写真が見つからないということは、そもそも写真など撮っていなかったのではなかろうか?

昨日、TBS系で再放送されていたドラマ「JIN」が終わりました。

ドラマは、放送当時リアルタイムで見ていたはずなのですが、記憶にないところ、記憶と異なるところもあり、自分の記憶の曖昧さに情けなくなりました。

それはともかく、今回のハイライトは坂本龍馬暗殺です。

その坂本龍馬暗殺ですが、京都の営業担当をしているので、丸善京都本店へ行くときには、毎回のように近江屋跡を通ることになります。河原町通を隔てて丸善が入っているBALというビルのほぼ向かいに坂本龍馬暗殺の地を示す看板があります。河原町通の歩道にひっそりと立っているので、気づく人は気づきますが、多くの人は気づかずに通りすぎています。時々、龍馬ファンとおぼしき人が写真を撮ったりしているのを見かけることもあります。

いまだ謎の多い事件ですが、ドラマでは幕府側が龍馬を殺そうとしたものの、その場に居合わせた東修介が実際には龍馬を殺したことにしていましたね。諸説あって結論が出ていない事件なので、このあたりの確からしさを云々するのはやめておきましょう。

その近江屋跡、あたしも初めて見つけたときは、へえ、こんな場所にあったんだと思ったものです。もちろん看板が立っているだけで建物は跡形もなく、龍馬記念館的なものだってもちろんありません。

さて、何年か前に京都を訪れたとき、地元の方に京都霊山護国神社へ連れて行ってもらったことがありました。あたしは歴史好きではありますが、幕末にそれほどの思い入れがあるわけではなく、坂本龍馬についても名前や簡単な事績は知っていても特別好きだというわけでもありませんでした。だから、近江屋跡を見ても「ああ、ここか」くらいの感想しか持っておらず、龍馬が暗殺後どうなったのかなど知りもしませんでした。

なので、護国神社に連れて行ってもらうまで知らなかったのですが、ここに坂本龍馬の墓があるのですね。中岡慎太郎の墓も並んで立っていました。ここでもやはり「へえ、こんなところに墓があるのか」という印象、感想くらいしかなく、心の中では「でも、どうして土佐ではなくて京都に墓があるのだろう」などと考えていました。個人的にはむしろ梅田雲浜の名前に激しく反応していました(汗)。

龍馬に対する興味はその程度でも、せっかく行ったのだから写真くらい撮っていたのではないかと思ったのですが、パソコンの中を探しても見つかりません。この頃はまだスマホなどなかった時代だったような気もします。誰もが気軽にこっちでパシャリ、あっちでパシャリという時代ではなかったのでしょう。そうなると、あたしはただ見てるだけ、眺めるだけで護国神社を後にしたのでしょう。ちなみに、近江屋跡の看板、その後もその前も何度も通っていますが、一度も写真を撮ったことはありません。

今日はみどりの日? ではなくて……

本日は5月4日。五・四運動の日です。

「五・四運動って何?」という人も多いかと思いますが、中国近代史の大きな事件であり、動きです。1919年に中国で起きた出来事です。きっかけは、さまざまありますが、その大きなものとして日本の対華二十一ヶ条要求があります。これくらいは日本史で教わった記憶があるのではないでしょうか?

日本にとっては負の歴史、今どきの言葉で言えば「黒歴史」かも知れませんが、知っておかなければならないことだと思います。

このとき、売国奴として学生たちに襲われた高官の一人を匿ったのが兆民の息子、中江丑吉です。中江丑吉は、あたしも学生時代に『中国古代政治思想』を読みましたが、とてつもない天才です。今際の際に「父には及ばなかった」との言葉を遺したと言われていますが、決してそんなことはない逸材だったと思います。

2020年5月4日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー