友達って必要なのでしょうか?

今日の朝日新聞夕刊に、「共通点は彼女いない、東北出身…大学が友達づくり手助け」という記事がありました。

大学生にもなって、大学に指導してもらわないと友達も作れないの? というのが多くの人の感想ではないでしょうか? 小学一年生ならこの手の話はしばしば聞きますが、まさか大学でもあるとは? これって数年前に話題になった「便所飯」に通じる話なのでしょうね。

記事を読むと、大学側としては中退防止が主目的のようなですが、このままいくと就職活動も大学が企業を選んであげたりエントリシートを書いてあげたりしないとダメな学生が増えていくのではないか、という気もします。

しかし、振り返って考えてみるに、大学って友達が必要なのでしょうか? そりゃ、いないよりはいた方がよいと思いますが、大学は学問をするところですから、友達なんて二の次だと、あたしは思います。現にあたしの場合、先輩後輩や同級生、クラスメートはいましたけど、取り立てて友達と呼べるような存在はいなかったし作らなかったわけで、なので社会人になっても学生時代の友人と、というような話を聞くと、「面倒臭い関係だなあ」と思ってしまいます。

そもそもあたしの場合、人生を通じて友達というものを作ってこなかったので、友達がいないからどうなる、という思考回路が初めからありません。友達がいないから大学を辞めるとか、そんな感覚はまるっきり持ち合わせていないのです。

友達っていなくても、知り合いがそこそこいれば、それなりに生きていけるものです。友達の有無をそんなに気にすることはないと思うのですが……

ポスト散り際

桜は、今は盛りと咲き誇っているときよりも、散り際が美しいと感じます。

しかし、桜の満開があっという間であるように、あるいはそれ以上の速さで散り際は過ぎてしまいます。

そして、そのなれの果てと言いますか、現状はこんな感じ。わが家の近所ですが、どこも似たような光景を目にします。

桜が散った後のこのざま、これが嫌いです。

読書メモ的に……

独り舞』を読み始めました。

32頁あたりからの小雪とのやりとり。

結局主人公は、自分をわかってもらえないと思う以上に周囲の人を理解していないんだろうなあと感じます。そして、自分の言うことを否定せず、うんうんと聞いてくれる人に対しては「自分をわかってくれる」と思うわけで、このあたりは、同性愛ということを抜きにしても、いわゆる幼い自我とでも言うのでしょうか、若い頃には誰にでも多かれ少なかれ見られることですね。ただ、ここまでこじらせると周囲も大変でしょうけど。

その後に、「でも、どうせ死ぬなら、一花咲かせてから死にたくない? 茨の鳥のように」というセリフがあります。

主人公は死ぬことばかり考えているわけですが、その前に何かしたいという意識、なんだかんだと言っても「自分は何かを成し遂げられるはず」と思っていることの裏返しですよね。

「彼女の作品が彼女の死に意味を与えたと言えるかもね。もしそれも無くて、ただ死んでしまったら、何だか寂しいと思わない?」というセリフもあります。

死に意味を与えるのではなく、たぶん生きていることの意味、証が欲しいのだろうと思います。ただ、それも若さゆえの思い上がり。ほとんど大多数の人の人生というのは、別に意味など考えることなく、ただ時の流れと共に生成消滅を繰り返しているだけだと思うのですが……

2018年4月12日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

書評効果で重版決定

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