出版社の発信力と書店の収集力

出版不況と言われるこの時代、今年のノーベル文学賞のカズオ・イシグロは大ヒットしそうですが、芥川賞や直木賞ですら一瞬の花火、本屋大賞も第一位の本しか売れないと言われている状況で、どうやったら本が売れるのでしょうか?

出ないよりははるかにマシ、と言ったらあまりにも言い過ぎですが、新聞書評もかつてほどの売り上げ効果はなくなったのは事実です。あとは、テレビ・ラジオなどで著名人が何気なく取り上げてくれたことがきっかけで、いきなり火が付くこともありますが、そんなのは僥倖であり、出版社が何かをしたとか、書店が何かをしたというわけではありません。

もちろん、ポップを付けて粘り強く展開していた書店の努力からロングセラー、ベストセラーが生まれた、という話も時に聞きますが、そう簡単なものではないことは百も承知です。

で、書店を回っていると言われるのが「情報が欲しい」ということです。特に地方の書店を、出張や研修などで回ったときに言われます。

でも、「情報」って何でしょう? 新刊の刊行予定でしょうか? それとも売れている本のことでしょうか? すべての本屋に対しては無理ですが、それでも数十から数百の書店に対して、毎月新刊案内を送っていますし、折に触れて重版情報や書評情報などもファクスで送っています。

「情報が欲しい」と言っている書店の方は、(新刊案内やファクスが届いていないのなら話は別ですが)それらを見た上で、更に何を欲しがっているのでしょうか? 新刊案内は売れるかどうか、出してみないとわかりません。でも重版情報や書評情報は少なくともある程度は売れている、これから売れる可能性がある書籍の情報だと思いますが、それでは足りないのでしょうか?

一斉にファクスを送信すると、最近は「ファクス拒否」の書店が増えていることに気づきます。書店の気持ちもわかります。放っておいたら大量のファクスが流れてくる、その処理だけで時間を取られる割りには、欲しいと思う情報がほとんどない、というものです。

そういう書店の方は、ではどうやって情報を入手しているのでしょう? 昨今はやりのSNSでしょうか? 出版社もTwitterやFacebook、Instagramなどを駆使しているところが増えています。そういうのをマメにチェックしているのでしょうか?

話を聞いていると、出版社のSNSはそれほど見ていないけれど、作家本人のブログやTwitterなどはチェックしているという書店員さんが意外と多かったりします。狭義の作家だけでなく、翻訳家や評論家、学者などもケースバイケースで参照しているのでしょうが、そういうところからネタを仕入れている書店の方は多そうです。

そうなってくると、出版社はどういう方法で、何を発信したらよいのでしょうか? 「この本はネットで跳ねそうだから、SNSでの情報拡散に力を入れて」というようなことを営業部に言ってくる編集者もいますが、では具体的に出版社のTwitter(やFacebookなど)でどういうことをすれば本当にその本が跳ねるのでしょうか?

あたしの勤務先は、もちろんウェブサイトがありますが、SNSとしはTwitterをやっています。そのフォロワー数は中小規模の出版社としては多い方ではないかと言われていますが、他社のTwitterのフォロワー数と逐一比較したことがないので、確かなことはわかりません。その数万からのフォロワーが、あたしの勤務先のTwitterの投稿をちゃんと読んでくれているのでしょうか?

あたしはTwitterをやっていないので、フォローするとか、フォローされるというのが具体的にどういうことになるのかわかりませんが、Facebookでせいぜい十数名くらいしかいない「友達」の記事だけでも追いきれません。人によっては百をもって数えるほどの「友達」が登録されている人もいますが、そういう人って記事をどの程度読んでいるのでしょう? かなりの数をスルーしているのではないかと予想しているのですが……

もしそうであるなら、あたしの勤務先のTwitterのフォロワーで、熱心に記事を追ってくれている人はその中のどのくらいなのでしょう? リツイートしてくれている人、「イイネ」してくれた人が確実なところでしょうか? だとすると、記事によってかなり差はありますが、平均すると十数名という気がします。これで情報発信をしていると言えるのでしょうか? ここは、フォロワーは全員記事を読んでくれていると信じたいところです。別にリツイートしなくても、イイネしなくても、読んで何かしら役に立ててくれているのだと信じたいところです。

今の時代、SNSを駆使しないといけない時代なのはわかっているのですが、何をどうしたら効果的なのか、そこがまだわかりません。試行錯誤の日々です。

誰一人幸せにならない

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学びたいという意欲

昨夕は駒場の東京大学で金曜講座でした。正式には「高校生のための金曜特別講座」と言うように、午後5時半からですから、なかなかサラリーマンには参加が難しいイベントです。しかし、高校生は、自主的なのか学校の先生の指示なのか、あの雨の中、大勢が受講に来ていました。

さらに全国の高校、何校くらいでしょうか、生中継で結んで視聴、受講している学校も多数あったようでした。この時間ですから、中継先の学校は放課後に生徒が残って見ていたのでしょうか? とにかく、その金曜講座の2017年冬学期が昨日からスタートしたわけです。

そんな高校生向けの講座に、何しの目的で行ったのかと言いますと、別に女子高校生を物色しに行ったのではありませんよ(汗)。実は、この数年間の金曜講座の中からセレクトした講義を書籍にまとめ、それを少し前に刊行していたからです。

上の写真がその展示販売風景です。受付のすぐ隣でやらせていただきました。カバーの色鮮やかな『知のフィールドガイド 科学の最前線を歩く』と『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』の二冊です。

 

講座受講生への特別割引販売でしたが、やはり高校生にはちょっとお高いですかね? いきなり2000円前後の本を買うというのは、今どきの高校生の生活習慣にはありえないことなのでしょうか? むしろ引率ないしは自主的に参加されているとおぼしき大人の方が本書を買っていってくださいました。無料の社会人大学という感じで受講されている年配の方も多数いらっしゃいましたので、あの雨の中、熱心だなあと感心してしまいます。

ちなみに、一番左の『イタリア広場』は、昨日の講師、村松さんの訳書です。

金曜講座はこの後も年内数回行なわれます。毎回、展示販売を行なう予定です。昨夕も「今日はちょっと雨なので、次回買います」という方もいらっしゃいました。

GOOD NEWS と BAD NEWS

昨日が発表でしたね、ノーベル文学賞。不況にあえぐ書店業界にとってまたとない朗報です。

ところで、このニュースって何時ごろ発表されたのでしょうか? あたしは、例によって、昨晩も8時ころには寝床へ入ってしまったので、今年も村上春樹は取れなかった、今年の受賞者はカズオ・イシグロだということは今朝のニュースで知りました。

ハルキならもっとよかったのかもしれませんが、カズオ・イシグロも日本では知られた作家ですから、今年は書店も賑わうのではないでしょうか? 昨年のボブ・ディランではCDショップは潤っても書店はさっぱりでしたから……(汗)

名前くらいは知っているけど読んだことがない、という作家はたくさんいます。村上春樹ですら、読んでいない日本人の方が多いと思います。試しに、渋谷のスクランブル交差点で渡っている人にアンケートを取ったとしたら、村上春樹を読んだことがある人は2割もいないのではないでしょうか? そんなものだと思います。

だから、ノーベル賞なんていう機会があれば、これまで読んでいなかった人も「ちょっと読んでみようか」という気にさせるのだと思います。ただし、これまでにも海外文学の出版社はノーベル賞に一喜一憂していましたが、やはり知られていない(あくまで日本で)作家ですと、ノーベル賞を取ったからといって売り上げは渋いものです。

書店からの注文は殺到しますが、実際に並んだ本が売れているのか、売れたのかと言われると微妙なところです。ノーベル賞だからといって、あまり浮かれないというのが教訓です。

ただし、今回のカズオ・イシグロは、そういう意味では売れるのではないでしょうか? 日本での知名度も高いですし、作品世界も日本人向きだと思います。何より日系人という親しみやすさが受けると思います。

という風に、今朝から(昨晩から?)書店業界は「カズオ・イシグロ」フィーバーになっていることでしょうが、そんな今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

うーん、カズオ・イシグロに比して、あまりにも知られていないと思いますが、あたしの勤務先から『少女』を刊行しています。

同書は

まだあどけない17歳の女子高生が、老齢の監督に導かれるままに足を踏み入れた、憧れ・畏怖・感動・絶望・官能の渦巻く眩いばかりの未知の世界。仏映画界の伝説的な女優による衝撃の実名小説。

という内容です。地味ながらも、それなりに話題にもなり売れた作品という記憶があります。世の、カズオ・イシグロ熱に辟易している方、こんなのはどうでしょうか?

存在感が足りない? なら、どうする?

下の写真はご存じ、諸外国語の入門書シリーズ、《ニューエクスプレス》です。

数十年前に《エクスプレス》を刊行したころは四六判、音源は別売りのカセットテープでした。その後、別売りのCDが発売されるようになりましたが、あっという間に、はじめからCDが付属の《CDエクスプレス》シリーズに取って代わられました。

《CDエクスプレス》はCD付きになったので、《エクスプレス》の四六判からA5判に少し大きくなりました。《エクスプレス》が順次《CDエクスプレス》に切り替わっていく中で、そろそろシリーズ自体もリニューアルしようということになり、数年前、いや、もう十年は経つでしょうか、とにかくリニューアルされて刊行をスタートしたのが、この《ニューエクスプレス》です。

お陰様でこんなに揃いました、最近も「インドネシア語」が刊行になり、年内には「アイスランド語」も刊行予定です。CD付きの語学入門書シリーズとして、その歴史、ラインナップしている言語の幅広さから、語学学習者のみならず、語学マニアの方にまで広く支持をいただいているシリーズです。

一応、フランス語やドイツ語、中国語といったメジャーな言語もラインナップされてはいますが、マイナーになればなるほどコアな読者、学習者の支持が高いのもこのシリーズの特徴です。「●●語はまだですか?」といった問い合わせや、読者カードに「●●語の刊行希望」といったリクエストまで、正直なところ「いったい地球上のどこで話されている言葉なんだろう?」という言葉の需要、希望が寄せられます。

ところで刊行している言語でははるかに負けていますが、《ニューエクスプレス》には、こんな姉妹シリーズがあるのをご存じでしょうか?

《ニューエクスプレス単語集》です。辞書を作るのはこの時代なかなか大変ですが、やはりちょっとしたものは欲しい、という声に応え、ミニ辞典的な要素を持たせた単語集のシリーズです。《ニューエクスプレス》には、どれも巻末に単語集が付いていますが、それをもう少し拡充し、なおかつ新書サイズのコンパクトな判型にしたものです。

ご覧のようにと言っても背だけではわかりにくいかも知れませんが、《ニューエクスプレス》と装丁も揃えてあります。ですから、書店語の語学の棚で《ニューエクスプレス》の近くに並んでいるはずなのですが、判型が小さいためかあまり目立っていないようです。

目立たなければ売れません。せっかく《ニューエクスプレス》というヒットシリーズの名を冠しているのに、これはもったいない限りです。目立たないだけではなく、あまりその存在が知られていないようでもあります。知られていなければ売れませんし、書店の方も置いてみようと思いつくはずがありません。

うーん、これはやはりわれわれの営業力の問題でしょうか? 《ニューエクスプレス》並にラインナップが増えてくればよいのでしょうか? 確かにそうなれば、書店の棚でも一定の存在感を示せますよね。ただ、それだけの問題なのかどうか……

個人的には書名を「単語集」ではなく「ミニ辞典」とした方がよかったかな、という気もしています。やはり語学の世界では単語集は辞典よりも一段低く見られがちです。「単語集なら買わないけど、辞典なら買っておくか」という方も一定数はいると思います。

とはいえ、こればっかりはやってみないとわかりませんし、いまさら書名を変えて出し直すというわけにもいきませんし、とにかくこれを売っていくしかない、否、それ以前に世間に存在をアピールして浸透させなければ!

出荷間違いではなく受注間違いだった、かもしれない?

ちょっと前のことです。

書店から客注品の、こんな電話がありました。

えーっと、ローズベルなんとかって本、出てませんか?

あっ、『ローズ・ベルタン』ですね。はい、弊社で出しております。

では、それを一冊お願いします。

ありがとうございます。では番線をお願いします。

というようなやりとりをし、無事に受注して、もうとっくに出荷されているはず。あるいは今ごろ、お店に入荷しているのかも知れません。

が、最近になって、ハタと思ったのです。

あの電話でお客さんが欲しかったのは『ローズ・ベルタン』ではなく、新刊の『ローズヴェルトとスターリン(上)』『ローズヴェルトとスターリン(下)』ではなかったのか、と。

お店の人もお客さんから聞いた書名を正確に覚えて電話をくれたのかわかりません。最初の電話の言い方からすると「ローズなんとか」くらいの記憶だったのかも知れません。

となると、少し前の本である『ローズ・ベルタン』を注文したのではなく、最近出たばかりの『ローズヴェルトとスターリン』を注文した可能性が高いなあと思うのです。前者が、メディアで最近になって改めて紹介されたという情報は入ってきていませんが、後者なら新聞などの広告で見た、という可能性が高いからです。

うーん、どっちだったのでしょう? 今のところ、書店から「間違った商品が入荷しました」という連絡は来ていないようですが……

高校図書館という違和感

最近『高校図書館デイズ』という本を読みました。

本自体は面白いです。いま高校に通っている人はもとより、高校を卒業した人、特に大学生なんかは読むと懐かしさがこみ上げてくるのではないでしょうか? そう思います。

ただ、一つだけ違和感を感じるのです。

それはタイトル。

高校の図書館を舞台にした本だからそれでいいじゃない、何か問題でも?

と言われると返す言葉に困りつつ、その「高校の図書館」というのが気になるんです、と言い返したくなります。

そもそも高校に図書館ってありました?

あるに決まってるだろ、当然じゃないか、と答える方がほとんどだと思うのですが、皆さんがおっしゃっているのは本当に図書館でしたでしょうか?

ここからは完全な揚げ足取りなんですけど、高校にあったのって図書室であって図書館ではなかったのではないでしょうか? 少なくともあたしの場合、小中高にあったのは図書室であって、図書館というのは市立や区立の施設、そして学校併設のは大学に入って初めて見た、体験した、使ってみたものでした。

図書室も図書館も同じじゃない、と言われれば、ほぼそうなんですが、図書室だと校舎の一角、やや広い一部屋を使っているもの、図書館だと別の建物、というイメージがあります。家庭科室、音楽室、理科室、職員室はあっても、家庭科館、音楽館、理科館、職員館なんてないですよね。

それと同じで、高校にあったのも図書館ではなく図書室だったのではないか、というわけです。本書の舞台となっている札幌南高校も、図書館ではなく図書室があるようですが、生徒は「図書館」と呼んでいる(いた)のでしょうか?

と、揚げ足取りをしてきたわけですが、本のタイトルとしては、「高校図書室デイズ」ではやはりしっくりきませんね。世間的にも「図書館」の方がはるかに人口に膾炙していますし、あえて「図書室」というタイトルにしたら、なんだか変な感じがします。筑摩書房が「図書館」というタイトルにしたのは正解なんでしょう。

で、そのついでに札幌南高校のウェブサイトで校内案内図を見ましたら、同校の図書室って校舎のほぼ中心にあるのですね。実際に生徒の校内における動線がどうなっているのはわかりませんが、生徒が行きやすいところにあるというのは素晴らしいことではないでしょうか?

あたしなど、小学校は辛うじて覚えているのですが、中学と高校の図書室が学校内のどこにあったのか思い出せないんですから! それだけふだんの学校生活の動線上になかったということです。もちろん少し離れている方が静かに本を読めるという理由もあるのでしょうが……

この痛さがたまらなくいいのです

別に、嫌われても構わないのです。でも、私の存在をあなたの心の中で抹消しないで。人に嫌われることや悪意を持たれることなんかもう慣れっこです。痛くも痒くもありません。でも、好きの反対は嫌いではなくて無関心だから。爪の先程度で良い、私に関心を持っていてください。それがたとえ悪意でも構わない。(P.144)

宮木あや子さんの新刊『ヴィオレッタの尖骨』を読んでいます。

短篇集です。上の引用はその中の一編「紫陽花坂」の一節。自分を傷つけずにはいられない登場人物たちの痛み。相変わらずの宮木さん節で、たまりません。この痛さ、切なさ、読んでいてゾクゾクします。

それにしても、このタイトルはどういう意味なのでしょうか? やはりフランス映画「ヴィオレッタ」を意識しているのでしょうか?

あと「尖骨」って言葉、あるのでしょうか? 宮木さんの造語でしょうか?