えるでしょう。

でも、ここはもう少し長い目で見てあげて欲しいですね。本当にイジメに遭っているのであれば別ですが、文面を見る限りそういうわけでもなさそうです。そのうちクラスメートの中から本に興味を持つ子が現われて、本の感想などを語り合ううちに自然と仲良くなることだって十二分に予想できますから。

ところで、前段の「せっかくキャンプに来たのに」というところに、あたしは引っかかりを感じました。確かに家族で自然豊かなピクニックに来ているのかも知れません。でもこの子はこの子で、本の中でもっと違う世界に旅しているのかも知れません。それこそ、本の世界であれば、外国にだって違う時代にだって旅することが可能です。

となると、本を読むということはちょっとした《Go To トラベル》ではないでしょうか? だったら、本を買うのにもこのキャンペーンを適応してもらうことはできないものでしょうか? 特に大都市では知事の多くが旅行や帰省を控えて欲しいと訴えている現状では、本で旅することは大いに推奨されてもよいのではないかと思うのですが、ダメでしょうか?

外国語のカタカナ表記は難しい

香港で民主活動家らが次々に逮捕されている件。

この件について言いたいことはいくらでもありますが、今回はそうではなく、とある言葉の翻訳について気になったので書いてみたいと思います。

それは「蘋果日報」です。香港の有名な新聞で、英文名は「Apple Daily」です。

中国語を勉強している人であれば「蘋果」が「リンゴ」だということは初級者でもわかると思うので、「蘋果日報」を「アップル・デイリー」と言われても違和感なく理解できると思います。

ところが、このニュースを報じていた朝日新聞紙面では「リンゴ日報」と表記されていました。うーん、ちょっと違和感を感じるものの、確かに「蘋果日報」を日本語にしようと思ったら「日報」は日本でも新聞の名称として使うのでそのままでもよいとして、「蘋果」の部分を和訳して「リンゴ日報」になってしまうのか……

あたしはカタカナで英文の「アップル・デイリー」でよいのではないかと思っていましたが、実直に「蘋果日報」から日本語にしようとしたのですね。他の新聞やメディアではどのように報じているのでしょう、ちょっと気になります。

中国語が多少なりともわかるからこその違和感としては、この一年くらいしばしばに本のニュースでも取り上げられている「ファーウェイ」です。アメリカの制裁措置を受けていたり、にもかかわらず5Gでは世界をリードする大企業であり、なかなか影響力の大きな中国企業です。

この「ファーウェイ」、英文ですとテレビの画面にもよく登場していますが「HUAWEI」です。漢字表記「華為」の中国語ローマ字表記が「HUAWEI」ですので、中国語を勉強している人には何ら疑問もないところです。

しかし、「HUAWEI」をカタカタにしたときに「ファーウェイ」と表記するのは、どうしても抵抗があります。「ファー」と表記してしまうと「FA」の発音をイメージしてしまいますが、実際には「HUA」です。「HUA」は、あえてカナ表記するのであれば「ホア」あるいは「フア」といったところです。

確かに「ホア」よりも「ファー」の方が発音しやすいでしょう。特に後ろに「ウェイ」を付けたときには「ファー」の方が発音が断然ラクだというのはわかります。しかし、なまじ中国語を勉強していた身には「FA(ファー)」の音は別にあるので、どうしても「HUA」を「ファー」とは表記したくないという思いが強いです。

目くじらを立てるような問題でないことはわかっていますが、何とも気になってしまうのです。

じわじわ増えているのは新型コロナの感染者数か、はたまたわが家の蔵書数か?

一週間ほど前にも同じ画像をアップしたと思いますが、覚えていらっしゃるでしょうか?

朝日新聞の朝刊に毎日載っている、東京都の市区町村別、新型コロナ感染者数です。

前回のダイアリーでは、あたしが住む小平市の感染者数がじわじわと増えていると書いたのですが、僅か一週間ほどでずいぶんと増えてしまいました。白抜きの市区町村名は新規感染者がいた、つまり前日と数字が変わっている市区町村なのですが、このところ小平市はずっと白抜きになったままなのです、なおかつ、増え方も一人二人でないことも何度かありました。あれよあれよという間にこの数字です。

積算、累計の感染者数なので、この中には既に完治した方も含まれているのだと思いますし、中には残念ながら亡くなられた方もいるでしょう。これだけの数字の人が現在進行形で感染して治療中というわけではないと思います。

とはいえ、このところの東京都全体の数字の激増と軌を一にして小平市の感染者数も増えているところに不気味さを感じます。近所に感染者がいたとか、最寄りの施設でクラスターが起きたという情報はまるで入ってきませんが、実際のところはどうなのでしょう? 感染した人を悪く言うつもりはさらさらないですが、ただ近所でクラスターが発生したのであれば、これまで以上に消毒など気を遣わなければならないと思うので、もしそうであれば市役所か保健所には速やかに発表して欲しいところです。なにせ、わが家には七十代後半の母がおりますので。

さて、話題は変わって、わが家の書架の一つ。

お気づきでしょうか? 『世界哲学史8』が並んでいます。しっかりと第一巻から全巻がようやく揃いました。

棚二段に跨がって並べていますが、その二段目には別のレーベルの新書も並んでいます。ちくま新書がこのまま増えれば、これらのレーベルはまたどこか別の書架にお引っ越しとなります。隙間の具合から見て、引っ越し時期は間近に迫っていると言えそうです(汗)。

そもそもちくま新書、左側の棚から続いていますし、別の書架にも並んでいますので、本当であればすべて近くに並べておきたいところなのですが、既製品の書棚ですとどうしても棚段の高さに制約があり、文庫だけ新書だけを集中的に並べることができません。分野新書、それに単行本を巧いこと組み合わせて並べていかないと収納しきれなくなります。それでちくま新書のみならず他のレーベルの文庫や新書も複数箇所に置かれる羽目になっています。

知らない町を知るために海外文学を

レバノンの首都ベイルートで大きな爆発事故があったようです。幸いにもテロではなさそうですが、テロでもないのに危険と隣り合わせの状況というのは辛いものです。

ところで、冒頭「レバノンの首都ベイルート」となにげなく書きましたが、どれくらいの日本人がベイルートがレバノンの首都であるということ、あるいは逆にレバノンの首都がベイルートであるということを知っているでしょうか? 最近では日産のカルロス。ゴーンが潜伏しているところとして有名になりましたが、世界地図の中でどのあたりにある国かわかる人がどれくらいいるのでしょう?

とりあえず中東の国であるということは、さすがに正答率も高いのではないかと思いますが、では中東の白地図を示されて、「レバノンはどこでしょう?」と聞かれたら、正答率はどれくらいになるでしょう。あたし自身も非常に不安です(汗)。

さて、そんなベイルートを舞台にした小説が『デニーロ・ゲーム』です。内容紹介は如下:

ベトナム戦争を描いた映画「ディア・ハンター」を下敷きに、レバノン内戦下を生きた二人の少年の数奇な運命。
砲弾が降り注ぐベイルートの街で、アルメニア系の少年バッサームと、「デニーロ」というあだ名で呼ばれる幼なじみのジョルジュ。二人はカジノから金をくすねたり、盗んだガソリンでバイクを乗り回す無鉄砲な日々を送る。キリスト教民兵組織に引き抜かれたジョルジュはイスラエルで軍事訓練を受けるかたわら、密造酒や麻薬の取引をバッサームに持ちかけるが、次第に二人は疎遠になっていく。
ある日バッサームは、身に覚えのない殺人事件の嫌疑をかけられて民兵組織に連行される。拷問を受けるが、運良く解放され、国外に逃れる決心をした彼は、その資金を手に入れるため、カジノの売上金を強奪する計画を立てる。成功ののち、国を脱出しようとした矢先、キリスト教勢力の最高司令官が暗殺される。バッサームはまたしても疑いをかけられ、彼を連行しにやってきたのは、他ならぬジョルジュだった……。
暴力にまみれた日常の光景が、疾走感あふれる詩的な文体によって白昼夢のように浮かび上がる。国際IMPACダブリン文学賞を受賞、世界30カ国で翻訳された、レバノン出身の気鋭によるデビュー作!

戦火の下で暮らす少年という日本人とは懸け離れた側面と、普遍的な少年の成長過程という側面とがうまいこと合わさった作品です。なかなか日本人にはイメージしづらい世界ですが、だからこそ一読の価値があるのではないでしょうか? 知らない町をこういった海外文学で知るのも、外出自粛のお盆にはよいのではないでしょうか?

じわじわと不安が広がる?

どの新聞も似たり寄ったりだと思いますが、わが家で取っている朝日新聞はご覧のような表を朝刊紙面に掲載し、前日のコロナ新規感染者の数を発表しています。東京版(多摩版)なので東京都のみですが、たぶん地域によって異なるのでしょう。

さて、あたしの住む小平市が白抜きの文字になっていまして、小平市以外にも白抜きの区市名が散見されます。これは前日よりも増加している区市を示していまして、つまり小平市は昨日も新規感染者がいたということです。

具体的に、小平市のどの地域で感染者が出たのかはわかりません。そこまでは発表されていませんし、性別や年齢もわかりません。市のウェブサイトを見ればわかるのかも知れませんが、そこまではチェックしていません(汗)。

気になるのは、このところ、毎日とまでは言いませんが、かなりの頻度で小平市は白抜き文字になっているということです。つまり小平市の新規感染者がじわじわと増えているということになります。近所でクラスターが発生したといった噂は聞きませんが、やはり不安になる状況に変わりはありません。

小平市は東京26市の中で特に人口が多いわけでも少ないわけでもないと思いますが、こういう時には人口10万人あたりとか、そういう比較をした数字も見たいところですね。いずれにせよ、連日のように新規感染者が、一人や二人とはいえ身近な場所で増えていることなので、やはり自分も気をつけなければと思います。

 

ただ、PCR検査を受けたわけでもないので、感染の怖さと同じくらい、自分が無症状の感染者で知らないうちに他人にうつしてしまっていないか、ということが気になります。

ポンペオ長官はこの本を読んでいたのでしょうか?

アメリカのポンペオ国務長官が、中国に対して「習主席は全体主義思想の信奉者だ」と発言したというニュースが報じられています。この時代に「全体主義」などという言葉、単語を耳にするとはちょっと驚きですが、現代の中国に関して言えば、決して驚きでも何でもないのかも知れません。

というのも、少し前にあたしの勤務先から『新全体主義の思想史 コロンビア大学現代中国講義』という書籍が刊行されているからです。本書は翻訳書ですから、原書をポンペオ長官が目にしている、あるいは読んでいるのかも知れません。そうでなければ唐突に「全体主義」なんて言葉が出てくるとは思えないのですが……

もちろん本書で主張しているのは「全体主義」ではなく「新全体主義」であり、そこには違いもあるわけですが、政治家の発言ですから細かいことには頓着せず、キャッチーな言葉として使った可能性もあります。

ちなみに本書は、ウェブサイトの内容紹介では次のようにあります。

自由に発言することを望んで、中国社会科学院哲学研究所を解雇された著者は現在、米コロンビア大学で教鞭を執りながら、祖国を見詰める。本書はそのコロンビア大学で開講されている「現代中国の九大思潮」がもとになっている。その最大の特長は、現代中国を従来のように権威主義体制として理解せず、「新全体主義」と捉えていることである。ただ、この強権体制を見る視点は独裁一色というような単純なものではない。ポスト「六四」天安門の思想状況は、高度経済成長とともに、党=国家体制へと回収されていく強力なナショナリズムが醸成されたのは確かに事実である。だが、その過程は、グローバル化や通信技術の革新の下で展開しており、一党独裁を支える政治・社会思想はかつてのように一枚岩ではない。こうした新たな眼鏡を持つことが、一党独裁を掘り崩していく知的な土台になる。本書が「新全体主義の知識社会学」と自ら規定しているのは、この意味においてである。世界的に注目される自由の闘士による中国批判理論構築の試み。

現在の中国を全体主義と捉える着眼点、かつての全体主義とどこが同じで、どこが異なるのか、本書を読めばよくわかることでしょう。ちなみに、アメリカにおける現代中国研究の成果としては『六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか』といったものもありますので、併せて手に取っていただければ幸いです。