安くならない理由の一つ?

今朝の朝日新聞にこんな記事が載っていました。

何でもかんでもろくに議論せず強引に通してしまう自民党・安倍政権。その弊害がこんなところにも現われているようです。

著作権の保護期間が延びることによって、原作者の子孫に金銭的なものが残せる、と言われますが、それなりの金額の著作権が、死後何十年にもわたって毎年発生するほどの原作者がどの程度いるのか、実際にはほとんどいないと聞きます。

その是非はともかく、あたしの勤務先のような出版社からすると海外の作品を翻訳出版する時にどうしても価格が高くなってしまう理由の一つになります。このと十数年目につく「古典・名作の新訳」も著作権が切れていればこそ各社が競って刊行できるわけで、なおかつそれほど高い価格にならずに作ることもできます。

それが延長されてしまうと、「来年には著作権が切れるから新訳を出そう」と考えていた出版社としては尻込みしてしまいますよね。寿命が延びているからというのも、延長の理由としてそれほど有効なのか、あたしは疑問を感じます。

やはり文庫本の方が売りやすいのでしょうか?

つい最近読んだ、角川文庫の『京都なぞとき四季報 古書と誤解と銀河鉄道』ですが、これは『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』の続編になります。ただし、これはもともと『クローバー・リーフをもう一杯 今宵、謎解きバー「三号館」へ』というタイトルの単行本を文庫化したものです。続編は単行本は刊行されず、いきなり文庫本で登場したわけですね。

 

考えてみますと、最近はこういうタイプを時々見かけます。

碧野圭さんの『書店ガール』シリーズも最初は『ブックストア・ウォーズ』という単行本だったのですが、『書店ガール』と書名を変え、なんと出版社まで変わって、その後人気シリーズになりました。

  

他にも、個人的に気に入って読んでいた『乙女の花束』と『乙女の初恋』は単行本で読んでいたのですが、その後「三冊目が出ないなあ」と思っていたら、第三弾の完結篇は『乙女の翼』というタイトルで、文庫として出ているではないですか! そして案の定、最初の二冊も既に単行本ではなく、三冊目と同じ文庫レーベルで刊行されています。

 

 

恋都の狐さん』のシリーズも第二弾『美都で恋めぐり』までは単行本で読んでいたのですが、その後ちょっとチェックを怠っていたら、なんと現在は第四弾まで出ています。ただし、こちらは第四弾はまだ単行本のみで、文庫にはなっていないようです。

あたし自身は、やはり単行本の方が好きです。ただ、こういう営業回りの移動の車中で読むのにちょうどよい本は文庫本の方が手軽だなあ、とも思います。どちらがよいのか難しいところです。

さてさて……

六本木に新しくオープンする書店「文喫」の内覧会へ行って来ました。

「文喫」書いてある看板の上の方、白い帯状のところ、よーく見ると「AOYAMA BOOK CENTER」という文字がうっすらと残っています。

はい、ここはもともと青山ブックセンターの六本木店があった場所です。建て直したわけではないので、青山ブックセンターの頃の階段の位置などはそのまま残っています。

公式ウェブサイトでは「本と出会う本屋」を謳っているようですが、なにせ有料の施設です。座り心地のよさそうな椅子とコンセントのあるテーブルが用意されていますので、ちょっとしたワーキングスペースと考えるべきなのかも知れません。その時に、資料としてふんだんに本が置いてある、というわけです。

できる大人のラグジュアリースペース、という雰囲気が醸し出せればうまくいくのではないでしょうか? ただ、場所柄、時々日本にやってくる外国の方がも多いと思います。かつてあった青山ブックセンターのつもりで、「日本に来たから本でも見ていこう」と思って入ったら入場料を取られた、なんてトラブルも起きるのではないかな、という不安もあります。

以前も似たような企画がありましたよね?

昨日の朝日新聞夕刊。

文庫本にカバーを掛け、タイトルも著者もわからないようにして、ただし、帯だけはその上から掛けてどんな本なのかはわかるようにして売る、そんな企画です。

文庫本のこういった企画、以前からありましたよね。こういうので売れるわけですから、買う方はちょっとしたゲーム感覚なのかも知れません。

ただ、出版社側からすると、これまで以上に帯のキャッチ、ジャックに気を遣わないとならなくなります。まあ、そもそも帯の惹句が不出来なものはこのフェアの選書からも漏れているのでしょうけど……

でも、何よりも肝心なのは、「ここの書店の人が選んだ本なのだから、どれを引いてもハズレはないはず」というお客様からの信頼があってのことだと思います。さわや書店が地元で培ってきた財産なんでしょう。

しかし、どうなんでしょう?

いまの読者の方って、こういう仕掛けを作らないと本を選べないのでしょうか? 自分で帯の惹句や装丁、目次やあとがき、最初の数ページでも読んでみて、自分で判断するってことできないのでしょうかね?

いずれにせよ、文庫なんて出しておらず、軒並み数千円するような本ばかり出しているあたしの勤務先では無理な企画ですが……

「朝」より「韓」なのね

小学館から『小学館 韓日辞典』という辞典が刊行されました。

読んで字のごとく、韓国語の辞典です。ただ、小学館はこれまで『朝鮮語辞典』という辞典を出していたので、どういう関係なのかと思ってサイトを見てましたら、

本辞典は好評を博した『朝鮮語辞典』の改訂新版です。最新の正書法に基づき内容を25年ぶりに一新しました。

とありました。つまり、タイトルまで変えてしまった改訂版だそうです。

それにしても、韓国語の学習参考書の世界、《朝鮮語》を標榜するものが非常に少数です。しかし、書名に朝鮮語とあるものも出版されていますから、書店店頭では「韓国語」と「朝鮮語」が混在しているわけです。あと、ハングルという表記も頻出します。

言語としては韓国語も朝鮮語も同じですから区別する必要はないのですが、店頭の棚プレートなどを見ていますと、わざわざ「朝鮮語」というプレートを作って、書名が「朝鮮語」のものをそこに集めている書店もあります。考えてみるとおかしな話です。

ただ、「朝鮮語」という字面は、どうしても「北朝鮮」を連想させてしまい、イメージがよろしくない、というのが販売戦略的にあるようです。特に旅行会和書などは、まず北朝鮮へ行く一般人などいないわけですから、タイトルが「韓国語会話」になるのは理解できます。しかし、一般の文法書まで「韓国語」になってしまうのはどうなのか、という気がします。

古典をBLで解釈しなくても

朝日新聞読書欄です。

あたしはBLは全く読みませんが、そういう方面が好きな方が、こういうところから古典に興味を持ってくれるなら嬉しいことだと思います。

しかし「古典文学をBLで」と言う前に、そもそも古典の世界はBLの宝庫ではないでしょうか? いや、古典の世界ではなく、古典の時代と言った方がよいでしょうか?

あたしの恩師の一人である小松茂美先生が、平安時代の貴族の日記にそういう記述がたくさん出てくる、ということを機会あるごとに話してくれました。BLではなく男色です。何ら珍しいことではなく、日本史においてはごくごく普通の現象だったようでもあります。

《BL古典セレクション》というシリーズが始まるそうですが、それよりもはるか以前、あたしが学生の頃、既に私説三国志 天の華・地の風』という小説がありました。

全10巻で、かの有名な三国志の諸葛孔明を主人公とした物語です。

当時もそれなりに三国志は人気でしたから、この作品は中国古典を専攻していたあたしにはとても衝撃でした。第一巻しか読んでいないですが、復刊されて現在も手に入るみたいですね。

といった、古典世界のBLはおくとして、話を小松先生に戻しますと、実際に平安貴族や寺院における男色はお盛んだったようです。「男色」を書名に使っている本は何冊も出ていますけど、もっと簡便にまとめた、紹介したものが新書の形態であれば、是非買って読んでみたいと思います。

小松先生が存命なら……

新書なのか文庫なのか?

今朝の朝日新聞です。

岩波新書の創刊80年や河出新書の再スタートに絡めて「新書」をフィーチャーした記事です。

新書が定期的にブームになるのは、もちろん知っていますが、やはりあの単価ですと、相当売れないと利益が出ないと考えてしまうのが業界人の性です。

単品でのヒット作は出ても、毎月毎月各レーベルが複数冊を刊行していますので、全部が全部大ヒットなんてありえませんし、記事にもあるように厳しい状況なのは致し方ないところでしょう。

それでも各社、頑張っています。「チチカカコヘ」といった複数出版社の新書レーベル合同フェアなどもこの数年行なわれていますし、2社や3社でテーマを決めた新書フェアを合同でやっているのをしばしば店頭で見かけます。それに、最近の新書はかなり厚いものもあって、「単行本で出版されていてもおかしくないんじゃない?」というものも増えています。

あたし自身、新書はよく買っています。営業回りの電車の中などでは必須のアイテムです。

ただ、ここまで新書のレーベルが増えてしまうと、書店店頭で棚を確保するのが大変です。ジュンク堂書店や紀伊國屋書店などの超大型店でも全レーベルの在庫全点を並べておくのは不可能ではないでしょうか? そういう意味でもかなり厳しい競争にさらされているのがわかります。

そんな新書業界、あたしの勤務先でも《文庫クセジュ》というシリーズを出しています。「文庫じゃないか?」と言われそうですが、サイズは新書判です。大型書店では新書コーナーに並んでいることが多いです。

《文庫クセジュ》の創刊は昭和26(1951)年ですから、新書レーベルとしては意外と古いのがわかります。毎月数冊刊行される大手の新書と異なり、せいぜい月に一点、最近ですと年間に6点から8点程度の刊行なので、それほど刊行点数は多くありません。通巻では最新のものが1023冊目です。

新書と言われて思い出してくださる方はほとんどいないのかも知れませんが、今後とも《文庫クセジュ》もご贔屓ください。

この幅の広さよ!

自宅に戻って、所持している天野健太郎さんの本を集めてみました。

左の写真のとおりです。

手前の3冊は、あたしの勤務先の刊行物。中段は他社から刊行されたフィクション。一番奥の2冊は絵本です。

同じ人が手がけたとは思えないほど幅の広さを感じます。

それでも、天野さんにはもっともっと台湾の作品を紹介していただきたかったと思います。(中段の左側の書籍は香港の作品ですが……)

イベントなどの機会に何度か話をしたこともありますが、「女性の作家はいませんか?」なんて聞いたこともあります。手前に並んでいる龍應台は作家とはちょっと違うのでひとまずおくとして、呉明益やそれより下の世代で、天野さんが気になる女性作家の作品を出して欲しい、なんて伝えたことがあります。

そういう話も、本当に夢物語になってしまいました。

訳者としてだけでなく、台湾に関する発信者、台湾の作品の紹介者としても有能な方だったのに本当に残念です。

追伸:本日午後には複数の書店から「追悼天野健太郎フェア」をやるのでということで、注文が入り始めました。

在庫がわかるだけじゃダメかも

今日の朝日新聞の声欄です。

当初の中に書かれている八戸ブックセンターは昨年訪れました。市として市民の読書活動を応援しようという方針の一環のようです。市内の書店ともいろいろと協力し合って活動しているようでした。

ところで、当初にあるように、市内の書店の在庫を見られるようにするというアイデア、どうでしょう?

まず大手のチェーンならばそれなり資本力がありますから、そういった技術に対応するような機器を導入することも可能でしょうが、小さな町の本屋さんですと機械を入れるような資金もなければ、個々人のスキルに負うところが大ですが、導入しても使いこなせない可能性だってあります。

後者の理由はひとまずおくとして、前者の場合、このアイデアが本当に読者のためになるのであれば、取次会社や業界団体などが導入支援をしてもよいのではないかと思います。昨今はPOSレジが普及しているので、実際に今から導入しなければならない書店がどれくらいあるのかわかりませんが……

でも、読者サービスを考えるのであれば在庫がわかるだけでよいのでしょうか?

この手のサービスは当然ウェブサイトを使うのでしょうけど、どうせだったらウェブサイトから注文ができ、それも自分の指定した書店に届けてもらうようなところまでできないものでしょうか? 最近はコンビニ受け取りだって普及しています。そこまでやらないと読者サービスとして不十分なのではないでしょうか? というよりも、たぶん在庫が見られるようになったら、きっとこういった要望が生まれてくると思うのですが。

電子書籍の可能性?

新書版』が刊行になった『台湾生まれ 日本語育ち』ですが、ただ単純に単行本を新書にしたのではなく、3篇の増補があるという代物です。

 

となりますと、いまさらあえて『単行本』を買おうという方は少ないかも知れません。在庫も少なくなっていますし……

ただ『単行本』の方は既に電子書籍版が刊行されていまして、そちらをお求めになるのもよいかも知れません。あたし自身はまだまだ電子書籍には慣れないのですが。

ところで、電子書籍では試し読みができるのですが、紙のものをそのまま閲覧できるというものです。ほとんどの電子書籍はこういう感じなのでしょう。

個人的にこれはもったいないなあと感じます。

何がもったいないのかと言いますと、本書の場合、著者の母親が話す台湾語と中国語、それに日本語がチャンポンになった「ママ語」というのが本文中にしばしば挿入されています。折角の電子書籍なのですから、ママ語の部分をクリックしたら、実際の音声が聞けるような工夫ってできないものでしょうか?

いや、技術的には十二分に可能ですよね?

吹き込みは著者でもいいですが、できることなら著者のお母さん、そのまま語を話しているご本人に吹き込んでいただきたいものです。手間暇はかかってしまいますが、そんなおまけがついた電子書籍であれば楽しいですし、ちょっと買ってみたいと思うのではないでしょうか?