落ち葉の部屋

少し前に、このダイアリーでわが家の近所の黄葉をご紹介しました。

久しぶりに、その同じ場所を撮ってみました。いかがでしょう? すっかり葉が落ちてしまい、丸裸の木が寒そうに立っています。

落葉したわけですから根元には葉が絨毯のように敷き詰められています。イチョウの葉は滑りやすいので歩くときには気をつけなければなりませんね。

シルバー人材センターの方なのか、近所の落ち葉を掃き集めている人を見かけます。寒い中、大変な作業だと思います。集めた落ち葉はどうするのでしょう? どこかで集めて堆肥にでもするのでしょうか? でも、雑菌などが混じっていると、畑にまくというのも難しいのではないでしょうか? それともキレイに洗浄して堆肥にする工場でもあるのでしょうか?

あたし自身は、落ち葉って好きです。特に掃き集めたりしなくても道に落ち葉が落ちているのが好きですし、その落ち葉を踏みしめながら歩くのも好きです。落ち葉の道を歩いているときに、決まって頭の中に流れるのがこのダイアリーのタイトルに使った、沢田聖子の「落ち葉の部屋」です。特に雑木林など歩くと、完全にこの曲の世界に入り込んでしまいがちです。

上にリンクを貼ったYouTubeの音源は、当時のあたしが聴いていたセカンド・アルバム「青春の光と影」(1981年発売)に収録されているものではなく、2013年発売31枚目のアルバム「Singer Song Writer ~GREEN~」に収録されているものだと思われます。もともと曲が大好きなのでこのアレンジも嫌いではないのですが、できればオリジナルで聞いていただきたい一曲です。

でも、当時のアルバムは中古屋にでも行かないと手に入らないと思いますので、ベストアルバム「HISTORY」に収録されていますので、そちらで是非聴いていただければ……

ささやかな暮れのご挨拶?

暮れになるとお得意先回り。暮れのご挨拶です。

手土産はカレンダーというのが定番でしょうか? いえ、確かにカレンダーは相変わらず配られていますし、こちらもいただいたカレンダーを重宝しています。それでも世間一般ではどうせなら気に入った柄のカレンダーを部屋に飾りたいと、市販のカレンダーを買っている人も多いようです。

カレンダーも千差万別。文字の大きさにこだわるのか、写真やイラストで選ぶのか、一か月一枚がいいのか、二か月や三か月で一枚になっているものがよいのか? こればかりは好みですね。

そんな暮れの挨拶の手土産ですが、あたしの勤務先では昨年からこのようなものを作って、お世話になっている書店の方に配っています。とはいえ、回りきれない書店も多いので、すべての書店の方に行き渡っているとはとても言えませんが……(汗)

何かと言えば、ポストイットです。こういったものが書店現場では一番喜んでもらえます。それほど高いものでもないので、もらった方が遠慮なく使えますし、お互いにとってWin-Winなのではないでしょうか?

大きさ違い、色違いのポストイット、左側の一番大きなサイズにはロゴや社名も入っています。一応は宣伝物という扱いです(笑)。

そして今年です。

昨年は昨年出喜んでいただきましたが、「ちょっと小さいかな」という意見もありました。もちろん昨年のサイズはポストイットの王道、最もポピュラーなサイズだと思うので、これで困るという人は多いわけではないのですが、「ちょっとメモを書いて貼るのには小さい」というのは配布しているこちらでも感じていたことです。

というわけで2019年版がこちらです。

なんとなく、昔懐かしい国際郵便封筒をイメージさせますが、フランス国旗のトリコロールですよね。フランスがあたしの勤務先の代名詞でもあるので、そのあたりは意識しているのではないかと思います。

箱から取り出すと、入っているのはこういうポストイットです。今年はワンサイズでロゴや社名も入っていません。色も一色ですから、昨年の方が凝っていたでしょうか?

でも、メモなどを書き込むにはこのくらいのサイズがないとダメですよね。これなら、ちょっとしたメッセージを書いて同僚のデスクやPCの片隅に貼っておくのに適しています。そういう使い方であれば、色も黄色の方がデスク周りでも目立つでしょう。

で、最近になりまして、書店回りの時にこれらを持ち歩いて、行った先の書店の方に差し上げています。やはり喜んでいただけます。「こういうのがいいんですよね」という感想がほとんどです。喜んでもらえると、こちらとしても嬉しいです

ところで、昨年のポストイットだと小さすぎてメモとか書けないと言われて今年は少し違うのに変えたのですが、両者のサイズの違いが気になりませんか?

最後の写真は、二つを並べてみたものです。今年のポストイットはこの外箱とほぼ同じサイズです。昨年のは二枚目の写真でおわかりのように二つ折りです。やはり、昨年のものと比べると、今年は格段に各スペースが広くなったということがご理解いただけるのではないでしょうか?

物語のない物語

中央駅』読了。

同著者の(邦訳としての)前作『娘について』は、個人的に面白く、そして非常に考えさせられる作品だったので、本作品も期待して読み始めました。

しかし、読み始めてしばらくするとちょっと面食らいました。

簡単に言ってしまうと、この作品はとある鉄道駅前の広場に巣喰うホームレスの物語です。主人公の「俺」が唐突に現われます。なぜ「俺」がホームレスになったのか、周辺のホームレスの中では比較的若いということが明かされるだけで、それ以外の描写はありません。オタクっぽいのか、病的なのか、あるいは逞しい体つきなのか一切不明です。もちろん容姿も。

そんな「俺」がたまたま知り合った病気持ちの「女」と行きずりの関係を持ち、そこからズルズルと関係を続けていき、底なし沼にハマったかのようにホームレスから抜け出せなくなっていくのです。いや、「俺」にしろ「女」にしろ、本当にその状況から抜け出そうとしているのか、やっていることを見ているととてもそうは思えません。

「乞食は三日やったらやめられない」と言われますが、そんな感じです。周囲から差し伸べられる手もつかもうとせずに振りほどいてしまいます。そしてその手がつかもうとするのは「女」の体です。

最後にどんな結末が待っているのか、たいていの小説はそんなストーリーを意識しながら読むものですが、この作品にはそんな物語があるようには感じられません。別に「俺」と「女」ではなくとも、駅周辺、広場にいるホームレスたちの適当な一瞬を切り取ってつなぎ合わせれば、この作品が成立してしまうような気がします、匿名性というのともちょっと違う気がしますが……

では、壮絶な愛の物語なのか。確かにそういう読み方もできるのでしょう。本書収録の解説にもそう書いてあります。しかし、あたしにはこの作品に愛の物語を感じることはできませんでした。獣の媾いとしか思えません。「俺」の独白でもそんなことを述べていたような気がしますが、これが愛なのか、。あたしには疑問です。それはあたしが、人を愛したり愛されたりしたことがないからなのかも知れませんが。

最後に、疑問というか読み終わって考えたのは、作者はなんでこの作品のタイトルを「中央駅」にしたのだろうか、ということです。作品舞台は駅と言うよりも、その前に広がる「広場」です。作品はほとんどそことその周辺で終始しています。ありきたりかもしれませんが、「広場」というタイトルの方がふさわしいと感じたのですが、そこをあえて「中央駅」にしたのはなぜか、とても気になりました。