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併売見つけた!
新刊の『人口半減社会と戦う』と『人口減少社会のデザイン』が併売されていました。ちょうど同じようなタイミングで刊行された新刊の二点です。前者があたしの勤務先のもので、後者は東洋経済新報社の刊行物です。
人口減少や過疎化はずいぶん前から言われている問題ですが、政府としては何ら有効な対策を施すこともなく、結局は東京一極集中が加速しているだけのような気もします。そんな現状に改めて警告を発する両書です。
また写真にも写っていますが『移民の政治経済学』と一緒に並べるとよさそうな新刊が人文書院から刊行されました。
『移民政策とは何か』です。どちらにも共通するのは「移民は商品ではない、使い捨てにするものではない」という考え方でしょう。
この両書も是非併売をお願いいたします。
タイトルは似ているようですが……
店頭でこんな本を見かけました。
創元推理文庫の『ぼくが死んだ日』です。どこかで見たことあるようなタイトルだなあと思ったら、あたしの勤務先で出ていた『ぼくが逝った日』でした。既に品切れになってしまった本ですが、内容は以下の通りです。
語り手は、ある日突然この世を去った青年リオン、21歳。最愛の息子に先立たれた父親は、息子のふとんに顔を埋めては泣き、残されたケータイやノートを解読しようとしている。また精神分析医の予約票を見つけると、息子が何かひどく思い悩んでいたのではないかと妄想を膨らませては一喜一憂する。そんな茫然自失の日々を送る父の姿を、〈僕〉は密かに見守り、寄り添い、時には皮肉ってもみせる。〈僕〉は死者であることによって時間や空間を自在に飛び超え、父親をはじめとする生者たちの心の動きもそっくり知ることができるのだ。本書は、〈僕〉の死を挟んだ約一年にわたる、遺された者たちの生の記録でもある。著者のミシェル・ロスタンは1942年生まれの音楽家・舞台演出家。自ら台本も多数手がけてきたが、小説は、自身の体験をもとにした本書が第一作となる。大切な人を喪った哀しみを、忘れるのでもなく、乗り越えるのでもなく、「人はそれとともに生きていける」ということを息子の声を借りて綴った本書は、刊行するや話題を呼び、2011年《ゴンクール処女作賞》を受賞した。
一方の前者、『死んだ日』は
「ねえ、わたしの話を聞いて……」偶然車に乗せた少女、メアリアンに導かれてマイクが足を踏み入れたのは、十代の子どもばかりが葬られている、忘れ去られた墓地。怯えるマイクの周辺にいつのまにか現れた子どもたちが、次々と語り始めるのは、彼らの最後の物語だった……。廃病院に写真を撮りに行った少年が最後に見たものは。出来のいい姉に悪魔の鏡を覗くように仕向けた妹の運命は。ノスタルジー漂うゴーストストーリーの傑作。訳者あとがき=三辺律子
という内容です。うーん、趣はずいぶんと異なりますね。でも、併読、併売したらおもしろそうです。
著者のことではないとするならば……
関西ツアーもあと一日です。やはりあっという間でした。
さて、この四日間、書店の方といろいろな話をしました、恐らくあたしが一番熱く語っていたのは新刊『房思琪の初恋の楽園』についてだと思います。だって、それくらい多くの人に読んで欲しいと思うからです。
改めてどんなストーリーなのかを紹介しますと、舞台は台湾の高雄。ちょっとした金持ちたちが暮らすマンションが舞台です。そこに住んでいるのが主人公の美少女・房思琪と本書の語り手となる幼馴染みです。時には住人たちが仲良くホームパーティーなどを開く脇和気藹々としたマンションでの生活。そんなマンションに全国的にも有名な人気先生夫妻が加わります。主人公たちの勉強をみてあげようということになり、二人の両親は「こんな有名な先生に教えて漏れるなんて……」と浮かれモード。二人の少女も嬉しく先生の元へ通い始めます。
ところが、早くも主人公の美少女ぶりに目を付けた先生は、言葉巧みに二人を別々に教えるように誘導し、ある日とうとう主人公をレイプします。その後も二人の関係は続きますが、主人公たちが高校進学となって台北の進学校へ入ることになります。台北で二人はルームシェア的にマンションで暮らし始めるのですが、両親とすれば不安もあります。ところが、先生が自分が台北でも押しているので週に何日かは台北に行くから子供たちの様子を見てあげようと申し出ます。両親は渡りに船、喜び安心して子供たちを台北に送り出します。しかし、台北には先生の別宅であるマンションがあり、主人公はその部屋の鍵を渡され(本書のカバー写真をご覧あれ!)台北でも先生のマンションへ通う生活を送ります。そんな中、主人公はとうとう幼馴染みに先生との関係を告げるのです。
自分がレイプに逢わなくてよかったと安堵する反面、どうして自分にはしようとしてこなかったのかというささやかな嫉妬、そして親友の苦しみに何も気づかなかったもどかしさ。恐らく幼馴染みの子にはいろいろな感情が生まれたと思います。
高尾のマンションには、マンションオーナーの息子の新妻で、主人公ら二人が姉のように慕う女性もいますが、彼女は夫からDV被害を受けていて、いつも長袖の服を着ています。世間的にはリッチな連中が住んでいると思われているマンションも実態はそんなところ。そして高校生活を終え大学に入るようになるとき物語は大きく動きます。
主人公は先生と縁を切り、新しい生活へと一歩を踏み出すのでしょうか、あるいは著者と同じように命を絶ってしまうのか、それとも……
本書は実話を基にしているということで、著者自身に起きたことなのではないかと、台湾ではセンセーショナルに取り上げられたようです。そして本書刊行の二か月後に著者はみずから命を絶ってしまいました。果たして実話とはどういうことだったのでしょう?
あたし自身、こんな風に本書について、営業トークをしていたのですが、そのうちに主人公が著者なのではなく、主人公の幼馴染みが著者だったのではないか、という気がしてきました。はっきりとした根拠があるわけではないのですが、そんな風に感じられたのです。
まだ行けていないところ
朝から首里城火災のニュースに驚いていますが、関西ツアーの四日目です。つまり今日と明日で終わりです。
毎回そうなのですが、四日目になると、ここまでの三日間で回った書店と回っていない書店を確認し、残りの二日間でどうこなすかを考えないとなりません。勤務先のお金を使ってツアーに出ている以上、きちんと仕事はこなさないとなりません。
もちろん、書店の方のシフトの都合で逢えたり逢えなかったりはありますが、それは致し方ありません。次の機会といたしましょう。
日数をかければ訪問できるお店は増やせますが、当然そのぶんツアー代もかさむので、費用対効果を考えると月曜から金曜の五日間、あるいは土曜までの六日間がベターだと考えていますが……
さて、昨日は一日京都へ行っていましたが、まだ回り切れていないので、今日も再び京都へ行きます。上洛と表現してよいのでしょうか? 京都は大阪と異なり、雨に濡れずに回れる書店が少ないので、一番気になるのは天気ですね。
営業スタイル
関西ツアー三日目、中日です。今回もあっという間の二日間、残り三日も矢の如く過ぎてゆくのでしょう。
さて、このところの関西ツアーはまずは大阪に着いて梅田界隈を巡るというのがパターン化していますが、それでよいのでしょうか。二日目以降は京都二日、大阪二日を気分と天気次第で振り分けています。
まあ店舗の数や規模から言って梅田がメインになるのは仕方ないとは思いますが、もっと効率的な回り方はないものかと時々考えます。ただ、注文だけ取って数をこなすのが効率的なのか、とも思いますし難しいところです。
お店の方と限りなく雑談に近い話をするのも、ただお店の中をぶらぶらして本を見て回るのも、それなりに大切だと思うのですよね。
さてこの二日は大阪を回っていたので、今日は京都へ向かいます。
今日の配本(19/10/28)
見つけるとちょっぴり嬉しくなります
研修旅行中に見つけた、自分の勤務先に関わるものを少々ご紹介します。
と、その前に、今回の研修旅行の概略地図を載せておきます。こうしてみると移動距離は結構なものになりました。
雲の上の図書館の検索機で検索をかけたらヒットしました。「えっ、文庫クセジュなんて所蔵しているの?」というのが正直な感想でした。書棚の番号を見ると文庫・新書コーナーにあるようなので探してみましたが、なかなか見つかりません(汗)。ようやく見つけたのがこちらです。まあ、これだけでも置いてくれているだけありがたいと思わなければなりませんね。
こちらは文庫・新書のコーナーではなく、海外文学の棚の一画に置いてありました。文庫クセジュ同様「これだけか……」と思う反面、これだけでも置いてくれていてありがとうございます、という気持ちになります。そもそも単行本でも海外文学は圧倒的に少なかったですから、Uブックスまで揃えるなんて難しいでしょう。
事前に文庫クセジュのフェアをやってくれているのは知っていたので、「さて、どこでやっているのかな?」と思っていたら簡単に見つかりました。
新書コーナーで、ご覧のように大々的に展開中です。ふだんは文庫クセジュは置いていないはずです。どうしても決められたスペースで各社の新書を置くとなると、文庫クセジュまでは置けないというのが正直なところでしょう。
でも、逆に文庫クセジュのようなマイナーな新書だからこそ、普段から棚に置いてあるよりも、一年一度こういった形でフェアとして並べてもらった方が目を惹きますし、売り上げ的にも効果的なのではないかと思います。実際に、数点売れているようでしたし。
今日の配本(19/10/24)
カバーのイメージ
近刊の『房思琪の初恋の楽園』のカバー、どう思われますか?
下に貼ったリンクのイメージには帯がありませんので、公式サイトのイメージを見ていただくと帯も入っています。そこには
先生、わたしのこと愛してる?
とあります。内容紹介には「美しい房思琪は、13歳のとき、下の階に住む憧れの五十代の国語教師に作文を見てあげると誘われ、部屋に行くと強姦される。」とありますから、どんな作品なのかはおよそ類推が着くと思いますが、邦訳版のカバーは作品を読んでから、あるいは半ばまで読んだ上で眺めると、非常に象徴的なものになっています。
もしあたしがこの作品を編集者として担当していたら、日本人ならおおた慶文、中国人なら平凡&陳淑芬の描く美少女のイラストを使ったのではないかと思います。そんなイメージを抱きながら読んでいました。主人公が可憐な美少女であればあるほど、この作品の苦しさ、読後感のモヤモヤした感じが表わせるのではないかと思うのです。ちなみに原書はこんな装丁です。
本作、原書が出てからも反響が大きく、既に翻訳者である泉京鹿さんが朝日新聞のGLOBEで紹介されていました。泉さんもこの中で
性的虐待、性暴力被害に女性たちが声をあげた「#MeToo」の世界的なムーブメントがもう少し早く起こっていたら、著者の林奕含は命を絶つこともなかったかもしれない。現在、筆者が翻訳中だが、読んでいるだけでも苦しい。気が付くと、息をするのを忘れている。
と書かれていますが、短絡的に#MeTooやフェミニズムに結びつけるのでなく、もっとさまざまな角度から読み解ける作品ではないかと思います。たとえば、一定年齢以上の男性であれば自分が「李国華」だったとしたら。思春期の男子なら自分の彼女が房思琪だったら、あるいは房思琪がクラスメートで彼女のことを好きになっていたら。女性なら、もちろん房思琪に重ね合わせて読むこともできるでしょうが、親友の劉怡婷や同じマンションに住む許伊紋の立場だったら。そして彼女たちの父親、母親だったとしたら。
本書が実話に基づいていると作者が書いているその実話が作者自身に起こったことであるか否かは別として、事実ではなくとも何かしらの真実を伝えていると感じられる作品です。