Book and ……

このところ新しいタイプの書店が増えていて、テレビや雑誌などでも紹介されています。曰く、本屋とビール、本屋と家電、本屋と雑貨、本屋と料理などなど。本屋と文具といった昔からあるようなものもありますが、「こんどはこういう組み合わせできたか」と思わせるものも多いです。

こういう新業態と言うのでしょうか、書店と何々、というお店について個人的には、「なんだかんだ言っても、結局本屋だけじゃやっていけないから儲けを出すために他の業態とコラボしているんでしょ」というマイナス的な気持ちもあります。その一方、「本屋って、こんな風にいろいろなお店と組み合わせられるんだ。つまり本屋の可能性、ポテンシャルの高さが表われているんじゃないかな」というプラスの思いも抱いています。どうせ不景気なんだから、少しでもプラスの要素を見つけてそこを伸ばしていきたいとは思いますが、心のどこかに「きっちり本屋で利益が出るようにしたい」という気持ちもあります。葛藤です。

さて、こういうニュースに日々接しているからなのか、変な夢を見ました。それも二回に渡って……

本屋の夢です。いや、本屋なのでしょうか? 昭和の香り漂う古い民家、そこをシェアして暮らしている若い女性が三人。共同で使っている台所、居間のやや広いスペースには卓袱台あり、壁際にはいくつか本箱が置いてあり、いろいろなジャンルの本が並んでいます。暮らしている女性たちがそれぞれ持ち寄ったもの、お互い好きに読んでいる感じです。

そして、三人のプライベートな部屋が一つずつ、都合三部屋あります。部屋の中は畳敷きなのにベッドと机(兼化粧台)、それにやはり本箱。こちらの本箱の中身は部屋の住人の好みを反映しているようなラインナップ。雰囲気も部屋ごとに異なりますが、ゆったりとした時間が流れていることは共通です。

この家、三人の本好きな女性がルームシェアして暮らしているだけにしか見えないのですが、夢の中であたしはここを書店として認識しているのです。つまり本棚に並んでいる本が気に入ったら購入することが出来るということです。夢の中であたし以外にお客が何人いたのかはわかりません。たいていは台所兼居間の卓袱台の周り座ったり、あるいは寝っ転がって本を読んでいればよい感じ、なんか自分の家、あるいは友達の家に来て本を読んでいるような空気感です。

住人である女性が何かしてくれるわけではありません。卓袱台の脇に急須や湯飲みがあるので、各自勝手にお茶を入れて呑むことは出来ますが、お金を取られるわけではありません。なのでブックカフェとも違います。女性たちの食事時に訪れると、食事のお相伴にあずかれますが、それもお代を請求されるわけではなく、払いたければ任意で、額も気持ちのままという具合。

さらには台所兼居間ではなく、女性たちの部屋にある本を、部屋に入って読むことも可能。時には女性が机に座って化粧をし、外出の準備をしていることもあれば、ベッドや布団で寝ていることもあります。でもそんなことお構いなしに部屋に入って自由に本を読んで構わないのです。

これでは本屋ではなく、最初にも書いたように、本好きな女性がシェアしている家に上がり込んで、そこに置いてある本を勝手に読ませてもらっている、ということではないでしょうか? 現に夢の中で女性たちは他に仕事を持っているらしく、常に三人がいるとは限りません。必ず誰かしらが仕事で出ています。仕事の時間帯が異なるからなのか、必ず誰かしらが在宅なので、この「本屋」はいつ行っても必ず開いているのです。

さて、ここは本屋なのか? それとも女性三人が暮らす家なのか?

Book and Home?

Book and Life?

何と表現すればよいのでしょうね?

分野別図書目録の思い出

昨日は、人文図書目録刊行会の総会でした。

それ、何? と思う方も多いかも知れませんが、本屋さんのレジの近くとか、目録やパンフレットなどが置いてあるコーナーに、下の写真のような冊子が置いてあるのを見たことはありませんか?

この三冊が、人文図書目録刊行会が発行している人文3目録です。「哲学・思想」「真理」「社会」の三分野です。現在日本で流通している当該ジャンルの書籍をほぼすべて網羅している図書目録です。

こういった分野別の目録は、さまざまな出版社の書籍が収録されていますので、そのジャンルに興味のある方にとってはきわめて有用なツールではないでしょうか? この人文ジャンル以外にも多くの図書目録が出ていまして、なんとウィキペディアにも立項されています。いくつかは知っていましたが、こんなに種類があるとは、正直あたし自身も驚いています。とにかく書誌情報がずらずら並んでいるだけの、興味がない人には味も素っ気もない本ですが、好きな人にはたまらないものです。

ただ、この数年、個人的には不満もあります。別に「時代はネットだろ」という意見に与するつもりはありません。確かに検索の早さなど、ネット、デジタルの方が格段に優れていることは明らかです。各出版社が出している出版図書目録もかつてほどの需要がないことは重々承知しています。

でも、それでも「やはり紙がいいよね」という人がまだまだ多いのも事実で、個人的な感触では、司書とか、そういう職業の人を除くと、この手の目録を欲しがる人というのは「デジタルよりはアナログ」な人が多いように思います。

そういうデジタルか否か、ということではないあたしの不満は、下の写真です。

目次のページです。これがどうしたの? と言われそうですが、いかがでしょう? 素っ気ないですよね。別にレイアウトとかフォントを変えろ、と言いたいのではありません。個人的な気持ちとしては、この目次に英文表記を添えたらよいのに、という不満がこの数年あります。

例えば上の写真。目次の後、扉ページですが、ここも日本語だけで英語は併記されていません。こういう部分に英語を併記したらどうだろうか、いや、併記すべきだというのがあたしの意見であり、不満なのです。

なんで英文が必要なの、と問われると、その方が海外の方にも扱いやすくなるからです。以前韓国の出版社の目録を見たことがあるのですが、中身は韓国語、つまりハングルだけなのですが、タイトルまわりとか、ポイントになる部分には英語が併記されていたのです。そうると、ハングルはわからなくても、「ああ、ここは小説のページか。ここは芸術書のページか」などと、なんとなく内容に親しみが持てました。せめて、こういう目次のところだけでも英文を併記すれば、海外での需要が広がらないかな、と思います。(海外だからこそデジタルでしょ、という意見もあると思いますが、そうなればなおさら英文平気は必須にならないでしょうか?)

とまあ、そんなことをぼんやり思いながらの昨日の総会でした。この分野別の目録っていつごろからあるのでしょう? 正確なことはわかりませんが、あたしが中学生・高校生のころには既に見かけていたので、30年以上はあるのだと思います。

当時からいまの分野別目録が全部あったのかは知りません。ただ中高生のころのあたしは休みなると神保町へ来て、東京堂や三省堂、書泉などを巡っていたものです。いまの三省堂書店神保町本店があのようなビルになってオープンした当日に行ったのを覚えています。確かオープン記念の景品で、フロアガイドになったプラスチック製下敷きをもらったという鮮明な記憶も残っています。

が、話を目録に戻しますと、当時、この手の分野別目録は東京堂書店のレジのそばへ行くと目録などを積んである小さなテーブル、台があり、あたしは興味がある哲学や歴史の目録をもらって帰ったものです。書店店頭に置いてある目録はすべて無料ですから、とても嬉しかったのを覚えています。帰りの電車の中で目録を開き「この本、欲しい」と思いながら、買えもしないのに欲しい本に印を付けたものでした。

こういった目録が年に一回作られていることはわかっていたので、その時季になると東京堂へ行っては目録を探したものでした。東京堂以外では、これだけ各種分野別目録を置いてある書店は、当時はありませんでしたから。ところが、あるとき東京堂へ行っても目録が見つからないことがありました。タダで配られているものなのでお店の人に聞くような勇気は中高生時代のあたしにはありません。

今年はまだなのか、それとももうなくなったのか、聞けないまま、何度か東京堂へ足を運んでも見つからないので、あたしはある行動に出ました。これらの目録の裏表紙には発行所としてトーハンの住所が書いてありました。これがどういう会社なのか、当時のあたしにはわかりませんでしたが、とにかく神保町へ行くついでに飯田橋の駅からてくてく歩いてトーハンへ向かい、受付で目録が欲しい旨を伝えて、目的の部署を教えてもらいました。

大人社会というと大袈裟ですが、いかにもオフィスなトーハンの社内、蜂がない高校生(だったと思います)のあたしはキョロキョロしながら目的の部署を見つけ、来訪の趣旨を伝えました。トーハンの人はにこやかに対応してくれたのですが、しっかり代金を請求されました。

そうなんです。書店店頭ではタダでもらえる目録も、実は裏表紙には頒価が書かれていて、売り物だったのです。学生の身分としてはかなりの金額を請求された記憶がありますが、ここまで来て「高いから要りません」とも言えない弱気なあたしは、言われるがままにお代を払い、目録を受け取って帰路に着きました。

分野別目録の苦い思い出です。

併売は困難?

他社の本ですが、こんな本が目に留まりました。

 

『満蒙開拓、夢はるかなり()』です。この書名、古代から近現代まで時代を問わない中国史好きとしては気になるタイトルです。しかし、それよりもより強く目に飛び込んできたのは、少し前に平凡社新書の『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』を読んでいたからです。

副題にある「加藤寛治」という名が見えますが、この名前が平凡社新書の中でも繰り返し出てきていたのです。それにどちらも今年の7月に前後して刊行された本のようです。迂闊にも平凡社新書はすぐに買って読んだのですが、「夢はるかなり」の方は今ごろになって知った次第。

いや、方や単行本、方や新書ですから、配本数が桁違いでしょう。そうなると両方が入荷した書店は限られているはず、「夢はるかなり」を見つけられなくても仕方ないかも知れません。それに両方入荷したとしても、新書と単行本ですから置く場所が異なります。入荷商品の仕分けの段階で全く違う棚に回されてしまうでしょう。新書か単行本かどちらかの担当者が気づくのも至難だったかも知れません。

しかし、これだけ関連のあるテーマ。たぶん一方を買った人ならもう一方にも関心を持つはずです。確かに新書の安さ、手ごろさと単行本の価格、特に今回の場合は上下本ですから揃えて買えば5000円を優に超えてしまいます。躊躇する人がほとんどではないでしょうか? それでも「こんな本も出ているんだ、懐具合に余裕のあるときに買ってみよう」とか、「近くの図書館に探しに行ってみよう」とか、そういう読書意欲をかき立てる効果はあるはずです。

なんとかならないものでしょうかね?

対訳本の新たな流れ?

語学書の棚でこんな本を見つけました。

やさしいロシア語で読む 罪と罰』です。ロシアの文豪ドストエフスキーの名著を親しみやすくした語学書という感じです。が、IBCパブリッシングと言えば、この前に『ロシア語で読む罪と罰』を出していたはずです。

 

この両者を比べてみますと、前者は完全にロシア語の文章だけです。かなりダイジェスト版になっていますが、ある意味「原書」と呼んでよいかも知れません。それに対して後者は対訳です。ちょっとした注もついていますから、いわゆる対訳形式の語学書です。

きちんと比べたわけではありませんが、後者がほぼ一年前に刊行され、前者がつい最近刊行になったばかりの本です。まず最初に対訳ものを出版し、その後、対訳を省略し本文(原文)だけのものを刊行したという形になりますが、「訳なんか要らない」という学習者の需要や要望がかなりあったのでしょうか?

しかし、このところ対訳の語学書はなかなかの盛況です。IBCパブリッシングの対訳本については以前にも書きましたが、ロシア語でもこうして刊行が続くとなると、ますます対訳本人気は高まりそうですね。

殺人鬼がブーム?

タイトルはふざけているように感じられるかも知れませんが、もう少し真面目な話です。

書店回りの途次、店頭で『殺人鬼ゾディアック』という本を見かけました。

おや、と思ったのですが、そもそも皆さん、ゾディアックって知ってますか? 映画のタイトル? はい、そうですね。でも、映画のもとになった実話、連続殺人鬼の話があるんですよ。その事実の方を検証したのが本書のようです。

 

この映画の「ゾディアック」はスカパー!などのCS放送では最近しばしば放送されているのが目についていました。「なんで今ごろゾディアック?」と思っていたのですが、こういう本が出るところを見ると、史実の掘り起こしなどがアメリカでも進んでいるのでしょうか?

そう考えると、少し前に『切り裂きジャック 127年目の真実』なんて本が評判になっていましたよね。どうも殺人鬼にスポットライトがあたる時代のなのでしょうか? それとも戦後70年で、ナチスの狂気からの派生なのでしょうか? 確かにヒトラーをはじめとしたナチの面々は極めつきの殺人鬼と言えなくもないですし……

ナチスとこじつけるわけではありませんが、『テロルと映画』という本が出ました。これなど『映画大臣 ゲッベルスとナチ時代の映画』と併せて読むと面白いのではないでしょうか?

  

今年はナチ関連書籍も例年になく多く、『ナチス・ドイツとフランス右翼』なんていう、実に興味深いタイトルの本も刊行されたようです。

今朝の朝日新聞から

下の写真は、今朝の朝日新聞に載っていた女性誌の広告です。このところ安保法案反対など、なにかと硬めの記事も目につく女性誌ですが、なんと武雄図書館の蔵書に関する問題が取り上げられていました。どんな記事になっているのでしょう?

武雄図書館の蔵書問題は、なんとなく聞いているだけで、問題となっているリストを目にしたわけではありません。公費でどんな本を買うか、難しい問題だと思います。表面的には時代遅れの古い本や古書を購入することが問題となっているようですが、幾星霜を経ても図書館に配架すべき書物というのはあると思います。しかし、その本が既に出版社では品切れ、絶版となり、もはや新刊としては手に入らないとなれば、図書館としては古書業者を当たるしかないのではないでしょうか?

と、このように書けば、古書を購入することも決して間違ってはいない、むしろそんな名著を品切れのままにしておく出版社の方が悪いとも言えます。出版社が重版するなり新装版として出すなりして新刊で手に入るようにすればよいのでしょうが、それはそれで難しい問題があります。図書館と違って出版社は営利を追求する企業です。採算がとれないと踏み切ることはできません。

ただ、この件は、いま話題になっている武雄図書館問題とは別でしょうから割愛します。図書館の古書購入です。あたし個人としては上にも書いたように、現在の出版事情(出版社の在庫状況)に鑑みて、一概に否定すべきものとは考えていませんが、だからといって何でもかんでも古書で購入してよいとも思っていません。そこにはやはり図書館として配架すべき、所蔵すべき図書なのかどうか、しかるべき立場の人が慎重に吟味するべきだと思います。

さて、同じ今日の朝日新聞に上のような記事が載っていました。コンビニ大手のローソンが書籍の販売に力を入れるという記事です。この分野ではセブンイレブンが先を行っていますが、ほとんどのセブンイレブンを見ても、置いてあるのは雑誌がほとんどで、書籍を売ろうという感じは受けません。

記事中の写真ではもう少し書籍を充実させて、どのコンビニもある雑誌スタンドではなく、きちんと書籍コーナーと呼びうるようなスペースを確保し用としている感じが伝わってきます。

しかし、品揃えはどうするのでしょうか? プロの書店員ですら大量の新刊に追われ、置くべき書籍の選定に時間を割いている暇がないのが現状です。書籍のことなどほとんどわかっていないコンビニ店員が書籍コーナーと呼べるほどの売り場を作れるのか? 無理でしょうね。恐らく取次かチェーン本部が一括して「データ上、いま売れている書籍を30アイテム、あるいは50アイテム送り込む」という形になるのではないでしょうか。それ以外に方法があるとは思えません。そうなると、本屋とは呼べませんよね。どこのローソンへ行っても置いてある書籍は同じ、という近未来図がイメージできます。

結局、セブンイレブンやローソンなど、コンビニの運営ノウハウを使う限り、そうなってしまうのはやむを得ないのでしょう。とあるローソンでは、やたらとUブックスが揃っているとか、エクス・リブリスがすべて置いてあるとか、そういうバラエティを期待してもダメなのでしょう。

という感じで、なんか否定的なことばかり書いてしまいましたが、実はあたしは、書店の廃業が増えている中、出版社としてどこで本を売ればよいのかと考えた場合、アマゾンよりもコンビニに期待を持っているのです。アマゾンはパソコンなどでアマゾンのサイトにアクセスしないとなりません。まだまだ多くの人にとってはハードルが高いと言えます。それに引き替えコンビニは、若者からお年寄りまでほぼどの世代をも取り込んでいます。大袈裟に言えば、「アマゾンにアクセスしない日本人は多くても、日に一度もコンビニに行かない日本人はいない」というわけです。

セブンイレブンだろうがローソンだろうが、これだけ日本人が毎日のように訪れる場所でものを売らない手はありません。しかし、本は種類が多くニーズもバラバラです。ですから、コンビニ店頭でのリアルな棚を充実させるのではなく、カタログあるいは店頭の機械(端末)をもっと使いやすく、本を買いやすく改良する必要があるのではないか、そう考えています。

お年寄りが公共料金の振り込みに来たついでに簡単に端末を操作して本を注文する、そんな感じに持って行けたら、アマゾンは日本から撤退せざるを得なくなるのではないでしょうか?

増刷と重版

どんな業界にも、その業界特有の用語というものがあると思います。自分たちは常識のように使っているけれど、業界外の人にはチンプンカンプン、日本語を話しているとすら思ってもらえない時もあるのではないでしょうか? そんな中、出版業界は比較的意味不明の専門用語、業界用語は少ないのではないかと思うのですがいかがでしょう?

で、今回は「重版」と「増刷」です。とりあえず読み方はそれぞれ「じゅうはん」「ぞうさつ」です。この両者、ほぼ同じ意味ですが、使い分けている出版社があるのか、それはわかりませんが、この二つの単語でググってみるといくつかヒットしますので、この二つの単語の意味が同じなのか異なるのか、気になっている人はそれなりにいるということですね。

違いについてはググった結果を参照していただくとして、基本的には、どちらも本が売れて在庫が少なくなり(あるいは無くなり)、さらに追加印刷することを指します。新聞などの広告にも「重版出来」なんて言葉を見かけることがあると思いますが、それは追加印刷されたものが出来上がってきました、という意味です。

さて、業界の人間は増刷だろうと重版だろうと同じ意味だとわかって使っていますが、問題は受け手です。読者の方に「増刷」という言葉と「重版」という言葉はどちらの方が「売れている感」が伝わるかということです。

なんだよ、同じ意味だろ、と言われれば、その通りです、と答えるしかありませんし、意味が同じだということを知っている読者には愚問でしょう。しかし、それでもまだ多くの人がこの両者の意味が同じだとわかっていない、あるいは「何か違いがあるのでは?」と思っている現状からすれば、たぶん受ける印象も異なっているのではないかと思います。

そして出版社としてはできるだけ「売れています」ということを伝えたい、訴えたいわけですから、「重版」と「増刷」とで受け手である読者への伝わり方に差があるのだとすれば、それは広告などにおいても重視しないとならないだろうなあと思うのです。

で、実際のところ、どっちの方が売れている感を感じるのでしょうか?

目録の役割

出版社はどこもたいていは自社の出版図書目録を作っています。その出版社で出している本がすべて載っているカタログなわけですが、あたしの勤務先も毎年作っています。そしてウェブサイトなどで「今年の目録できました」などと告知をすると、営業部には読者の方から「目録が欲しいのですが…」とか、「カタログ送ってもらえますか?」といった電話が増えるようになります。

基本、目録は無料ですから、住所氏名を教えていただければ、そこへ送っていますが、昨今はこういった出版目録を紙媒体では作らなくなっている出版社が増えているようです。確かに、書籍の場合は「売るもの」ですから、何部作って何部売れればどれくらいの儲けになるか計算できます。でも、無料で配布する目録は、どのくらい作ろうと一円の儲けにもなりません。むしろ送料がかかるし、そもそも制作費がかかっていますから、手にした読者の方が何冊も本を買ってくれないと、とても見合うものではありません。ですから、インターネットが発達した現在、同じ情報ならネットを検索すれば手に入るわけですから、紙媒体では作るのをやめるという出版社が増えるのも十二分に理解できることです。

そこであたしの勤務先ですが、いまのところ紙媒体の制作をやめるという予定はありません。もちろん、こういうご時世ですから未来永劫、紙媒体の目録を作り続けるのかどうか、それはわかりません。が、当面は作り続ける予定です。なにせ、それなりに欲しいという読者の方いらっしゃるのが最大の理由です。

現在は、確かに上述のようにネットでほぼ同じ情報は手に入ります。カバー画像(装丁)などは、紙媒体の目録だと白黒になってしまうところ、ネット(ウェブサイト)ではカラーで見せることができますし、本によっては数ページのサンプルを見せている場合もあります。目次やまえがき、あとがきの一部を公開している場合だってありますから、むしろウェブの方が情報量としては多いと言えます。少なくとも紙媒体の方が情報量が多いということは、一点ごとで見ればありえません。

が、こういう目録を欲しがる人、勝手な推測ですが、電話をかけてくる方の話しぶりなどを聞いていると、ほぼネットはやっていない感じです。自宅にパソコンはあるけれど、家族が使っているだけで自分は使い方もわからない、という感じが電話越しに伝わってきます。ケータイすら持っていないような気がします。自宅の固定電話からかけてくる方が多いです。いずれも統計的な結論ではなく、あくまであたしの体験から来る推論ですが……

で、そういう方は、当然ネットで調べられるということを伝えたって意味がありません。紙の目録じゃないと調べられない、仕えないという人たちです。たぶん、コミックとか雑誌とかの目録であれば、ネットを使いこなしている人も多いのでしょうが、あたしの勤務先から出しているような本の主たる読者の方は、まだまだネットよりも紙、パソコンよりも紙、そういう方が多そうです。読者カードなどからうかがえる年齢も非常に高いですし……。そういう読者の方々に支えられている限り、そう簡単に紙の目録をやめるわけにはいきません!

さて、あたしですが、自分の勤務先はともかく、他社の目録は配布されていたらもらいますか、と聞かれたら、「最近はめっきりもらわなくなった」と答えてしまいます。こうしてネットを使っていますので、紙でなくとも調べられるからです。ですから、これほどネットが普及する以前は、目録は見つけるともらって帰るくらい、よく集めていました。

ところで、こうした目録、なぜそうなのか、もちろん理由は納得できるのですが、個人的には「どうして品切・絶版のものは載っていないのだろうか」と思います。納得できると書いた理由は言わずもがな、創業数年の出版社ならいざ知らず、ある程度の歴史を持つ出版社の場合、品切れや絶版の本まで載せていたらページ数があまりに分厚くなり制作費がかさんでしまうからです。それでもなくとも無料配布が基本の目録ですから、作り続けるとは言ってもできるだけ経費は少なく抑えたいのが出版社側の本音です。

とはいえ、文庫や新書などの目録の中には巻末に「品切れ・絶版書目一覧」などが載っているものもありましたし、それはそれで重宝していました。あたし個人としては、この品切れ、絶版のリストが役に立ったものです。でも、紙の目録の延長だからなのか、各出版社のウェブサイトで品切れや絶版の書籍まで検索できるところはほとんどありませんよね。なんででしょう?

紙ならページ数がかさむという理由でしょうけど、ウェブサイトの場合、ウェブサーバーの容量の問題さえなければ、品切れや絶版を載せるのに問題はないと思うのですが、なぜでしょう? 以前、勤務先の先輩から「品切れや絶版を載せてしまうと、それを注文してくる読者がいるから」という理由を聞いたことがありますが、それは「品切れ」とか「絶版」と表示すればよい話で、読者はそこまでバカじゃないと思います。もちろん、数百人に一人くらいは「とはいえ、一冊くらいは残っているのではないか」と思って電話をかけてくる人もいるかも知れませんが、それは「もう残っていません」と応対すればよいだけのことです。

むしろ本好きにとっては、品切れや絶版も検索できるの方がありがたいです。なぜなら「その本が確かにその出版社から出ていた」ということがはっきりすると共に、正確な書名、著者名、刊行年などがわかるので、古書を当たるにしても格段に精度が高まるというものです。それが本好きには非常にありがたいわけで、紙媒体では無理でも、ウェブサイトでは対応してくれる出版社が増えるといいなあと思います。

あたしのこの意見、あたしの独りよがりではない証拠に、このたびネット書店のいくつかで、あたしの勤務先の創業以来の出版物総目録を配信したところ非常な反響がありました。やはりこういうの需要があるのですね。

『白水社 百年のあゆみ』
紀伊國屋書店
honto
楽天ブックス
ebookjapan

上記にリンクを貼っておきますので、ご興味をお持ちの方は是非どうぞ!

何を売るのか?

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「在庫切れ」の意味

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