怨念は海を越え……

スターチャンネルで「呪怨」シリーズのハリウッドリメイク三作が放送されていました。

 

確か「パート1」「パート2」は観たことがあったような記憶があるので、視聴したのは未見とはっきりしている「パート3」です。

この「呪怨」シリーズ、基本はある男性が妻と子供を惨殺して自分も自殺した、その凄惨な事件が起きた家に彼らの怨霊が取り憑き、そこを訪れた者たちにさらに取り憑いて死に至らしめるというストーリーです。それが海を越えてアメリカにまで行ってしまうわけですね。まあ、日本の悪霊というのは場所に取り憑く場合もありますが、たいていは人に取り憑くもので、一度取り憑かれたらどこまで逃げても追ってくる怖い存在で、そのあたりの怖さがアメリカ版でどこまで出せているのか……

パート2がうろ覚えなのですが、日本から渡ってきた怨霊が、シカゴのアパートに住む一家を死に至らしめてしまったというところから、このパート3はスタートです。まずは一家の生き残りの少年が収容された病院で殺されます。もちろん怨霊によって。初めは精神疾患だと思い込んでいた少年の主治医も、悪霊の存在に気づき始めたところで同様に殺されます。

そしてところ変わって日本。そもそもの発端となった事件の被害者・伽耶子には妹がいて、その妹が悪夢に悩まされ、シカゴの事件を知って海を渡ります。イタコの血を引く自分がなんとかしなければ、という使命感なのでしょう。個人的には彼女が準主役的な活躍をして怨霊を鎮めるのを期待しましたが、活躍するのはほんの一部、それも活躍と呼ぶにはあまりにもショボいです。

本作の主人公は、問題のシカゴのアパートの管理人をしている三兄弟です。一番上の兄が管理人で、妹は恋人と近々ニューヨークへ旅立つ準備中。一番下の妹は喘息持ちで体が弱く、まだ小学生です。こんな事件があったのでは住む人もいない、つまり家賃収入も望めないアパートとなってしまい、オーナーから解雇を言い渡される兄。少々イラついています。喘息の末の妹を抱え、仕事もなくし、上の妹がニューヨークへ行ってしまったら、どうやって生活していくのかと悩んでいるようです。

そんな3人にも悪霊の手が伸びてきて……

さて、個人的に悪霊が取り憑くという話は好きです。いかにも日本的で、おどろおどろしいので大好物です。ただ、人に取り憑くからこそ、むやみやたら、誰にでも取り憑くことに違和感を感じるのも事実です。徹底的に特定の人に取り憑かないとダメでしょ、という気がします。そして立ち向かう伽耶子の妹役の日本人。加山雄三の娘さんらしいですが、日本の映画やドラマではほとんど見たことがないですね。

彼女の活躍がショボいと書きましたが、主人公があくまでアパート管理人の兄妹なわけですから、彼女が大活躍しなくても構いませんが、主人公兄妹が悪霊に立ち向かうためのキーになる人ではあるので、もう少し見せ場があってもよかったのではないか、あまりにもあっさりと悪霊に殺されてしまうとは。それでも、悪霊を封じるヒントは与えているわけですが。

結局、妹二人は助かるわけですが、最後の最後、やはり呪いは続く的なエンディング。どこへ逃げてもついてくるのですね。まだまだ続編が作られるのでしょうか?

壊しすぎ?

GWですが、引き籠もっています。

昔から、ゴールデン・ウイークだけでなく、年末年始、お盆休みなど、世間が混雑する時に出かけるのはバカバカしいという考えなので、そういう時には極力出かけないようにしています。いや、「バカバカしい」と書きましたが、正直に言えば、これは後からの言い訳で、実際には乗り物酔いがイヤなんです。

前にもこのダイアリーに書いたと思いますが、あたしは小さい頃から乗り物よいがヒドくて、遠足も基本的には辛いもの、できれば行きたくない、避けて通れるのであれば避けたい行事でした。遠足は楽しみ、前の晩は寝られない、なんて思いは一度もしたことがありません。

混雑するシーズン、道路が渋滞、車に酔う、という連想が働きますし、実際子供の頃にはこういうじきに出かけて気持ち悪くなったこともしばしばでしたから、わざわざ混んでいる時に出かけることはない、という考えが染みついてしまいました。

閑話休題。

では引き籠もって何をしているかと言えば、本を読むか映画を観るか、のどちらかですね。今回見ていたのはこちらです。

ダイ・ハード ラスト・デイ」です。シリーズの最新作で最終作という話ですが、実際はどうなのでしょう? この映画が大ヒットしていれば続編ができていたのかも知れませんね。その布石として息子を出していたと思いますから。

あっちこっちの映画評サイトでは酷評されていますね。難しいことを考えずに娯楽アクション映画だと思えば、まあ冗長にならず、コンパクトに仕上がっていて面白い作品だと思います。でも、まあ、映画評サイトに投稿する人たちって、どうしてもいろいろ言いたいのでしょう。

で、あたしはそういう面倒なことを言う趣味はありませんが、映画公開当時から言われていた、「いくらなんでも一般人の車を壊しすぎ」というマクレーン刑事の暴走ぶり、「あんなんで放射能が中和されるのか」という科学的に裏付けのない、ご都合主義的なストーリーの二つについては、やはり「ちょっとなぁ」という思いを抱いてしまいました。

ロシア、ソ連が舞台となると、脚本の緻密さも失われ、昔ながらの「悪の帝国」的な描かれ方をしてしまうのも、問題と言えば問題なのでしょうね。ランボーがアフガンに行ったりしたのも、観てはいませんが同じ結果になっていたのではないでしょうか?

 

だったら、「13金」のジェイソンがニューヨークへ行ったりしたほうが、よほどマシだったのかもしれません。ジェイソンにはこのままアフガンやロシア、北朝鮮に乗り込んでもらいたいと個人的には期待しているのですが……

悪霊の住む病院、らしい

自宅で映画鑑賞です。今回は「グレイヴ・エンカウンターズ2」です。パート1を見たのは一年近く前になりますね。どんな作品だったか見るまではうろ覚えでしたが、見始めたら「ああ、あれか」と思い出しました。

 

今回は、パート1はフィクションだと言われているけど、関わった人たちが次々に死んでいて、あれは作り物なんかじゃない、実話だったんだ、と映画マニアの学生が思い込み、その真実を暴くために再び問題の廃墟病院へやってくるという筋書き。

仲間の学生を引き連れやってきて、問題の病院に侵入し、定点監視カメラを設置して、というように、ここから先はパート1とまるっきり同じ展開。あえて新味を言えば、途中でパート1の主人公、地下道で発狂してしまってエンディングとなった人物が、10年間地下道の中で、つまりこの呪われた病院の中で生き続けていたという設定で登場することでしょうか。狂っているんだか、まともなんだか、途中から徐々にまともになっていったようですが、あの環境で10年も生きていられるとは信じられません。あれは病院に取り憑く悪霊に活かされていたのでしょう。だから新たな生け贄を呼び寄せる役割を担うことになり、新しい生け贄が手に入ったら捨てられるという、こちらもおきまりのパターン。

今回は主人公はなんとか助かります。助かるというか逃げ出すというか。仲間すべての犠牲の上になんとか病院から脱出し、パート1の製作会社に撮ったフィルムを持ち込み、ここにこうしてパート2をお届けします、といった趣向になっています。この「記録のために録っていたテープに偶然映り込んでしまった」というモキュメンタリーの手法も飽きることは飽きてきましたし、もうこの手法の限界も見えているわけですが、いつまでやるのでしょう。

パラノーマルのように、自宅で怪奇現象が起きるのでカメラを設置してという設定の場合はリアルさもありますが、こういうある場所を探検していくような、つまり登場人物が移動するような映画では、「果たしてこの状況になってもカメラを持ち歩くか?」「こんなことになってもまだ録ってるの?」といった、ごくごく普通の疑問の方が先に立ちます。

もちろん、戦場カメラマンにしろ、報道カメラマンにしろ、命のやりとりをするような危険な現場でもカメラを手放すことはないのでしょうが、果たして本当にそうなのでしょうか? 本当に自分の命が危険にさらされたときでもカメラを持ち続けるのでしょうか? いや、百歩譲ってカメラを捨てないとしても、こういうモキュメンタリーのように撮り続けていられるのでしょうか?

という疑問があまりにも先に立ってしまい、興醒めになるんですよね。

 

 

と、こんな愚痴をこぼしつつも、あたしはホラー映画が好きなんですよね。それも結構B級ものも。悪霊が好き、というのが根底にあるからでしょうか? 少なくとも人間は裏切るけど、悪霊は裏切らない、あたしはそう思っています。

ホラー、いろいろ

夏以外でもホラー映画というのはスカパー!でやっているもので、B級作品目白押しです。そんな中、比較的メジャーなものを3本見ました。「推理作家ポー 最期の5日間」「ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛」「クロユリ団地」です。

 

まずは「推理作家ポー」ですが、エドガー・アラン・ポーの死の直前の数日間を描いた作品です。ホラーと言うよりはミステリーですかね。ポーの生涯をよく知らなかったのですが、彼は公園で泥酔状態見つかり、そのまま亡くなったそうですね。いまだにその死因には諸説あるそうですが、本作では彼のフィアンセが誘拐され、その犯人によって毒を飲まされるという「毒殺説」を採用しているようです。

ポーの作品は岩浪文庫で読んだことがあるくらいで詳しいことは知りませんが、熱烈な愛好家なら作品世界を模倣した殺人劇をどう見るのでしょうか。死の直前にこういう連続殺人が史実としてあったのか、晩年のポーにあのような恋人がいたのか、あたしは知りませんので純粋にフィクションとして、サスペンス映画として鑑賞した感想になりますが、実は犯人の動機がよくわかりません。それに一連の犯行によって何をしたかったのか。犯人はポーの愛読者、崇拝者という設定のようですので、酒浸りになって落ちぶれたポーにもう一度傑作を書かせたくてあのような殺人事件を起こしただけなのでしょうか? いまで言うところのストーカー的なファン心理がなせる犯罪だったのでしょうか?

次に「ラスト・エクソシズム」はパート2です。たぶん「パート1」も見ているはずですが、そして鑑賞記もブログに書いたはずなのですが、ちょっと見当たりません。お許しください。

前作で狩ると的なキリスト教の犠牲になりかかった少女が、心を病んだ少女たちが共同で暮らす施設に入所します。最初は何事もなく、悪夢も見なくなり、ホテルでルームメーキングの仕事も始め順調に回復していくかに見えますが、徐々に悪魔の影が忍び寄り、奇怪なことが周囲で起こり始めます。

と、こう書いてしまうとよくある「悪魔もの」ですね。はい、確かにその通りで、悪魔払いの人が出てきて闘うわけですが、悪魔の方が強く返り討ちにあってしまいます。完全に体を支配された少女は施設の人たちを焼き殺し、どこへともなく去って行くという、こりゃ完全に興行収入次第ではさらなる続編を作ろうという魂胆が見え見えのラストです。最近のホラーって当たったら次を作ろうという下心があるからか、ラストで正義が勝つ、神の方が勝つというストーリーになっていないものが多いですね。神の力も落ちたものです。

さて、最後は「クロユリ」です。AKBを卒業した前田敦子の主演作ということでかなり話題になっていましたね。悪霊に取り憑かれていく前田敦子の狂気の演技が秀逸だったという劇評もありましたが、興行収入的にはどうだったのでしょうか?

内容は、TBSで映画公開の頃にスピンオフドラマをやっていたので、ミノル君がどういういきさつで悪霊となったのかはわかっていると思います。が、ドラマではかくれんぼでゴミ箱に隠れてそのまま回収された焼け死んだのではなく、実の親に殺されて(過失致死ですが)ゴミ箱に遺棄されたはずでしたが、そのあたりの細かなところがちょっと違っていました。

じきにネタバレになるのですが、前田敦子は家族でクロユリ団地に越してきたのではなく、大学(専門学校?)進学をきっかけに一人暮らしを始めたのですね。幼い頃の家族両校の事故で両親と弟を亡くし、自分一人が生き残ってしまったことへの負い目を抱き続けて生きてきたという設定。それにしても自立を促すためとはいえ、あれほどの症状が残っているのに前田敦子に一人暮らしを認めるとは、それまで育ててくれた伯父さん夫婦もどうかと思いますね。そして、そんな精神状態だからこそ悪霊につけ込まれてしまったのでしょう。

前田敦子を救う役回りの成宮寛貴もフィアンセを自分の自動車事故で植物状態にしてしまったという負い目を抱え、そこがまた取り憑かれる原因になっているという、これでは誰も救われないのが当たり前という設定です。そして、この手の映画でありがちな霊能者、本作では成宮の親戚のような手塚理美が演じていますが、どうもこれもミノル君にやられてしまったとおぼしき様子。そもそも前田敦子の住む団地でお祓いをしなくても効果はあるのかという突っ込みが入りそうでした。

最終的には成宮が犠牲になって一件落着なのか、前田敦子は精神を病んだまま逃れたものの、ミノル君の呪いは続くのか、ラストはぼかされている感じです。所詮、秋元康だとこの程度なのでしょう。「伝染歌」といい、「着信アリ」といい、秋元康のホラーは設定は時代を感じさせて面白いのですが、ストーリーがグダグダで、ホラーになっていない、オチが落ちていない気がするのはあたしだけでしょうか?

 

本作も、ああいうラストでしたから興行収入次第では続編を考えているのでしょうか?

あのトラはすべてCG!

少し前にやっていたので録画しておいた「ライフ・オブ・パイ」を視聴。

副題は「トラと漂流した227日」とありましたが、映画を見る限り、200日以上も漂流していたようには感じられませんでした。トラと少年が小さな救命ボートで漂流するということで、たぶん予告編などを見る限り、トラに食われてしまうのだろうか、それともトラを殺してしまうのか、あるいはトラと友情が芽生えるのか、といったところに興味が沸きますが、割と早い段階で「同じ動物として、自分はトラよりも強いことをトラにたたき込む」という方針になっていることがわかります。途中の食人島(人喰い族が住んでいるのではなく、夜になると島が酸性化して生き物をすべて溶かしてしまう島)のエピソードは科学的にあり得るのか、ちょっと疑問を持ちながら読みました。そんな島に生えている海藻を食べて主人公は大丈夫だったのか?

結局、太平洋を渡り、メキシコの海岸に打ち上げられたようですが、トラはさっさと森へ消え、何の余韻も残しません。主人公がその後調査に来た保険会社の人に話す漂流譚は信じてもらえず、主人公は助かった少数の人間が殺し合うサバイバルゲーム的な話を語って聞かせます。映画で描かれた動物たちが、それぞれ人間に置き換わった内容で、どちらが本当に起きたことなのか、結末は観客に委ねられているのでしょうか。

それにしても、最後まで見終わってみて、食人島のエピソードは中途半端、前半の主人公がさまざまな宗教と出会うエピソードも、あまり漂流譚に活かされているとは言えません。親子(特に父と)の葛藤を描いているにしても、こちらもやや消化不良。母親の愛情にしても、なんか薄っぺらい。

映画としての出来は微妙でしょうかね? でもって、あのトラはまるっきり、最初から最後までCGらしいですね。よくできていますが、そういうのをわかった目で見ると、やはりCGだなあと見えてしまいます。

橋本愛は美少女か?

WOWOWの2月のプログラムには橋本愛特集があり、彼女の出演作品を集中的にオンエアしておりました。「アバター」「アナザー」「さよならドビュッシー」などが放送されました。

  

で、とりあえず最初の二作を鑑賞。

「アバター」は、うーん、原作はどうなのか知りませんが、こんなことにはまり込んでしまうのでしょうか、今どきの高校生って。それが最初の感想です。ただ、かなり極端な事例かもしれませんが、もう少し現実よりの事柄で考えてみれば、こういうことってあるんだろうなあ、とも思えます。スクールカーストがかなり極端な形で現実化した世界と考えればよいのでしょう。

ただ、やはり設定が荒唐無稽すぎるので、橋本愛の演技がどうなのか、わかりません。少なくとも、ああいうふうに大勢の前で声を張り上げ演説を行なうようなキャラクターは似合わないな、と思います。もう少し、気持ちのドロドロとしたところを描いてくれればよかったのに、と少々残念です。

「アナザー」はもう少しミステリアスな橋本愛が堪能できます。こちらの方が美少女ぶりを遺憾なく発揮していると思いますが、途中からは割と普通の女子生徒になってしまっていました。内容を簡単に紹介しますと、主人公の男子が東京から橋本愛のいる田舎の中学に転校してきます。新しい学校に登校すると、橋本愛はクラスメートのはずなのに、クラスメートは彼女をいないものとして扱っています。それは担任の先生も同じです。

ここであたしは、橋本愛は主人子にしか見えない霊的存在なのかと思ったのですが、それはすぐに種明かしがされますが、つまりはこの学校の奇怪なルールなのです。橋本愛は霊でもなんでもなく、現実のクラスメートです。過去に起こった忌まわしい出来事以来、この中学ではクラスメートの一人を「いない」ものとして扱い、それによって怪奇現象(生徒や家族が次々に不可解な死を遂げる)を防ごうとしていたというのです。そんなルールを知らずに橋本愛に話しかけてしまった主人公のせいで不審死が始まり、なんとかそれを食い止めようと主人公と橋本愛が尽力するというストーリー。

ネタばらしをすると、この学校のこのクラスには毎年必ず死者が一人混じっている、死者は生者の記憶を書き換え、さも存在しているかのように振る舞っています。この生者の中に紛れ込んだ死者をもう一度殺せば、不審死の連鎖は止められるというのが解決策。この時、紛れ込んでいた死者というのが主人公のおばさん(死んだ母親の妹)であり、クラスの副担任をしている加藤あいだったとは、ちょっとありがちでもあり、意表を突いていた感じもしました。

最後にもう一度振り出しに戻る的なラストはこの手のホラーのお約束ですが、そもそもなんでこのクラスに死者が一人混じるのかはまるっきり明らかにされずじまい、せめてヒントくらいは与えてくれてもよいのでは、と思います。

というわけで、橋本愛です。「あまちゃん」でもそうでしたが、この子はやはり能年玲奈の天真爛漫に対し、ちょっと影のある役どころの方がはまりますね。もちろん能年玲奈も、あたし的には「動物の狩り方」のようなミステリアスな美少女がとてつもなく魅力的だったりしますし、橋本愛だって、NHKドラマ「ハードナッツ!」の時のように、ちょっととぼけたコミカルな魅力もあるのですが、やはり基本はクールビューティ路線ではないかな、と感じます。

で、「アナザー」を見ていると、やはりこの子は基本的に美少女なんだなと改めて認識しました。

賛否両論?

寒いので自宅に籠もって映画鑑賞。

いや、寒くなくても引き籠もっているわね、あたし。

それはともかく、市川由衣主演のホラー「サイレン」です。

映画の雰囲気としてはホラーなんでしょうけど、怖いところはないですね。心理サスペンスとして見るべきなのかもしれません。ホラーゲームが原作と言うことですが、ゲームをやらないのでそちらは知りませんが、ネットのレビューを見るとオリジナルのゲームファンから数々の苦情が寄せられていますね。堤監督なんですが、こういうのは不得手なのでしょうか?

最後のオチは、まあこの十数年の映画を振り返ればありきたりな真相です。だとしても不可解な点、謎のまま残っているところなどがあるのは、これまた多くのネットのレビューにあるとおりです。

おどろおどろしい、ホラーならではの映像美、というか恐怖もほとんど感じられず、ヒタヒタと迫り来る恐怖が感じられません。島民のけだるさも怖いのかと問われれば、不気味なだけとしか答えようがないです。

で、肝心の市川由衣です。

これまたレビューでは散々な言われようですが、そんなにヒドかったでしょうか? あたしは由衣ちゃん好きなので、ひたすらカワイイなあと思ってみていたのですが、確かにホラーもののヒロインとしては芯の強さを感じるわけでもなければ、鬼気迫るものも感じられず、レビューの意見もごもっともなのですが、これは彼女の演技力なのか、そもそもの企画自体のミスなのか、という問題なのではないかという気がします。

市川由衣ちゃん自身は「呪怨」など、これまでホラー作品にはよく出ていたので、脚本と演出さえしっかりしていれば、ホラーとか影のある役、ちょっと狂気を帯びたような役は似合うと思うのですが……。本作でも、あたしの理解が正しければ、この後、市川由衣は島民全員を血祭りに上げるわけですよね。

 

賞味期限切れ?

久しぶりに録画しておいたスカパー!の映画を鑑賞。作品は以下の2本、「[アパートメント:143]」と「アパリション-悪霊-」です。

 

前者はもうそろそろ飽きてきたフェイク・ドキュメンタリーのホラー、後者はややフェイク・ドキュメンタリーっぽさを含みつつも、フツーのホラー映画です。

「アパートメント」ですが、母を交通事故で亡くし、男で一つで娘と息子を育てている三人家族の部屋でおかしな現象が起きるので、大学教授とおぼしき専門家に調査を依頼し、専門家と助手二人が部屋にやってきて、家中にカメラを設置し検証を試みるというおきまりのストーリー。専門家は超常現象も自然界の現象の一部であるとの考えの下、この家で起こっている現象も思春期の不安定な娘が起こしているものであると主張するのですが、それにしては起きることが尋常ではありません。悪霊の仕業と言ってしまえば済みそうなものを、と思います。

娘は母親が死んだのは父親のせいだと思い込んでいて、また思春期ですから父親に反抗的な態度をとり続けます。そんな亡母が父親を恨んでさまよい出てきているのかと思いきや、どうもそんな感じではありません。いかにも母親っぽい霊の姿を映したりしていますが、それが果たして母親なのか誰にもわかりません。話が進むにつれ、母親が理想的な母、妻、女性であったのではなく、むしろ最後は精神に異常を来し、自宅に男を連れ込み、何日も風呂に入らず仕事にも行かないようになり、最後は恐らく錯乱状態で車を走らせ事故を起こしたのでしょう。ただ、娘はそんな母親を受け入れられず、あくまで母親を理想化しようとしている、そこに現実のギャップが生まれ精神が不安定になり……

以上のように、あくまで科学ですべて割りきれる、説明がつくというスタンスで行くのであれば、それはそれで納得しますが、結局最後までこの家の現象は解決せず、原因も不明のまま。要するに、この家で起こっていた現象は、家族の誰かに母親ではない、何かの悪霊が取り憑いて起きているものであることを匂わせて幕切れです。この現象は母親が生きていた頃に家族四人で住んでいた家でも起こっていたようですから、それなら母親がおかしくなったのも説明がつきそうです。でも、本作ではそこまで立ち入らずに終わっています。もうそろそろこの手のフェイクの手法もアイデアが出尽くした感がありますね。

次に後者、「アパリション」ですが、こちらは科学好きな大学生が降霊実見のようなものを行なって悪霊をこの世界に引き込んでしまったというストーリー。話の中では悪霊でも、幽霊でもなく、邪悪な何か、という表現でしたので、結局正体がなんであったのかはわかりません。そいつらの目的はこの世界を征服するということらしいですが(そこまでわかっているのに正体が何かわからないというのも不思議)、その割りには主人公たち以外の人や家に危害が及んでいる様子はなく、あくまで逃げても逃げても主人公たちだけを追ってくる感じです。

最後も、結局は全員やられて終わりという感じで、これで終わったのか、この後、どうやって世界を征服するのかまるで想像できません。たとえば主人公たちに乗り移って周りの人たちを一人ずつ血祭りに上げていく、という感じなら、それは理解できますが、そのようなストーリー展開ではなさそうです。

家具が動いたり、カビが生えたり、植物が枯れたり、どれもこれまでの悪霊映画と同じ現象で、これのどこに「正体のわからない何か」だと断定できる要素があるのか? よっぽど悪霊を呼び込んでしまったと言ってしまった方がわかりやすいのにと思います。

やはり日本人としては、ある特定の人に怨みを持って死んでいった人の怨念が祟る、そういうストーリーの方がゾクゾクして怖いと感じられますよね。

ホラーじゃないわね

三連休の真ん中です。例によって特にどこにも出かけることなく引き籠もっています。

それにしても、先月のことですが、やはり三連休の少し前に、とある人と「今週末は三連休ですね」という話題になりました。その人は休みの日はまず家にいることはないと言います。三連休なんて言ったら、それこそどこへ行こうか、今からワクワクするとのことです。

それに対してあたし、三連休になろうが、ただの土日であろうが、まず出かけることはありません。時に平日に休みを取ることもありますが、別にどこかへ出かけるために休むというよりは、単に代休だったりします。時には、ごく稀にですが、展覧会を見に行くために出かけることもありますが、年に何度もあることではありません。

別に一緒に出かける相手がいないというわけではありません。いや、実際そういう相手はいない、現在いないだけでなく、過去にもいたためしがないのですが、でも展覧会などは一人で行った方が気楽だったりするので、特に一緒に行く相手を必要とするわけではありません。単にあたしが出不精なだけです。

なんでこうなったのかは、このダイアリーでも過去に書いたことがありますが、つまりは二つ。まず第一に乗り物酔いです。電車はほとんど酔いませんが車はダメです。小さいころから遠足は楽しみなことではなく憂鬱なことでした。夏休みに田舎へ出かけるのも憂鬱な行事でした。行った先がつまらないのではなく、行くというその行程がつらいのです。だからおのずと出かけるという行為が自分の中では嫌なことになってしまいました。

第二は、昔から休日に誘われるようなことがなかったからです。たぶん上述の第一のような理由があったとしても人から誘われて出かけるような癖がつけば自分からも外へ出かけるようになったのかもしれませんが、そういう機会が訪れなかったので、人に誘われようが自分の意志でだろうが、出かけるという思考が欠けているのだと思います。

もちろん、人が誘ってこないというのは、第一に挙げた理由から、誘われても乗り気のない返事しかしてこなかった自分に原因があることはわかっています。断わっているうちに誰からも誘われなくなったというのが真相です。十分大人になった今でこそ乗り物酔いはあまりしなくなりましたが、やはり学生時代までは乗り物酔いが嫌だったのでクルマで出かけるような旅行は極力避けていました。せっかく楽しく出かけたいのに乗り物酔いで気分が悪くなってしまったのでは、誘ってくれた相手にも申し訳ないですから。

というわけで前置きが長くなりましたが、そんな本日も録っておいた映画鑑賞。今回はこちらです。

マンディ・レイン 血まみれ金髪女子高生」です。原題は「ALL THE BOYS LOVE MANDY LANE」で、いわゆる学園ホラーだな、ということはわかります。アメリカのバカ者たちがふざけ合っているうちに、一人殺され二人殺されていく、といった内容なんだろうなあ、ということは見なくてもわかります。

とりあえず簡単なあらすじを書きますと、高校のアイドル、マンディ・レインを誘って男三人、女三人で、男子生徒の別荘へ向かいます。酒を飲み、クスリをやって愉しんでいるうちに、謎の人物によって一人ずつ殺されていくというストーリー。前半で、なぜか万ディと仲の良い男子生徒と参加したパーティーで事故死騒ぎが起こるものの、これは全く後半のストーリーに絡みません。あえて言えば、この事故をきっかけにマンディーと友達の男子生徒の間が疎遠になってしまったくらいのことです。

後半の連続殺戮までも、かなり無駄なシーンが続きます。こういう作品の場合、開始早々に第一の殺人が起きないとならないと思いますが、たぶん30分か40分はたってから殺人ショーが始まります。それもジワジワと迫ってくる怖さはなく、あっという間に犯人も誰だかバレてしまいます。バレてしまったということは最後のドンデン返しを期待したいところですが、マンディも犯人とグルだったというオチがあるのみ。

だったら、なんで一緒に別荘に行った友人たちを殺した(殺させた)のか、まるっきりわかりません。幼少期に何かトラウマとなるようなことがあったのか、そういうシーンも、それを匂わすようなシーンも皆無です。ジェイソンのような殺人鬼ならともかく、仲間内の殺人なのですから理由がないと……

でもって、これは人によって好みが分かれるのでしょうけど、あたしにはこの主人公のマンディがまるで美人に見えません。そりゃ、主役ですからぶすな女優さんではありません。一応、アンバー・ハードなので、それなりには知られた女優さんですよね。ただ少なくとも、この映画では誰もが振り向く学園のマドンナ、とはとても見えない。そこが致命的ではないでしょうか?

 

エターナルファンタジー

先日スカパー!で放映されていた「銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー」を録画しておいたので視聴しました。昔、見たことがあったような気もしつつ、全体的な流れは覚えていなくて、ほぼ初見に近いものでした。いや、確かに部分的には見たことがあるのはいくつかのシーンで覚えているのですが、この映画のワンシーンだったとは覚えていませんでした。

それにしてもこの作品、ネットを検索してみるとパイロット版的な作品で、この翌年に完結篇的な作品が作られ公開される予定だったとか。それがこの作品の興行成績が悪いため完結篇の製作が中止になってしまったのだとか。前世紀の話ですからもう十年以上も前。もうこの作品の完結篇は作られないと考えてよいのでしょうね。

もっとも、今回の「ハーロック」が当たっていれば、「999」も新作が作られる可能性はあったかもしれません。少なくとも松本零士はそんなことを思っていたのではないかなあ、なんて邪推もしたくなります。

この作品では、機械人間が鉄郎のようなフツーの人間を敵視し、かなり虐待をしていて、それに反逆する鉄郎は幽閉され、脱走後は命を狙われるわけです。脱走を助け鉄郎を999に乗せたメーテルも追われるわけで、その追っ手の一人との闘いにけりをつけ、さあ敵の本拠へ、的なところで映画は終わってしまっています。この後どうなるんだ、という期待を抱かせつつも、これまでの「銀河鉄道999」の映画がすべて同じようなストーリーですから、おおよその見当も付いてしまうという感じでもあります。

それにしても、本作の最後、999は新たな終着駅へ向けてメーテルと鉄郎を乗せて走っていくわけですが、その後はアルカディア号、エメラルダス号が続くのはよいとして、さらにその後に宇宙戦艦ヤマトが付いていったのは笑ってしまいました。松本零士はいったいどんな完結篇を思い描いていたのでしょう?

しかし鉄郎、気持ちだけは立派ですが、結局はハーロックやエメラルダスがいないと、彼らに助けてもらわないと何もできない少年でしかないような……。それを言ったらおしまいですが。

そんな作品を腐すような意見はやめにして、999を見るといつも思うのですが、あのように汽車、列車が宇宙を走れるようになるには科学技術がどれくらい進歩したらよいのでしょうか? 銀河鉄道は目には見えないけれど宇宙空間にもレールが敷かれていてその上を走っているという設定だったはずです。そしてそのレールの周囲(つまり銀河鉄道の周囲)は、これも目には見えないですが空気のトンネルのような状態になっていて、だから鉄郎が999の窓を開けても大丈夫なんだ、という設定だったと思います。こういう技術、果たして、あと1000年か2000年もしたら可能になるのでしょうか?

ついでに言えば、宇宙戦艦ヤマトも、あんなまるっきり海に浮かぶ船の形をした状態でいきなり宇宙まで飛び立てるというのは、(波動エンジンが付いているからというのはおくとして)これまた科学技術がどれくらい進歩したら可能なのでしょうか? 現在の飛行機、ロケットの形態や離陸、発射までの準備を見る限り、道のりは長そうな気がします。ちなみに、ヤマトは西暦2199年という設定ですよね。それくらいたてば可能なのでしょうか?

そうそう、ヤマトは設定上は全長が300メートルくらいで、アルカディア号は400メートル程度とされていたはずですが、今回の映画のアルカディア号は1キロを超える全長なんですね。それに形状もこれまでのアルカディア号とはかなり異なるし……