きっと何か企んでいるはず!

他の本と併読しているので、まだ半ばを過ぎたくらいなのですが、『異形の愛』が面白いです。

出版元である河出書房新社は、最近では『サピエンス全史(上)』『サピエンス全史(下)』のヒットがよく知られていますが、海外文学でも注目作品が目白押しです。

 

この『異形の愛』と、実は密かに相通じるものを感じているのが、『愉楽』と『こびとが打ち上げた小さなボール』という、河出書房新社の海外文学作品です。

 

三作とも、障害者など差別された存在、虐げられた存在にスポットをあてた作品で、このような作品を続けざまに刊行するとは、きっと同社の編集部は何かを狙っているのだと、あたしは密かに疑っているのです。

そんな河出書房新社ですが、文芸部門だけでなく、人文部門でも『えた非人』という本を刊行していて、あたしの疑いはますます強まっていました。

 

そして、最近も『賤民にされた人びと』『被差別の民俗学』を刊行しているわけですから、もうビンゴですね。これは人文・文芸両方の編集部が足並みを揃えて刊行しているとしか思えません。

もともと民俗学的な書籍の刊行は盛んな版元だと思っていましたが、どちらかというと風俗的なものがメインだと思い込んでいました。これはきっと何かある、そんな気がしているのあたしだけでしょうか?

それとも目敏い方からは「今ごろ気づいたの?」と言われてしまうような案件だったのでしょうか?

図書館の民営化?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

公立図書館の二割が民営化されているということらしいです。記事では民営化がよいのか否か断定はしていませんし、直営だからこそのよさも指摘されています。記事中にもありますが、古本屋から書籍を購入することが悪いとは思いません。新刊本で手に入るのに古書業者から購入するのは問題だと思いますが、既に版元品切れで、古書でしか手に入らない書籍というのもあります。図書館として揃えるべき書籍は必ずしも新刊とは限りませんから、やむを得ないだろうと考えています。

喫茶コーナーを併設というのも、本に親しんでもらうという点ではありだと思いますが、儲けようという狙いが透けて見えてしまうとイヤですね。やはり本に対する愛情というか、そういったものがベースにあって欲しいです。

35億とは言いませんが、3000だって盛りすぎじゃないかしら?

今朝の朝日新聞。

出版社があの手この手で新刊をなんとか売ろうと努力している事例の紹介のようです。あえてこんな記事にしなくとも、各社TwitterやFacebook、Instagramなどを利用したPRはかなりやっているのではないでしょうか? もちろん出版社によって熱の入れ方は異なりますし、そもそものウェブサイトの作り込みにもかなりの差があるように感じられます。

そんな中、早川書房の取り組みが下の写真。

本文の一部を公開して、事前に読者に読んでもらうのだそうです。これってどのくらいの読者が熱心に読んでくれるのか、そこが最大の関心事でありネックです。公開したはよいけれど、そこそこアクセスはあるみたいだけれど、一向に具体的な反応が返ってこない、ということになるのが関の山という気もします。

タイトル募集するのに、結局応募してきた人が十数人ではマズいでしょうから、まあなんとか60人は集めたようですが、仕込みも多少はあるのでしょうね。海外文学の場合、元出版社との権利の問題もありますから、あまりたくさんの分量をウェブ公開するわけにもいかないと思いますが、意見を求めるにはそれなりの分量を公開しないとならないでしょうし、そのさじ加減が難しいところです。

しかし、この記事の中、海外文学ファンは三千人ほどと書いてあります。「それだけしかいないの?」と思った方と、「そんなにいるの?」と思った方と、どちらが多いでしょうか? あたしの感覚では「そんなにいない」っていう感じなのですが……

学生さん、とにかく教科書は買いましょうね!

昨日は午後から大学生協のセミナーでした。書籍部門担当者が集まって、生協で如何に書籍を売り伸ばすか、という勉強会です。書店でもチェーン店ではこういったジャンルごとの勉強をやっているという話も聞いたことがありますが、ここまで大規模なものはほとんど聞いたことがありません。

 

さて、最初は吉見俊哉さんの講演。同誌の著書『大学とは何か』『「文系学部廃止」の衝撃』を踏まえたお話でした。時間の関係で最後の方が駆け足になってしまったのは残念でしたが、興味深い内容でした。講演の柱だけまとめておきますと

1)「文系学部廃止」報道の虚実 2)大学の現在 3)大学の死 大学の再生 4)出版の爆発 出版の危機 5)「文系」は役に立つ 6)大学のゆくえ 本のゆくえ

という内容でした。

この講演の引き続き、各生協の事例報告。今回は教科書販売の取り組みがテーマで、山形大学生協と近畿大学生協の方がそれぞれの取り組みについて報告されました。それを受けてと言いますか、生協連の若手の方々のパネルディスカッションが続き、今日は分科会的に分かれて議論をされているのだと思います。

いくつかの報告を、聞きかじりのメモを元にまとめますと、大学のクォーター制に合わせ教科書も薄いもの、簡単なものが求められているとのこと。またそれに伴い、安い教科書の需要が高まっているようです。厳密にクォーター制になったら、生徒は年に4回も教科書を買わなければならなくなるわけですから、金銭的な負担もバカにならないですよね。先生もそのことは意識していて、たぶん出版社も考えないとならない点だと思います。ただし、このクォーター制は全国的に見るとまだまだ過渡期で流動的な要素も大きいので、もう少し様子を見ないとならない、というのも事実だと思います。

他には、教科書展示会なる催しを実施している生協がいくつかあることを知りました。不勉強で昨日初めて知ったのですが、つまりは生協店舗内なのか別に会場を借りるのかはわかりませんが、ともかく出版社から出ている教科書を集めて並べ、教員の教科書決定(=採用決定)の参考にしてもらおうということらしいです。

出版社から見ると、「個々の先生には献本として教科書の実物を送っているわけだから…」という意見もあると思います。実際にその展示会で採用を決める先生がどれくらいいるのか、まだまだ少数のようですし、ある大学生協では8月か9月に展示会を開催予定とのことですが、来週からの採用を予定している新刊教科書が夏の時点で出来上がっている出版社がどれほどあるでしょう?

ちょっと否定的な書き方になってしまいましたが、生協での教科書展示会が一般化し、そこで採用品を選ぶのが教員の側でも普通のルーチンとなってくるようであれば、出版社側もそれに間に合うように教科書を作るようになると思います。もちろん売れ行き良好なら既刊でも展示会に並べればよいと思いますし、これによって個々の先生への献本が減らせるのであれば、出版社にとってもありがたいとは思います。

また実際の教科書販売では、とにかく短期間に学生の購入が集中するわけなので、待たせない、迷わせない、すぐ買える、という3点が重要なようです。生協によっては教科書販売所を別途も受けているところもありますが、層で内政教も多数あります。教科書の種類は講義の種類だけありますし、学生の数だって千をもって数えるほどいます。それがわずか一週間か二週間で動くのですから、まさに生き馬の目を抜く状況でしょうね。

レジを増やしたり、生協用のプリペイドカードを導入したり、やれる限りの努力を傾けている様子がうかがえました。教科書販売が生協の売り上げのかなりの割合を占めるからとはいえ、こんな風に本を売ること、読者(学生)に届けることに必死になっている方々が大勢いることに出版社としては大きな勇気と希望をもらったような気がした半日でした。

今年の夏はいつもと違う

昨夕は、神楽坂で業界団体の納涼会でした。

毎年この時季に行なわれる、夏の風物詩です。

参加社は、主催者発表で150名ほど。この数年来、毎年のように参加していますが、実のところ半分以上の人は、所属も名前も知らない方ばかり。それでも「なんとなく、顔に見覚えはあるなあ~」という方々も若干は……(汗)

立食パーティーの会場では全員首から名札をぶら下げているので、改めて顔と名前を確認している自分がいます(笑)。「ご無沙汰ですね」などと話しかけられても、これもやはり半分以上の方は「あなた、誰?」という状況なんです。

年々記憶力が落ちている上に、覚えようという気がさらさらないので困ったものです。が、やはり毎年のように出ていると、知らぬ間に覚えている方もいるのですから、人間の能力というのは不思議なものです。

さて、この会、毎年この時季に行なわれると書きましたが、毎年、神楽坂祭りと重なります。あたしがお祭り嫌いなのは、このダイアリーで何度も表明しているので今さら述べるまでもありませんが、この神楽坂祭りと重なると、飯田橋駅から会場までの道のり、つまり神楽坂ですが、ここが大混雑になります。歩くのもひと苦労です。

人が多いところへ持ってきて、歩道には屋台がずらりと並ぶわけですから、ますます歩くスペースが狭くなります。人混みをかき分け会場へ向かい、会が終わった後も再び人混みをかき分け駅へ向かうのです。これがイヤになります。

が、今年は神楽坂祭りが来週開催のようで、昨夕は人混みはほとんどなく、いつもの週末の夕景と変わらない状況でした。「これなら歩きやすい」というわけで、人混みに揉みくちゃにされることなく、納涼会を楽しんだというわけです。

文庫の手軽さは理解できますが……

朝日新聞の岩波文庫記事の最終回。

文庫は手軽であるということのようです。確かにその通り。気が向いたら手に取って、なんなら買って読んでみる、それが文庫本の醍醐味だと思います。

だからこそ、そういう文庫まで図書館で借りて読んでいる人が増えている昨今の状況、つまり不景気ってことですが、そんな状況なんとかならないものか、と思ってしまいます。

文庫(や新書)くらい、借りずに買ってよ、というのが本音ではありますが、本を買う金はないけれど、それでも本を読みたいんだ、という気持ちもわかりますし、そういう気持ちは大事にしたいところです。でも、やっぱり、ちょっと高い単行本ならいざ知らず、文庫なんだから……。いや、最近は文庫もかなり高額になりましたね(汗)。

それとは別に、古典などが文庫になるのも悪いことではないものの、書店における棚作りとして見たときにはどうなのかな、という気もします。

本屋の場合、基本的にはジャンルごと日本が並んでいるわけですが、文庫や新書はジャンルではなく、「○○文庫」「△△新書」という括りで並んでいます。その方が店員も管理しやすい、というメリットはわかります。

でも、そうなると岩波文庫の西洋哲学の古典が人文書の棚にはなくて、岩波文庫のコーナーで探さないとならなくなります。書店によっては文庫もその内容に従ってジャンルごとの棚に置いている店舗も散見されますが、単行本の中に文庫本を混ぜて置くと埋もれてしまったり、棚の高さが無駄になったり、なにかと不都合も出てきます。

いま「不都合」と書きましたが、あくまで書店の棚管理上の不都合であって、そのジャンルの本を捜しているお客さんからすれば、単行本も文庫も新書も関係なくて、そのジャンルの本は同じところに置いて欲しいと思うものではないでしょうか?

本屋に慣れていない人が、例えば夏目漱石の『坊っちゃん』を買おうと思って本屋に来たとします。夏目漱石なんだから「文芸」とか「文学」のコーナーに置いてあるだろうと予想をつけて行ってみたけれど、いくら探しても見つからない、「夏目漱石の…」といった周縁の本は「評論」という棚に置いてあるけれど、いくら探しても『坊っちゃん』は見つからない。そんな状況がいまの本屋です。

もちろん店員に聞いたり、店内の検索機を使えば、適当な文庫に収録されている『坊っちゃん』がヒットするでしょう。仮に存在するとしても、最低でも1000円以上はする単行本よりも文庫本があるなら、このお客さんにとってはその方がありがたかったと思います。でも、やはり「文芸」の棚で見つからないということに関しては忸怩たるものがあるのではないでしょうか?

若者を振り向かせる?

今日も朝日新聞に岩波文庫の記事が載っていました。

今回のテーマは、若者をどう取り込むか、ということでしょうか? ただ、記事を読む限り、岩波文庫はそんなことを意識して何かをしたわけではないようですね。むしろ愚直に、最初の方針のまま刊行を続けていた、という感じです。

結果的に、それが長く愛された理由、廃れない寂れない秘訣なのかもしれません。そういえば、これは以前に書いたかもしれませんが、ずいぶん前のことですが、中央線にいかにもイマドキの若者という風体の青年が乗ってきたことがありました。刺青はしていなかったと思いますが、耳にピアスくらいはしていたのではなかったかと記憶しています。服装も大人の目から見ると「だらしない」と言われそうな格好でした。

そんな若者が乗ってきて、電車が走り始めたと思ったらカバンだったかポケットだったか覚えていませんが、とにかくおもむろに本を取り出して読み始めたのです。その本というのが岩波文庫でした。青か白だったはずです。

あたしはその光景を見て格好いいと感じると共に、見かけで判断した自分の不明を恥じました。岩波文庫というと、あたしはこの体験を思い出します。

こだわりは、どの本にもあるとは思いますが……

今朝の朝日新聞。

岩波文庫の記事です。文庫のレーベルは数あれど、やはり岩波文庫は別格な感じがします。本屋でも岩波文庫、岩波新書がしっかり並んでいる本屋はちょっと違う、そんな感覚を持っているのは古い人間だからでしょうか?

岩波文庫には岩波文庫なりのこだわりがあるそうですが、どんな本、どんなシリーズにだって、始めたときにはそれなりのこだわりがあったはずです。ただ、それがどれだけ多くの人に受け入れられるか、という点で長く刊行し続けられるか否かが決まるのでしょう。

それにしても、現在の文庫界はどうなのでしょう?

単行本は高いから買わない、という読者が増えているのは実感としてわかりますが、一部の文庫は火なり高くなっていて、単行本と変わらないような価格のものも増えてきました。また、字が小さいから単行本の方がよい、という年配の読者もいますし。

これだけ文庫が出ているのに、地方の小さな書店には本が入ってこないという問題はますます深刻になっていて、実のところ、大手でも文庫の初版部数はかなり減っている(絞っている)ようです。そうなると、都市部の大型書店偏重の配本になるのは致し方ないところ。出版社だけでなく、取次の配本システムも含めて考え方を変えないとダメでしょうね。

書店員発!

まずは昨日の朝日新聞夕刊。

各地の書店員が創意工夫を凝らして売り上げを伸ばしているという記事。夕刊とはいえ、なんと一面に大きく載っていました。

出版社の人間として、こういう動きは応援したくなりますし、「へえ、こんな本があったんだ」と気づかせてもらえるのでありがたい活動だと思います。あたしの勤務先の書籍ですとなかなかこういった仕掛けには合わないものが多いですが、それでも売り伸ばしのヒントを与えてくれます。

その一方、あたし個人としては、こんな風にお薦めしてもらえないと、多くの人は本を選べないのか、という思いもあります。あたし自身、人から薦められて読む本も多いので、こういう動きを一概に否定するつもりはありません。ただ、その前に自分で本を選べる能力を養うにはどうしたらよいのか、そこが気になります。これは書店とか出版社とか、そういったレベルで解決できる問題ではないことはわかっていますが、やはり考えてしまいます。職業病でしょうかね?

続いては今朝の朝日新聞の天声人語。

亡くなった小林麻央さんに導く枕として河野裕子さんのことに触れています。河野裕子さんに関する本、実はあたしの勤務先も何点か出していまして、天声人語では出典を明記していませんし、あたしも自社の刊行物を手元で確認できないので断定的なことは言えませんが、まずは『評伝・河野裕子』『もうすぐ夏至だ』がよいのではないかと思います。後者は河野さんの夫・永田和宏さんのエッセイですが、書名が真央さんの亡くなった日付とほぼ一致しているので胸に迫るのではないでしょうか。

 

その他に河野さんのものとしては『わたしはここよ』『うたの歳時記』などを出しています。

 

河野裕子さんの本、出版社として言わせてもらいますと、衰えぬ人気があります。年を追うごとに新しい読者を書くとしているのでしょう。須賀敦子さんに通じるものがありますね。

「売れぬ」と、そんなにはっきり言わなくたって……

今朝の朝日新聞の記事です。

漢和辞典が売れていないそうです。

そうか、そうなのか、と口では理解しつつも心の中にはモヤモヤとしたものが残ります。

確かに、国語辞典や英和辞典は小学校から高校まで、それぞれの時期に合わせて買い換えるのでしょうし、高校ともなれば大人になってからも使えるものを買っている人も多いでしょう。そういう辞典類に比べ漢和辞典は確かに必要性において見劣りするのはわかります。

小学校や中学校なら漢字辞典で済みますよね? 大人になってからは、ちゃんとした国語辞典があれば事足りるし、あえて持つなら用字用語辞典とか、漢字使い分け辞典のようなものでしょうか? じゃあ、漢和辞典って誰が使うの、買うの?

結局、中国古典や東洋史などを学んでいる学生くらいでしょうか。それだけとは言えないでしょうけど、そこがコア層でしょうね。あたしも自宅には『大漢和辞典』を筆頭に、大辞典、中辞典など、たぶん片手以上の数の漢和辞典を持っています。中国で出ている『漢語大辞典』『漢語大詞典』まで所持しています。もちろん紙の、です。

辞書というのは引き比べるのが面白いのであって、専攻生であれば辞書を複数持つのが当たり前だと思うのですが、それはあくまで狭い専門家の話であって、一般には一冊あれば十分でしょう。あたしなどは引き比べだけではなく、付録が面白いからというだけの理由で辞書を買ってしまいますが……

それにしても今日の新聞の見出し、「不人気」と言わず「売れぬ」と書いてあるところに出版界の現状が表わされていると思います。考えてみれば、あの『広辞苑』ですら、紙ベースではもう何年も新しい版が刊行されていませんよね(注:第6版が2008年刊行)。となると、その他の辞書など推して知るべし、です。

漢和辞典に限らず、英語以外の各国語辞典も改版されているものは極端に少ない、否、ほとんどない、という状況ではないでしょうか? 確かに、いまやネットの時代。訂正も追加もネットであれば即座にできますから、紙では太刀打ちできないのも理解できますが、やはり寂しいです。