『人文会ニュース』から

下の写真は講談社現代新書の新刊『憲法という希望』と『人文会ニュース』です。

『人文会ニュース』って何? という方も多いと思いますので、ちょっとご説明させていただきますと、人文会という団体の機関誌です。年に三回、4月、8月、12月に発行しています。主に書店の人文担当者、図書館の選書担当者向けに、人文分野に関する記事を載せています。

その中に、「15分で読む……」という記事がありまして、毎号さまざまなジャンルの専門家の方にテーマを決めて執筆してもらっているのですが、写真に載っている123号では木村草太さんに憲法について書いていただきました。そして、最近出た木村さんの新刊がこの現代新書です。

ページをめくっていただきますと、目次の後に下の写真のような記述がございます。

はい、今回の現代新書、『人文会ニュース』に執筆いただいた記事がベースになっているのです。現代新書ともども、『人文会ニュース』もぜひ記憶に留めていただければと思います。

ちなみに『人文会ニュース』は上述のように書店や図書館に配布している非売品です。一般には入手できません(頒価もつけていませんので)。ただ、問い合わせなどもしばしばございますので、人文会のウェブサイトからPDF版が閲覧できるようになっています。ご興味を持たれた方はPDF版のご利用をお願いいたします。

雨の時は滑りやすいので足元には十分ご注意ください

というアナウンスをデパートやショッピングモール、駅構内などでよく聞きます。このところ雨が続いているので、耳朶に残っています。

確かに、雨で濡れた床、滑りやすいですよね。革靴とか女性のハイヒールだと本当に滑って転びそうになるのがわかります。

でも、だったらもう少し滑らないような材質を使うとか、表面加工を施すべきではないか、そう思います。あれだけ偉そうにしている建築家の方々、あるいはゼネコンの人たち、少しはそういうことに知恵を働かせないのでしょうか? 本気でそう思っている今日この頃です。

ところで、店頭でこんな新刊を見かけました。藤井光さん訳の『すべての見えない光』です。なんか光つながりのような……

 

この本の梗概、新潮社のサイトによりますと

孤児院で幼い日を過ごし、ナチスドイツの技術兵となった少年。パリの博物館に勤める父のもとで育った、目の見えない少女。戦時下のフランス、サン・マロでの、二人の短い邂逅。そして彼らの運命を動かす伝説のダイヤモンド――。

とあります。フランス人の女性とドイツ人の男性が出会う、それも戦時中に。どこかで聞き覚えのあるストーリーのような、と思ったら映画化もされた『フランス組曲』でした。こちらもドイツ占領下のフランスでの出来事を描いた作品です。

映画のサイトに載っているストーリーでは

1940年6月。ドイツ軍の爆撃にさらされ、パリは無防備都市となった。フランス中部の町ビュシーにパリからの避難民が到着した頃、独仏休戦協定が結ば れ、フランスはドイツの支配下に置かれる。結婚して3年、戦地に行った夫を待つリュシルは、厳格な義母と大きな屋敷で窮屈な生活を送っていた。その屋敷 に、ドイツ軍の中尉ブルーノが滞在することになる。心すさむ占領下の生活で、ピアノと音楽への愛を共有する2人は、いつしか互いの存在だけが心のよりどこ ろになっていく。それは同時に、狭い世界に生きる従順な女性だったリュシルが、より広い世界へと目を向ける転機にもなっていくのだった。

とあります。なんとなく、両作品、似ていませんか? いや、クレストの方は読んでいないので、まるっきりどんなストーリーなのか知りませんけど……(汗)

人魚は怖い生き物?

録画しておいた「人喰い人魚伝説」を視聴。

インチキサーカスの団長がひょんなことから本物の人魚を手に入れ、それで一攫千金を企て大西洋を新大陸へ向かいます。が、美しい人魚は、実は人を喰らう恐ろしい化け物で、船の乗組員は次から次へと襲われていく、というストーリー。

前半は人間に捕われてしまった悲しい人魚の物語かと思いきや、後半になって徐々にその人魚が人を襲うようになります。それでもあんな扱いを受けたら、やはり見る方は人魚に肩入れしたくなるというもの。ヒロインだけが人魚の味方のように振る舞っていますので、たぶん彼女だけは生き残るのだろうなあということは早い段階でわかります。

が、最後の最後に近いところまで来て、人魚の真の目的がわかります。ここからはネタバレですが、人魚が人を食べるというのは別の話で聞いたことがあるような気もしますが、本作の人魚はまさしく人間をエサにして生きているのです。そして捕われていた人魚というのは、かわいそうな立場に置かれていた前半から中盤までは美しい姿なのですが、最後に人魚ではなく半漁人のような姿に変わってしまいます。これが彼女(?)の本当の姿だったのです。

つまり彼女は人魚の女王とでもいうべき存在で、人魚の島にいる子供たち(人魚たち?)のエサとなる人間を捕まえてくるのが目的だったのです。ですから、一人か二人の人間を自分が食べた後は船員を襲っても食べずにおきます。そして舵を失った船を操って、いつの間にか人魚の島に座礁させ、船員たちをエサとして、島で待っていた人魚たちに与えるのです。

うーん、あの美しい前半の人魚がこんな醜い姿になってしまうとは……

やはり先手必勝?

このところ定期的に行なわれているような気がします。

何がって?

乃木坂46とセブンイレブンのコラボ。

ヲタは乃木坂ちゃんのグッズが欲しいがために、食べもしないお菓子を買ったりしているのでしょう。

あたしは、ちゃんと自分で食べられる量しか買いませんから、食べ物を無駄にするなんてことは決していたしません。そんなことをしたら乃木坂ちゃんたちも悲しむでしょうし……

で、今回はこちら。セブンイレブンのカード、これはポイントカードなのかプリペイドカードなのかわかりませんが、とにかくnanacoカードとのコラボです。乃木坂46のメンバーがあしらわれたデザインになっていて、選抜メンバー9名が3名ずつで全3タイプ。

ファンなら(ヲタなら?)もちろんコンプリートするのでしょうが、その上で、推しメンが入っているカードは複数枚買っているのではないかと思います。ネット販売の方は早々に全タイプ売り切れ、満数に達してしまいまして、乃木坂46のサイトでも「店頭での申し込みはまだ受け付けています」とのアナウンスが、少し前にありました。

で、店頭では申し込み最終日まで受け付けてくれるのだろうと高を括っていて、でもまあ、とりあえず予約しておくかと近所のセブンイレブンに行ったところ、Cタイプは既に売り切れとなっていました(涙)。確か、ネット予約でも最初に品切れになったのがこのCタイプだったと記憶しています。

乃木坂46の至宝・いくちゃん、次世代センター・あしゅ、まいやんと共に乃木坂のヴィジュアルの象徴・ななみんというCタイプの組み合わせ。一番人気になるのもわかります。ただ、今回はAタイプも、Bタイプもなかなかよい組み合わせではないでしょうか?

あたし個人としては真夏となあちゃんのいるBタイプが絶対欲しかったので、とりあえずこれは予約できました。まあ、推しメンが入っている、入っていないで一喜一憂しているヲタは多いでしょうが、とりあえず選抜ということであれば、今回は桜井玲香、若月佑美、そして生駒里奈の三名が、最初からいないわけで、この三名でもう一つ作ってもよかったのではないかと、そんな気がします。

メガなのはピラニアではなくて……

録っておいた「メガ・ピラニア」を鑑賞。

まあ、タイトルからどんな映画なのかは予想できますが、その巨大ぶりったら、いくらCGとはいえ、「これはないわ」というレベル。

反米感情渦巻くベネズエラで、食糧自給率を上げるため(だったはず)に遺伝子操作の実験を繰り返していたアメリカの科学者が実験のミスからピラニアを巨大化させてしまい、すべて処分したはずが、処分しきれなかったものが逃げ出してオリノコ川で暴れまくり、更には大西洋に出てアメリカへ向かうというストーリー。それを必死に食い止めようとする科学者とアメリカの敏腕調査官。そして例によって、メンツだけにこだわり何かと邪魔をするベネズエラ国軍の大佐たち。こういった設定はジョーズ以来のおきまりですね。

しかし、しかし、そんなことよりも、この映画の見どころはティファニーではないでしょうか? (この映画にティファニーが出ているということは、見始めてからクレジットを見て知りました)

80年代、いや90年代でしたでしょうか? アメリカの歌姫として一世を風靡した歌手だったのですが、それがあんな、ただの太った中年のおばさんになってしまっているなんて……。リアルタイムでティファニーの活躍を知っていた世代のあたしとしては、かなりのショックです。

もちろん、当時特に好きだったというわけではなく、単純に当時の活躍を知っている、覚えているというだけの話なのですが、やはり同じ時期、このティファニーと人気を二分していたデビー・ギブソンがいたのを思い出しました。個人的にはティファニーよりはデビー・ギブソンの方が好きでした。歌もよかったですし、うまかったと思います。

で、この一世を風靡した二大歌姫が揃って動物パニックものに出演していたのも思い出しました。なぜ、こんな映画にばかり出ているのかは知りませんが、「メガ・パイソンVSギガント・ゲイター」という作品です。

これも以前に見たことがありますが、B級映画です。そして、やはり二人ともただの太ったおばさんでした。

外付けのHDDに接続できない!→なんとか解決!

昨日から、自宅のPCの外付けHDDに接続できなくなりました。外付けのHDDは複数あり、全部に接続できなくなったわけではないので、これまた厄介です。

ひとくちに「接続できない」とは言ってもいろいろなパターン、症状があると思います。あたしの場合、エクスプローラーではそのHDDが表示はされるのに、クリックするとアラートが出て、そのHDDを開くことができないという状態です。ただし、ブラウザから、そのHDDのIPアドレスを指定すると、HDDの設定画面が開けますので、まるっきりアクセスできないわけでもないのです。

理由がわからず、いろいろとネットをググってみましたら、どうやら最近のWindowsのUpdate後にこのような症状が起こっているとのこと。コントロールパネルの「Windows資格情報」などから設定する方法などがネットにはアップされていましたが、それを試してもダメ。

ちょっと途方に暮れていましたが、まずは基本に立ち返ろうと、そのHDDのメーカーであるアイオーデータのサイトのFAQを見てみました。すると、「9/14のWindowsUpdate後より、急にデータにアクセス出来なくなったのですが?」というドンピシャな事例が載っているではありませんか!

このページに書かれているとおりにやってみたところ、無事に接続できるようになりました。ホッと一安心です。

上下本が多すぎる?

あたしの勤務先の「新刊情報」のページ。だいたい1か月から2か月くらい先の刊行予定書籍が紹介されています。

まだ装丁が出来ていないものが多々あり、情報も少なめですし、時には拠ん所ない事情で刊行が延期になってしまうこともありますが、お好きな方には「へえー、こんどこんな本が出るんだ、楽しみぃー」と思っていただけているようです。

その新刊情報のページ、現在のところ2ページにわたって10点ずつ、合計20点の近刊が載っていますが、そのうちの6冊が上下本。これってあまりにも多すぎないか、とちょっと心配になります。それもすべて歴史ジャンルですから、書店に入荷しても置かれる場所はだいたい同じ。大型店以外では「置く場所がない」という状態になってしまいます。


いや、新刊は毎日毎日多くの出版社から刊行されているのですから、大型店でもとても並べきれるものではありません。

本が書店に並ばない。

世間でしばしば言われているのとは別の理由で並ばなくなりそうです。うーん、これは由々しき問題。

かといって、この期に及んで刊行を延期するわけにも行きませんし、やるならもっと前から、数ヶ月の刊行スケジュールを眺め、そのジャンルごとのバランスを考えて刊行の順番を考えるべきなのでしょう。今さら言っても詮無いことですが。

しかし、実はどれも面白そうな本ばかりです。書店の方も、「スペースさえあれば、ちゃんと並べたいよ」と言っていただける本だと自負しております。

鑑から鏡へ~日本という壁~

昨日は午前中にちょっと会社へ行っていくつか仕事をこなし、午後からは東京大学で行なわれた国際シンポジウム「日本という壁」を聞きに行ってきました。午前中から始まっていたシンポジウムでしたが、午後の「パネル3」、『生まれるためのガイドブック』『ぼくは覚えている』の訳者である小林久美子さんが進行役で、柴田元幸さん、辛島デイヴィッドさん、鴻巣友季子さんがパネリストとして登壇した「翻訳と『壁』 英語と日本語の狭間から」のパートから参加しました。どの話も興味深く聞き入ってしまいましたが、手元のメモを参考に少し紹介いたします。

 

柴田さんが明治以来の日本の翻訳について「仰ぎ見る翻訳」から「対等な翻訳」へと変わっていったと指摘されました。それでも、毎日メジャーリーグで活躍する日本人大リーガーについては新聞も大きく報じているけれど、もしこれがメジャーではなく韓国や台湾のリーグであったら、ここまで報じられることはないだろうし、そんなところにもまだまだ「正解は欧米にある」という「仰ぎ見る」感が完全には払拭されていないと述べていらっしゃいました。また、ご自身が関わる雑誌「MONKEY」でも、表紙に英文をあしらうとなんとなくおしゃれに見えるという感覚が日本人にはある、とも。本文はほとんど日本語なのだから英語をあしらう必要性はまるでないのに、英語をデザインとして使う本や雑誌が多く、それなら別にアラビア語でもハングルでも、タイ語でも構わないはずなのに、圧倒的に英語や欧米の言語が使われるという現実。

改めて指摘されると確かにその通りだと感じました。柴田さんはまた、古代から近代までは中国を、近代以降は欧米を目標、モデル、正解として仰ぎ見ていた日本は、外に正解を求める国、上下関係の国だとも指摘されていました。そこで挙げた例として、アメリカのお店では店員も客も入店したときの声かけはどちらも「ハイ」だけれど、日本では店員は「いらっしゃいませ」と言い、客は基本的に無言であるのが普通であり、こういうところにも対等な関係の欧米、上下関係の日本という姿が見て取れるとのことです。

こんな話を聞いていて、あたしは新刊『翻訳のダイナミズム』を思い出しました。同書は、後半に日本における明治以降の翻訳について紙幅をかなり割いていますので、今回のシンポジウムに集まった方ならきっと興味を持っていただけると思います。

その後は村上春樹、否、ハルキ・ムラカミについて語った辛島さん、和文翻訳と文芸翻訳の違いから深読みと浅読みのバランスを指摘した鴻巣さんと、あっという間の90分でした。

続いては閻連科さん。来場も俄然多くなったような気がしましたが、気のせいでしょうか?

閻連科さんというと「発禁作家」というイメージが強いかもしれませんし、出版社もそういうキャッチで翻訳を刊行していることが多いですが、閻連科さんご自身は、発禁処分を受けるとそれに対抗しようとする気持ちが生まれ、イマジネーション溢れる作家にとって検閲など存在しない、と力強く述べていらっしゃいました。その上で、ペンなど書くものを取り上げられない限りは、どんなことがあっても書きつづけるとおっしゃり、もし自分の作品が読まれないことがあるとすれば、それは作品そのものの出来が悪いからであって、決して検閲によるものではないと、とのこと。あの、中国国内で文章を発表し続ける作家の力強さを十二分に感じさせるお話でした。

そして最後は多和田葉子さん。

壁と言えばベルリンの壁、そんな外的な壁ではなく、特に日本を見ていると東日本大震災とそれに続く原発問題の後、みずから書かなくなった作家が多かったような気がすると指摘。そして「命」と「いのち」については、英語やドイツ語では「いのち」を表わす「LIFE」には「生活」といった含意もあるが、日本語の「いのち」にはそういうものはなく、生命限定であり、漢字の「命」だと上の者の言葉といった含意がある、とのこと、そして「国」と「命」の問題に話は及び、北条民雄『いのちの初夜』などを取り上げながら、命と国を結びつけるとろくなことはない、というようなことを盛んに指摘されていました。

と、以上三つの講演を聴講いたしましたが、始まる前は「長いなあ」とプログラムのタイムテーブルを見ながら思っていたのですが、どれもあっという間、本当に短く感じられました。そして、翻訳について改めて考えさせられました。

日本の翻訳文化は世界的に見ても大したものだと思います。誰にどこで聞いたか忘れましたが、日本は高等教育を自国語で行なえるが、それはすばらしいことであると。東南アジアなどは高等教育になればなるほど英語でしか講義されず、必然的に高等教育を受けるためには英語ができなければならなくなる、しかし日本ではそんな必要はない、と。

もちろん、そのために「日本人の英語力は…」といった議論が起こるわけですが、高等教育が英語でしかなされず、一部の少数エイリーとだけが高等教育を受けられるような社会と、意味がきちんとわかっているのかはともかく、多くの人がさほど苦労せずに高等教育を受けられる社会と、どちらがよいのでしょう? そんなことも考えた一日でした。