『君たちはどう生きるか』から何も学ばなかったみたい……

映画化もされるということで話題になっている『君たちはどう生きるか』ですが、現在は岩波文庫以外からも刊行されているし、漫画も出ているのですね。最近、書店店頭でよく見かけます。

 

それでもあたしにとっては馴染み深いのは岩波文庫版です。あたしも高校の頃に読みました。いや、正確に言うのであれば「読みました」ではなく「読まされた」です。

どういうことかと言いますと、あたしが高校へ入る前、入学の手続きを終えた後、高校からの指定で入学までに『君たちはどう生きるか』を読んで感想文を書いていかなければならなかったのです。感想文は入学式後のホームルームか、最初の国語(現代文?)の授業で提出させられたのではないかと思います。

そういう理由で読んだわけですが、どんな感想を持ったかと言えば、説教臭くてウンザリ、というものでした。もちろん、こういった作品が名作と呼ばれ、読み継がれていくんだな、ということは理解できましたが、なんか善人面したおじさんとか、正義感の塊を装いたいような主人公がどうも好きになれませんでした。

そのころ、既に小中学校でクラスやクラスメートに馴染めず、軽いいじめられっ子だったあたしは高校生活にもそれほどの期待を抱いておらず、韓非子とかマキャベリにのめり込んでいるような中学生(高校生?)でしたから、本書の世界は唾棄すべきものと感じられたものでした。

なによりも、お父さんに頼まれたのか知りませんが、叔父さんがうるさくて、うざったくて、とにかく煩わしかったのを覚えています。自分にはこんなうるさい叔父さんがいなくてよかったと、心底思ったものです。

が、因果は巡ると言うのでしょうか、ここまで聖人君子面はしていないつもりですが、妹のところの姪っ子、甥っ子に対しては、ややうるさい存在になっているような気がします。いろいろと本を送っては、「これを読め、あれを読め」と偉そうに、説教はしていませんが、なにかにつけて口を出しているような気がします。

ああ、これでは自分が高校生のころに嫌悪した、あの「叔父さん」と同じではないですか! これはいけませんね。この機会に、自戒をこめて……。

母の故郷であって、あたしの故郷とは呼べませんが……

本日は休暇を取りました。

数年前から血圧が高めなので(←もう歳だということですね!)、毎月近所の内科に通っています。それだけなら明日の土曜の午前中でもよいのですが、母親に保険の手続きに郵便局へ行けと言われ、そうなると平日でないとダメなので、だったら、いっそのこと毎年12月に行っている墓参りも済ませてしまえということで、思いきって休暇を取り、四連休としたわけです。

さて、朝一番で病院へ。郵便局はその隣にあるのですが、母の話をよくよく聞くと、別に保険の契約更新というわけでないようです。郵便局の人に薦められて契約するかということになったみたいなので、これは却下。保険なんていくつも入る必要はないし、掛け金なんて払っている余裕、わが家にはありませんから!

その後、墓参りへ。

わが家のお寺さんは都心の方にあります。お寺に墓地もあります。地下鉄銀座線の外苑前駅から少し歩いたところです。年に一回か二回くらいしかお参りに来ませんが、それでも必ず毎年来るようにはしています。父と父方の祖父母、それに幼くして亡くなった父の兄が入っているお墓です。

この後は、母が入り、あたしが入って、あたしはこのままだと結婚もできなければ子供を持つことも出来なさそうなので、わが家は墓守がいなくなります。このお墓、どうしましょう? 永代供養でもしますかね?

閑話休題。

今日、休暇を取って墓参りに出かけたのは、原宿に用事があったからでもあります。原宿には、表参道ヒルズのすぐ裏になりますが、新潟館ネスパスという施設がありまして、東京における新潟県のアンテナショップです。そこで昨日から「牧の恵み」という催しが行なわれているのですが、ここへ行くのが本日のメインのようなものでした。

この催事のタイトルの「牧」というのは、上越市の牧区、つまり母の故郷なのであります。もちろん、母が暮らしていたころは上越市ではなく「牧村」と呼ばれていましたが……。そんな牧村の物産を展示即売していました。

そして、買い物の後にネスパスの地下にある食堂「新潟食楽園」で昼食。いただいたのは下の写真、「塩引き鮭と蒸し海老・すじこの海鮮チラシ」です。「米どころ、新潟なのにご飯が美味しくない」と、食通でもないくせに米にだけはうるさい母は文句を言っていましたが、あたしは美味しくいただきました。手前左のおからがほどよい味加減で美味しかったですし、もちろんちらし寿司もボリューミーでした。

食後は、表参道から地下鉄で一駅、渋谷へ出て、井の頭線、中央線と乗り継いで帰宅しました。その前に表参道では桃林堂小鯛焼栗蒸羊羹を買ってみました。

で、上の写真がネスパスでの戦利品。最近売り出し中のお米「新之助」といつものどぶろく、そして草団子です。新之助、美味しいのでしょうか? 楽しみです。

あの場所はインスタ映えするのかしら?

加藤ナナのTwitter欅坂46のべりかこと、渡辺梨加が載っていました。

それが上の画像ですが、この写真の中の一枚、御茶の水のアテネ・フランセの前ですよね? アテネ・フランセと言えば、乃木坂46のCDのジャケットでも最近使われていましたね?

あのピンクの壁と、アルファベットの壁の模様が背景としてよいのでしょうか? いわゆるインスタ映え、ってやつでしょうか? それにしても、この前はしょっちゅう通ります。時々撮影らしき集団を見かけることもあります。こんどからはもっとしっかり観察しなければ!

金融危機はまた起こる?

今朝の朝日新聞の社説です。

 

金融危機と聞いても、あたしのような庶民には別世界の話のように感じられます。株価の変動で一喜一憂する人もいるようですが、株なんて一つも持っていない身には、全く無関係なことに感じられます。

が、社会って繋がっていて、株などで儲けた人がお金を使うことによって景気の循環が生まれ、われわれ庶民にもおこぼれが回ってくるということなのでしょう。腑に落ちませんが、現在の資本主義社会はそうなっているみたいです。

というわけで、朝日新聞の社説を読んだら、『金融危機はまた起こる』なんて本が気になってくるのではないでしょうか?

今日の配本(17/11/24)

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。

個人としては賛成ですが……

改めて今朝の朝日新聞に載りました。

例の文春文庫と図書館の件です。

正直なところ、この十年くらいでしょうか、電車の中で、図書館で借りた文庫や新書を読む人が増えたなあと感じます。それまでも単行本は、図書館のラベルが貼ってある本を読んでいる人がしばしば見かけたものですが、文庫や新書はほとんど見かけることはありませんでした。それが、この十年くらいは文庫や新書でも図書館のラベルが貼ってある本を読んでいる人が確実に増えたと感じます。

しかし、それ以上に、電車内で本を読む人が減ったと思います。かつては、ジャンプなどの発売日には電車の中で読んでいる人がたくさんいて、そんな光景から「今日はジャンプの発売日か」とか、「○○が発売だから今日は○曜日か」と思ったりしたものです。そんな光景も今は昔。

さて、この文藝春秋社長の提起。

あたし個人としては、やや値段の高い単行本は仕方ないとしても、文庫や新書くらいは買いましょう、買ってよ、と思います。もちろん本に接する機会が増え、その結果「やはり欲しくなったから、手元に置いておきたくなったから買おう」と思う人が増える、という理屈もわかります。逆に、文庫・新書を図書館で扱わなくなったら、買う人が増えるよりも、読みも買いもしない人が増えるだけという理屈も理解できます。どちらも例外的な人もいるでしょうが、昨今の不景気では、借りてでも本に接してくれる人が増えるのはよいことだと思いますが、肝心の図書館の利用率や貸出率がこの十年くらいでどれくらい上がっているのか……

一つの方法として、文庫や新書は館外貸し出し禁止にするというのはアリだと思います。館内でパラッと見てもらって、気に入ったら買ってもらう、ということです。そういう意味で、図書館と書店を併設するツタヤのやり方は巧いのかも知れません。

いま、「パラッと見てもらって」と書きましたが、単行本でも1時間や2時間もあれば読み終わってしまいそうなものもあれば、文庫や新書でも文字がぎっしり詰まっていて、読むのにも理解するのにも時間のかかるものがありますので、実は、単純に形状だけで分けてよいものか、とも思います。

記事ではキングコングの西野がコメントしていますが、彼のような知名度があり、それなりにアピールできるし、マスコミも取り上げてくれる人と、ほとんど知られていない作家(たぶん、大部分の作家はそうでしょう)を同じ土俵で論じるのはどうかとも思います。そもそも本屋でたくさん売れていれば、図書館での貸し出しが多くても、出版者は痛くも痒くもない、気にならなかったのでしょうが……

二十代を思い出す?

今朝の朝日新聞に載っていた記事です。冷泉家時雨亭叢書が完結したそうです。

と言われても、それって何? という人がほとんどかも知れません。

まあ、本屋さんに並んでいるのをほとんど見たことありませんからね。たぶん紀伊國屋書店やジュンク堂書店でも店頭には置いていないのではないでしょうか? それとも、これは完全に予約販売で、注文のあった人にだけ販売しているのでしょうか?

図書館でも、文系の大学図書館は置いているのではないかと思いますが、公立だと県立図書館クラスでないと所蔵していないと思います。

ただ、あたしの場合、非常に懐かしいです。

別に時雨亭叢書に含まれる典籍を学生時代の研究で使っていたわけではありません。二十代のころ作業のお手伝いをしていた小松茂美先生のお宅に、配本のたびにこの叢書が届いていたことを思い出したのです。

当時はまだ、この叢書の刊行が始まって間もないころ、あたしが手伝いをしていたとき、その時点で刊行されていたのは20点になるかならないか、くらいだったと記憶しています。

それでも、あの冷泉家の文書か、それがこういう形で気軽に見られるようになるなんて、と少し興奮しながら、函から出して眺めた記憶があります。

そんなこんなが思い出されるシリーズです。

よくわからないけど面白い?

勤労感謝の日の本日、午前中のラジオ文化放送に谷口功一さんが出演されていました。

スナックについて、まだまだわからないことが多いようですね。こりゃ、第二弾、第三弾の『日本の夜の公共圏』を出さないとなりませんね。

しかし、そうなると「研究序説」ではなくなってくるのでしょうか?

見間違えてしまうほど似ている!

最近、店頭で比較的よく見かける本に『台湾人の歌舞伎町』があります。なんとなく気になっているのですが、買おうか買うまいか思案中です。

 

歌舞伎町はともかく、台湾というのが中国好きの琴線に触れるのかと思いきや、もちろんそれもありますが、この本にどことなく親近感を抱いてしまう理由がわかりました。『娯楽番組を創った男』です。

えっ、この本がどうしたのかって? たぶん、この画像を見ただけではピンと来ないかも知れませんが、実際に両書を店頭で見ていただければわかっていただけるのではないでしょうか? この二冊、実によく似ているのです。もちろん内容ではありません、見た目です。それも表紙と言うよりも、棚に挿してあるときに見える背が実によく似ています。

内容的には似ているわけではありませんので、読者が重なるとも思えませんが、なんとなく気になってしまう理由が、自分の勤務先で出している本と見た目が似ているからだというのは、出版社に勤めている人間ならありがちなことではないでしょうか?

白黒写真に黄色のタイトル文字、帯も黄色。それだけなら他にもありそうですが、タイトルの書体、明朝体ですが、これもどことなく似ていますね。

一緒に並んでいるのかしら?

店頭でこんな本を見かけました。

書肆心水の『ベルクソン『物質と記憶』を診断する』です。まだ刊行から一か月も経っていない新刊ですね。

で、研究者なら原語で読んでしまうのでしょうが、一般読者は原典に当たろうと思ったら翻訳を探すことになるわけです。しかし翻訳原典が品切れで手に入らないということもままあるのが悲しいところです。

 

しかし幸いなことに、本書に関しては「岩波文庫」版と「白水社・新訳ベルクソン全集」版の二種類が入手可能なようです。