どこまでが素なのか?

昨日の朝日新聞夕刊です。

欅坂46の絶対センター、平手友梨奈が大きく載っていました。

この紙面に限らず、主演映画が公開なので、あっちこっちのメディアに出ずっぱりですね。そしてよく笑っているような……

冠番組ではこのところほとんど笑顔を見せないのは相当なストレスを抱えているのでしょうか? 最年少で絶対センターと呼ばれ、自分の存在がイコール欅坂46のような現状は、たぶん彼女の本意ではないのだと思います。

しかし、大人たちが勝手にそんなストーリーを作り、それで予想もできなかった人気を博し、人々に支持されて、一時期自分の立ち位置を見失っていたのかな、という気もします。

そんな中、グループを離れて仕事が出来たことはよい息抜き、気分転換になったのではないかと思われます。だからこその笑顔なんではないでしょうか? 映画はスタッフや演者みんなで作り上げる連帯感っていうのがあるでしょうし、思った以上に居心地のよい空間だったのかも知れませんね。

しかし、そうであればあるほど、欅坂46のパフォーマンスが「大人への反抗」路線一本槍でよいのかな、という気もしないではないです。恐らく、てち自身もそれを思っているのではないか、そんな気もします。

運命の人が二人もいるなんて!

寝ても覚めても』読了。

ストーリーはカバーにも書いてありますが、主人公が一目惚れした男性としばらく付き合った後、その男性はある日突然姿を消してしまいます。そして数年後、大阪から東京に引っ越して暮らしている主人公はかつての恋人にそっくりな男性と出会うわけです。

ここまで読んで想像したのは、かつての恋人が事故か何かで記憶喪失になってしまい主人公のことも忘れてしまっている、というストーリーでした。しかし、この想像は早々に却下されます。実は二人は身長も少し違うし、年齢もことなることがわかります。つまり一人二役的なものではないこと、二人は全くの別人であることがはっきりします。

かつて運命の人と思った相手とそっくりだから新たに出会った男性を好きになったのか、それともその男性をその男性として好きになったのか、大人の恋といってしまえば大人の恋ですが、若い頃の恋を引きずって、こじらせてしまっているイタイ女の恋物語と言ってしまってもよいのかも知れません。

で、かつての恋人が再び登場する後半、主人公の心はモヤモヤしっぱなしになります。「えーっ、ちょっと待って、そんな行動に出ちゃうの?」と叫びたくなります。このあたりの感覚は解説の豊崎由美さんも書いています。そして結末まで読んだ時に、主人公の決断というか行動に賛成できるか否か、これは人によって賛否が割れそうな気がします。

映画はどんな風に描いているのでしょうか。小説そのままの展開なのでしょうか、それとも映画独自のストーリー展開になっているのでしょうか。ちょっと興味があります。

ところで、この作品、高層ビルもありますがアパートとかマンションとかの低層も含め、主人公はよく高いところに上っています。そこから下を見下ろしているシーンが何回も出て来ます。高いところから俯瞰するような描写が多いのに、自分のことは俯瞰できていない主人公という印象を受けました。

そんな風に見下ろしていることが多い主人公なのですが、でも空を、上を見上げているシーンも同じくらい多く出て来ます。ただ、上を向いて希望を見出すという感じではなく、心は落ち込んでいても頭まで下を向くのはやめよう、せめて上を向くことで少しでも運気を上げられたら、という主人公の無意識の気持ちなのではないかという気がしました。

それにしても、帯には「運命の人は二人いた」とあります。主人公の恋がどうなろうと、運命の人が二人もいるなんて、なんとも贅沢な人生ではないでしょうか? あたしなんて一人にすら巡り会えていないのですから。

ライ麦畑で出会えなかった……

映画「ライ麦畑で出会ったら」試写会の招待券をいただいていたので京橋まで出かけてきました。

京橋とは言っても、事前に調べてみたら試写会の会場は東京駅からも歩いて10分程度のところだったので、「こりゃ、中央線一本で行ける」と勇んで出かけてみたのですが……

13時からの試写会に、12時半ごろ東京駅へ到着し、二三十分界隈をうろうろしたのですが、結局試写会場が見つからないまま時間切れ。やむなく東京駅へ戻り、再び中央線に乗って戻る羽目になりました。

映画の主人公はサリンジャーに会えたのでしょうか?

その前に、あたしはこの映画に出会えませんでした(爆)。

たぶん、この映画、WOWOWとかで放送されない限り、もう見ることはないのではないか、そんな気がします。

縁がなかったのでしょうね。

こういうことってよくあります。

昔、飲み会か何かの集まりで、やはり会場が見つけられず結局参加せずに帰ったことがありました。あたしの人生でこういうことって過去にも何度か起こっています。

事前によく調べてから行けばよいのに、と言われてしまえばそれまでなのですが、たぶん心のどこかで「たどり着けなかったらそれまでさ」という気持ちが働いているのかも知れません。

諦めが肝心、という格言もありますが、あまりにもあっさりと諦めてしまうことがあたしの人生には多々あったような気がします。

いや、諦めずに粘ったとしても、結局結果はさほど変わらないだろうなあという予感がするのです。だったら面倒な努力、余計な粘りはするだけ無駄というものです。

そんな風に考えてしまうのです。

お月見に団子は必要とは思わないのですが、できればススキは飾りたいものです

久しぶりのネクタイコーナーです。

とはいえ、ネクタイは既に登場しているものなので、何ら新味もありませんが……

今回、ブラウスがおニューなんです、わかっていただけましたでしょうか?

で、どんな柄かと言いますと、丸の中に兎さんです。

ちょうど中秋の名月も、今年は9月24日だそうなので、ちょっと早いですがまとってみたというわけです。

月に兎は日本人のメンタリティーなんですよね。確か中国ではガマガエルがいたはず。それぞれの民族ごとに解釈があって構わないのですが、ガマガエルではどうもロマンが掻き立てられないと感じるのはあたしだけでしょうか? もちろん中国神話の嫦娥の物語は興味深いものですが。

そんなブラウスに合わせたネクタイはこちらです。

鳥獣人物戯画の模様です。

ここには兎も蛙も描かれていますので、月のブラウスに合わせるにはもってこいではないでしょうか?

でも、若い人なら月と兎と聞けば「セーラームーン」を思い出すのではないでしょうか? あたしもどちらかというとそっちかもしれません(汗)。

さて表題にも書きましたが、昨今の日本の住宅事情では、お月見ができるようなお宅は少ないのではないでしょうか?

いや、窓を開ければ月が見える、と言うくらいであれば多くの家がそうだろうと思います。でも、お月見と言ったら座敷から続く縁側に、月見団子とススキを飾って見上げるもの、そういうイメージがあたしにはすり込まれています。

縁側から眺められると言うくらいですから、縁側の前にはそこそこ広い庭もないといけませんよね。そんな贅沢なお宅、東京では数少ないのではないでしょうか? そもそも座敷も縁側もない家がほとんどではないでしょうか? 残念なことです。

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あの日から……

今日は、何をおいてもこちらです。

あまりにも印象的なシーンを表紙に使用した『倒壊する巨塔(上)』『倒壊する巨塔(下)』です。

印象的と言うよりは衝撃的と言った方がより正確なんだと思います。この日を境に世界が変わった、と言えるかも知れません。

いまいちど、手に取って読み返してみてください。

「秀でる」は「しいでる」?

子供のころ、知り合いに江戸っ子の人がいて、案の定「ひ」が発音できませんでした。どうしても「し」になってしまっていました。

江戸っ子が「ひ」を「し」と発音するのは有名な話なのかわかりませんが、東京育ちのあたしにとっては子供のころからの常識でした。

ただ、その人が「しいでる、しいでる」と発音していたので、幼心に「秀でる」は「ひいでる」ではなく「しいでる」だと思い込んでいました。これが「しいでる」ではなく「ひいでる」だと自覚したのは、かなり後になってからのことです。

なんでそんなことを思い出しかと言いますと、別に昨日今日思い出したわけではなく、社会人になって、仕事柄いろいろな外国語に触れるようになって、世界にはいろいろな発音があることを知ってから、折に触れて考えるようになっていたのです。

それにしても、口の構造が異なるわけでもないのに、どうして発音できる音とできない音があるのでしょう? フランス人には「H」の発音がない、というのも有名な話ですよね。「ホテル」は「オテル」になるんでしたっけ? 不思議です。

日本人が苦手な発音の代名詞のごとく言われる「L」と「R」も、それを発音し分けているアメリカ人からしたら、そもそも違うということを意識すらしないのでしょうね。

そんなことを、また最近考えていましたけど、何かきっかけがあったのかは思い出せません。

もう22年、つまり二十三回忌

今日は重陽の節句ですが、あたしの父の命日でもあります。

というようなことは、毎年ではないですが、このダイアリーでも既に何回か言及しています。

そして、これも言及した記憶がありますが、父方の祖母の命日でもあります。つまり、あたしの父親は母親と同じ日に死んだわけです。もちろん数十年の歳を隔ててですが。

父が亡くなったのが平成8年、今から22年前です。

父は、その少し前から市内の、老人用病院というのでしょうか、こういう言い方はなんですが、もうあとはいつ死んでもおかしくないような、そういう老人ばかりが入院している病院に入院していました。

22年前の今日は月曜日で、あたしはいつもどおり出社して、さあまた一週間が始まるという時に自宅の母から電話がかかってきたのです。9時を回るか回らないか、そんな時間だったと思います。

病院から電話があり、危篤状態だと言われたようで、自分もこれから病院に向かうからお前もすぐに帰ってきて病院へ来るように、とのことでした。取るものも取りあえず、仕事もすべてそのままに帰宅して病院へ向かったのですが、あたしが到着の一時間くらい前に父は臨終を迎えていました。母が病院に着いた時には既に昏睡状態というのでしょうか、酸素マスクをしていて全く無反応だったようです。

こういう言い方は決して病院を非難しているわけではありませんが、とにかく家族が一人でも来たら、家族の見ているところで「ご臨終です」と言えば格好が付くから、それまでは無駄だとわかっていても酸素マスクをはめて、何かしら処置をしているふりをしていよう、そんな印象でした。

前の日曜日には病院へ見舞いに行って父と少ないながらも言葉を交わしていたので、こうも急変するとは思いもしませんでしたが、自宅介護や短期の入退院を繰り返すこと5年ほど。母もあたしも体力的にも経済的にも限界に来ていましたので、寂しい、悲しいという気持ちはもちろん生まれましたが、ホッとしたというのも正直なところです。

すぐに葬儀社に連絡し、菩提寺に葬儀の手配を頼みましたが、人って意外としょっちゅう亡くなっているのか、すぐには葬儀が開けず、水曜日が通夜、木曜日が葬儀という段取りになり、金曜日も役所や銀行へ諸手続きをするために走り回り、その週はまるまる仕事を休んでしまいました。

毎年、今日が巡ってくるとそんなことが思い出されます。

しかし、もうあれから22年。昨日、青山にある菩提寺で二十三回忌の法要を済ませました。沼津から妹家族も来て、家族だけのささやかなものでしたが……