2016年のアーカイブ
傷つく人のことを思いやるのは大切なことだけれど
欅坂46の衣裳がナチスの制服に似ているという問題。
確かに似ているといえば似ています。
ただ、そもそもこのグループは軍服的な衣裳をこれまでも着用していたわけで、専属のデザイナーまでいて大衆アピールを綿密に計算していたナチスの制服に似たものが出来上がってしまうのは、ある意味、必然と言えば必然だったのかもしれません。
欅坂の衣裳スタッフの中にナチの制服とわかっててデザインした人がいたのか、それとも適当にネットで制服をググっていて、「これ、いいんじゃない?」と見つけたのがナチスの制服だったのか、そのあたりの真相はわかりません。でも、欅坂のスタッフのほとんど、そしてこの衣裳を着用したメンバーがナチスを礼賛していたなんてことは微塵もないことだけは確かだと思います。そもそも、彼女たちメンバーはあればナチスの衣裳に似ているということを認識していなかっただけでなく、そもそもナチスなんて知らなかったのではないでしょうか? まあ、ナチスを知らないという非常識さ加減はひとまずおくとして……
それにしても彼女たちがこの衣裳を着て出演したイベントのテレビ放送(スカパー!で放送予定だった)が中止になったり、ユダヤ人団体から抗議が来たり、挙げ句の果てには下のように、公式サイトに謝罪文が掲載される騒ぎとなりました。
いや、順番から言えば、ユダヤ人団体からの抗議があったから、これだけの騒ぎになってしまったのでしたっけ?
あたし、このニュースを最初に聞いたとき、いつものように炎上させたいだけのアンチが騒いでいるのかと思いました。しかし、しばらくするとユダヤ人団体からも抗議が来ているというニュースも出てきて、海外からの抗議、国際的な非難の高まり、そういったものを受け、ただの炎上騒ぎではなくなってしまったようですね。(いまだに時系列的な経緯を把握できておりませんが……汗)
しかし、まあ、日本でようやく人気が出てきたとはいえ、それでも知名度などまだまだというアイドルグループの衣裳に、海外の団体が目を光らせているというのはちょっと不可解な感じがしますし異様です。「ナチス 制服」といったキーワードで常にネットを監視しているのでしょうか? むしろこれは騒ぎを起こしたい人がユダヤ人団体に垂れ込んだというのが真相ではないか、そんな風にも思ってしまいます。
ただ、そういう誰が犯人か、誰が告げ口したんだという問題とは別に、やはりそれによって不快な思いをする人がいるということに気を配らなければならない時代なんだなあ、とも思います。インターネットが発達していない十数年前(数十年前?)であれば、まだまだ知名度の低い日本のアイドルがどんな衣裳を着ていようと、海外の人がそれを知る手段などほとんどなかったはずですし、知ったとしてもこういった騒ぎを起こせるような手段が存在していなかったと思います。
しかし、今はこういう時代です。細心の注意を払わないとならないんですよね。
オオカミ復活か?
昨日の朝日新聞夕刊にこんな記事が載っていました。
「天敵不在で? シカ繁殖」です。
この手のニュースは時々テレビや新聞で見かけます。異常繁殖しているのはシカ以外にもいるようで、食物連鎖のトップに君臨していたオオカミが絶滅してしまったため生態系のバランスが崩れ、いろいろな被害、弊害が出ているとのこと。その説の当否やオオカミが復活すれば解決するのか、あたしのような素人には判断できませんが、だからこそ本を読んで知識を増やす必要があるのではないでしょうか?
ということで、あたしの勤務先ではそのための書籍を何冊か刊行しております。
『オオカミを放つ』『オオカミが日本を救う!』『ウルフ・ウォーズ』『オオカミ 迫害から復権へ』などです。とりあえず、考えるきっかけにいかがでしょうか?
屋台と聞くと縁日の焼きそばとか、りんご飴とか、そういったものを思い出してしまいますが……
「山・鉾・屋台行事」などが無形文化遺産に登録されるというニュース。テレビや新聞でも大きく取り上げられていましたね。
日本だと「和食」とか「歌舞伎」などが登録されているようです。
上はそれを伝える朝日新聞の記事。ちなみに、ここでインタビューに答えている植木行宣さんは、あたしの勤務先から出ていた『山・鉾・屋台の祭り―風流の開花』の著者です。同書は既に品切れで再販の予定もありませんので、『山・鉾・屋台行事 祭りを飾る民俗造形』をどうぞ。
したくないわけではないんです! もちろん結婚の話。
ガッキー主演のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が人気ですね。あたしも毎週視ています。
星野源演じる、恋愛経験ゼロ、プロの独身35歳がなんとも言えずシンパシーを感じます。あの悶々とした感じ、よーくわかります。しかし、彼などまだマシ。あたしなど、その後さらに10数年もプロの独身をやっているわけですから……
いや、なんの自慢にもなりませんが(汗)。
で、そんなことを思っていたら今朝の読売新聞ですね、こんな記事がありました。
あたしに言わせれば、別に「結婚したくない」わけではなく、「できない」だけであって、自分なりの努力をしたのかと問われると、笑って誤魔化すしかありませんが、それでも「したくない」なんて一度も思ったことはありません。
一方、こちらは朝日新聞。あたしの場合、小さいころからほぼほぼ友だちと呼べるような存在はいなかったので、交友が多いなんてことはなく、少ないどころか皆無に近いです。となると、結婚願望が小さいということになってしまいますね。そんなことはないと思うのですが、現実に結婚できていないわけですから、実は願望がないのかもしれません。
冷静に考えてみますと、友だちがいないというのはつまり他人を信用できないということであって、他人を信用できない人間に結婚相手なんて見つかるわけがないというもの。恋人だって出来たことがありませんから、これは間違いのない事実!
いやいや、こんなことを高らかに宣言したって始まりません。自分が惨めになるだけです。
話は戻って「逃げ恥」、星野源が「この先、みくりさんに好きな人ができて結婚したら、この生活は続けられないし、御厨さんはこの家を出て行くことになる。それでも僕は一人、ずーっと一人なんだ」と心の中でつぶやくシーンがありました(セリフはうろ覚えです)。あたしも、同居している、そろそろ高齢の母が亡くなったら、ずーっと一人ぼっちで、情けない老人になって、誰にも看取られずに死んでいくんだろうなあと、最近しみじみ思います。
今月のおすすめ本[16年11月]
世界にひとつだけのカレンダー
SMAPの曲が流行って以来、「世界にひとつだけ」という言葉があまりも安易に使われすぎている感があります。それに「世界にひとつだけ」というのは資本主義に逆行していて、社会人としてはそれほど推奨できないなあとも思います。しかし、人間は「一点物」に弱い生き物ですから、「世界にひとつだけ」と言われると、ついつい食指が動いてしまうのもわかります。
で、見つけたのがこちら。
です。ウェブサイトによると
月ごとの作品を自分で選べるカレンダーです。選べる作品は、国立美術館のコレクション選りすぐりの、人気作揃いの約140点から。2017年版は国立西洋美術館の世界遺産登録を記念し、国立西洋美術館の建築写真を多数追加しました。季節感でコーディネートしたり、お気に入りを揃えたり、個人の感性を活かした1年を創作できます。世界にひとつだけのマイミュージアムをつくってみませんか?
とあります。つまりは、収蔵品を自由に選んでカレンダーを作ろう、ということですね。昔、アイドル歌手などのレコードから好きな曲だけをカセットテープにダビングして「My Favorite Songs」を作ったのを思い出します。喩えが古すぎますか?
しかし、一点物のカレンダーと言えば、ナンシー・カレンダーを忘れてもらっては困ります。
いや、あれは毎年30個くらい作っているので、一点物ではありませんが、それでも市販の大量生産されているカレンダーに比べたらはるかにレアなはず。なにせ売り物ではないのですから。
選ばれし人のみが手にすることができる「ナンシー・カレンダー」、2017年版もまもなく制作予定です。
三教は如何?
今朝の朝日新聞の記事です。
ジュンク堂書店池袋本店で開催されている、キリスト教と仏教のコラボフェアだそうです。同店のウェブサイトによると
キリスト教のテーマは「これだけは読んでおきたいキリスト教書100選」です。
キリスト教の専門家たちが選んだキリスト教基本書をじっくりごらん下さい。
仏教のテーマは「温故知新」。
東京国立博物館の特別展など、何かと話題の禅、正法眼蔵のコーナーも設けています。
とあります。こういうフェアは面白いと思いますが、あたしもここ数年、書店へ行くとしばしば人文担当の方と「啓典宗教のコラボフェアやらないの?」という話をしていました。はい、ユダヤ、キリスト、イスラームです。
なんといっても、ここ最近の世界情勢が不安定なのは、キリスト教社会とイスラム教社会が作り出していると、個人的には思っています。だから、どうしてそうなるのか、どうしたらよいのか、それには国際情勢を分析している本を中心に社会・海外事情のコーナーでフェアをやるのもよいと思うのですが、そうではなく、一歩下がって、人文書コーナーでこのテーマをどう扱うかと考えると、やはりキリスト教とイスラム教のフェアがふさわしいのではないかと思っていたのです。
ただ、それだけだといまひとつ多角的にならない、善悪二元論とは言いませんが、お互いに言いっ放しのフェアになりそうなので、もう一つの視点として、それに根は同じですからユダヤも加えるべきだ、と考えていたのです。
今回のジュンク堂書店のフェアは、あたしが考えていたのとはちょっと視点を変え、キリスト教と仏教という、まるで異なる宗教のコラボです。しかし、こういう異教のコラボというのは昔から考えられていたようですが、書店のフェアとしてはあまり記憶にありません。
お手軽な新書でも『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム』といった三教を扱ったものがあります。あるいは中国で三教と言えば「儒仏道」ですので、こういうコラボもありではないでしょうか?
ポストカード? 絵はがき?
金曜にダリ展へ行ってきたことは既に書きました。
展覧会自体はなかなか面白いものでしたが、氷雨降る日ということもあり、混雑はそれほどでもありませんでした。金曜日は開館時間が延長しているということは十分知られていると思うのですが、やはり夏場と違って日が暮れるのが早い秋から冬は暗くなってから出かけようという気にはならないのでしょうか?
いや、やはりあの雨と気温、そしてハロウィンで六本木は混雑しているだろうという複数の要因が絡んでいるのではないでしょうか?
で、閑話休題。
展覧会へ行くと図録やおみやげを買うのも一つの愉しみです。今回のダリ展は、いわゆるダリという作品だけでなく、初期のころから晩年まで、ダリの人生を追った作品展示になっているので、あたしのような素人の目には「これがダリ?」「これもダリ?」という作品も数多かったのが新鮮でした。
というわけで、図録の他に購入したポストカードが上の四枚です。左から《ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌》《ポルト・リガトの聖母》《子ども、女への壮大な記念碑》《「消えるイメージ」のための習作》です。あと《ポルト・リガトの聖母》のマグネットも購入しました。
ちなみに当日は、ご覧のように《記憶の固執》のネクタイを締めて行ったのですが、こちらは展示されていませんでした。図録を見ても載っていないので、これは今回は来ていないのでしょうかね?
あと、《水の中の裸体》という作品を見たとき(ダリ、水の中の裸体でググってみてください)、最近発売された渡辺麻友の写真集『知らないうちに』を思い出してしまいました。あんな感じの写真が載っていたんですよね(汗)。
ところで今回の展覧会、実はダリっぽい一筆箋とか、あわよくばネクタイなんか売っていないかなと期待してショップをのぞいていたのですが、これがちょっとイマイチでした。Tシャツとかトートバッグとか売ってはいましたが、もう少しダリらしい感じのデザインのものが欲しいのに、やや控えめというか抑えめのデザインのものばかりでした。確かに日常使いを考えると、あまりダリっぽいのは持っていて恥ずかしくなるのかもしれません。
でも、それがダリでしょ?
ネクタイも確かに売っていましたが、あたし的には「うーん、こんな平凡なデザインに1万いくらも払えない」というのが正直な感想です。まあ、おしゃれでセンスのよい逸品なのでしょうけど……
いろいろな外国語に興味を持とう!
昨晩は下北沢の本屋B&Bで黒田龍之助さんのトークイベントでした。
世間ではハロウィンで盛り上がっているというのに、しかも下北沢なんていう、仮想した若者が大挙して集まりそうな場所であるにもかかわらず、熱心な語学マニアの方が大勢集まっていただきました。お店の方の話では、予定の50名を優に超え、当日も何名か「まだ入れますか?」というお客様がいらっしゃったとか。ありがたいことです。
さて、この日のトークイベントは黒田さんの最新刊『寝るまえ5分の外国語』刊行を記念して行なわれたものですが、お陰様で書評や紹介が相次ぎ、語学書なのに既に3刷、大ヒットとなっています。なおかつ、イベントのテーマが同書に取り上げなかった語学書について語る、ということで同書を既に購入・読破された方はもちろん、語学が好きな方ならものすごーく興味を惹きそうなテーマでしたから、集まるなと言う方が無理でしょう。
あっという間の二時間。最初は書店でのトークイベントなので誰か対談相手を設定してとも考えたそうですが、同書に沿って、あえて一人で、さらに他の語学書について語るというスタイルにされたそうです。始まってみるとそれが正解でした。2時間で十数冊が紹介されたのですが、これでは対談相手がいたとしても口を挟む暇がなかったでしょう。
上の写真はイベント後のサイン会の様子です。机の上に並んでいるのが、紹介された語学書たちです。すべて黒田さんの所蔵書。黒田さんの語学に対する愛が詰まっています。
個人的に今回のトークを聞いていて感じたのは、黒田さんは「学べ」とか「勉強しろ」といった言い方はほとんどなされないということ。むしろ「興味を持って欲しい」「関心を持って欲しい」という表現を多用されているなあということです。そう、勉強しろなんて他人から強制されても身につくものではありません。まずは関心を持つことがスタートだと思います。
読めない文字を見ても楽しめる、聞き取れない言葉を聞いても苦にならない、そんな心持ち、あたしも持ちたいと思います。
言葉だけを見ていて、その先にいる人を見ていないのではダメ
確か、黒田さんがポロッと発した言葉だったはずです。確かに、言葉自体も非常に面白いし興味深いものですが、それを使っている人に対する興味、関心がなければ意味がないですよね。