なんとか天候にも恵まれ……

今日で関西ツアーも終わりです。晩は自宅で床に就くことになります。早かったなあと感じます。途中、火曜日にBOOK EXPOというイベントが挟まったからでしょうか?

今回のツアー、天候には恵まれました。唯一の雨天はそのイベントにあたり、終日屋内にいたので外の雨は関係あらず、でした。ただ、その雨のあとの後半は気温が下がり、やはり夕方になると寒いなあと感じました。コートもベストもカーディガンも持ってきていないので、ちょっと辛いです。

でもって、出張の成果は……

不景気ですね。それともあたしの営業努力が足りないのでしょうか?

来年の話をすると鬼が笑うと言いますが、再来年の話だと鬼はどうするのでしょう? という冗談はさておき、来年から再来年はちょっと左傾化したフェアがオススメかも?

来年がロシア革命百周年だということは既にご存じだと思います。なので、ロシア史のフェアは如何でしょう?

もちろんロシア史といってもそれなりに長いですので、やみくもにフェアをやっても焦点がぼやけてしまいかねません。そこで、たとえばロマノフ王朝・帝政ロシア、ロシア革命、スターリンの時代、ゴルバチョフのペレストロイカ以後、といった具合にテーマを分けてフェア展開するのがよいのではないかと思います。これらをどれか一つやるもよし、数ヶ月おきに断続的にやるもよし、だと思います。

まあ、ロシア革命百年ですから革命に絞るのが王道でしょうけど、実は来年は『資本論』の初版刊行から150年でもあります。昨今の格差社会、ピケティの大ヒット、マルクスの再評価などを合わせ考えますと、共産主義の光と影、失敗の本質というのを裏のテーマにフェアを企画するのもよいのではないかと思います。

というよりも、その方がフェアをやる現在的な意義があると思います。

なぜロシアや東欧の共産主義は失敗したのか、そしてそれはマルクの構想したものとどこが同じでどこが異なるのか、そういったことを考える、考えさせるようなフェアができればと思います。ちなみに、中国の共産主義も、ほぼほぼ失敗してますよね。

その中国、来年は党大会です。向こう五年の体制が決まるだけでなく、ポスト習近平の姿が見えてくる大会になるはずです。習近平体制は変わらないでしょうが、より一極集中が進むのか、それとも別な路が開けるのか。これはこれで面白いフェアになりそうですが、玉石混淆の本が山ほど出版されそうです。

閑話休題。

ロシア・フェア。上述のような感じでフェアをやったとして、つまり格差社会とか、共産主義の挫折とした視点を取り入れますと、そのまま2018年に繋がります。2018年は本家本元、マルクスの生誕200年です。いまさら共産主義ではないと思いますが、いまさらマルクスは十分ありだと思います。

なおかつ、2018年は1968年から50年です。1968年といえば世界史では重要な年です。世界的にさまざまな運動が起きたのが1968年です。左派運動という捉え方をすれば、ロシア革命やマルクスとも因縁浅からぬところです。もちろん関連書籍も既にいろいろ出ていますが、再来年に向けてさらに出版されることでしょう。

なんといっても、1968年に関心を持つ世代や読者は、本を最も買ってくれる人たちでもあります。それなりに盛り上がることは必至だと思うのですが……

「神実主義の中国と文学」ということについて

先の日曜日、駒場の東京大学出行なわれた閻連科さんの講演。手元に残したメモを元に自分なりに振り返ってみます。

まずは王堯さんの講演から。

文革後の中国文学は80年代文学、90年代文学、新世紀の文学の三つに分けられる。現在活躍する多くの作家が80年代に注目を集め始めたのに対し、そのころの閻連科氏は助走期間であり、「後から来た作家」である。そんな文革後の文学は、文革をどう捉えるかが大きなテーマであった。

文革を否定するのが基本的な立場であり、その上に文学が発展してきたのが80年代。しかし90年代になるとその傾向(文革に対する態度)に分化も見られるようになり、政治と文学の関係は芸術と現実との関係と捉えられるようになってきた。

文革の終結により、文学は政治に奉仕するものではなく、人民に奉仕するものとなった。つまり文学はようやく現実と理性的な関係を持てるようになった。傷痕文学は芸術的な達成という点では大きくはないが、当時のタブーを打ち壊す役割を担った。そして80年代は社会の中心に文学があり、近代化建設に重要な役割を果たしていた。

閻連科の作品は、こういった文学を超えた作品であり、人と人との関係や人間性を描いており、社会主義にも暗い面があることを訴えている。その点では暗闇に敏感な作家であり、魯迅と並び称することができる。

一方、歴史を叙述する文学の変化も見られ、莫言などの作品はそれまでの作品と一線を画している。閻連科の作品は、特に現代史に関心を持ち、現実の描き方を変革していった作家であり、中国の現在、中国そのものを描き出し、その結果、もう一つの中国が創造され、時代精神も書き換えられている。

かつての文学は現実に奉仕していたが、現在は文学と現実がお互いに超越し、より開かれた関係となったが、また新たな問題も生まれている。

以上です。

うーん、読み返してみて、わかるようなわからないような……。あたしのメモが乱雑すぎてスミマセン。

続きまして閻連科氏の講演。

神実主義とは現実主義に対する反抗である。現実主義とはそこにある現実を描くものであり、現実対するわれわれの感覚を書くものである。それは見た真実、つかみうる真実であって、つまり表面的な真実にすぎない。それに対し神実主義とは、それがどうして起こるのか、発生の源を描くものである。内在的な真実、見えない真実を描き出すものであり、いわゆる真実に覆い隠された真実を描くものである。

中国に対する世界のイメージは、醜い存在というものである。中国は果たして文明的な国家であるのか、街中で話す声が大きいだとか、爆買いに見られるような行為が想起される。旧知のフランスの哲学者に言われたこととして、49年以前の中国は神秘、49年以降の中国は革命、そして現在の中国は低俗だと。この言葉にショックを受けたが、世界は中国を理解できていないし、中国も中国を理解できていない、そして政治家や歴史家も中国を理解できていないということである。

中国は資本主義国家でもなければ、民主主義国家でもない、かといって社会主義国家でもなければ、共産主義国家でもない、人類史上初めての存在である。このまま数十年続いたならば、歴史家や哲学者はどう名づけるのだろうか? 自分は暫定的に「異中国」と名づけたい。異とは異なっていると同時に疎外を意識させるものである。

そんな異中国の直面する異時代。疎外された中国が疎外された時代を迎えているという、世界中の誰もが理解できない状況。杭州でG20が行なわれている一方、生きていけずに自殺をする一家が存在する。こんなまったく異なる出来事が起きるのが理解できない。われわれは異中国における異時代を生きる異中国人である。多くの中国人は慣れてしまっているが、人心の欲望の肥大化が起こっている。

中国の変化は改革開放の成果ではあるが、作家としては欲望が極限まで肥大化し、罪悪が蔓延している社会であり、もし中国人が信仰心を持っていたならば、罪悪の前に何もできなくなってしまうだろう。中国人は信仰を持っていなくて幸いである。喩えて言えば、現在の中国は花束が投げ込まれたゴミ箱のようなもの、自分が知っていた中国とは異なる。

こんな中国を作家はどう表現するのか。

リアリズムでもモダニズムでも描けない。精神的困窮は人類が体験したことがないものであるが、この歩みを後退させることはできない。高層ビルをいくつも建てたことではなく、13億の民を小康状態に導いたこと、これを後戻りさせることは不可能である。和諧の強調は滑稽にも感じられるが、もし本当に混乱が起こったならどうなるだろうか。もし中国人が難民化したらと考えると、経済は発展させなければならないが、そうなると環境汚染は減らず、世界を苦境に陥れてしまう。これが中国の文学者目の当たりにしている現実である。

文学は新しい方法で現実を描写しないとならない。貧富の格差は人の想像を超えている。これらを文学がどれくらいカバーできるのか。一部しか描けていないし、すべてを描くのは不可能である。

魯迅の阿Qによって世界はそれを中国と見なした。しかし今の中国は当時の中国とは違う。阿Qは現在の中国の代表者とはなり得ない。新しい中国的人物が必要である。つまり今の中国を象徴する人物。

どの作家も本当の中国を描いていない。それは今の時代の阿Qを作り出せていない。それは限られた現実認識に基づいているからである。神実主義によって内在する真実をたぐり寄せることができるのではないか。

ところでアジア文学という枠組みは脆いものである。日中韓は欧米の文学をもてはやしすぎで自国の文学を軽んじている。自分たちの文学を信じるべきであり、世界の文学に抗することができるものであるから、その後に初めて世界文学を語るべきである。日本の読者も中国の文学をほとんど読んでいない。中日の文学の交流は文化の交流である。交流が進めば好みも欧米からアジアに移ってくるだろうし、アジアに意識が向いてくるようになる。文学の交流はそれに留まらないものである。

以上、こちらもまとまりのない、支離滅裂な感じですが、すべては筆記者の能力不足のせいです。閻連科さんの話が悪いわけではありません。

コミュ障なあたし

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これとこれ、あれとあれ

ロルドの恐怖劇場』を読了したのですが、書店でこんな本を見かけました。『妄想と強迫』です。文庫本と単行本との違いはありますが、併売するとよいのではないでしょうか?

 

ちょっと時代はズレますが、どちらもフランスが舞台ですので、一方に興味を持つ読者ならもう一方にも興味を持ってくれるのではないかと思うのですが……

外は雨?

今日はこれからBOOK EXPO 2016という名の商談会。先日、東京は東京ドームシティで行なわれましたが、その大阪版です。

今日は雨になるという天気予報でしたが、まだ降っていないようです。でも、一日屋内なので関係ありませんが、来場してくれる書店さんは「雨だから行くのやめた」となってしまうのでしょうか?

まあ、とりあえず6時まで、ほどほどに仕事します。

定評ある学参が装いを新たに再登場して競演!

新刊『中国語の入門[最新版]』が好調です。

 

もともとは判型もやや小振りな四六判、別売りのカセットテープという形で刊行されたのが、あたしが学生の頃でした。中国語を学び始めて一年くらい、文法のイロハもわからないときに本書に出会って、その簡にして要を得た説明に感動し、何度もページをめくったものです。まさか、その出版社に就職することになろうとは……

その後、同書は別売りカセットを付属CDにした新装版となりしばらく現役でしたが、さすがに内容も古びてきていたので、ひと思いに全面的に手を入れた改訂版の刊行となったわけです。判型もA5判に大きくしました。これで息を吹き返したのか、今のところ好調な売れ行きで推移しています。やはり名著は手を入れながら生き続けるものなのですね。

と思っていたら、同じく売れに売れた名著である『Whyにこたえるはじめての中国語の文法書[新訂版]』が発売になりました。これも刊行以来20年、ようやくの改訂版ですね。

こうして評価の高かった参考書が改訂されてまた売れるっていいですね。

文学と社会

駒場の東京大学で閻連科氏の講演会があったので行って来ました。

個人的にはずいぶんと思いきったことまで言うのだなあと思える内容でした。まあ、政府批判や体制批判ではなく、中国文学の現状に対する痛烈な皮肉がメインだったので、このあたりまでは大丈夫と閻連科氏もわかっているようですね。

しかし、熱い講演でした。会場内が、というのではなく、閻連科氏の語る内容が、です。今日の講演を聴く限り、河出書房新社から月末に刊行予定の『炸裂志』がとても愉しみになります。

だからこそ、あたしの勤務先からまもなく刊行予定の『年月日』が異質であり、閻連科作品の幅の広さを示す作品になっているのだと再認識いたしました。

講演の細かな内容は、改めて書きます。とにかく、時間がある方、閻連科氏の話は聞いておいて損はないです。

まもなく公開?

昨日はこんなものを作っておりました。

はい、Nancy Calendar 2017です。かれこれ作り始めて数年(爆)。今年もめでたく完成、制作完了です。

表紙をお見せしたいところですが、画像は、入手できた方のみの、届いてからのお愉しみということで……(笑)

何に一番時間がかかるって、やはり印刷ですね。各月一枚、それに表紙があるので一組が13枚です。それを今年は30組作りました。用紙だけで約400枚ですから、ほぼ一日がかりの仕事です。

まあ、それでも、こんなものを喜んでくださる方がいらっしゃるわけで、有難いことです。

近々発送します。