あたしの記憶力が試されている?

乃木坂46第三期メンバーが発表されました。

今朝のスポーツ紙でも比較的大きく取り上げられていたのではないかと思いますし、情報番組でも取り上げていたところがあったようです。12名が新たに加わることになったわけです。これで合計47名ですか。既にやめてしまった一期生、二期生もいますから、トータルの在籍者数は60名前後だと思いますが、とりあえず現役メンバー数で初めてグループ名の46を超えたのではないでしょうか?

さて、この12名。オーディションを通った段階でプロフィールと(一部のメンバーを除く)顔写真が公開されていましたので、ファンの間では何番がカワイイ、何番はきっと合格だ、といった声も上がっていたのですが、結局、最終オーディションに残った全員が合格したわけです(辞退した人が一人いたようです)。

で、この12名がいつころからテレビに出るようになるのか、現在のメンバーと絡むようになるのか、それは全くわかりません。11月に発売という16枚目シングルで選抜メンバーに選ばれる人が出てくるのか、そのあたりもまるっきりわかりません。

が、そんなことより、あたしとしてはメンバーの顔と名前を覚えられるか、というのが当面の大きな問題です(汗)。一応、現在のメンバーは一期生も二期生も全員わかります。何人かは辞めたメンバーも覚えています。ですから、あとは今回の12名を覚えればよいだけなのですが、寄る年波、なかなか覚えられるものではありません(涙)。

それに、少し前に、欅坂46のアンダー(という位置付けでよいの?)であるけやき坂46の新メンバーも発表されました。こちらは11名です。現在の欅坂46は20名で、こちらは既に頭に入っています、完璧です。顔と名前は一致します。なので、新たなこの11名をクリアすればよいだけなのですが……(汗)

こちらは発表から既に数ヶ月になりますが、まだ頭に入りきっていません。やはりテレビとかに出て、動くところを見ないと特徴がつかめないものです。とにかく頑張らねば!

って、いったい何に真剣になっているのでしょう?

そんなことをしている暇があったら、アイドルの名前を覚えている暇があるなら、書店員さんや他の出版社の人をきちんと覚えるべき?

ですよね? でも、書店員さんをはじめとした仕事上で出逢った人って、なかなか覚えられないんですよ。数回、たぶん平均すると3回か4回は会わないと覚えられないです。もちろんこの回数は「少なくとも」です。もっと会っているのに覚えられない人もたくさんいます。

こんなこと偉そうに言えることじゃありませんし、自慢できることでもありません。

でも、そうなのだから仕方ないです(汗)。

乃木坂や欅坂なら、逢ったこともないのに(あたし、握手会もライブも行きませんので……)、これだけ覚えているというのに!

ちなみに、坂道グループだけでなく、AKB48のメンバーも、既に辞めたメンバーも含め、そしてSKEやNMBといった姉妹グループも含め、数十名は顔と名前が一致します。覚えています。

いや、これも、よい歳をして、まるで自慢できることではありませんが……(汗)。

改めてボラーニョ作品の魅力について考える

土曜日の、丸善&ジュンク堂書店渋谷店でのイベント。

あたしの勤務先から出ている「ボラーニョ・コレクション」の訳者である、野谷文昭さん、斎藤文子さん、柳原孝敦さんの三名での鼎談でした。それぞれ『アメリカ大陸のナチ文学』『はるかな星』『第三帝国』の翻訳を担当されています。刊行が一番新しい『第三帝国』を中心に、それぞれが担当された作品も交えつつ、ボラーニョ作品全般にわたるトークで盛り上がりました。

  

で、あたしも、一応は「ボラーニョ・コレクション」全巻読破しているので、非常に楽しく、なおかつ興味深く聞き入ってしまいました。これは恐らく今回のイベントに参加された誰もが同じではないでしょうか。

ボラーニョ作品の魅力って何だろう、とあたしもトークを聞きながら考えてみました。ぐいぐい引き込まれる文章の力というのはまず間違いなく感じるのですが、それって人によって感じ方も異なるでしょうし、うまいこと客観的に言い表わせないですね。

描写が美しいとか、登場人物の心理が丹念に描かれているとか、そういう感じではないです。むしろ淡泊な、突き放すような、あとは読者に考えさせるような、そんな印象を受けます。

確かに、登場人物が多く、いろいろと絡み合っているのですが、それを最終的にきれいに回収しようという感じでもないです。だからといって、そういう終わり方が不満に感じられるかと言われると、そうではなく、「こうではないか」「ああではないか」と自分なりに考えて楽しめます。

そしてほとんどの作品を通じて感じられるのは、ボラーニョはやはり詩人だ、ということです。もともと詩人であることは有名な話ですし、若いころは詩作に励んでいたことも「訳者あとがき」で何度も言及されています。

本人は詩ではなく小説で身を立てるようになったとはいえ、やはりベースは詩にあるというのは作品を読んでいればよくわかります。たぶん、スペイン語の原文でならなおさら感じられるのではないでしょうか。

だからといって、詩的な描写、というのともちょっと違う気がします。確かに「この部分は詩のようだ」と感じられるところは散見しますが、作品全体が詩のようになっているわけでもありません。

あとは、今回のイベントでも話題として取り上げられた、執拗にナチを取り上げるその姿勢が特徴的です。おそらくはチリのクーデターや南米の政情不安を身をもって体験したボラーニョの関心が、国家の暴力の最大のものとしてのナチを取り上げるエネルギーになっているのではないかと思います。ナチを描くことによって、現実の南米の暴力を告発していると言うと言いすぎかも知れませんが。

そしてもう一つ、これは『アメリカ大陸のナチ文学』の解説に書かれていたのではないかと思いますが、やはり南米にはナチの残党が多く潜伏していたということからくる身近さ、そんなのがナチを取り上げる一因になっているのかな、とも思います。