大河ドラマの時代には……

火曜から金曜まで、三泊四日で訪れた関西ツアーのスナップを少々。

京都産業大学内にある紀伊國屋書店ブックセンターで、書評に出た本のフェアを開催中でした。昨年もこうしてたくさんのメディアで取り上げていただきました。ありがたいことです。

そして同じ紀伊國屋書店ブックセンターの一角です。こちらは大学出版部協会の書籍を集中的に並べているコーナーです。

特にフェアというのではなく、ふだんからこういう陳列になっているようです。やはり大学内の書店ですから、大学出版部協会の書籍とは相性がよいのではないでしょうか。

そんな書店でのスナップはさておき、京都市内でこんな碑を見かけました。大極殿の跡地だそうです。「おお、こんな場所にあったのか」と不意打ちを食らったような気持ちでした。

古典や日本史の教科書、あるいは古語辞典の付録に平安京の図が載っているのを見たことがある人は多いと思います。平安京の北に内裏がありますが、現在の京都御所がこの内裏ではないことは意外と多くの人が忘れているのではないでしょうか。平安京の内裏って時代と共に場所が移っているんですよね。

というわけで、現在放送中の大河ドラマ、つまり藤原道長の時代だと内裏はどこにあったのでしょう。あの平安絵巻が繰り広げられた場所は、現在の京都御所の場所、それとも本来の内裏の場所、どっちだったのだろう、などと考えながらドラマを見るのが好きだったりします。

それにしても、この「大極殿蹟阯」の字体、非常に興味深いですね。

ふじはふじでも

昨日のダイアリーで不二家のスイーツについて書きました。「ふじ」つながりというわけではありませんが、昨日はきれいな富士山を見ました。

既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、昨日から関西ツアーに出ておりまして、その往路、新幹線の中からきれいな富士山が見えたのです。このところの関西ツアーでは、横浜を過ぎたあたりで睡魔に襲われ、富士山を見ることもなく関西に来ていたので、実はこちらの「ふじ」も久しぶりの富士山でした。

もちろん、富士山というのは気難しいもので、晴れているのに見えないことはよくあります。新幹線に乗っていて、しっかり起きていたのに見られなかったことは一度や二度ではありません。すぐ目の前に雄大な富士山が見えるはずなのに富士山の姿が見えないことが実に多いのです。

しかし今回は、天気もよく、青空に映える富士山を見ることができました。ついついスマホで写真を撮ってしまいましたが、スマホで撮るとずいぶんと小さく写るものです。目で見ている富士山はあんなに大きいのに、スマホ画面の富士山はどうしてこんなに小さいのでしょう。

僕が見たかった青空

北京の大気が汚くて、青い空を見ることがほとんどないと言われているのは、日本のニュースでも取り上げられているので、ご存じの方も多いでしょう。あたしがかつて北京に行ったころは、オリンピック前だったので、街全体が工事中で、どこもかしこも非常に埃っぽかったのを覚えています。

昨日のダイアリーでご紹介した写真も、デジタルではなく数十年前のアナログ写真をスキャンしたものなので色褪せている部分もありますが、やはり北京の空はすっきり晴れることが少なかったなあ、といまさらながら思います。ただ、もちろん大気の状況が悪かったのは確かですが、非常によく晴れた日もあったことも事実です。

こちらこちらのページに掲載した写真を見ていただけるとわかるように、こんなにすっきりと晴れ渡った北京の空もあるのです。空模様に助けられ、われながら非常によく撮れた写真だと思います。

辰年からの連想で九龍壁が登場し、そこから懐かしい訪中時の写真に話題が移ってしまいましたが、もう一度「龍」に話を戻すと、2018年の暮れに横浜の中華街へ行ったとき、通りの上にこんな飾りがあったのを思い出しました。別に辰年でもないのに龍が飾られていたのでどうしてでしょう。やはり中華圏の縁起物と言えば龍なのでしょうか。

あと、あたしたち世代ですと、こんな映像を思い出す方も多いのではないでしょうか? アニメ「まんが日本昔ばなし」のオープニングです。このメロディーとアニメーション、懐かしいと思う方も多いのではないかと思います。少なくとも、あたしたちの世代なら誰もが子供のころに見ていた番組だったと思います。

辰年なんだから、地上波で再放送してもよいのではないでしょうか?

パノラマに写ルンです

昨日のダイアリーで書いたように、学生時代に語学研修で北京に行ったときの懐かしい写真を眺めていました。当時はスマホもデジカメもなかったので、あたしはフィルムカメラ(たぶんCanonかNikonのどちらか)に、36枚撮りフィルムを10本くらい持って訪中しました。そのアルバムが何冊もわが家の書架に並んでいて、その隣に、その後の訪中で撮った写真のアルバムを見つけました。

それをそのアルバムのページをめくっていましたら、なんと昨日のダイアリーでは撮っていなかったと書いた、北京故宮内の九龍壁、その全景写真が見つかりました。それが右の写真です。なんと、こちらのページに掲載していたのを完全に忘れておりました。1992年に北京を訪れたときに撮ったものです。

そのアルバムを眺めていたら懐かしくなってきましたので、ここで何枚か改めて披露したいと思います。まずは北京の天壇公園です。北京の旅行ガイドにもしばしば使われるので、見たことある方も多いのではないでしょうか。

北京に行くたびに、という程ではありませんが、それでも何度も訪れている場所です。確か釘を一本も使っていない建物だと聞いたような、読んだような記憶があるのですが、おぼろげな知識です。なお、この天壇公園の写真のみ1993年の暮れに訪中したときのものになります。

続いては北京飯店。当時も、西洋資本の新しくてきれいなホテルはたくさん建っていましたが、やはり北京のホテルと言えば北京飯店。東長安街、王府井の角に建つクラシックホテルで、落ち着いた雰囲気です。

それにしても、こうして見ると目の前の長安街に時代を感じますね。連結バスも古めかしいですし、街行く人の服装も、まだまだ垢抜けないところがあります。そしてまだまだ自転車が主力だった時代です。

次の写真は故宮内の宮殿前です。どの宮殿だったのかは忘れましたが、宮殿の基壇には流の彫刻が施されていて、確かこの写真の彫刻が故宮内で一番大きいものだと聞いたので撮った一枚だったと思います。

彫刻両脇の細い階段を籠担ぎの役人が歩き、皇帝は籠(輿)に乗ったまま、この彫刻の上を通ったのだそうです。最初に「皇帝はこの彫刻の上を通る」と知ったとき、こんな歩きにくいところを歩かされたのか、と疑問に思ったのですが、その後、輿に乗って上を通過すると聞いて納得したのも懐かしい記憶です。

故宮博物院に南から入場し北へ抜けると目の前には景山が聳えています。ちょっとした山で、頂上まで登ると息が切れます。でも、これまた多くのガイドブックに載っている、故宮の全景が眺められるので、北京に来たら登ってみたくなる場所です。

ただし、北京の北に聳えるので、故宮を撮ろうとすると逆光になります。写真が得意な人であればきれいに撮れるのでしょうが、あたしのような素人カメラマンにはなかなかうまい写真が撮れず、苦労する場所でもあります。それに北京はすっきり晴れることが少ないので。

そして最後に北京駅です。香港へ向かう特急列車は北京南駅から発車すると思いますが、この頃はまだそんな時代ではありません。当時も北京南駅はあったと思いますが、それほど大きな駅ではなかったのではないでしょうか。当時も現在も北京南駅に入ったことがないのでわかりませんが(汗)。

北京駅は、かつては前門のすぐわきにあったそうですが、現在は崇文門から程近い場所にあります。当時の北京旅行では、ほぼ毎回、崇文門に位置する新僑飯店に宿泊していたので、北京駅まで近いのでどんなところか見に行ったときに撮ったものです。このあたりもすべて変わってしまったのでしょう。

さて、ここまでの写真はご覧のようにワイドサイズになっています。当時発売された写ルンですのパノラマ版を持って行って撮ったものです。当時の北京は摩天楼はなく、横に長い建物や風景が多かったので重宝しました。

時には先の天壇のように縦に使って撮影することもありました。当時の北京の人は写ルンですを知らないからなのか、あたしが写ルンですを構えていると、こいつは何をしているんだろう、という顔をしてジロジロ見られた記憶があります。

ところで最後の一枚は、最初に載せた九龍壁ですが、アドビのPhotoshopの生成AIを使って、写真に写り込んだ人物を消去したものです。こんなことがいとも簡単にできるのですから、すごい時代になったものです。

色褪せた写真が見つかりました

昨日のダイアリーに書いた九龍壁。どうして写真を載せないの(?)と思われた方もいたのではないでしょうか? あたしも載せられるのであれば載せたかったのですが、あたしのPCの中に保存されていなかったので、テキストのみのダイアリーとなってしまいました。

学生時代に語学研修で北京へ行ったときに訪れたと書きましたが、それは1988年のこと。大学2年生から3年生になる春休みを利用して一ヶ月間、北京の外国語学院に滞在したときのことです。その時の北京滞在記のようなものはこちらに載せてありますので、お時間がありましたら読みください。

さて九龍壁ですが、まずは北京の故宮博物院の中にある九龍壁です。全体写真を何故か撮っていなかったので、九匹の龍のうち正面を向いているものをチョイスしてみました。こんな感じの龍が九体、浮き彫りになっているのです。

たぶん、これではわかりづらいと思いますので、次に同じく北京の北海公園内の九龍壁。こちらは全体の写真を撮っていたので、それを載せます。如何でしょう。九龍壁とはどんなものかおわかりいただけましたでしょうか。片面だけではなく、両面に龍がいますので、九龍壁とは言いながら両面で18体になります。

と書きながら、「あれっ、両面に龍がいたかなあ?」と不安になってきました。あたしの記憶では両面に龍がいたので、全部で18体の龍が浮き彫りになっていたはずなのですが、ちょっと不安になってきました。さて、あたしは残る人生で再び訪中して九龍壁を目睹することができるのでしょうか?

さて、最後に山西省大同の九龍壁です。昨日のダイアリーで大同の九龍壁は爪が四本と書きました。この写真でなんとかそれを確認していただけるのではないかと思います。そして北京の二つの九龍壁よりダイナミックだと思っているのですが、如何でしょう。

ところで大同と言いますと、中国三大石窟の一つ、雲崗石窟が有名かも知れませんが、週末の大同旅行は懸空寺、応県木塔なども見学しました。その見学先の一つに、この九龍壁があったのです。

これは大同の街中にあったので見学しやすいなあと思ったのを覚えています。でも大同の街の様子がどんなだったか、ほとんど記憶にありません。訪問から既に36年、大同もかなり変わったことでしょう。中国へ行ったのも最後が2007年、オリンピック前ですから、中国自体がまるで違ってしまったものになってしまったことでしょう。

最後に、今回載せた三枚の写真はすべて当時撮った写真をアルバムから探してきて、スキャンしたものです。あの頃はスマホはおろか、デジカメすらまだ一般的ではなかった時代です。

九龍壁

今年は辰年ということで、日本の情報番組ではタツノオトシゴを飼育している水族館を紹介していることが多いです。しかし、辰と聞いてもタツノオトシゴはいまひとつピンと来ません。確かにタツノオトシゴという命名からして、龍との親和性は高いのでしょうが、「あれが龍なの?」というのが正直な感想です。

あたしが辰と聞いて思い出すのは、中国で見た九龍壁です。中国には著名な九龍壁は三つあります。一つは大同で、残りの二つは北京(故宮と北海)にあります。あたしはこの三つの九龍壁を学生時代の短期語学研修で北京に行ったときに見ています。大同も研修中の週末を使った旅行で訪問したので見ることができました。

本来、龍とは皇帝の象徴であるので、黄色の瓦と同じように皇帝以外は使用禁止、つまり九龍壁も作ってはいけなかったそうです。ですから北京にある二つは皇帝のお膝元として問題ないとして、大同は皇帝でもない領主(皇帝の弟だったはず)が作ったということで北京で問題になったそうです。大同側では申し開きとして、皇帝を象徴する龍は五本の指と爪を持っていますが、ここにあるのは4本の指と爪ですので(皇帝の象徴としての)龍ではありません、と詭弁に近い言い訳で、なんとか取り繕ったという話です。

大同の九龍壁、確かに指と爪は四本でした。ただ、あたしの印象では、この大同の九龍壁が一番迫力があって見応えがあったと思います。

どっちが早いの?

二泊三日の北陸ツアーから帰京しました。

改めて行程を記しますと、初日は東京を出て富山泊。二日目は富山を発って金沢泊。そして最終日は金沢を出て福井経由で帰京しました。

福井で最後の仕事を終え、福井から特急で米原へ出て、東海道新幹線に乗り換えて東京へ向かうというルートを選んだのですが、計画段階では福井からまた金沢へ戻るか、あるいは京都へ出て東海道新幹線に乗るかで少し悩みました。

金沢へ戻って北陸新幹線だと時間も旅費も少々高くなります。それに東海道新幹線の方がはるかに運行本数が多いので、選択肢も広がります。ただ、一番安い米原経由ですとのぞみ号が停まらない駅なので、北陸新幹線に比べて本数が多いのか、ちょうどよい時間帯にひかり号があるのか、考えてしまいました。

福井からサンダーバードで京都まで出れば、のぞみを使えますが、そうなると時間も旅費もかなり高くなりそうなので、検討候補からは早々に消えました。来春には北陸新幹線が敦賀まで延伸されますが、そうなると福井からは北陸新幹線で帰京するのが一番になるのでしょうか。

まあ、次に北陸へ行くことがあるとすれば、やはり数年後になると思いますので、そんな機会があればまた考えればよいことでしょう。それに今回は富山・金沢・福井というコースでしたが、福井・金沢・富山という行程だって考えられますので、最終的には、その時の状況次第になるのでしょう。

さあ、これからだ?

北陸旅行の三日目は金沢からスタートです。

午前中に立ち寄ったのが、開館からそれほど日が経っていない石川県立図書館です。駅からですとタクシーで20分から30分くらいの郊外でしょうか。しかし広々とした空間に建つ図書館の中に一歩足を踏み入れると、そこは壮観という言葉がぴったりな、まさに一見の価値ある空間でした。

一枚目と二枚目の写真が館内の様子ですが、地元の学生が団体で見学に来ている姿もありましたが、あたしたちのように県外からも見学に訪れる人が大勢いました。外国の方も盛んに写真を撮っていたのを見かけましたから、海外にも評判が伝わっているのだと思われます。

なんと表現したらよいのでしょう。近未来のようでもあり、居心地のよさも感じられ、あたしたちは時間の都合で40分程度しか滞在できませんでしたが、数時間いても飽きない場所です。

石川県について解説しているコーナーもありました。伝統文化などを写真パネルと関連本で紹介していて、表示に面白かったです。パネルの解説を読みながら、横に置いてある本を手に取って更に深く知ることができます。

そんな賑やかな金沢を後にして向かったのは、来春には新幹線の延伸が決まっている福井です。駅ビルなどは、それに向けて工事中で、なんとなく落ち着かない感じでした、そして駅前も大規模な工事があちこちで行なわれていて、「さあ来い、新幹線」という雰囲気にあふれています。

さて、福井と言えば恐竜。オブジェやイラストが駅のあちこちにありました。そんな一つが最後の写真、トリケラトプスですね。日向坂46の小坂菜緒が見に来たら、ものすごく喜びそうな、ちょっとトリックアートっぽいイラストが駅舎の壁に描かれていました。

金沢あれこれ

既に書きましたが、二泊三日で北陸三県を回ってきました。

東京を発った初日は富山の書店を回って富山泊まり。二日目は富山を発って、途中高岡に立ち寄って金沢に入りました。富山や高岡と比べると、金沢は格段の賑わいです。京都ほどではないですが、若干オーバーツーリズムになっているように感じられましたが、金沢市民はどう思っているのでしょう?

そんな鹿沢で立ち寄った書店の一つが、写真のオヨヨ書林です。金沢市内に二店舗を構える古本屋さんですが、立ち寄ったのは香林坊からも程近いせせらぎ通り店です。間口は狭いのですが、奥はかなり広い空間があって、そこにビッシリと本が並んでいるというか、積まれているというか、誇りっぽい本の匂いがどこか懐かしいお店でした。

そんな金沢市内ですが、オヨヨ書林の近所に目に付いた道路標識がちょっと気になりました。写真のようなデザインで、歩行者の表示はなんとなく「ボーッと突っ立っている」だけに見えますし。自転車は前にカゴのあるママさんチャリのように見えます。

東京の道路標識だともっとデザイン重視で、よりアイコンっぽいものが描かれていたように記憶していますが、こういう道路標識のデザインって、県や市によって独自に定めているのでしょうか。だとすると、他の地区へ行けば、もっと独特なデザインの標識を見ることができるのでしょうか。

そんな二日目は金沢泊まり。ホテルは金沢駅前だったので、夕食も必然的に金沢駅のショッピングセンター「金沢百番街」で取ることになりました。ただ、先程も書いたようにややオーバーツーリズム気味なのか、お店はどこも人があふれていて、30分や1時間は待たないと入れないような状況でした。

それが百番街のあんとの飲食街で、仕方なくRintoの方に向かって見つけたのが魚がし食堂でした。見かけはどこにでもある居酒屋チェーンのようだったのですが、とにかく料理が安くて美味しかったです。あたしが食べたのが写真の定食で、刺身に煮魚、フライ(たぶんアジ)、そして焼き魚(ホッケ)、ご飯に味噌汁、小さめの茶碗蒸し。お刺身とトロホッケ定食1500円は十二分に満足できる内容でした。

あと、後ろ髪を引かれる思いだったのは、上述のオヨヨ書林の店の筋向かいにあった「伽羅」というお香のお店です。次に機会があれば、もっとじっくり見てみたいお店でした。

北陸で気になること

昨日から北陸を回っています。人文会のグループ訪問という研修旅行で、四社で北陸三県を回っているのです。昨日は富山を回って富山泊まり、本日は高岡を経由して金沢に入り、金沢泊まり。明日は金沢を発って福井に入り、米原経由で帰京します。

そんな行程ですが、あたしは以前からちょっと気になっていることがあります。それは富山です。

富山の何が気になるかと言いますと、富山って「とやま」と読みます。でも「富」は「とむ」ですから、その「と」だけを取って「とやま」と読むのに若干の抵抗があるのです。かといって「ふさん・ふざん」と読むと日本の地名らしくありません。「ふやま」だと音読みと訓読みが混じっていて、やはりよくないということなのでしょう。でもやはり「富」は「ふ」と読むことが多く、一文字だけで「と」と読ませるのには抵抗を感じるのです。

和歌山は「わかやま」で音読み、音読み、訓読みという組み合わせですから、富山を「ふやま」と読んでも可笑しくはないと思うのですけど、どうしてなのかと、前からなんとなく気になっていたのです。

そして、この「富山」よりももっと気になっているのは石川の加賀です。

旧国名では京都に近い方が前・上、遠い方が後・下と名付けられています。備前・備後、上野・下野などです。北陸も越前・越中・越後と京都に近い方から国名が付いています。ところがその間になぜか加賀という国が挟まれているのです。

どうして旧国名の法則に反して、加賀が挟み込まれているのか、以前からとても不思議に思っていて、腑に落ちません。たぶん歴史学の事典とか論著を紐解けば、ちゃんとした説明をしてくれているものがあるのだと思うのですが、あたしはいまだそれに巡り会っておりません。

ただ、もし石川県が越中になると、富山が越後になるのでしょうか。そうなると新潟は何と呼ばれていたのでしょう。そんなことも気になってしまいますし、妄想が広がります。