11月 2017のアーカイブ
パク・ミンギュさんの作品のもとになっているものとか
洗濯物を干しているのではありません。これでも紀伊國屋書店新宿本店の文芸書コーナーです。晶文社の新刊『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』の特製Tシャツです。著者、パク・ミンギュさんの直筆サイン入りです。先週末のトークイベントで書いていただいたものです。
気づくと、読書芸人で『ピンポン』が取り上げられていたりと、いま韓国文学がちょっとしたブームです。
という話はひとまずおき、先週末のパク・ミンギュさんのトークイベントを軽く振り返ってみます。
パクさんは、デビュー作『三美スーパースターズ…』が日本で刊行されることになってとても嬉しいと話されていました。確かに、日本での翻訳の刊行順は韓国での出版順とはずいぶん異なりますからね……
野球をモチーフに韓国社会を活写した本作、どうして野球をテーマにしようとしたのかとの問いには、自分たちは丁度韓国のプロ野球に熱狂した世代だそうで、だから野球をテーマに書きたかったそうです。三美とヘテの2チームが候補として考えていて、後者では光州事件を題材に、面白くも悲しい物語を考えていたそうです。
しかし、そちらではなく三美をテーマに書くことにしたそうで、経済危機の時代、リストラの嵐が吹き荒れ、がむしゃらに働いてきた世代が一日にして職を失う時代を描くことにしたそうです。誠実で勤勉な世代のサラリーマンが国や会社を信じて働いていたのに、一通のメールでリストラされ転落する人生、当日パクさんが勤務していた会社の近所の公園に、そんなリストラされたサラリーマンたちが一日中たむろしていたそうです。その姿を見て、パクさんは一念発起、会社を辞めて作家活動に専念したそうです。
パクさんの子供時代、韓国はまだまだ開発途上国で、軍部独裁時代でした。現在では当然と思われているようなことも当然ではなく、そんな息苦しかった時代を語れる最後の世代が自分たちだ、とのこと。野蛮ではあったけど苛酷な競争はなく、貧しかったけれど皆が助け合っていた時代、そんな時代を描きたかったそうです。
人は苦しいときに、それに耐えられるように何かを発明するもので、当時の韓国人はロマンによって野蛮さに立ち向かっていた、70年代はロマンチックのある時代だった、とはパクさんの弁。
しかし、その後、世の中はよくなっていったけど(経済的には)、競争しないといけない時代になってしまい、ロマンも失われてしまった。学校でも生徒に順位を付けるようになり、軍事教練も行なわれるようになった。だから自分は学校をサボってばかりいたそうです。
とまあ、そんなところが本作、そしてパクさんの創作の原動力のようでした。
ポーランドBOOKフェア
紀伊國屋書店新宿本店で、ポーランドBOOKフェアが始まりました。2階文芸書売り場、お隣で「読書芸人」の選書フェアを展開中なので、そのついでにというと失礼かも知れませんが、こちらのフェアも熱心にご覧になっているお客様が多いように見受けられます。
あたしの勤務先の刊行物も数店選んでいただいておりまして、真ん中あたりに鎮座しています。
ポーランドって、ちょっと調べると、日本人でもそれなりに知った名称が出てくるはずですが、「ポーランドで思いつくものは?」といきなり聞かれると、咄嗟には言葉が出て来ない人も多いのではないでしょうか?
たぶん、ポーランドで日本人に一番知られているのはアウシュヴィッツではないかと思います。ただし、アウシュヴィッツとポーランドがどこまで結びついているのかは疑問で、アウシュヴィッツと言えばナチス、ヒトラーという連想が働きますから、かつてのあたしがそうだったように、アウシュヴィッツがドイツにあるものだと思い込んでいる日本人も多いかも知れませんね。
そんなポーランドに、こういう機会に触れてみるのもよいかと思います。
こんな人たちが一堂に会している書架って、どうなのよ?
いやー、わが勤務先ながら、「これってどうなのよ?」と思ってしまいます。
何って? 上の写真です。このたびレーニンの評伝を刊行したので、これでスターリン、マルクス、トロツキーが揃い踏みです。それも上下本ばかり。
あたしの勤務先って、別に思想的にそういう会社ではないのですが、なぜかこんな風に揃ってしまいました。まあ、今年はロシア革命100周年なので、丁度よいと言えば丁度よいのかもしれません。
あるいは、レーニンと並べるなら、毛沢東とかポル・ポトと一緒がよいのでしょうか? 共産国家を打ち立てた巨頭たちです。しかし、そうなると金日成やカストロなどの評伝も出さないとならないのでしょうか?
ちなみにヒトラーやムッソリーニの評伝も出していますから、個性派のリーダーの評伝がよっぽど好きな会社と言えるかも知れません。
やはり関西を重点的に?
定期的に記事が出る話題、ということは人々が常に気にしているってことですよね
アエラ最新号の特集は「大学のサバイバル能力」だそうです。
となると、『消えゆく「限界大学」』を忘れてもらっては困ります。
雑誌と書籍って、書店ではなかなか一緒に並べにくいものではありますが、この手のコーナーを作るときには、雑誌担当者は書籍のことを、書籍担当者は雑誌のことも思い出していただけると幸いです。
画竜点睛を欠く、と言ってしまうとあまりにも偉そうではありますが、でも、ちょこっと触れて欲しかったなあ、というのが正直な気持ちです
昨日の朝日新聞読書欄には、残念ながら、あたしの勤務先の書籍の紹介はありませんでしたが、その読書欄のトップページを、皆さまご覧になりましたでしょうか?
そこで紹介されていたのかって? いえいえ、そんなことはありません。ただ、米ソ両大国の核廃絶への取り組みなどの記事でしたので、思わずこんな本を思い出しました。
ピュリツァー賞受賞作、『死神の報復(上)』『死神の報復(下)』です。どうしてこの本がそこで紹介されていないのか、ちょっぴり不満を持ちながら読みました。
本書の副題は「レーガンとゴルバチョフの軍拡競争」ではありますが、実は両首脳がなんとか軍拡を止めようと努力していた様を描くノンフィクションです。ウェブサイトの内容紹介にも
1970代後半、ソ連は西側に大きな脅威となる「大陸間弾道ミサイル」を開発、80年に実戦配備した。83年、米はこれに対抗し、レーガン大統領が「スター・ウォーズ計画」を提唱した。レーガンは反共主義者であったが、ソ連指導者たちに私信を送り続けていた。ソ連が先制攻撃を仕掛けてきたら、従来の核抑止理論は役に立たない段階に至っていると考え、「核の全廃」しか道はないという理想を抱いていた。一方ゴルバチョフも、新時代の到来を内外に訴えた。レーガンとの首脳会談では意見が合わなかったが、核戦争に勝者がないという一点で、利害の一致を見た。ソ連崩壊後、焦眉の急は、旧ソ連に眠る核・生物兵器など「冷戦の置き土産」だった。頭脳や原材料・機材の流出を阻止すべく、米ではある「秘密作戦」が進行していた。「核兵器のない世界」は実現できるのか? 冷戦の「負の遺産」を清算できるのか? 20世紀の冷戦における軍拡競争、核・生物兵器をめぐる諸事件を、米ソ・国際政治の動向から、人物の心理や言動まで精細に描く。
とあります。上下本と読み応えバッチリですが、読書欄の記事に関心を持たれた方には是非一読していただきたい本です。
スナックからバーへ、バーからスナックへ
12月に刊行予定の『バー「サンボア」の百年』ですが、書店の方に案内すると、サンボアの名前を知っている方も関西ではちょこちょこいらっしゃいます。そして、その時に引き合いに出されるのが池波正太郎の名前。
堺町通り三条下ルところにあるコーヒー店〔イノダ〕のコーヒーをのまなければ、
「ぼくの一日は始まらない」
という人がいるかとおもうと、
「サンボアで一杯のまぬうちは、おれの一日が終らぬ」
という人もいる。
三条に近い寺町通りの東側の、モルタル造りの小さな民家に〔KYOTO SAMBOA BAR ESTABLISHED 1918〕と記した、淡いブルウの電気看板が軒先へ横たわっているだけの、いかにも誇りにみちた酒場である。
〔サンボア〕は、京都で、もっとも古い酒場の一つであって、立飲台へ出されるウイスキーも、カクテルでさえも、きびきびとした中年の主人の、小柄だが精悍な風貌に似つかわしい、男っぽい味がしてこようというものだ。
店に、女はひとりもいない。
しかし、むかしは男だけのものだったこの店へも、近年は女の客が多くなった。
それでいて、おしゃべりもせずに、女客たちはしずかにのんでいる。これはやはり、この店の男のムードに圧されるのであろう。
たとえば京都へ来て、夕飯を四条通りの万養軒に決めたとすると、そこへ行く道すじに〔サンボア〕があるというのは、うってつけのことなのだ。
〔サンボア〕で、ベルノーの水割りか、ドライ・マティーニのオン・ザ・ロックなどを軽くやってから飯を食べに行き、その帰りにもまた、ちょいと〔サンボア〕へ立ち寄る。
男だけが行く酒場である。
女がのむなら、ちかごろ流行の〔スナック〕とやらがよい。
この店に、女は似合わぬ。
〔サンボア〕も〔イノダ〕と同様に、諸方へ支店が出来たけれども、京都の男たちは、この古びた本店のムードをなつかしがり、やはり、
「サンボアは、本店でなくては……」
と、いう。
この店の先代は、むかし、神戸で洋酒の輸入業をしていたとかで、創業は、看板にもあるように大正七年である。
この引用は、新潮文庫版『散歩のとき何か食べたくなって』の95頁以下の文章です。
池波正太郎と聞くと「江戸の食」というイメージが強くて、東京ではなく京都、それも和食ではなくバーにまで通っていたとは、ちょっと驚きですが、それはあたしの知識が少ないからでしょう(汗)。
それにしても、あたしの勤務先から刊行し、現在ヒットしている『日本の夜の公共圏 スナック研究序説』という本がありますが、この著者であるスナック研究会の面々は、当然、この池波正太郎の言葉を知っていることでしょう。バーに対してスナックをちょっと下に見ている感じを受けますね。実際のところ、世間の目も、バーとスナックではバーの方を格上に見ているものなのでしょうか。酒飲みではないあたしにはよくわかりません。
ただ、もし池波正太郎が存命で、『日本の夜の公共圏』を読んだら、どんな感想を抱くのか、ちょっと聞いてみたいところです。
営業マンはコートを脱ぐべきなのか?
寒くなってきましたね。昼間は、晴れているとポカポカして気持ちもよいのですが、夕方になると途端に冷えてくる季節です。太陽が弱々しく、ましてや曇っていたりすると本当に寒いです。たぶん、これからは晴れていても寒い日が多くなるのでしょう。
そんな寒い日、必需品は防寒具です。ヒートテックはユニクロ以外からも類似の商品が発売されていますが、試してみた限り、あたしはそれほど温かさ、保温性を感じられません。これは夏のエアリズムについても言えます。とにかく冬の寒さには厚着、重ね着が一番ではないでしょうか?
で、防寒具と言えばコートです。朝は6時ころに家を出るので、夏はまだ暑くなる前でよいのですが、冬のこの時季は暗くて寒くてイヤになります。だったらもっと遅く出ればいいじゃない、と言われそうですが、中央線の混雑がもっとイヤで、それにもともと朝型人間なので、この生活のリズムが身についてしまっています。
そんな時間の外気温、ちょうど一日で一番気温が下がる時間帯です。一日の最低気温が計測されるのは決まってそんな時間だったりします。ですからとても寒いです。コートが手放せません。
しかし、コートって営業マンには邪魔なものの一番手、最右翼です。ただ単に、訪問先の会議室などに通されて商談をするような営業であれば、コートを脱いで小脇に抱え、席に着いたら背もたれに掛けるなり、コート掛けを借りるなりできます。しかし、あたしのように書店店頭を次から次へと回る営業ですと、そういうわけにもいきません。
書店に入る前に脱ぎ、書店を出るときに着る、そんな面倒なことを繰り返すことになります。いや、コートの脱ぎ着は面倒ではありません。店内は暑かったり、外は寒かったりするので、コートを脱いだり着たりするのは構いません。問題は書店で、脱いだコートをどうするかです。
われわれの営業は、バックルームなどで行なわれることは稀です。ましてや書店には会議室なんて、ほとんどのお店にないでしょう。結局、店頭で、棚の前で立ち話を数分から数十分繰り広げるのがいつものパターンです。それだけならよいのですが、重いカバンから注文書などを出したり仕舞ったり。棚のチェックを頼まれたりした場合には、重いカバンと小脇のコートを抱えて作業をしなければなりません。それが面倒というか、コートが邪魔で仕方ありません。
いっそのことコートを着たままではいけないものか、と思います。店内は暖房がそれなりに効いていて、ましてや棚チェックのような作業をする場合には、こちらも暑くなりますからコートを脱ぎたくなることもありますが、それでも汗だくになるほどではないですし、脱いだコートを持っていなくてはならない方がイヤです。だから、コートを着たままでも許してもらえないかと思うのです。
しかし、営業たるもの、相手のところへ行ったら外套は脱ぐ、というのがサラリーマン世界の不文律です。こちらだって、上に書いたようにそれなりの部屋に通される営業であればもちろん脱ぎますが、半分外のような書店店頭なら着たままでもいいのではないか、と思うのです。
なので、かなり状況が異なるとはいえ、テレビの刑事ドラマで刑事たちが聞き込みをするときにどこへ行ってもコートを脱がずにいるのを見ると羨ましくなります。ああいう刑事たちも、ドラマの中だけかも知れませんが、被害者の家に上がるときはコートは脱いでいたと思いますので、営業マンもそのくらいでよいのではないかと思うのです。
しかし、コートも脱がずに店頭で仕事をしたりしたら、書店の人からは「この営業マンは社会人の常識もないやつだ、マナーってものをわかってない」と思われてしまうのでしょうか? だからでしょうか? 知り合いの営業マンを見ていると冬でもコートを着ていない人っていますね。その代わり、ヒートテックだったり、背広の上着の下にカーディガンやベストなどを着込んでいるようです。背広の上着は脱がなくてもよいので(逆に暑い夏場でも上着を脱いではいけないという逆のマナーも依然根強かったりします)、少なくともコートを小脇に抱えて、という面倒はなくなります。
しかし、カーディガンやベストは脱いだり着たりがしづらくなりますので、こんどは昼下がりの電車の中が異常に暑く感じられたりするものです。汗をかいたり寒かったり、風邪も引きやすくなるわけです。結局、コートもできるだけコンパクトにたためる、丸められる素材、形のものを選ぶようになります。間違っても、上の写真のようなコートを着て営業なんてできません。
いえ、あたしはしたことあるのですが……(汗)
日韓の非対称が少しでも緩和されれば……
既にSNSでたくさんの写真と共に話題になっていますが、昨晩は神保町で韓国の作家パク・ミンギュさんのトークイベントでした。
パク・ミンギュ作家のトークイベント@東京、始まりました!#パク・ミンギュ #三美スーパースターズ最後のファンクラブ #ピンポン #亡き王女のためのパヴァーヌ #カステラ pic.twitter.com/hGv0RThMZy
— 韓国文学翻訳院 (@ltikorea_japan) 2017年11月17日
いやー、実に面白いお話でした。パク・ミンギュさん、昨晩集まった方はパクさんのファン、作品のファンの方ばかりでしょうから、そもそもパクさんの写真などは事前に見たことがあったと思います。既にその写真からしてインパクトがありますが、いざご本人登場となると、やはりその風貌は抜群のインパクトです。
『ピンポン』『カステラ』のパク・ミンギュさんのお話、すごく面白かった。学校に行くとまず自分の机と椅子を倉庫に隠して裏山に逃げていた。「机と椅子がなければ生徒がいないことにも気づかれないから」(そのあとめちゃめちゃ殴られた) pic.twitter.com/4yjh81UiEt
— 岸本佐知子 (@karyobinga) 2017年11月17日
ただし、だからといって、風貌からイメージされるようなとんがった物腰でもなければ、エキセントリックな語り口でもなく、ご本人は至ってシャイ、訥々と語る姿、やや聞き取りにくいボソボソとした声が印象的でした。
集まりやすさを考慮しての19時スタートは理解できるとはいえ、トークが1時間では実にもったいないところでした。しかし会場からの質問にも丁寧に答えてくれて、実質1時間半ほどのトークタイムだったのでは? その後はサイン会。
来場者のほぼ全員が並ぶサイン会というのも滅多にないものですね。会場は100名弱の人数でしたから、サイン会も時間がかかりました。借りている会場の都合もあるので、急遽サインは一人一冊まで、為書きは省略というスタイルに。
にもかかわらず、パクさんは一人一人に丁寧に立ち上がってお辞儀をし、終わると握手をしてくださるサービスぶり。シャイだけど、一生懸命応えてくれようとしている姿に感動です。
昨晩のイベントは、当然パクさんの来日というスケジュールがありましたから、ずいぶん前から決まっていて、それに間に合わせるように晶文社から『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』という新刊も刊行されました。しかし、その前日、こんな偶然が重なるものかというタイミングで、テレビの人気番組「アメトーク!」でタレントの光浦靖子さんが『ピンポン』をお気に入りの本として番組内で熱く語ってくれていたのでした。もちろん『ピンポン』は注文殺到、重版中です。
そして遡ること2年前、3年前でしたでしょうか? 第一回日本翻訳大賞をやはりパクさんの『カステラ』が受賞していましたので、寄せては返す波のようにパク・ミンギュさんが注目される機会が訪れています。もちろん『亡き王女のためのパヴァーヌ』も根強い人気がある作品です。
聞くところによると、韓国で紹介される日本作家の作品の量を100とすると、日本で紹介される韓国の作品は10なんだそうです。反日だ嫌日だといろいろマスコミなどでは言われていますが、そんなに多くの日本文学を韓国の人が読んでいるというのは驚きです。その逆に日本人は……
海外文学を読むのはその国のこと、その国の人のことを知るよい方法だと言われますし、あたしもそう思いますが、隣同士の日韓にこれほどの非対称があるとは!
【フェア情報】ブックファースト京都店さんで【韓国文学の棚】を展開してくださっています。ご覧ください、この品揃え!!リアル書店版『ちぇっくCHECK』のようです。お近くの方、この秋京都に行く方、このために京都に行こうかなという方もぜひ!(いとう) pic.twitter.com/CDQR8r5Zxl
— クオン (@CUON_CUON) 2017年10月4日
しかし、このところ気づいている人は気づいているようですが、書店店頭で韓国文学を見かけることが多くなってきました。一昔前は韓流ドラマのノベライズばかりだった棚やコーナーが、パク・ミンギュさんをはじめとした韓国の作家の方々の翻訳で埋まりつつある、そんな日が来るとは。それが韓国文学好きの方の感慨だそうです。
これまでずっと「海外文学は売れない、特にアジア文学は売れない」と言われてきましたし、確かにそれは事実でしたが、ここ数年に限って言えば、そうではない事実も積み上がってきています。アジア文学は売れるし、それ以上に面白いんだ、ということがもっともっと伝わればよいなあと思います。
ただ「アメトーク!」で光浦さんが紹介していたように、別に韓国文学だと意識する必要はないのかも知れません。そこにあるのは、ただ単に面白い小説、人に薦めたくなるような文学なのかも知れません。むしろ、アジア文学だとか、そういう風にこちらが肩肘張って刊行しているようではダメなのかも知れない、とも感じます。