こんどの新刊はもしかすると腐女子に受ける要素があるのかもしれない、と勝手に妄想を逞しくしながら読んでいます

新刊の『ブラインド・マッサージ』がアマゾンのサイトで、当初はアダルト作品扱いになっていたということは既にご報告いたしました。

この装丁、マッサージなんていうタイトル、やはり誤解される要素は含まれていると言えるかもしれません。しかし、誤解とも言ってられず、案外、そういうのが好きな人(世間的には腐女子と呼ぶのでしょうか?)は別にはっきりとそう描かれてはいなくとも、それを喚起させるようなものであれば、みずから想像してそういう読み方をしてくれるらしいという話を聞きました。

それで思い出しましたが、ちょっと前に読んでいた『書店ガール 5』はラノベが重要なテーマになっているのですが、その中で一見するとそういう世界(BL的世界?)を描いている作品ではないけれど、そう読めるところが随所にあり、好きな人はそういう読み方をするものだし、それが口コミで広がるとヒット作になる可能性がある、というようなセリフというか場面がありました。

「おお、そういうものなのか」と納得するというよりも、あたしにはわからない、知らない世界でした。

で、『ブライド・マッサージ』ですが、既に中国では映画化されていまして、上に引用した予告編だけを見ても、ちょっとそんな要素が感じられる、と言えば感じられますね。そういう目で見ているからでしょうか? でもかなり性描写は赤裸々な作品です。マッサージ店という、そして数名の健常者を含むとはいえ、ほぼほぼ盲人だけの世界。やはり健常者との間に見えない壁というのはあり、非常に狭い世界の中における、ある面では濃密、ある面では淡泊な人間関係が描かれています。

 小孔の手は大きくないが、力は並はずれて強かった。金嫣はすぐに耐えられなくなった。もちろん、小孔はわざとやったのだ。しょせん、遊びだった。--さっき、あなたが痛くしたから、今度はお返しよ。わたしの実力を思い知るがいいわ。金嫣はついに痛さに音を上げて、思わず下品な言葉を口にした。「小悪魔!」
「小悪魔」は特殊な罵り言葉である。仲間うちでの冗談。親しさの表現だ。相手に噛みつくときの言い方で、女どうしが特別な関係にならなければ、相手を「小悪魔」とは呼ばない。一般の人に、そんな資格はない。私は「小悪魔」なの? いいわ。小孔は黙ったまま、金嫣の腹部の肉をぐっとつかんだ。「もう一回、言ってみて」小孔は愉快そうに言った。金嫣はこれまで口で負けたことがない。金嫣は言った。「小悪魔」
「もう一回、言って」小孔の手の力は、「もう一回」と比例して強まった。金嫣は口を極限まで大きく開け、これ以上は無理というところで息を吐き、許しを求めた。金嫣は言った。「お嬢様、参りました。私はあなたの召使いになります」
小孔は、ゆっくりと手を放した。小孔はよく知っている。すぐに手を放すと、強い痛みを感じるのだ。小孔は「まあ、いいでしょう」と言うと手を広げ、金嫣の平坦な腹部を軽く揉んだ。手のひらで叩くことと揉むことは欠かせない。金嫣の腹部は平らになった。それだけでなく、タイルのように区分されて、小孔の腹部よりも美しい。小孔は喜んだ。
揉むだけはなく、なでた。何回かなでると、小孔はもう一度、金嫣の肉を軽くつかんだ。そして、口を耳元に寄せて、怪しげにささやいた。「いやらしいお腹ね。泰来は大好きなんでしょう?--言いなさい! 泰来と何をしたの?」

ちょっと長くなりましたが、目の不自由な女性二人による、マッサージセンターの休憩時間のやりとりです(本文247頁~248頁)。この後、痛みを与える行為はますますエスカレートしていきます。こんなシーン、読みようによっては完全にレズですよね。もちろん、この二人にはボーイフレンドがちゃんといます。上の引用に出てくる「泰来」が金嫣の彼氏です。

そして、このマッサージセンターは沙復明と張宗琪という二人の男性の共同経営で、この二人も大親友だったのですが、ストーリーが進むにつれ、仲違いをしてしまいます。このあたりにも、直接の描写こそありませんが、人によってはBLの匂いをプンプンと嗅ぎつけるのでしょうか?

どっちに対しても無責任な話

今朝の朝日新聞の一面に載っていました。アマゾンの読み放題サービスに関するニュースです。

これって、スラッと読むと、「アマゾンの契約違反じゃないの?」という印象を受けますが、記事中では必至に弁解している感じですね。法律的にはどうなのでしょう?

そして記事の主眼はどっちなのかな、と感じました。出版社に対する契約違反と、読者に対するサービス低下と。

これまで読めていた書籍が突然読めなくなるというのは、出版社に断わりもなくアマゾンが勝手にやったのであれば、契約がどうなっていたか次第では違反に問われても致し方ないのでは、という気もしますが、こちらは部外者、細かな契約までは知りませんので、記事を読む限りではそういう印象を受けると述べるに留めておきましょう。

読者の立場からすると、これは一方的なサービス低下であり、やはり読者との契約違反は生じないのでしょうか? これだけ読めるから、それ相応の対価(利用料)を払っているわけで、何の説明もなく一方的に読めなくなったら文句を言いたくなる読者も多数いるのではないでしょうか。

例えが悪いかもしれませんが、メニューに載っていた写真を見て「こんな豪華な料理が1000円で食べられる」と信じて注文したのに、出てきたのは写真とは似ても似つかない貧弱な料理だった、という感じでしょうか? 「金、返せ!」と怒り出す客が大多数でしょう。それと似たようなことだと思います。

さてさて、どういう決着がつくのやら……

手書きポップ効果!

下の写真は、紀伊國屋書店新宿本店の8階、諸外国語のコーナーです。その中でも、アジア諸語のコーナーの平台です。アジアの言葉と言いますと、中国語と朝鮮・韓国語は別格として、その次に売れているのはやはりタイ語です。ですから、このようにタイ語も数多く平台に並んでおります。

その中の一冊に手書きのポップをついています。同店の語学担当の方の手作りです。

 

そう、推していただいているのは、あたしの勤務先の新刊『今日からタイ語!』です。このポップの効果覿面! お陰様で順調に売り上げを伸ばしております。

タイ語を学ぼうと思っていらっしゃる方、ぜひ本書を手に取ってみてください!

なぜか、あたしの勤務先の本が多くなっているような……

下の写真はブックファースト新宿店、人文書コーナーのフェアの模様です。今月いっぱいなので、もう数日で終了ですが……

ヒトラーのフェアです。

いえ、違います。

 

慶應義塾大学出版会の『ブラックアース(上)』『ブラックアース(下)』に合わせたフェアです。ホロコーストを扱った本ですので、当然のことながらヒトラーを外すわけにはいきませんし、ヒトラーとナチドイツを含めたフェアとなっています。ナチにせよ、ヒトラーにせよ、ホロコーストにせよ、集めようと思えばどうしても際限なく集まってしまうでしょう。担当の方曰く、何を省くか、どれだけに縮めるかで苦心されたようです。

そんな中、あたしの勤務先の『ヒトラー(上)』『ヒトラー(下)』はもちろんのこと、『ヒトラーと哲学者』や『独裁者は30日で生まれた』まで並べていただきました。

 

 

ありがたいことです。

アフリカは実のところどうなっているのか?

アフリカ開発会議が開かれている(開かれていた?)からですね、このところテレビや新聞でもアフリカ関係の記事が多くなっています。しかし、全体的なトーンとしては、

日本は出遅れている
既に中国が進出しまくっている
日本企業が行っても安全なのか?

というものが多い気がします。確かに、アフリカには既に大量の中国資本が投下されていて、それらを扱った本も何冊か出ています。あたしも読みましたが、こんなものが目につきます。

中国第二の大陸アフリカ』『中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う』『喰い尽くされるアフリカ』です。探せば他にもたくさんあるでしょうし、少し前にこんなダイアリーも書きました。

  

これらの本を読むと、確かに日本は出遅れているようです。中国がかなり幅広く進出しています。ただし、今回の会議で日本側が主張したように、確かな技術や人材育成という面では挽回の余地がありそうです。中国は労働者も中国から連れて来て、ほとんど現地の雇用を生んでいないとか、中国が作ったものはすぐに壊れる、使い物にならなくなる、といった評判も立っているようです。

その一方、金にものを言わせて中国はアフリカ諸国の中枢を押さえてしまっているので、庶民がいくら反対しても政府は中国の言いなりだという声も聞かれるようです。そうなると、なかなか日本が食い込むのは難しいと思います。東南アジアでも、価格では中国の安値攻勢と勝負にならず、なおかつ資金もすべて出してくれる中国に受注を奪われている事例がたくさんあります。発展途上国にとっては、多少レベルは悪くとも安い方がよい、そしてすぐに作ってくれる方がありがたい、という事情も作用しているのでしょう。

こういう問題は、一回大きな会議を開いたからといって、すぐに日本企業の受注が伸びるとは思えません。少しずつ少しずつ見方を増やしていくしかないのではないでしょうか?

ネコの墓場

一昨日のことです。仕事から帰宅すると母が言うのです。

「庭で猫が死んでたから、市役所に連絡した」と。

「えっ、それで処分してもらったの?」とあたし。

詳しく話を聞いてみますと、わが家の庭でネコが死んでいたそうです。近所には猫を飼っている人がいるようで、うろうろ散歩しているネコが時々うちの庭を通ったりすることがあります。それくらいならよいのですが、軟らかい土の上でオシッコやウンチをしていくことがあり、母は常々それに憤慨しておりました(糞害でもあります)。

で、しょっちゅうネコが来たりしているので、今回も「シッ、シッ」と追い払おうとしましたが、横たわった猫は動こうとしません。近づいても動かないので、これは死んでいるに違いないと判断した母は市役所へ相談の電話をかけたそうです。

市役所の人曰く、ビニールの袋か何かに入れて玄関先に出しておいてください、回収に伺います、とのこと。しかしねえ、小さいとはいえ、猫一匹の大きさがあれば、それなりに重いはず。ほぼほぼ後期高齢者の母に持ち上げられるとも思いませんし、そもそも死体を触りたいと思う人がどれくらいいるでしょうか? まあ、自分の飼い猫、飼い犬なら別でしょうけど、こんな縁もゆかりもない野良猫(?)、ひとんちの庭で死ぬなんて、というのが正直な感想です。

で、触れもせずにしばらくすると市役所の人が到着。母が庭に案内すると猫の死体が消えていました。えっ、と驚きつつ周囲を探すと縁の下でゴロンと横になっているのを発見。他のネコか何かが運んだ? まだ生きている? とわけもわからず、市役所の人が引っ張り出そうとすると、猫は驚いて逃げていったそうです。

とりあえずは死体ではなかったわけですが、暑さで弱っていたのでしょうか? 土の上、縁の下、どちらも比較的涼しいところですよね。ネコは涼しいところを探して休んでいただけなのでしょうか? その割に、母に追い立てられても動きもしなかったというのは、人間に慣れている飼い猫だったのでしょうか?

昨日からは雨なので猫はやってきませんが、今後も今回のことに味を占めて、また涼みにやってくるかもしれませんので、母と猫の攻防戦は続くかもしれません。ちなみに、母は猫が嫌いです。

本屋がなくなると本当に困るのか?

下の写真は、21日の朝日新聞読書欄に載っていた記事です。

本屋がなくなったら、困るじゃないか』に関する記事です。

この手の書籍は何冊か出ていたと思います。本屋が減っているというニュースも時々思い出したように流れますし、統計的にもそうなのでしょう。ただ書店の数だけを比較しても意味はない、売り場面積(坪数)で比較しないと、という意見もあります。ただし、通路の幅とか棚の高さとか、坪数だけでは計れないという意見も聞かれます。

結局、そうなると比較しようがなくなるわけで、こういう場合は思いきって、ある程度の批判は承知で統計などの数字を使うしかないと思います。

で、都道府県別の書店の数ですが、こんなページに表が載っていました。「2013年5月1日現在」の数字だそうです。そして、数年のタイムラグはありますが、「2016年4月1日現在」の都道県別の人口です。この二つから、人口10万人あたりの書店の数を出してみますと、上位は

高知県(16.33)、香川県(16.27)、石川県(15.5)、徳島県(15.47)、京都府(15.36)

となりました。そして下位は

神奈川県(8.06)、埼玉県(8.59)、沖縄県(8.78)、千葉県(8.94)、佐賀県(9.12)

です。高知県と神奈川県で倍の開きがありますが、全体的には11店から12店あたりに集中していて、それほど極端な地域格差は感じられませんし、都会と田舎とで書店の数に大きな違いがあるとも言えないようです。あえて言えば、上の下位を見てもおわかりのように、都会ほど書店が少ない傾向が見られるといったところでしょうか? 東京都は22位、広島県が27位、愛知県が28位、大阪府が29位、宮城県が32位、兵庫県が40位、福岡県が41位です。

もちろん、上に書いたように坪数を加味すれば都会の順位は上がってくると思いますが、身近に本屋があるかないかという視点で考えた場合には、都会ほど書店が少ないと言えるかもしれません。

で、それでどの程度人々は困っているのでしょうか? 確かに本屋をよく利用する人は困るでしょうけど、それはどんな小売業にだって言えることです。そして近所のお店がなくなるのは、近所の人たちが使わなくなったから、行かなくなったからであり、それはその周辺の住民にとってそのお店がそれほど必要とされていなかったからにほかなりません。

もちろん後継者がいないのでお店をたたむ、ということもあるでしょうが、多くの場合は需要がなくなったから消えていくものだと思います。それをなくなってから困ると言っても、だったらあなたたちが前々からもっと利用すればよかったのではないですか、という気がします。

「だって、行ったって欲しい本がないから」という意見もよく聞きます。本のように多種多様の商品が出ていて、お客のニーズも店でバラバラですと誰もが満足する品揃えなんて無理です。どの程度の品揃えを目指すか、そこが難しいところだと思います。アマゾンだって自社の倉庫に置いてあるのはほんの一部ですから、置いてない本に関して言えば、街の本屋に注文するのもアマゾンを使うのも流通上はスピードに変わりはありません。

最近流行りのセレクト型の書店、あるいはカフェ併設の書店。カフェ併設の場合はカフェの売り上げで賄っているのでしょうから話が違ってきますが、ではセレクト型の書店ならどこでやっても成り立つのでしょうか? 例えば電車もないバスも通っていないような田舎でやっていても、人は来てくれるのでしょうか? そこにしか置いていない本があるなら行くかもしれませんが、インターネットが発達した現在、そこでしか手に入らない本なんて数えるほどでしょう。おしゃれにディスプレイしたって、誰も来なければ見てくれる人もいないし、商売としては成り立たないのではないでしょうか? やはりそれなりに人が集まるところ、集まりやすいところでないと、という気がします。

と悲観的なことばかり書いてしまいましたが、本を必要とする人にとって本屋がなくなってもアマゾンや楽天ブックス、セブンネットショッピングなどのネット書店があれば、とりあえずは入手は可能なので問題ない、という人もいるはずです。あるいは紀伊國屋書店やジュンク堂書店などのように電子書籍ストアのあるところなら、電子書籍を買ってもよいでしょう。本屋がなくなるということと、本がなくなるということ(紙か電子化は別として)は別問題ですから、今後も本屋がどんどん無くなっていったとしても意外と代替産業が発達して、それなりに便利にやっていける、決して困るということはならないのではないか、という気もします。