社会学に注目!

有斐閣の新刊『社会学はどこから来てどこへ行くのか』を店頭で見かけました。

実は文庫クセジュでも『100語ではじめる社会学』という新刊を1月に刊行予定です。

前者は日本の第一線の社会学者が著者に名を連ね、後者は「2010年に創刊された雑誌『社会学』の編集に携わる若手社会学者」が執筆しています。

単行本と新書(文庫クセジュは新書扱いの書店が多いです)なので、担当者に気づかれず、別々なところに並んでいるかも知れませんが、可能であれば併売、併読していただければと思います。

ちなみに、前者の内容紹介は

地道な社会調査の労苦と豊穣さ,学史・理論研究の凄み,そして研究者から見た現代社会の問題点とその理解経路について,侃々諤々の議論をそのまま一冊に収録した数年間におよぶ白熱の対話記録。社会学の到達点と展望を楽しみながら読み,考え,共有してほしい。

で、後者は

本書は、社会学の「概念」(第三章)の解説にとどまらず、これまであまり説明されることのなかった「基本的な考え方」(第一章)や「方法論」(第二章)、そして「社会的属性」(第四章)に章を割くことで、新しい切り口を示してくれる。不平等、社会的断絶、社会的絆などの問題に取り組むセルジュ・ポーガムが中心となって編まれた、現代のフランス社会学の全体像を見渡す手引き書。

です。

天然なのか計算なのか?

女の子がやると可愛く見える仕草というものがあります。

たぶん、見る人によって可愛く見えるのか否か、評価は分かれるところでしょうし、可愛い子なら何をしても可愛く見える、という面はあるかと思います。

左の写真は、乃木坂46の三期生、大園桃子が少し前に、とあるテレビ番組に出演した時の画面キャプチャです。司会者から質問されて「えーと、えーと」という感じで答えを必死に絞り出そうとしている場面です。

ネットでは「自然とこのポーズができるなんて可愛い」という意見があふれていましたが、いかがでしょうか? あたしは可愛らしく見えましたけど……

そんな場面があったと思っていた矢先、二枚目の写真です。こちらは、けやき坂46の二期生、丹生明里です。こちらもテレビ番組のワンシーン。いみじくも、同じポーズをとっています。こちらも、ネットではファンの間で可愛いと大絶賛が巻き起こったシーンです。

こういうポーズをする女の子を見て、「カワイ子ぶっている」と非難する女性も少なからずいるようですし、男性の中にも推しではなかったりアンチだったりすると文句を言う輩がおります。実のところどうなのでしょう? 番組を見た限り、二人とも狙ってやっているという感じではなく、ごくごく自然に手が行ってしまっているように見えますが。

もちろん、二人とも現役のアイドルですから、テレビに出ている時や人前では「自分はアイドルなんだ」というモードになっているでしょうし、いわゆるオンの状態だと思うので、そういう意識がなせる業なのかも知れません。

ただ、まあ、桃子の場合、いまだに鹿児島の訛りが抜けきっていませんし、そもそも加入するまで乃木坂46を知らなかったという逸材ですので、このくらいの天然さは備えていたのではないかと思われます。

中世とはいつからいつまでか?

来年、ちくま新書で『中世史講義 院政期から戦国時代まで』という新刊が刊行されるようです。ちょっと気になります。刊行されたら読んでみたいと思っています。

ところで書名は「中世史講義」となっていますので、日本の中世を扱った通史のようなものだろうと予想できますが、副題が「院政期から戦国時代まで」とあります。扱っている時代を具体的に書いてくれているわけですね。ありがたいです。

あたしは、細かな日本史の時代区分について学界の見解がどうなっているのか知りませんが、漠然と平安までが古代、鎌倉・室町が中世、戦国から江戸が近世、明治大正昭和初期が近代、戦後が現代と意識しています。若干の相違はあっても多くの日本人もこんな感覚では無いでしょうか。

で、疑問が一つ。

この中世とか近世、近代っていつまで使われ続ける概念なのでしょう? 戦後が既に70年を超え、若い人の感覚では昭和時代が「現代」とは思えないのではないでしょうか? となりますと、平成以後が「現代」ということになるのでしょうか? では、そうなると戦後の昭和はどうなるのでしょう? 「現代」から「近代」に変更になりますか? そうなると明治大正昭和初期が「近世」になってしまうのでしょうか?

古代や中世、近世が数百年単位で数えられていることから考えれば、戦後が70年程度で「現代」ではなくなるのは言いすぎかも知れません。でも、今はともかく、50年や100年たっても現代の時代区分は変わっていないのでしょうか?

商売柄、書店店頭で人文の世界史のコーナーと社会の海外事情のコーナーをしょっちゅう行ったり来たりしているので、ふと、そんなことを考えてしまいました。

今日の配本(18/12/25)

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鯨はあまりにも大きかった

』読了。ちなみに、この作品で晶文社の《韓国文学のオクリモノ》シリーズはコンプリートです。

それにしても、最後の最後に超弩級の作品が待ち構えていましたが、長さを感じさせない物語でした。そして「二組の母娘の物語」と気軽に紹介してしまうにはあまりにも壮大かつ悲しすぎました。

物語の中で流れる時間は100年にも満たないでしょう。ラストの時間はほぼ現代、現在です。つまりは韓国の現代史なわけです。伝統的な韓国に生きる女性の悲哀、しかし、それでも強く生きる女性たちの生き様、そんな風にまとめてよいものか、ちょっと躊躇ってしまいます。それほど一筋縄では言い表わせない作品でした。

母娘が二組出てくるとはいえ、よりスポットが当たっているのはクムボクとチュニの母娘ですが、成功物語でもなければ、ハッピーエンドでもありません。あえて言えば「盛者必衰」とでも言えましょうか。ただそれも、それなりの成功を収めたクムボクには当てはまると言えますが、チュニには当てはまりそうにありません。

著者はこの不幸な娘たちに安易なハッピーエンドを与えず、孤独の中で死に至らせる。それどころか生まれて間もない生命さえ死んでしまうのだが、悲惨さだけが残る感じがしないのは、チュニや一つ目を語る際にあふれ出る著者の優しさのためだろうか。

とは「訳者あとがき」にある言葉です。確かに悲惨さだけが残るわけではありませんが、だからといって希望が持てるような書きぶりかと問われれば、頷くことはできません。彼女たちの生き様は悲しすぎます。

せめてもの救いは、チュニは苦痛を感じることはできても、不幸を感じることはできなかったのではないかと思われる点でしょうか。母のクムボクは社会的な成功を収め、使い切れないほどの大金も手にし、自分の欲望に正直に生きた女性ですが、どこか幸せになりきれない影を引きずっています。

それに対して、いわゆる知的障害のあるチュニは、そういった世間の評価基準の外に生きているわけで、その人生は筆舌に尽くしがたい苦痛に何度も見舞われるのですが、幸不幸という判断基準を持っていない、理解できないことがささやかな幸せなのかも知れません。でもそれではあまりにも悲しいです。

ところで、最後にチュニは、恐らく彼女の人生で唯一の理解者であり友達だった象のジャンボの背中に乗って天高く昇っていきます。その場面は、テレビアニメ「フランダーズの犬」の最終回、ネロがパトラッシュと共に天使に導かれて昇天していく場面を彷彿とさせるものでした。そんな風に感じたのはあたしだけでしょうか?

安くならない理由の一つ?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

何でもかんでもろくに議論せず強引に通してしまう自民党・安倍政権。その弊害がこんなところにも現われているようです。

著作権の保護期間が延びることによって、原作者の子孫に金銭的なものが残せる、と言われますが、それなりの金額の著作権が、死後何十年にもわたって毎年発生するほどの原作者がどの程度いるのか、実際にはほとんどいないと聞きます。

その是非はともかく、あたしの勤務先のような出版社からすると海外の作品を翻訳出版する時にどうしても価格が高くなってしまう理由の一つになります。このと十数年目につく「古典・名作の新訳」も著作権が切れていればこそ各社が競って刊行できるわけで、なおかつそれほど高い価格にならずに作ることもできます。

それが延長されてしまうと、「来年には著作権が切れるから新訳を出そう」と考えていた出版社としては尻込みしてしまいますよね。寿命が延びているからというのも、延長の理由としてそれほど有効なのか、あたしは疑問を感じます。

光り輝く少女たち

前のダイアリーでは『トラペジウム』のタイトルの意味に着いてまでは筆が進みませんでしたので改めて……(汗)

ググっても構いませんが、「トラペジウム」の意味は、①不等辺四辺形、②オリオン星雲の中にある四つの重星、です。

主人公を含めた四人の少女たちを四辺形のそれぞれになぞらえつつ、光り輝く星たちというのが、キラキラ輝いている(ように見える)アイドルに重ねられているのでしょう。

ところで、主人公たちが最後に4人で見る写真のタイトルが「トラペジウム」で、そこには高校時代の4人が写っているのですが、もう一人、ボランティアで知り合った足の悪い少女も写っているはずです。そうなると4つの角を持つ四辺形ではなく五角形になってしまいます。

もしかして足の悪い少女のが写っていない、四人だけの写真だったのでしょうか? しかしストーリーを追う限り、5人で写真を撮ってもらっていたと思うのですが、あたしの勘違いでしょうか?

『トラペジウム』に5人目はいるのか?

乃木坂46の高山一実のデビュー作品『トラペジウム』読了。

主人公は高山自身を多少ダブらせているところはあるのかな、という気もします。その主人公が、自分の住む町の東西南北の美少女を集め、アイドルとしてデビューしようとする物語です。

房総半島突端の田舎町に、そうそう都合よく美少女が東西南北にいるものだろうか、という疑問はさておき、見事に見つけて仲良くなった主人公はあの手この手でアイドルになるべく、世間に認知してもらうべく奮闘します。

このあたりのプロセス、アイドルを夢見る中高生には共感を持って読まれるのでしょうか? ただかなり稚拙で杜撰な計画です。とはいえ、そこは小説なので、トントン拍子とは言えないまでも、そこそこ主人公の予定どおりに事は運び、見事に歌手デビューのチャンスをつかむ主人公たち4人組。

が、どうなのでしょう? ここまで主人公のアイドルになりたいという夢のため、そんなことはまるで予想もしていない他の3人が利用されているわけです。主人公は最後まで自分の夢のために仲間を引きずり込んだ、利用したということを打ち明けません。その邪さが、もしかするとよりリアルで本作の魅力になっているのかも知れません。

結局、さあデビューだ、これからアイドル人生が始まる、という土壇場で仲間三人はアイドルになることを望まず、主人公から離れていきます。このあたりからの展開がちょっと速くて、主人公は結局一人で再びアイドルへの夢を追いかけ、それを手に入れたようです。ちょうど作者・高山一実と同い年くらいになっている十年後、四人が再び集まります。そして友人の写真を見に行き、「トラペジウム」というタイトルの作品を眺めて終わります。

なんか、食い足りない気分の残る作品です。いや、よくかけていると思うし、ありがちな仲良し四人組のサクセスストーリーをひとひねりしているところは巧いと思います。

でも、上述したようにアイドルデビューのところからの展開がちょっと速く、そこをもう少し掘り下げてもよかったのかな、主人公はその後どうやってアイドルになれたのか、アイドルへの道を降りた三人がその後どういう人生を歩んだのか、もっと知りたいと思いました。まあ、ここで四者四様の生き様を作品にするのは作者の経験や現在の忙しさからすると無理かも知れません。いい加減連載が長くなってきて、編集部からそろそろまとめてくれと急かされて強引にエンディングに持っていたような印象を受けます。

落首、否、落手、と言うよりも落酒

今年も年末年始用の日本酒が届きました。

母の田舎、新潟県上越市にある酒屋さんに注文して取り寄せているものです。

季節季節にカタログが届き、その中から何本か見つくろって注文するのですが、何年も購入していると、新しいものでない限り、あらかた飲んでいるものばかりになります(汗)。今回は、写真の4本をチョイスしました。

左から、「得月 純米大吟醸」(朝日酒造)、「千代の光 越淡麗」(千代の光酒造)、「己亥 無濾過生酒」(オリジナル)、「雪中梅 雪室貯蔵純米原酒」(丸山酒造)です。「得月」がちょっと高いですが、それ以外は決して高いものではありません。

さて、どれから賞味しましょうか?

と言うよりも、どれも720mlですから、いつまでもつのでしょうか?

まだまだ知らない本が多すぎる

昨日の朝日新聞夕刊です。

偕成社から出ている絵本がドイツで賞を取ったそうです。タイトルは『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』、著者は岩佐めぐみ。

部外者が勝手なことを言ってはいけないかも知れませんが、恐らく偕成社の数ある出版物の中で決して主力と呼べるものではないと思います。記事中にある発行部数にしても、ヒット作を数多く抱える偕成社の中では平凡なものかも知れません(あたしの勤務先からすれば天文学的な数字ですが……汗)。

日本にもこれから観光客ではなく生活者として海外の人が増えてくることが予想されますので、この受賞をきっかけに今後ますます売れるのではないでしょうか?

それにしても、こういった知らないけれど読むべき本って、まだまだたくさんありますね。本書だって、海外で受賞しなければ、どれだけの日本人が知っていたことでしょう。17年前に刊行された絵本だそうですが、よくもまあ偕成社も絶版にせず刊行し続けていましたね、頭が下がります。

朝日の記事の影響もあるのでしょうか、アマゾンや紀伊國屋書店、楽天ブックスなどネット書店は軒並み売り切れになっているようです。リアル書店も店頭在庫、どうなのでしょう?