縁は異なもの

今朝の朝日新聞に筑摩書房の大きな広告が載っていました。

その中の一冊に目が留まりました。筑摩プリマー新書の一冊『高校図書館デイズ 生徒と司書の本をめぐる語らい』です。

タイトルにも惹かれましたが、その著者名に見覚えがあるなあと思ったら、そうでした、少し前の『人文会ニュース』に寄稿していただいた成田さんだったのですね。

筑摩書房も人文会の仲間ですから、この業界は狭いのか広いのか……(笑)

そんな本はありません!

中公新書の『応仁の乱』が人気です。いまだに売れ続けているようです。本屋へ行くとたくさん並んでいます。

 

ところが、そのすぐそばに『マンガで読む応仁の乱』という文庫本が並んでいるのを見つけました。「応仁の乱が人気なので、すぐにこういう二匹目のドジョウ狙いの本が出てきたか」と思ってよく見ると、作者はなんと石ノ森章太郎です。

いや、石ノ森章太郎はとっくの昔に亡くなっているはず、今回のブームに乗って新作なんて書けるわけがありません。と思って手に取って見ると、なんとそれは中公文庫版の「マンガ日本の歴史」の第22巻、『王法・仏法の破滅-応仁の乱』でした。もちろん作画は石ノ森章太郎です。なんのことはない、もともとあった文庫に、ほぼカバーと同じ大きさの帯を掛けただけなのです。

ズルい、と言うよりは、ウマい、という感じですね。でも、パッと見たお客様がその場では買わずに他のお店に行って買おうと思い、「文庫サイズで、マンガで読む応仁の乱ってありますか?」と聞いても、そんな本ありません。検索しても出て来ないのではないでしょうか?

しかし、面白いもので、中央公論新社のウェブサイトで同書を検索すると、上のような画像が現われますが、アマゾンで検索すると上のようにほぼカバーと同じ大きさの「オビ」が掛かった画像が表示されます。

この本どこにありますか?

この十数年の書店の大型化、1000坪を超える本屋も珍しくない昨今。そもそも本屋の広さは坪数で表わされることがほとんどすが、それで広さをイメージできる人ってどれくらいいるのでしょうね? いまの若い世代ですと「坪って何よ?」という感じではないでしょうか? でも、本屋に限らず、日本では広さを表わすのに坪を単位とするのがフツーなので、それがたとえ一般人に伝わりにくいものだとしても習慣的に使っているのではないでしょうか?

閑話休題。

本屋が広くなって、目的の本が見つけられないというお客さんは多いようです。日常的に本をよく読み、本屋をよく利用している人であれば、自分の探している本がどんなジャンルなのかわかっているのでそれほど迷うこともなくお目当ての本を見つけられるでしょう。でも、それほどでもない人は大きな本屋に来てもどこから探せばよいのかすらわからないでしょう。

もちろん、本によってはどこに置いてあるのかわかりにくいものもあります。

 

新刊の『ハヤブサ その歴史・文化・生態』は副題に「その歴史・文化・生態」とあるとおり、ハヤブサについて文化史的、生態学的に書かれたものですから、本屋では自然科学の生物の棚に置かれていることが普通です。大型店ですと、生物の下位分類、動物、鳥類、猛禽類といったコーナーに置かれていると思います。

その一方、同じ著者の前作『オはオオタカのオ』は、確かにオオタカについて書いてはあるものの、父を亡くした著者がオオタカを飼育することによって喪失感を癒していくノンフィクションです。ですから本屋では文芸書コーナーのノンフィクション、海外ノンフィクションの棚に置かれていることがほとんどです。もちろん動物の棚にも置いてあったりしますが、見る限りノンフィクションの方が多いです。

となると、同じ著者の作品でどちらも鳥、それも猛禽を扱った本なのに、一方は自然科学、一方は文芸に置かれてしまうわけです。買う方としてはちょっと不親切と感じるかも知れませんね。ただ、本の内容に従って分類すればそうなるわけですから、これはこれで合理的なのです。もちろん、大型店の場合、在庫一冊ということは少ないですから、この両書を自然科学にも文芸にもどちらにも置いてある書店も見受けられます。そうなっていると読者にはありがたいところですが、書店からすると棚管理がちょっと面倒になるという不都合も出てきます。

 

次に、これまた新刊の『続・寂聴伝』はそのものズバリ、瀬戸内寂聴さんの評伝です。普通に考えれば文芸書コーナーの評論の棚に置かれているはずです。しかし、瀬戸内寂聴さんの本、小説やエッセイなどは同じ文芸書コーナーでも日本の女性作家の棚に並んでいるはずです。寂聴さんの評伝ですから、興味を持つのは当然寂聴さんのファンの方が真っ先に思い浮かびます。となると、本書も評論ではなく女性作家コーナーの寂聴さんの作品の隣に並べてあった方が効果的なのではないかと思います。

現にそういう並べ方をしている書店も数多くあります。評論に棚にある作家論などは個別の作家の場合、その作家の著作が並んでいるところに置いた方がよいのでしょうけど、他社本ですが『乱歩と清張』だと、こんどは江戸川乱歩のところか、松本清張のところか悩みますね。

 

この人、カフカ?』なども評論コーナーに並んでいることもありますが、やはり海外文学のカフカのところに並べた方がよいだろうなあと思います。でも、カフカって、いま単行本で読めるものありましたっけ? ほとんどが文庫(新書版の白水Uブックスもお忘れなく!)ですよね? そうなると、問題はまた面倒なことになります。さすがに文庫コーナーには置けませんし、そもそも文庫は会社別、レーベル別に並んでいますからね。

やはり、本をどこに置くかって難しい。でもそれが面白さでもあり、書店(担当者?)の個性でもあるわけで、こっちに置いても全然売れなかったのが、あっちへ置いたらすぐに売れた、なんてこともよく聞くので、悩み出したら止まりません。

目録なのか、カタログなのか?

『哲学・思想図書総目録』『社会図書総目録』『心理図書総目録』、いわゆる人文三目録の最新版、2017-2018年版が先頃出来上がりました。それが下の写真です。

今の時代、ネットで調べれば簡単なのに、わざわざ紙ベースの目録なんて需要あるの? と言われそうですが、ネットで、たとえばアマゾンなどのサイトで人文書を検索したとしても、大分類、中分類、小分類と部類分けを施してあるわけではありませんから、化なり大雑把な検索になってしまいます。またビッグデータを検索するので、ちょこっとでも引っかかっていれば、まるで関係のない本までヒットしてしまうこともあります。

いずれ検索の精度も上がってくるのかも知れませんが、それでもまだしばらくは、否、当分の間、紙ベースの目録のアドバンテージはあると信じています。もちろんネットならではの利便性も否定するわけではありませんが……

さて、同じく出来たてホヤホヤなのが、あたしの勤務先の「新書カタログ」です。あたしの勤務先では春先に「語学書カタログ」、この時季に「新書カタログ」、夏に入ったころに「総合カタログ」の三種類を制作しています。出版社によっては年末に「翌年版」を作っているところもあるようですが、あたしの勤務先は上のようなスケジュールです。

この「新書カタログ」は文庫クセジュとUブックスという新書サイズの二つの叢書のカタログになっています。何年前からこのタイプになったのか覚えていませんが……(汗)

それにしても「カタログ」と「目録」、どちらの方が人口に膾炙しているでしょう?

絵本とおともだち、だったのか?

二子玉川の高島屋で「絵本とおともだち」というフェアをやっていました。

基本的には児童書出版社、福音館書店の「こどものとも」と、そこから生まれた絵本のフェア、という感じでした。本の展示即売だけでなく、ちょっとした体験ができるコーナーもあり、子どもには楽しい催しではないでしょうか? また「絵本ができるまで」として原稿やゲラの実物の展示も行なわれていました。入場は無料で5月7日までです。

で、絵本です。

 

記憶が残っていないだけなのか、あたしは幼いころに絵本を読んだという記憶がほとんどありません。もちろん全く読んだことがないというのではなく、いくつか記憶に残っているものはあります。会場で展示されていたものの中では『三びきのこぶた』と『おおきなかぶ』くらい、他の本は幼少時においては見たことも読んだことも全くないものばかりでした。

なにせ『ぐりとぐら』ですら、全く読んだことがないので、あたしの幼少時の絵本体験ってどんなだったのだろうと思います(汗)。

もちろん他にも読んだような記憶のある絵本はありますが、そもそも子供が絵本の出版社を意識するなんてことはありません。いや、親だって、出版社を意識して絵本を買い与えている人は多くはないでしょう。たまたまあたしの場合、福音館の絵本とはあまり縁がなかっただけなのかも知れません。

 

なので、いまだに出版社は知らないのですが、『手ぶくろを買いに』とか『ベロ出しチョンマ』などは、読んだことのある絵本として覚えています。確か、『ベロ出しチョンマ』は細かなストーリーは忘れてしまいましたが、悲しいお話だったような記憶があります。

まあ、こんな絵本体験の記憶しかありませんが、その後もずーっと本は好きで、いろいろ読んできました。かなりジャンルに偏りはあると思いますので、有名なものとか、その当時においては必読と言われたようなものをことごとく外しているかもしれません。それでもこうして出版社で働いているわけですから、人生って不思議なものです。

批判よりも功績を称えるべき

本屋大賞も発表も無事終わり、と書きたいところですが、今朝の朝日新聞にも直木賞を取って十分売れている本が本屋大賞に選ばれた、ということを伝えていました。

ただ、この問題は、今年があまりにも顕著ですが、ここ数年ずーっと言われ続けてきたことです。記事中にもありましたし、あたしも知り合いの書店員さんから話を聞いたりしますけど、この点について自問自答している書店員さんは多いです。決して、「これていい」と思っているわけではなく、本屋大賞はどうあるべきか、考えている方が多いです。

朝日の記事は、それでも批判と言うよりは現状を紹介している感じなのでマシですが、ネットなどでは更に過激に本屋大賞批判をしているものもあるようです。言論の自由がありますから、批判することは構いませんが、個人的には斜陽と言われる小さな業界で、少しでもプラスになることであればそれを称えるべきであって、足を引っ張るようなことは慎むべきではないか、そう思います。

本屋大賞が、それなりの歴史を作ってきて、まるっきり問題がないとは言いませんが、それは実行委員の方々、言われなくてもわかっているはずなので、外野は温かく見守りましょうよ、と思います。

書店で見かけたもの

下の写真は、町田にある久美堂本店。

YA出版会のセットが棚に揃っています。中高生の皆さん、是非どうぞ!

上の写真はブックファースト新宿店。ポール・オースターの新刊が二か月づけて刊行になったのを記念して、オースターの翻訳と、オースターが影響を受けた作家たちの本を取り揃えています。オースター作品は、あたしの勤務先でもいくつか出していますし、オースターが影響を受けたベケットのもの出していますので、思いのほか、あたしの勤務先の刊行物が並んでいます! ありがたいことです。

可能性は都市部でカフェ?

今日の朝日新聞の読書欄。

本屋に関する本2冊が取り上げられていました。『ローカルブックストアである』と『本屋、はじめました』です。

 

どちらも業界では話題の本屋であり、店主さん。前者については少し前に神保町でトークイベントがあったので行って来ました。

さて、本屋や出版会についてはこの数年、いや、十数年、暗い話題しか出て来ないような状況ですが、そんな中、小さい書店だって小さい書店なりに頑張っているんだ、やりようによっては活路はある、ということを示した事例だと思います。あるいは書籍という形では出ていませんが、「文庫X」なども街の書店の工夫のたまものだと思います。

こういった動き、活動をとやかく言うつもりはありませんし、そんな資格、あたしにはありません。

ただ、これらを見ていて共通するのは、やはりそこそこの人口を擁する都市でないと難しいのかなということです。キューブリックは福岡、タイトルは東京の荻窪、さわや書店は盛岡です。まるっきりの田舎でも可能性はあるのだろうか、と考えてしまいます。

また、もう一つ、最近のこの手の本屋の共通項としてはカフェ併設があります。これも本屋だけではやっていけないということの裏返しなのでしょうか? もちろん、そんな風に否定的に捉えるのではなく、本はいろいろなものとコラボできる極めて優秀なコンテンツだと積極的に評価して、その本の可能性を広げる手段としてのカフェだとは思うのですが……

そういえば、一か月くらい前だったと思うのですが、田舎で本屋を開いた人の記事が載っていました。ただ、あれは商売というよりも趣味の延長のような感じに書かれていたと記憶しているのですけど。

2-1-1

タイトルの読み方。

と言いますか、そこにこめた意味を斟酌すると、「入荷2冊、売れ1冊、現在庫1冊」と読んでいただきたいのであります。

それが何か?

これが実にビミョーなのです。

大型店を除きますと、一般的な本屋さんに、あたしの勤務先の新刊が配本される数は1冊か2冊というところです。いや、その前に、たぶん書店の数で言ったら、全国の8割以上の本屋さんにはそもそも配本がないわけで、配本があるお店でも1冊というところが半分くらい、2冊というところが3割から4割くらい、残りのお店は5冊とかやや多めに配本される本屋になります。

で、1冊のお店は、入荷して売れたら、「へえー、こんな本でも売れるんだ」と思って追加注文をしてくれる場合もあれば、「もう、いいや」ということで売りっぱなしになってしまう場合もあります。こういう本屋には「追加いかがですか?」と言う場合もあれば、「あのお店なら一冊売れれば御の字」と判断する場合もあります。

そしてタイトルのような本屋です。

2冊入荷して1冊売れた、まだ書棚には1冊残っているわけです。2冊入荷するわけですから、1冊しか入荷しない本屋よりはよく売る店、本が売れる店なはずです。ですから比較的早い段階で1冊売れたのであれば、もうちょっと追加してさらなる拡販を狙って欲しいと思うのが出版社の気持ちです。

が、出版不況の折柄、できるだけ売れない在庫を抱えたくないという本屋の本音ちもわかります。さすがに2冊入荷してすぐに2冊売れるようであれば追加発注するでしょうけど、1冊だけ売れた場合、残りの1冊が売れるのにどのくらいの時間がかかるか見てしまうことが多いようです。その結果、こちらが「追加どうですか?」と持ちかけても、「まだ1冊あるからいいや」という返事になるわけです。

もちろん、出版社の営業としては「いや、1冊だけ棚に刺さったままでは目立たないから売れる機会が減ってしまいますよ」と、少し強気に推すのもアリだと思います。

が、上にも書いた出版不況は、そんな営業トークをやんわりと拒否してしまいます。

2冊入ってすぐに1冊売れたのだから、「これは売れる」と判断し、3冊くらい追加して面陳や平積みにすればさらに売り伸ばせる可能性があると思います。が、そういう冒険をなかなかしなくなっているのが業界全体の空気です。確かに、こっちだって、「じゃあ、追加して平積みしたらもっと売れますか?」と聞かれたら、「絶対」とは言えません。

ただ、経験的に売れる勢いとか、本の内容や値段から、「まだ売れるはず」ということは言えます。

2冊入荷して1冊売れ、残りの1冊を売るのに、そのままでは売れる可能性は低いと思いますが、あと2冊くらい追加すれば、その1冊が売れる可能性は高まると思います。

「2冊入荷して1冊売れ、残りが1冊」ですと、売上率は5割です。「2冊入荷して1冊売れ、さらに2冊追加してまた1冊売れた」とすると、こちらも売上率は5割です。

このとき出版社は「同じ5割でも前者は売れた実数が1冊だけど、後者は2冊」なので後者の方がよいと考えます。しかし、多くの書店員さんは「同じ5割でも、前者だと返品は1冊で済むけど、後者だと2冊になる」と考えがちなようです。また売れた本だから棚に1冊は残しておこうと思ったとしても、後者の場合はやはり1冊の返品が出てしまいます。

同じ現象を違う角度から見ることになるので、なかなか難しいところです。

売れない辞書の未来よりも作れない辞書の未来

少し前の朝日新聞に辞書が売れないという小さな記事が載っていました。

とても興味深く読みました。

無料の辞書が増えて、わざわざ本屋さんで紙の辞書を買わなくなっている、それは全くその通りです。単体の電子辞書もスマホの普及とスマホ用アプリの登場で発売当初のような売れ行きはもう見込めなくなっているようです。

とはいえ、子供の教育には紙の辞書を引かせるのがよい、といった意見も根強く、子供用の辞書の売り上げはそれほど減っていないとも聞きますし、実のところ微増だというデータもあるそうです。

しかし、辞書って、一部例外はありますが、手間暇かけて作った割りには値段が安いものです。競合商品がある場合、その価格を意識せざるを得ませんから、どうしても安売り競争とまでは行かなくとも、あまり高い値段は付けられないのが出版社の実情です。

筆者は、紙の辞書はともかく、有料のウェブサイトを軌道に乗せ、辞書を引く喜びを知ってもらおうという趣旨の投稿のようで、それ自体に反論はありませんし、その通りだとも思います。ただ、有料サイトがどこまで軌道に乗るのか、ジャパンナレッジという有料サイトがあり、あたしも個人会員ですが、果たしてこのサイトは採算がとれているのか、詳しいことは知りません。

で、辞書の未来というと、このような出版費、採算、利益といったお金の問題がまずは話題となり、もちろんそれはとても大事なことですから避けて通ることはできませんが、とても大きな壁になっているかのような論調が多い気がします。しかし、出版社で辞書を編んでいた(辞書の編集に携わった)立場から言わせてもらいますと、辞書を作る側の熱量は十分あるのだろうかという気もします。

諸橋轍次の物語ではありませんが、辞書や叢書などの編纂には伝説的な物語がついて回ります。多少の誇張はあるにせよ、それらはどれも真実、事実なのでしょう。なによりも、作り上げようとした情熱に関しては嘘はないはずです。そう、辞書を作るにはお金の問題だけではなく、作る側の気持ちも必要なのです。

仮に資金が潤沢な出版社が制作費を出してくれるとして、辞書って半年や一年で出来上がるものではありません。今の時代、コンピューターを活用するでしょうから、昔のように何十年という編集期間はかからないにせよ、数年の時間を要することはまず間違いないでしょう。あたしが言いたいのは、その数年、出版社の資金は涸れなくとも、著者(編者)の熱意が続くのかということです。

あたしが担当した辞典の編者は、パソコンなどの便利さには十分な理解がありましたが、ご自身で使うということはなかった世代の方です。ですから、毎日毎日、朝から晩まで机の周りにたくさんの辞書や関連書籍を広げ、目の前には赤字だらけのゲラを置き、そこに更に赤字を加えていくという作業を、それこそ黙々と365日、数十年にわたって続けていました。果たして今、それだけの熱量を辞書作りに捧げてくれる方がいるのか……

紙かデジタルかはおくとしても、辞書は作り続けていかなければならないものだと思います。十年後にある出版社が新たな辞書を作ろうとしたときに、費用の工面はたったとしても、作ってくれる、編纂してくれる人が見つかるのかどうか、そこに不安を感じます。そして出版社の側も、辞書を作るというノウハウの継承が行なわれているのだろうか、というところにももっと大きな不安があります。