キャンパスから外へ出たらいけないの?

クリスティ」を視聴。ちなみにタイトルの原題は「KRISTY」で語頭は「ch」ではなく「k」なんですね。こんな単語、あるのでしょうか?

簡単にストーリーを紹介しますと、謎のアンチ・キリストなカルト集団がいて、彼らは清い心を持った女子大生(大学生以外もターゲットなのかは不明)をキリストの力を助ける者「クリスティ」と名づけ、彼女たちを殺すことによってキリストの復活を阻止しようとしている集団のようです。女子大生の行方不明事件が全米で頻発しているとのニュース映像が冒頭では繰り返し流れます。

さて、その一方、本作の主人公ジャスティンは復活祭の休暇も大学の寮に一人残ることになりますが、アイスを買いに外へ出たスーパーで狩ると集団の女ボスに見つかります。そして寮に戻った彼女を追ってカルト集団が大学構内に侵入し、警備員を血祭りに上げ、ジャスティンの命を狙って襲いかかります。誰もいない大学で一人、カルト集団(女ボスの他に男が3名?)との闘いが始まります。最初は逃げるだけのジャスティンでしたが、一人と聞いて戻ってきた彼氏が目の前でカルト集団に殺されたところからスイッチが入り逆襲に転じます。

この手の映画ですから、最後はジャスティンが全員を倒してジ・エンド、あるいは一人くらい討ち漏らしたのがいてパート2へ続く的な結末を迎えるものですが、案の定、ジャスティンが見事にカルト集団を倒します。ジャスティンが倒した連中の携帯電話から全米に広がるカルト集団のネットワークが明るみになり、次々と逮捕されていくというニュースでエンディングなのですが、それでも根絶はできず、新たな女子大生が襲われるシーンで幕を閉じます。この女子大生を襲ったのがジャスティンだったのか否か、映像ではちょっとわかりにくかったのですが、劇中「あたしはジャスティン、クリスティなんかじゃない」と叫んでいたジャスティンが、カルト集団を倒した後に「ジャスティンは死んだ、あたしはクリスティ」とつぶやくところがなんとも意味深です。ただ、クリスティを名乗ったらカルト集団に狙われるだけ。逆に彼女は一匹狼としてカルト集団を狩る側に回ったのでしょうか?

それにしても、こういうのをシチュエーション・ホラーって呼ぶのかも知れませんが、閉じ込められた空間での攻防ならわかりますが、広々とした大学のキャンパスが舞台です。鍵をかけられて寮の建物から出られないわけでもなく、ジャスティンはプールや図書館や立体駐車場などあちこちへと逃げ回ります。だったら、キャンパスの外へ逃げてしまった方がよくはないでしょうか? 最初こそ安全な室内とかに逃げ込んでケータイで助けを呼ぶというのは理解できますが、それが出来なくなった以上は外へ逃げるのが合理的だと思いますが。それに敵は4人ですから、キャンパスから出てしまえば、とてもジャスティンを探しきれなかったと思うのですが。それとも、アメリカの大学は郊外にあって、キャンパスから出ても町や人のいるところまでは数キロも離れているのでしょうか?

さて、どうでもよいことかも知れませんが、否、この手の映画ではもっとも肝心なことかも知れませんが、主人公のジャスティン、ネイリー・ベネットという女優さんのようですが、あたし、この手の顔立ち、好きです。

最後にやられるのではなく、最後まで生き残るという意味だったのね

「ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ」を視聴。もう少し怖い映画かと思ったら意外とセンチメンタルな作品でした。

簡単にストーリーを紹介しますと、主人公マックスは冴えない映画女優の母と二人暮らしだったものの三年前に交通事故で母を失いこころに傷を負ったまま学生生活を送っています。そんなとき、マックスの母親もちょい役で出演していたカルト的人気を博すホラー映画の上映会があり、マックスも出演者の娘ということで参加を要請され、いやいやながら見に行きます。スクリーンの中で久しぶりに動く母親を目にするマックス、その刹那、映画館が火事になりマックスと友人らは避難するも気づくと映画の中に入り込んでしまっていました。そこで母と再会しマックスは喜ぶものの、映画の通りに進行していくと母親はいずれ殺人鬼ビリーに殺されてしまうわけです。なんとか母親を救いたいと思うものの、映画の通りに事態を進んで行き、マックスたちも映画の世界から抜け出す方法がわからず、一人死に二人死に……

信じるか信じないかはともかく、マックスたちは映画の中の人々に事態を告げ力を合わせてビリーを倒そうとすします。しかし、映画とは殺される順番や殺され方が多少異なるものの次々と餌食になっていきます。マックスは母を助けられるのか、そして元の世界に戻れるのか。

本作で取り上げられているホラー映画は完全に「13日の金曜日」です。マックスの友人の一人で上映会を企画した男性などはセリフまですべて頭に入っているほどのマニアです。そんな「13金」ファンには懐かしく楽しい、それほどホラー的な怖さを感じさせない映画です。映画の中に入り込んでしまったという設定なので、主人公たちは、たとえ殺されても最後は夢でした的なことになってみんな無事なんでしょ、という予感もするのですが、意外や意外、彼らも殺人鬼の餌食になってしまいます。そして映画の中では早々に殺されてしまうはずのチョイ役であるマックスの母が生き延びますが、マックスを助けるために殺人鬼に挑み、最後はマックスが映画のように殺人鬼を倒して終わります。

そしてマックスが気づくと病院のベッド。友人たちも同じ病室にいて生きています。ビリーに殺されたかに見えたものの、致命傷までは行かず、なんとか全員一命は取り留めたようです。夢だったのか本当だったのか、とにかく無事に現実世界に戻ってこられたと思ったのも束の間、倒したはずのビリーが再び現われます。「人気映画には続きがある」というセリフと共に、彼らはこんどはパート2の映画の世界の中に迷い込んでいたというオチ。

カルト的人気のホラー映画の中に入り込んでしまうというアイデアはなかなか秀逸だと思います。入り込んだ現代人は映画のストーリーも結末も知っているわけですから、傍観者として見ていれば殺人鬼に殺されることはない、という割り切りもできます。しかし、そこに死んだ母親がいるという設定を絡めることで、入り込んだ現代人たちも映画のストーリーに巻き込まれていく必然性を与えています。そして母との二度目の別れとなる切なさ。怖がらせたいのか泣かせたいのか、わかりませんね。

それにしても「13金」だったらジェイソンがホッケーマスクをかぶっているわけですが、本作ではビリーが自作の面を付けています。そのお面がどこかの遺跡から掘り出されたお面みたいで滑稽です。そもそもビリーの体や頭部の大きさと全然合ってないし。

何を以て悪魔の仕業と見なすのか?

死霊館 エンフィールド事件」を視聴。

死霊館」「アナベル 死霊館の人形」と続く三作目ですね。もちろんあたしは、前二作も視聴しています。ただし「アナベル」は「死霊館」の前日譚になるので、時系列的には「アナベル」「死霊館」「エンフィールド」となるのでしょうか? いずれにせよ本シリーズは、ウォーレン夫妻が関わった数々の心霊事件から選りすぐりのエピソードを映画化したものというふれこみで、すべてが実話なんだそうです。

  

さて本作の舞台はロンドン。夫と離婚して子供四人を抱え苦労している一家。その家でおかしな現象が起こります。特に次女・ジャネットの身の回りでポルターガイスト現象とおぼしきことが起こります。かなりの目撃者もいて記録も残っているそうですが、本編ではテレビクルーなども来て取材を試みます。実際に衆人環視の下ポルターガイスト現象は起きるのですが、最後はジャネットの自作自演ということで巻き引きになりかけます。

が、帰りの列車に乗り込んだウォーレン夫妻の荷物から記録テープが落ち、それを見たエドが何かを悟り、夫妻は再びエンフィールドへ戻ります。実は本当の悪魔は手下を使ってジャネットを脅かしているだけで正体を現わさず、ウォーレン夫妻が屋敷から出て行くのを待っていたという次第。戻ってきた夫妻と本当の悪魔との闘いがクライマックスで、最後はこの手の映画ですから悪魔が退治されてジャネットら家族にも平穏な生活が訪れてジ・エンドです。

 

さて、本作は上にも書いたようにジャネットのいたずらという結末で終わりそうになるシーンがあります。もちろん映画としてはそうではなく、そこから真打ち、本物の悪魔登場ということになりますが、果たして悪魔の仕業であると誰が証明できるのでしょうか? 映像としては造形されますが、それはあくまでジャネットなりウォーレン夫妻なりが見ただけであって、他の人の目に映ったわけではありません。となると、そんな恐ろしいものがそこにいるとどうやって証明するのか。

まあ、それを言ってしまったら、あらゆる悪魔モノの映画はその前提が崩れてしまうのでしょうけど……

ところで、ジャネット役の子、映画の中では割と可愛らしい子でしたね。おかっぱヘアがちょっと広瀬すずっぽく見えるときもあって、なかなかよかったと思います。ただし、グーグルで役者名をググってみると、かなりイメージの異なる画像がヒットします。その違いの方がよっぽど怖いです(汗)。

営業たるもの、自社の商品についてきちんと理解していないと?

昨日が見本出しだった新刊の『続・寂聴伝』ですが、副題として「拈華微笑」という四文字が付いています。

と、その前に前著について少々。

前著は、タイトルもそのものズバリ『寂聴伝』ですが、こちらはあたしの勤務先から単行本が出た後、数年後に小学館文庫として生まれ変わりました。まあ、よくある「文庫化」というものです。

しかし今回、「続」が出るという段階で小学館文庫の『寂聴伝』はなんと品切れ! それに対し、文庫版が出た後も細々と在庫を維持していた単行本の方はまだ在庫ありです。この機会に寂聴さんの人生を読んでみようという方、ちょっと分厚くてお高いと感じるかも知れませんが、それだけ読みごたえのある二冊ですので、是非どうぞ。

さて、最初に書いた「拈華微笑」です。

そもそも、この四文字、読めますか? スラッと読める人は少ないでしょうね。「ねんげみしょう」と読みます。

では、意味は?

これも、知っている人は少ないでしょう。と言うよりも、知っている人なんてほとんどいないのではないでしょうか? とりあえずお手軽なウィキペディアで調べてみますと

インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという。

とあります。まあ、寂聴さんだし、仏教に関わる故事から生まれた四字熟語だろうというのは予想できた方も多いと思いますが、上掲のようなことに由来する言葉です。

で、自慢するわけではありませんが、否、これはちょっとくらいは自慢してもいいでしょうか、あたし、この来歴、知っていました。「迦葉(か・しょう)」の名前こそ思い出せませんでしたが、釈迦がお花を手に示したら微笑んで理解できていることを示した弟子が一人だけいた、といった故事を知っていたのです。

なんでそんなこと知っていたの? と問われますと、学生時代、今は亡き小松茂美先生の仕事のお手伝いをしていた時期がありまして、その時に仏教書などに触れる機会が多々あり、このエピソードを知ったのです。たぶん『無門関』あたりに出ていたのではなかったか、そんなうろ覚えですが、とにかくこのエピソードは覚えていました。

学問というのはどこで役に立つかわかりませんね。

さあ、夏場所です!

日曜日から大相撲の夏場所が始まります。

稀勢の里人気もあって、書店店頭でも相撲本フェアを設けているところがあるようです。こうしてみると、相撲関連書籍って思いのほか多いのですね。

で、あたしの勤務先からも相撲本、出しています。『土俵の群像』と『土俵の周辺』です。

 

写真がふんだんに載っているグラフィックなものや新書、文庫が並んでいるフェアがほとんどですが、こういう玄人好みの本もお忘れなく。

本が売れそうなニュースを強引に探す?

昨日はメイドの日だったそうです。ただ、どうも由緒正しい来歴がある記念日わけではなさそうです(汗)。ただ、NHKで「ダウントン・アビー」最終シーズン(シーズン6)の放送が始まりましたので、またメイドや貴族社会には注目が集まるはずです。

というわけで、あたしの勤務先の上掲3点、左から『おだまり、ローズ』『執事とメイドの裏表』『わたしはこうして執事になった』がお薦めです。書店の皆さま、再びフェアやミニ・コーナーを作ってみてはいかがでしょう?

そして、下は今朝の朝日新聞。ラグビーW杯の組み合わせ抽選会が行なわれたというニュース。日本はアイルランドやスコットランドと同じ組だそうです。

となれば、選手やスタッフの皆さんには『ニューエクスプレス アイルランド語』『ニューエクスプレス イギリス英語』がお薦めです。言葉がわかれば、試合中に相手の選手たちがどんなことを言っているかがわかります。そうなれば試合運びがかなり有利になると思います。

 

ちなみに後者は、「ダウントン・アビー」の世界を堪能するにもうってつけだと思います。

テーマカラーはレインボー

紀伊國屋書店新宿本店でやっている「LGBTを知る100冊」フェアです。

 

知らなかったのですが、5月にいろいろと催しがあったのですね。テーマカラーが虹色なのは赤は女性、青は男性をイメージさせるので、どちらでもない、いろんな色があってもよい、という含意があるのだとか。

LGBT、あたしはよく知りません。特にこれといって興味があるわけでもなければ、そういう趣味や性向でもありません。あたし自身は至ってノーマルな人間だと思っているので、正直に言ってしまえばLGBTについてはよく理解できないところもあれば、詳しく知ろうという興味があるわけでもありません。

ただ、社会でそれなりに話題になっているわけですから、もう少し正確に自分の考えを述べるならば、まだ共感できるところまでは行ってないけれど必要最低限の知識は備えておきたい、といったところです。そういうわけで少し前にちくま新書の『LGBTを読みとく』を読んでみたりしたのですが、やはりまだまだ半可通です。

さて、同フェア、お店の方に伺うと、昨年はものすごく話題になったそうですが、今年はそれに比べるとやや落ち着いている、とのことです。それってフェアが盛り上がっていないということかも知れませんが、逆に考えると、それだけ「LGBT」がフツーのことになったということではないでしょうか?

LGBTって何、なんか気持ち悪い、ヘンタイ、といった見方がつい少し前までは多くの日本人の主流だったのではないかと思います。だからこそ、LGBTといったものを標榜したフェアが好奇の目で見られ話題にもなったのと思うのです。落ち着いてきたということは、それだけLGBTが市民権を得た、いや少なくともLGBTという言葉が市民権を得つつある、ということなのではないでしょうか? あたしはそう思います。

このフェアは3階の人文書売り場でやっています。部外者が無責任なことを言うようですが、もし来年もやるのであれば、1階の表のワゴンでやってもよいのではないかな、そんな気もします。

ちなみに、このフェアにはあたしの勤務先からは海外小説『オレンジだけが果物じゃない』が並んでいます。著者のジャネット・ウィンターソン自身がレズビアンだから選ばれたのでしょう。

新訳が出た!

昨日の朝日新聞の広告です。

新潮社から『美味礼讃』の新訳が出るそうです。同書、もともとは、ご覧のように、あたしの勤務先から出ていたもので、現在は岩波文庫になっています。

岩波文庫版は、刊行時に訳文にも少し手を入れて出したようですが、一番目立つ違いは書名の「礼賛」が「礼讃」になっているところでしょうか?

 

今回の新潮社版も「礼讃」ですね。

ジョーズをいかにして超えるか?

ビーチ・シャーク」を視聴(ちなみに原題は「サンド・シャーク」、字幕でも「砂ザメ」と呼ばれてます)。

 

いやー、B級どころではないですね。この手のサメ映画、CSを見ていると決まってまとめて放送されますが、海を飛び出て砂の中、台風の中、いろんなところに出没します。しまいにはゾンビにまでなったりして、もうこれ以上は思いつかないほど、亜流が作られています。

そして、こういったサメ映画は、浜辺で一騒ぎして儲けようとする市長と町の顔役に対して、サメの被害を防ぎたい正義の味方の警察署長や保安官という対立の図式、被害が出てもあくまでイベントを開きたい市長たちがサメに襲われ食われ、海洋学者が役に立つのか立たないのか、よくわからない中途半端な知識で保安官たちとサメに立ち向かう、というストーリーがほぼお約束ですね。この作品もそうでした。

あえて新機軸を見出すとしたら、主人公(?)である保安官の妹が意外とあっさりサメにやられてしまうところでしょうか? まあサメがCGなので、サメの姿をはっきり見せすぎてしまうとB級さがもろに出てしまうので、どれもパクッと食いつかれて終わりというパターンが多かったです。そして、あれだけのサメなのに、あんなちゃちな仕掛けで退治できるとは、もう少しリアルさを追求して欲しいと考える方がいけないのでしょうか? お約束どおり、サメはすべて退治できてなくて、悪夢はまだまだ続くといったエンディングでした。

さて、このダイアリーではまだ書いていなかったでしょうか? 少し前に、やはり録画しておいた「ロスト・バケーション」も視聴しました。本作は「ジョーズ」以来のサメ映画の傑作という触れ込みでしたが……

確かに、上掲の「ビーチ・シャーク」などB級サメ映画とは一線も二線も画する作品であることは間違いないです。サメとの闘い、そのスリリングなところは見事ですし、B級映画にありがちな荒唐無稽さは感じられません。「ジョーズ」以来という評判も確かにわかります。

ただ、個人的に疑問なのは、サメは確かに血の臭いに寄ってくると言われますが、あんな狭い範囲だけを回遊しているものでしょうか? そもそもサメが人を襲う映画全般に言えることですが、サメから見て人はわざわざ襲って食べるほどうまい動物だとは思えません。確かに浜辺にいるたくさんの人間を一度に数十人でも食べれば腹も満たされるでしょうが、人間一人ではとても襲っても割が合わないと思うのですが……

結局、どうあがいても「ジョーズ」は超えられないのでしょうか?