どっちに対しても無責任な話

今朝の朝日新聞の一面に載っていました。アマゾンの読み放題サービスに関するニュースです。

これって、スラッと読むと、「アマゾンの契約違反じゃないの?」という印象を受けますが、記事中では必至に弁解している感じですね。法律的にはどうなのでしょう?

そして記事の主眼はどっちなのかな、と感じました。出版社に対する契約違反と、読者に対するサービス低下と。

これまで読めていた書籍が突然読めなくなるというのは、出版社に断わりもなくアマゾンが勝手にやったのであれば、契約がどうなっていたか次第では違反に問われても致し方ないのでは、という気もしますが、こちらは部外者、細かな契約までは知りませんので、記事を読む限りではそういう印象を受けると述べるに留めておきましょう。

読者の立場からすると、これは一方的なサービス低下であり、やはり読者との契約違反は生じないのでしょうか? これだけ読めるから、それ相応の対価(利用料)を払っているわけで、何の説明もなく一方的に読めなくなったら文句を言いたくなる読者も多数いるのではないでしょうか。

例えが悪いかもしれませんが、メニューに載っていた写真を見て「こんな豪華な料理が1000円で食べられる」と信じて注文したのに、出てきたのは写真とは似ても似つかない貧弱な料理だった、という感じでしょうか? 「金、返せ!」と怒り出す客が大多数でしょう。それと似たようなことだと思います。

さてさて、どういう決着がつくのやら……

本屋がなくなると本当に困るのか?

下の写真は、21日の朝日新聞読書欄に載っていた記事です。

本屋がなくなったら、困るじゃないか』に関する記事です。

この手の書籍は何冊か出ていたと思います。本屋が減っているというニュースも時々思い出したように流れますし、統計的にもそうなのでしょう。ただ書店の数だけを比較しても意味はない、売り場面積(坪数)で比較しないと、という意見もあります。ただし、通路の幅とか棚の高さとか、坪数だけでは計れないという意見も聞かれます。

結局、そうなると比較しようがなくなるわけで、こういう場合は思いきって、ある程度の批判は承知で統計などの数字を使うしかないと思います。

で、都道府県別の書店の数ですが、こんなページに表が載っていました。「2013年5月1日現在」の数字だそうです。そして、数年のタイムラグはありますが、「2016年4月1日現在」の都道県別の人口です。この二つから、人口10万人あたりの書店の数を出してみますと、上位は

高知県(16.33)、香川県(16.27)、石川県(15.5)、徳島県(15.47)、京都府(15.36)

となりました。そして下位は

神奈川県(8.06)、埼玉県(8.59)、沖縄県(8.78)、千葉県(8.94)、佐賀県(9.12)

です。高知県と神奈川県で倍の開きがありますが、全体的には11店から12店あたりに集中していて、それほど極端な地域格差は感じられませんし、都会と田舎とで書店の数に大きな違いがあるとも言えないようです。あえて言えば、上の下位を見てもおわかりのように、都会ほど書店が少ない傾向が見られるといったところでしょうか? 東京都は22位、広島県が27位、愛知県が28位、大阪府が29位、宮城県が32位、兵庫県が40位、福岡県が41位です。

もちろん、上に書いたように坪数を加味すれば都会の順位は上がってくると思いますが、身近に本屋があるかないかという視点で考えた場合には、都会ほど書店が少ないと言えるかもしれません。

で、それでどの程度人々は困っているのでしょうか? 確かに本屋をよく利用する人は困るでしょうけど、それはどんな小売業にだって言えることです。そして近所のお店がなくなるのは、近所の人たちが使わなくなったから、行かなくなったからであり、それはその周辺の住民にとってそのお店がそれほど必要とされていなかったからにほかなりません。

もちろん後継者がいないのでお店をたたむ、ということもあるでしょうが、多くの場合は需要がなくなったから消えていくものだと思います。それをなくなってから困ると言っても、だったらあなたたちが前々からもっと利用すればよかったのではないですか、という気がします。

「だって、行ったって欲しい本がないから」という意見もよく聞きます。本のように多種多様の商品が出ていて、お客のニーズも店でバラバラですと誰もが満足する品揃えなんて無理です。どの程度の品揃えを目指すか、そこが難しいところだと思います。アマゾンだって自社の倉庫に置いてあるのはほんの一部ですから、置いてない本に関して言えば、街の本屋に注文するのもアマゾンを使うのも流通上はスピードに変わりはありません。

最近流行りのセレクト型の書店、あるいはカフェ併設の書店。カフェ併設の場合はカフェの売り上げで賄っているのでしょうから話が違ってきますが、ではセレクト型の書店ならどこでやっても成り立つのでしょうか? 例えば電車もないバスも通っていないような田舎でやっていても、人は来てくれるのでしょうか? そこにしか置いていない本があるなら行くかもしれませんが、インターネットが発達した現在、そこでしか手に入らない本なんて数えるほどでしょう。おしゃれにディスプレイしたって、誰も来なければ見てくれる人もいないし、商売としては成り立たないのではないでしょうか? やはりそれなりに人が集まるところ、集まりやすいところでないと、という気がします。

と悲観的なことばかり書いてしまいましたが、本を必要とする人にとって本屋がなくなってもアマゾンや楽天ブックス、セブンネットショッピングなどのネット書店があれば、とりあえずは入手は可能なので問題ない、という人もいるはずです。あるいは紀伊國屋書店やジュンク堂書店などのように電子書籍ストアのあるところなら、電子書籍を買ってもよいでしょう。本屋がなくなるということと、本がなくなるということ(紙か電子化は別として)は別問題ですから、今後も本屋がどんどん無くなっていったとしても意外と代替産業が発達して、それなりに便利にやっていける、決して困るということはならないのではないか、という気もします。

賑わう書店はいいですね

毎年この時季はそうなのでしょうが、先週あたりから書店に営業回りに行くと、明らかにお客さんの数が多いと感じます。

はい、夏休みに入って、子供連れのお客さんが増えているんですね。夏休みにやるドリルを買うのか、読書感想文用の本を買いに来たのか、自由研究のヒント集のような本を探しに来たのか、理由は様々でしょうけど、本屋が賑わっているというのは、やはり嬉しくなります。

もちろん、書店の方はそのぶん接客などが忙しくなって、そんなときにこちらがお邪魔するのは申し訳ないのですが、書店の方はどんな気持ちなのでしょうか? ただ、もう少しすると、パタリと客足が止まるとも聞きます。必要なものをかったら、もう用はない、あるいは帰省したり旅行に行ったり、東京からいなくなってしまうのでしょう。

本を手に持って新幹線に乗る、飛行機に乗る図、なんか想像するだけで愉しい気持ちになりますが、それは職業病なのでしょうか。

書店がこうして賑わうのは、あとはクリスマス前だけでしょうかしら?

いみじくも本屋と本をめぐる状況について二つほど

今朝の朝日新聞「天声人語」は本屋の話。

過疎の地域で本に触れる機会を残そうと奮闘する人のこと。

道内では書店ゼロの街が増える一方、大都市では図書館、書店、学校図書室とも充実している。

これはたぶん「天声人語」筆者の声だと思いますが、果たして都会は恵まれているのか? たとえば、人口当たりの本屋の数ということで言えば、東京だって「街の書店」がどんどん消えています。本屋のない地区、地域が意外と広がっているのは、都会に住んでいれば実感できます。

それでも電車で一駅行けば本屋があるでしょ、と言われれば、確かにその通り。でも上に書いたように、人口当たりで考えると、都会もかなり深刻な状況なのではないかと思います。

図書館もどんな図書を置いているか、貸出率や住民の中の利用登録カードの登録率はどれくらいなのかを測ってみると、都会が必ずしも好成績とは限らないと思います。

蔦屋が、田舎としか言いようのない土地で図書館を開く、選書に批判はあるものの、地域コミュニティーの核として機能し始めているという現実もあるわけで、何が正解なのか、よくわかりません。

上の写真は、今日の東京新聞夕刊の紙面。こちらも、いろいろ工夫を凝らして生き残りを図っている、街の書店の記事。

たまたま今宵の、とある懇親の集いで、ドコモがやっているdマガジンの話になり、雑誌で稼いでいる街の本屋にとってdマガジンの影響はかなり深刻だとのこと。あたしの勤務先は、雑誌は「ふらんす」しかないので、雑誌依存率は高くなく、なおかつ「ふらんす」はdマガジンに入っていないので直接の影響はありませんが、街の書店が消えていくというのは、ボディーブローのように、どの出版社にも厳しい状況なんだろうと思います。

しかし、完全に失敗したことが明らかなアベノミクスのお陰で給料はまるで上がらず、この出版不況もいまだ出口は見えず。本屋とか図書館とか、紙とか電子とか、そういう垣根をいったん取っ払って、根本的に考え方を改めないとダメなのでしょうか?

とはいえ、あたしだって根本的にどう改めるのか、まるでわかっていないのですが……

選挙ポスターを見ていて新刊の配本について考えました

東京は都知事選の真っ最中です。こんどの日曜日が投票です。東京以外の地区ではニュースでどのように扱われているのかわかりませんが、東京ではニュースはもっぱら主要三候補しか取り上げていないといっても過言ではありません。テレビの番組では三候補の同性を扱った後に、申し訳程度に「この他にご覧の方々が立候補しております」と名前と小さな顔写真が一覧となって画面に表示されるだけです。

うーん、この扱い、公平・公正な選挙という点で問題ないのでしょうかね? ちょっと疑問です。

で、上の写真は、あたしの自宅の近所の掲示板です。これだけ枠があるのに、ポスターが貼ってあるのは8名だけです。これでも告示日から少したっているので増えた方です。

そして、上の写真は、あたしの勤務先の近所の掲示板です。13名のポスターが貼ってあります。まだ余白が残っているとはいえ、わが家の近所の掲示板と比べるとずいぶん多いです。

実際に投票するときに、こんなポスター一枚で投票先を決めるわけではありませんが、それでも待ちのところどころに貼ってあるポスターは視覚効果の上でもそれなりの影響があると思います。しかし、あたしのように都内をいろいろ移動している者はこうして違いを知ることもできますが、わが家の近所に住むお年寄りで、滅多に遠出もしないような人だと、上の写真の8名以外の立候補者を知ることもなく終わってしまう可能性もあります。

うーん、これでよいのか?

しかし、考えてみますと、この掲示板、都内だけでどれくらいあるのでしょう? 仮に1万か所あったとします。そうすると、ポスターは1万枚用意しないとならないわけですし、その1万枚のポスターを1万か所に貼りに行かないとならないわけですよね。これはお金も人手もかかります。資金力のない候補ではそんなことできません。

となると、まるっきりポスターを作らないか、5000枚とか、3000枚とか、1000枚とか、用意できるお金と人手に応じて準備するわけで、限られたポスターをどこに貼るかといえば、できるだけ人目につく場所、都心や郊外なら駅前などになると思います。逆に言えば、住民しか通らないような郊外の住宅街には貼られない、貼りに来ない、ということになります。

と考えたら、新刊書籍の配本のことを思い出しました。

例えば、文庫や新書。毎月、レーベルによって異なりますが、新聞などの広告を見ていると大手の文庫は月に8点くらいは出ています。しかし、全国の書店にくまなく届けられるほどの部数を作っているわけではありません。出版社にだって予算ってものがありますから、過去のデータと突き合わせ、このくらいの部数は売れるだろうと予想を立て、それに応じて作るわけです。

となると、限りある新刊の文庫はどういう書店に届くのか?

選挙ポスターと同じです。人口が多い都会の、なおかつお客さんが多い都心の大型店を中心に配本されるわけです。人口の少ない地方の、あまりお客も来ないような小さな書店には、待てど暮らせど届くことはないのです。都心と郊外の、選挙ポスターの枚数の差を目にするたびに、そんなことを考えます。

都知事選のように、都内のどこへ行っても同じポスターが貼られる選挙なので。こういうことに気づきましたが、区や市によって選挙区が異なり、立候補している候補者も異なるような選挙ですと、わが家の近所の掲示板と都心の掲示板との差には気づかなかったでしょう。

100冊は多い?

書店を回っていますと、今年も“夏の文庫フェア”の季節が始まったようです。いわゆる“夏100”ですね。夏の読書感想文での購入をあてにした文庫のフェア、あたしの子供のころにもやっていたのか否か、今となっては覚えていませんが、少なくとも現在ほど大規模なフェアはなかったと思います。それに百冊ものフェアをやっていたのでしょうか?

ここ数年、いや十数年でしょうか、文庫フェアに参入する出版社も増え、この“夏100”も前半戦と後半戦に分かれているようで、現在展開中なのは前半戦というわけです。

まずは上記の三社。左から角川文庫「カドフェス」、新潮社「新潮文庫の100冊」、集英社「ナツイチ」の無料小冊子です。タレントやキャラクタアーを遣って読者の注意を集めるのはここ数年のトレンドですね。数年前にはAKB48がイメージキャラクターになっていましたよね。

で、気づいたのですが、新潮社以外は「100冊」という言葉を使っていないことです。冊子の索引で数えてみると、確かに角川や集英社は100冊(アイテム)はなさそうです。このご時世、100冊分のフェアスペースを確保するのも大変なので、規模を縮小しているのでしょうか? でも、それなら思いきって50冊程度にすればよいのでしょうけど、どちらも90冊前後はありますから、ほぼほぼ100冊ではあります。あえて「100」を前面に打ち出さないというのは、100冊もないからなのか、100という数字の多さが読者に引かれてしまうことを恐れてなのか、あたしにはわかりません。

ちなみに集英社は上のような冊子(チラシ?)も置いてありました。「読書美少女コレクション!」とあります。同社の雑誌「セブンティーン」のモデルさんたちのおすすめを紹介したチラシです。裏面には現役の一般高校生の推薦も載っています。「美少女」を売りにしているってことは男子高校生や大学生あたりの購買を狙っているのでしょうか。でもセブンティーンモデルですから、「セブンティーン」の読者である女子中高生がターゲットでしょうか? いずれにせよ、若い世代へのアピールなんでしょうね。これはこれで大事なことだと思います。

さて、上の写真は新潮文庫の冊子のジャンル分けです。「恋する本」「シビレル本」「考える本」「ヤバイ本」「泣ける本」というカテゴリーで新潮文庫を紹介しているようです。ちなみに「ヤバイ」といっても危ない本のことではなく、ざっと見た限り、ファンタジー的なものが多いようです。

新潮文庫がカテゴリーを立てて、そこに文庫を落とし込んでいくスタイルなのに対し、角川と集英社は文庫それぞれにアイコンを表示して、どんな本なのか表わすようにしています。

ちょっと写真が不鮮明ですが、「受賞作」「映画化」「泣ける」「胸キュン」「どきどき、ハラハラ」「怖い」「ためになる」「元気になる」とあり、一つの本に複数のアイコンが付いているものもあります。もちろん、新潮文庫の冊子と同じように、全体を大きく「名作」「夏が好き!」「あたまの栄養」「青春いっぱい!」「感動する!」「手に汗にぎる!」「人気のロングセラー」と分けてもいます。

そして最後の集英社文庫のアイコンは「他人の恋を体験しよう」「涙なくしては読めません」「とにかく笑いたい人に!」「読めばワクワク心が躍る!」「途中でやめられない!」「哀しみ心の栄養素」「夏は爽やか小説です」「驚きのどんでん返し」となっていて、これも一つの本に複数のアイコンが付いているものが多数あります。また、同じように小冊子全体も「勇気がもらえる旅へ」「優しさの旅へ」「自分探しの旅へ」「冒険の旅へ」「知の旅へ」「笑いの旅へ」「青春の旅へ」「考える旅へ」という分け方がされています。

それにしても、これだけ手の込んだ小冊子が無料で配布されているなんて! フルカラーですし、全国で配布されているわけですから、一つの書店で数十冊から数百冊として、いったい何部作っているのでしょう? それをすべてタダで配るなんて、儲かっている会社はすごいものですね。

本の立ち位置

今朝の朝日新聞の記事です。

「本✕異業種」なんていう見出しを見ると、あたかも本が主役のような感じですが、記事を読むとどうもそうではないようです。本はあくまでオブジェ、飾り、そんな扱いのようです。

「おしゃれな雰囲気を出し」って、本をなんだと思っているのでしょうか? そもそも本っておしゃれなのでしょうか?

確かに装丁がきれいな本というのはあります。眺めていたくなるような装丁、飾っておきたくなるような装幀、確かにそんな本はあります。

でも、基本的に本って、物体としての本自体がおしゃれなわけはないと思います。本を読み、そのエッセンスなり精髄なりを吸収し身につけ、自分の精神とか心の持ち様とか生き方を省みる、そんな態度を身につけることで素敵な(あえて「おしゃれ」とは言わない)人になるものだと思うのです。決して、本が置いてあるからとか、本を持っているから(小脇に抱えているから)といっただけでおしゃれになるわけではないと思います。

確かに、陳列してある商品に関する知識が、本が側に置いてあることで得られやすくなるという効果はあるでしょう。でもそんなスマホでちょっとググるみたいに、簡単に知識を与えてしまってよいのでしょうか? やはり多少の苦労や努力をして自分で調べる、ということが肝心なのではないかと思うのです。

新刊が肝心?

先週の山陽ツアーについて少々まとめを。

行程は既にこのダイアリーでも書きましたが、広島、福山、倉敷、岡山を二泊三日です。世間では大雨のニュースが盛んに報じられていましたが、確かに強い雨に降られもしましたが、交通上の障害はなく、比較的スムーズな研修旅行でした。

さて研修旅行と言いますと、人文書をはじめとした専門書を置いている書店が中心になりますので、どうしても大型店ばかりを回ることになりがちです。そういう書店を回っていて感じるのは、「新刊が入荷していない」ということです。

それなりの大型店ですと地域の人も「あそこの本屋なら、この前書評に載っていた、あるいは広告が出ていた本だって置いてあるだろう」と予想して来店すると思われます。そんなとき肝心の本が置いてなければ、「なんだ、この本屋、使えないなあ」と思われてしまいます。書評や広告に載る本は多くの場合、各社の新刊ですから、まずは新刊の刊行情報にどれだけアンテナを張れているか、それが肝心だと思います。

かつて少年ジャンプがものすごく売れていたころ、都会の大型店には何十冊も配本されるのに地方の小さい書店には一冊来ればよい方ということが話題になったことがあります。必要な本を確実に入手するということが大事なわけで、特に専門書の出版社の場合、何もしなくても入ってくるということはまずないので、書店の方から積極的、能動的に動かないと入手できません。

うちは専門書は扱わない、というのであれば、それも一つの考え方であり、出版社がとやかく言うことではありませんが、もし専門書も扱いたいというのであれば、まずは新刊に目を光らせえることが鍵だと思います。そんなことを、今回の山陽ツアーでは思いました。

決して、今回訪問した書店に対して「新刊、全然置いてないじゃないか」と不満を言いたいのではありません。むしろ、この点を徹底すればもっと売り上げを伸ばせるのではないかなと感じたからの感想です。

こんな書店は愉しい?

ジュンク堂書店の千日前店がこの春、閉店しました。もともとは難波店と言い、現在の難波店が開店したため、もともとの難波店は千日前店に名前を変えて営業していましたが、この春にとうとう閉店となりました。

そのため難波店も千日前店の閉店を承け、棚構成の見直しと棚配置の変更など、新規大々的なリニューアルが行なわれ、あたしは今回の関西ツアーで、リニューアル後の難波店を初めて訪問しました。

「どんな風に変わっていた?」と聞かれたら、「これまでの難波店に千日前店が覆い被さった感じ」と答えるしかないです。「なに、それ?」と言われそうですが、両店をご存じの方にはこの表現もあながち荒唐無稽とは言えない、むしろ「確かにそんな感じ」と思っていただけるのではないでしょうか?

もう少し具体的にと言いますか、わかりやすく言うならば、棚が高くなり、少しだけ棚の間の通路も狭くなったので、ものすごく圧倒されます。ものすごい蔵書量、圧倒的な品揃え、という感じです。しかしこの圧倒感も悪く言えば息苦しさと言えなくもないでしょう。だから、ちょっと遊び心を加えてみたいと思いました。

「どうやって?」と聞かれそうですね。あたしなりの答えは、「床を(床で?)もっと遊ぼうよ」というものです。具体的にどうするのかと言いますと、棚が高くて通路も狭く感じられるわけですから、少し広く見えるように床のデザインを変えるのです。たとえば、トリックアート美術館にあるようなこんな図柄を床に描くのです。

空中神殿

一本橋

これだけでもずいぶん広く感じられると思います。あるいは街中に出現した作品ですが、下の写真のようなものとかでも面白いと思います。

トリックアート

こんな感じで、書棚が下へ下へどこまでも伸びているような絵を床に描いたら面白いと思うのですが、どうでしょう? ものすごく書店内が広々と感じられるのではないでしょうか?

その他、壁や書棚にもいろいろとトリックアートを描いて、本当に「本屋に来ること自体がアミューズメント」にしてしまうという趣向なんですが……

看板に偽りあり?

先程のダイアリー

内容とタイトルが合ってなくて……

すみません。

紀伊國屋書店の新宿南店が7月末で閉店するということは既に新聞報道などもありましたので、業界だけでなく一般の方もご存じのとおり。ネットでは既に新宿南店が閉店したかのように想い出を語る人が続出しているとも聞きます。が、先日、新宿本店で面白い(と言っては不謹慎?)話を聞きました。

南店の閉店の話がオープンになって以降、時々お客様から「この店、無くなっちゃうんだよね」と言われることがあるのだとか。「えっ?」というのが、本店のスタッフのみならず、あたしにとっても正直な感想なのですが、一般にはそういう受け止め方をしている人も少なからずいるようです。

つまり、紀伊國屋書店新宿南店が閉店、すなわち新宿にある紀伊國屋書店が閉店、という認識のようです。業界人であれば、そして紀伊國屋書店を頻繁に利用している人であれば、本店と南店というように、新宿には紀伊國屋書店が二つあるということは自明です。でも、一般の方、特に「久しぶりに東京へ来たから、新宿の紀伊國屋へ寄って帰ろう」というような人だと、そもそも新宿に紀伊國屋書店が二つあるということが知られていなかったのではないでしょうか?

そこへ持ってきて、上のように「新宿の紀伊國屋書店が…」という情報が入ってくれば、自分が昔から利用していたあの本屋が無くなるんだ、という発想に行き着くのはごくごく自然なことでしょう。

ですから、ここは声を大にして、「新宿に紀伊國屋書店は二つあります。昔からある、洋菓子の高野やカレーの中村屋のご近所の紀伊國屋書店は閉店しません」と訴えておきましょう。

考えてみますと、大都市ならターミナルに巨大な本屋複数あるのは珍しくもなんともないですが、日本中ほとんどの都市、町では本屋というのは「あるか、ないか」という状況のはず。新宿に本屋がいくつあるかなんて、そもそもいくつもあるなんて予想外なのかもしれませんね。