AI泣かせな購入傾向?

そろそろ紙の本ではなく、電子書籍に移行した方がよいのではないか、さすがに自宅で収納に困っているわけですから、と思いつつ、やはり紙の本を買ってしまいます。

最近手に入れたのがこちら。角川新書の『駿甲相三国同盟』です。

日本史、特に戦国時代が好きな人であればすぐに反応できそうなタイトルですが、そうでない人にとってはこの漢字の羅列からしてチンプンカンプンなのかも知れません。贅言を費やしますと、駿(駿河)=静岡、甲(甲斐)=山梨、相(相模)=神奈川の三か国の戦国大名による同盟のことです。副題にもあるとおり、それぞれの国を治める戦国大名は今川家、武田家、北条家です。

織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などとも抗争を繰り広げた大名家ですので、戦国史のメインストリームにちょこっと顔を出してはいます。頻繁に名前を聞く大名と言えるかもしれません。しかし、新書というかたちでこの三か国の関係を扱ったものって過去にあったでしょうか。中公新書なら出していそうなタイトルですが、角川新書も油断なりませんね。

そして、そんな戦国時代からガラッと変わって、もう一つ入手したのが、令和の時代のアイドルの写真集です。

既にグループからの卒業を発表している、日向坂46の二期生、濱岸ひよりの写真集です。ファースト写真集と書いてありますが、卒業後は芸能界を離れるみたいですから、たぶん最初で最後の写真集になるでしょうね。でも、最後に写真集を出せてよかったと思います。

あたしはこの二点をアマゾンで購入したわけではありませんが、こういう風に一緒に購入すると、ネット書店では「この本を購入した方は一緒にこの本も購入しています」という具合に表示されます。あたしはしばしばやってしまうのですが、こういうアイドル関係の本と人文系のお堅い専門書の同時に購入しています。

もう十数年以上も前に、アイドルの写真集とものすごーくニッチな専門書(中国関係)をアマゾンで一緒に買ったことがあります。そして、それからしばらく、たぶん一年近くの間、片方を見るともう一方が「一緒に購入されています」として表示され続けていました。確かに正しい表示ではありますが、あたし以外に誰の参考になる情報でしょう。AIって正直なのか、バカなのか。

どう変わったのでしょうか?

今月、似たような新書が異なる出版社から刊行されました。それが写真の二点です。

朝日新書の『限界の国立大学』と中公新書の『大学改革』です。カバーや帯を見ますと、どちらも「法人化20年」と書かれています。そういうタイミングだから刊行が重なったのですね。ありがちなことです。

それにしても、国立大学の法人化っていったい何だったのでしょう。果たして成功したのか、失敗だったのか、その結果は20年経って既に顕著に現われているのでしょうか。

そう言えば、国立大学ではないですが、あたしの勤務先も2016年に『消えゆく限界大学』という本を刊行しています。子供の数が減っているのはずいぶん前から言われていますし、ますますの東京一極集中で、地方は大学に限らず疲弊していますよね。大学というのはその象徴的な意味合いがあるのかもしれません。

ことばとジェンダー

昨日と今日は神保町ブックフェスティバルです。かつては古本祭りと呼ばれていたような気がしますが、名称変更になったのでしょうか。フェスの方は、出版社などが屋台を出すイベントだけを指すのでしょうか。そのあたりの事情や区分け、よくわかっておりません(汗)。

話は変わって、最近ちくまプリマー新書の『翻訳をジェンダーする』を買いました。筑摩書房の公式ページには

翻訳小説の女性達は原文以上に「女らしい」言葉で訳されている。翻訳と社会と私達の密接な関係を読みとき、社会に抗する翻訳、フェミニスト翻訳の可能性を探る。

と書いてあります。翻訳だと性別が強調されるというのは、以前にも何かで読んだことがあるような気がします。別に翻訳ではなくとも、日本の小説でもそういう傾向があるようなことも読んだ覚えがあります。つまり、小説の登場人物のセリフって実際には使われていないような表現が多い、といったことです。

何で読んだのだろうかと思って、わが家の書架を漁って見つけたのが写真の本です。ちくまプリマー新書の『「自分らしさ」と日本語』、河出新書の『女ことばってなんなのかしら?』『自称詞〈僕〉の歴史』、岩波新書の『ジェンダー史10講』などなど。

これらのどこに探している内容が載っているのか、相変わらず思い出せませんが、ことばとジェンダーをテーマとした本ってこれら以外にもたくさん発売されていますね。まあ、あたしも日常的な言葉遣いは、いわゆる女言葉ですので、翻訳などで使われている女性のセリフに近い話し方をしていると思います。

1818分の159

今朝の朝日新聞の読書欄に載っていた記事です。

筑摩書房から刊行されているちくま新書が創刊30周年を迎えたそうです。ついこの前スタートしたばかりという気がしていましたが、もうそんな歴史を紡いできたのですね。

まもなく、週明けには10月の新刊が数冊刊行されるはずですが、カバーに書いてあるナンバーを見ますと、9月の刊行分までで1818冊(1818点と呼ぶべきでしょうか?)が刊行されているようです。年間60冊、毎月5冊の刊行ペースということになります。

ちなみに2021年に70周年を迎えた文庫クセジュは一年に6冊程度の刊行ですから、あっという間に刊行点数も抜かれてしまいました。まあ、刊行点数の多さを競うものでもありませんが。

さて、あたしもちくま新書はよく買っていまして、わが家の書架にはこれだけのちくま新書が並んでいます。毎月買っているわけでもありませんし、もちろん全点買っているわけでもありません。

それでも興味のあるタイトルを買っていたら、これだけの分量になっていました。この機会に数えてみましたら、159冊ありました。ちゃんと計算すると8.7パーセントにあたります。全刊行点数の一割も架蔵していないのですね。これは多い方なのか、少ない方なのか。

最近では『アフリカ哲学史』が話題になっていて、あたしももちろん購入していますが、個人的には『アッシリア』が非常に面白かったですね。これからも岩波新書や中公新書とは異なるカラーで刊行を続けていくことを願っています。

同じ国の話です

《エクス・リブリス》の新刊『傷ついた世界の歩き方』を読みました。フランス人の著者がイランの国内をあちこちめぐった旅行記です。イランを訪問したのは2022年のことのようです。本当につい最近のイラン旅行記になります。

この時期というのは、日本でも報道されましたが、マフサ・アミニさんが死亡した事件の直後です。最初のうちは著者の記述にそこまでの緊張感は感じられますが、後半はやはり緊迫したイラン情勢がうかがわれます。

イランという国に詳しいわけではありませんが、少し前に平凡社新書『イラン』を読んでいたので、その時にはここまでの緊迫感、緊張感を感じなかったです。同書の刊行が2021年12月なので、マフサ・アミニ事件の前です。書かれている内容は更に前の時期を扱っているので、『傷ついた世界の歩き方』の時期よりも少しはのどかな雰囲気が漂っていたのかも知れません。

同じ《エクス・リブリス》では『スモモの木の啓示』が同じくイランが舞台の作品です。クルド人やゾロアスター教徒など、イランの多数派、主流派ではない人々がどれほど苦労しているかがうかがわれる物語です。

『傷ついた世界の歩き方』は外国人が数週間イランを巡った観察記でありますが、『スモモの木の啓示』はイランの中に暮らす人が体験し、味わった物語です。両書を併読すると、イランという国を両側から見ることができるのではないでしょうか。

併読お薦めです。

周辺人物もとても興味深いです

今年の大河ドラマは紫式部の物語なので、藤原氏や源氏物語、さらにはもう少し視野を広げて平安時代に関する本が非常に多く出版されています。まあ、これは毎年のことなので驚くほどのことではありません。むしろ風物詩と言えるかもしれません

そして、その大河ドラマもあと三か月ほど、いよいよ佳境に入ってきましたので、そろそろ来年の大河ドラマ、蔦屋重三郎に関する書籍の出版が目に付くようになってきました。そんな中で手に取ってみたのがPHP新書の『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』です。

蔦屋重三郎に焦点を当てつつも、彼が生きた江戸時代の状況にも言及した一冊です。蔦屋重三郎と言えば、山東京伝や東洲斎写楽など当時の芸術家たちの作品を多数世に送り出したことで有名です。そういう人たちも本書には数多く登場します。もちろん田沼意次や松平定信など時の政治家も扱われています。

重三郎以外でも皆非常に興味深い人物が多いのですが、中でも気になったのが大田南畝です。蔦屋重三郎とは関係なく、以前からなんとなく関心を持っていたのですが、本書を読んでより興味が増したわけです。と思っていたところ、角川ソフィア文庫から『大田南畝』という一冊がタイミングよく刊行されたので早速買ってみました。

もう積ん読ことになりました

皆さまは、自宅で本をどのように整理しているのでしょうか。なんでもかんでも書棚に適当に並べている、という方は少ないと思います。文庫は文庫、新書は新書、単行本は単行本、雑誌は雑誌という具合に形状を揃えて書棚に並べるのが普通だと思います。

更に、ジャンルや著者などによって分類し、同じものは一緒に並べるようにしているのではないかと思います。なので、あるジャンルが増えてきて、書棚が一杯になってくると、他のジャンルの本をどかして、スペースを空けなければなりません。そういう本のまとまった移動を過去に何度も繰り返しています。

ただ、まとまって移動させるには移動先を確保しなければなりません。移動先があるからこそ本を移動させることができるわけです。ところが既にわが家の書棚はどこもかしこも本で一杯です。もう全く収納スペースがありません。

だったら新しい書棚を買えばよいのでしょうが、わが家の場合、もう書棚を置く場所がないのです。最後の手段としては、庭にイナバの物置でも設置して、まるごと書庫にするくらいですが、そんな余裕はありませんし、物置を設置するほど広い庭でもありません。

そうなると、多くの家でそうなるように、本を書棚に収納するのではなく、床に積み上げることになります。いわゆる「積ん読」です。わが家もとうとうそういう状況になってしまいました。文庫と新書、そして単行本が多いので、わが家の書架では一番肩身の狭い「選書」が積ん読になりました。

しかし、こんな解決策(?)も一時しのぎであって、じきに積ん読スペースがなくなりそうです。そうなったらどうしたらよいでしょう? そうなったらそうなったでまた考えることにしましょう。

思いがけない邂逅

ちくま新書の『中国共産党vsフェミニズム』を読んでいましたら、驚いたことがありました。

その前に、フェミニズムの観点から習近平と中国共産党による独裁体制の一面を暴いた本書はなかなか面白い一冊でした。習近平体制の中国を描いた本は星の数ほど刊行されていますが、この視点はちょっと珍しいのではないでしょうか。

そして本題です。驚いたことです。

同書には、フェミニズムや女性の権利拡大の事例がいくつも取り上げられていますが、その中の一つ、弦子さんという大学生が実習で中国のテレビ局へ行ったときに、著名な男性アナウンサーにセクハラを受け、それを後に裁判に訴えたという事案が取り上げられています。

弦子さんの裁判を受け、何人もの女性が性被害を訴えるようになり、多くの著名人が加害者とされたそうです。そして同書の135頁に、いきなり『房思琪の初恋の楽園』が登場するのです。その経緯は、台湾の小説『房思琪の初恋の楽園』の大陸版が刊行されたときに、性被害を訴えられた著名人の一人、著名な脚本家である史航氏が推薦文を寄せていた、というのです。中国でも非常によく売れたそうですが、「増刷分の同書や電子版から史氏の推薦文を削除する対応を迫られた」と書いてあります。

フェミニズムや女性の性被害と言えば、『房思琪の初恋の楽園』は外せない一冊でしょう。マンションの手すりに鍵が置かれたカバー写真。本書を読んだ人であれば、この写真の意味するところが痛いほどわかるはずです。

犬語の教科書は?

『猫語の教科書』というコミックを書店で見かけたので買ってみました。著者は名前くらいしか知らない、否、それすらも薄らぼんやりというくらいなので知っているというのもおこがましいレベルですが。

このコミックの元になっている小説版も出ているので、合わせて手に入れてみました。小説には『猫語の教科書』ともう一つ『猫語のノート』というのも出ているのですね。ちなみに、コミックはKADOKAWA、小説は筑摩書房からそれぞれ刊行されていて、同じ出版社ではありませんでした。

ところで、この手の作品、猫が登場するものはいくつもあるように感じます。しかし、犬となると極端に少なくなるような気がするのですが、それは気のせいでしょうか。確かにペットとしての飼育数は犬が猫に逆転されてしまっていますし、書店員さんにもネコ好きの方が多いように感じます。しかし、犬語の教科書だって存在してもよくないでしょうか。

とはいえ、それでも犬はまだまだ恵まれている方ですよね。小説やコミックにまるで取り上げられることのない動物の方がはるかに多いのですから。それに比べたら、犬の作品なんて掃いて捨てるほどあると言えるのかもしれません。そう考えると、萩尾望都の『イグアナの娘』は画期的な作品でしたね。

いつになったら電子化するのか?

相変わらず、本、紙の本を買ってしまいます。最近は多くの本が最初から電子版も刊行されているので、電子版を買えば収納場所に困ることもないのですが、やはり紙の本を買ってしまいます。

そんなあたしが、最近久しぶりに買ったのが平凡社の東洋文庫です。中国学を始めとして東洋学、否、オリエント世界の学問に携わっている人であれば、平凡社の東洋文庫のお世話になったことがある人は多いのではないでしょうか。

よくもまあ、こんなニッチな本を翻訳して出版してくれたものだ、と思うようなタイトルが目白押しのシリーズですね。東京に住んでいると、駒込にある東洋文庫という専門図書館と勘違いする人も時々いますが、こちらは平凡社のシリーズの名前です。

そんな久しぶりに買った東洋文庫に対して、最近は毎月のように何かしら買っているちくま新書、今月買ったのがこちらの2点です。

アフリカの哲学なんて、もうタイトルだけで興味津々です。アフリカに哲学なんてあるの、というのが正直な印象です。哲学があるなら、それを伝える著作もないといけないのではないかと思うのですが、果たしてどんなものでしょう。まだ読んでいないので、これからのお楽しみです。

そうしてもう一つは、あたしの専門である中国ものです。最初に書いてはありますが、「満洲」を「満州」と書くのは、実はあまり評価しないのですが、一般向けの新書という性格上割り切るしかないのでしょう。