鯨はあまりにも大きかった

』読了。ちなみに、この作品で晶文社の《韓国文学のオクリモノ》シリーズはコンプリートです。

それにしても、最後の最後に超弩級の作品が待ち構えていましたが、長さを感じさせない物語でした。そして「二組の母娘の物語」と気軽に紹介してしまうにはあまりにも壮大かつ悲しすぎました。

物語の中で流れる時間は100年にも満たないでしょう。ラストの時間はほぼ現代、現在です。つまりは韓国の現代史なわけです。伝統的な韓国に生きる女性の悲哀、しかし、それでも強く生きる女性たちの生き様、そんな風にまとめてよいものか、ちょっと躊躇ってしまいます。それほど一筋縄では言い表わせない作品でした。

母娘が二組出てくるとはいえ、よりスポットが当たっているのはクムボクとチュニの母娘ですが、成功物語でもなければ、ハッピーエンドでもありません。あえて言えば「盛者必衰」とでも言えましょうか。ただそれも、それなりの成功を収めたクムボクには当てはまると言えますが、チュニには当てはまりそうにありません。

著者はこの不幸な娘たちに安易なハッピーエンドを与えず、孤独の中で死に至らせる。それどころか生まれて間もない生命さえ死んでしまうのだが、悲惨さだけが残る感じがしないのは、チュニや一つ目を語る際にあふれ出る著者の優しさのためだろうか。

とは「訳者あとがき」にある言葉です。確かに悲惨さだけが残るわけではありませんが、だからといって希望が持てるような書きぶりかと問われれば、頷くことはできません。彼女たちの生き様は悲しすぎます。

せめてもの救いは、チュニは苦痛を感じることはできても、不幸を感じることはできなかったのではないかと思われる点でしょうか。母のクムボクは社会的な成功を収め、使い切れないほどの大金も手にし、自分の欲望に正直に生きた女性ですが、どこか幸せになりきれない影を引きずっています。

それに対して、いわゆる知的障害のあるチュニは、そういった世間の評価基準の外に生きているわけで、その人生は筆舌に尽くしがたい苦痛に何度も見舞われるのですが、幸不幸という判断基準を持っていない、理解できないことがささやかな幸せなのかも知れません。でもそれではあまりにも悲しいです。

ところで、最後にチュニは、恐らく彼女の人生で唯一の理解者であり友達だった象のジャンボの背中に乗って天高く昇っていきます。その場面は、テレビアニメ「フランダーズの犬」の最終回、ネロがパトラッシュと共に天使に導かれて昇天していく場面を彷彿とさせるものでした。そんな風に感じたのはあたしだけでしょうか?

安くならない理由の一つ?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

何でもかんでもろくに議論せず強引に通してしまう自民党・安倍政権。その弊害がこんなところにも現われているようです。

著作権の保護期間が延びることによって、原作者の子孫に金銭的なものが残せる、と言われますが、それなりの金額の著作権が、死後何十年にもわたって毎年発生するほどの原作者がどの程度いるのか、実際にはほとんどいないと聞きます。

その是非はともかく、あたしの勤務先のような出版社からすると海外の作品を翻訳出版する時にどうしても価格が高くなってしまう理由の一つになります。このと十数年目につく「古典・名作の新訳」も著作権が切れていればこそ各社が競って刊行できるわけで、なおかつそれほど高い価格にならずに作ることもできます。

それが延長されてしまうと、「来年には著作権が切れるから新訳を出そう」と考えていた出版社としては尻込みしてしまいますよね。寿命が延びているからというのも、延長の理由としてそれほど有効なのか、あたしは疑問を感じます。

光り輝く少女たち

前のダイアリーでは『トラペジウム』のタイトルの意味に着いてまでは筆が進みませんでしたので改めて……(汗)

ググっても構いませんが、「トラペジウム」の意味は、①不等辺四辺形、②オリオン星雲の中にある四つの重星、です。

主人公を含めた四人の少女たちを四辺形のそれぞれになぞらえつつ、光り輝く星たちというのが、キラキラ輝いている(ように見える)アイドルに重ねられているのでしょう。

ところで、主人公たちが最後に4人で見る写真のタイトルが「トラペジウム」で、そこには高校時代の4人が写っているのですが、もう一人、ボランティアで知り合った足の悪い少女も写っているはずです。そうなると4つの角を持つ四辺形ではなく五角形になってしまいます。

もしかして足の悪い少女のが写っていない、四人だけの写真だったのでしょうか? しかしストーリーを追う限り、5人で写真を撮ってもらっていたと思うのですが、あたしの勘違いでしょうか?

『トラペジウム』に5人目はいるのか?

乃木坂46の高山一実のデビュー作品『トラペジウム』読了。

主人公は高山自身を多少ダブらせているところはあるのかな、という気もします。その主人公が、自分の住む町の東西南北の美少女を集め、アイドルとしてデビューしようとする物語です。

房総半島突端の田舎町に、そうそう都合よく美少女が東西南北にいるものだろうか、という疑問はさておき、見事に見つけて仲良くなった主人公はあの手この手でアイドルになるべく、世間に認知してもらうべく奮闘します。

このあたりのプロセス、アイドルを夢見る中高生には共感を持って読まれるのでしょうか? ただかなり稚拙で杜撰な計画です。とはいえ、そこは小説なので、トントン拍子とは言えないまでも、そこそこ主人公の予定どおりに事は運び、見事に歌手デビューのチャンスをつかむ主人公たち4人組。

が、どうなのでしょう? ここまで主人公のアイドルになりたいという夢のため、そんなことはまるで予想もしていない他の3人が利用されているわけです。主人公は最後まで自分の夢のために仲間を引きずり込んだ、利用したということを打ち明けません。その邪さが、もしかするとよりリアルで本作の魅力になっているのかも知れません。

結局、さあデビューだ、これからアイドル人生が始まる、という土壇場で仲間三人はアイドルになることを望まず、主人公から離れていきます。このあたりからの展開がちょっと速くて、主人公は結局一人で再びアイドルへの夢を追いかけ、それを手に入れたようです。ちょうど作者・高山一実と同い年くらいになっている十年後、四人が再び集まります。そして友人の写真を見に行き、「トラペジウム」というタイトルの作品を眺めて終わります。

なんか、食い足りない気分の残る作品です。いや、よくかけていると思うし、ありがちな仲良し四人組のサクセスストーリーをひとひねりしているところは巧いと思います。

でも、上述したようにアイドルデビューのところからの展開がちょっと速く、そこをもう少し掘り下げてもよかったのかな、主人公はその後どうやってアイドルになれたのか、アイドルへの道を降りた三人がその後どういう人生を歩んだのか、もっと知りたいと思いました。まあ、ここで四者四様の生き様を作品にするのは作者の経験や現在の忙しさからすると無理かも知れません。いい加減連載が長くなってきて、編集部からそろそろまとめてくれと急かされて強引にエンディングに持っていたような印象を受けます。