真剣に考えてみると……

下は本日のテレビ欄、フジテレビの夕方の時間帯です。たぶん「みんなのニュース」って、関東ローカルの番組ですよね? 別にあたしだってこの時間では視られませんので、別に構いませんが……

気になったのはその内容の一部。「40代の結婚が急増?芸能界でもラッシュになぜ…いまになって本気「不安…」男女の本音」というのが見えます。これが気になります。

40代で結婚って、確かにこのところ「最後の独身大物俳優が結婚」なんてニュースの時、福山雅治をはじめとして男性陣は軒並み40代ですね。女性が40代というのはあまり気にしていませんでしたが、40代に近いというところでは観月ありさとか、入籍はまだのようですが藤原紀香とか、そんなところが思いつきます。

40代の結婚って、初婚の場合もあれば再婚の場合もありますよね? 再婚の場合、既に子供がいることもあれば、いないこともあるでしょう。このあたり、かなりいろいろなパターンがあるので簡単には言えませんが、お互い初婚の場合、40代となると子供は諦めているのでしょうか? あたしが一番気になるのはそこのところです。

あたしは子供が好きです。昔から子供にはとにかく懐かれるタイプでした。ですから、自分自身の子供となるとまた別なのかもしれませんが、やはり子供が欲しいと思います。ただ、そうなると身の程もわきまえず、相手にはそれなりの若さを求めることになります。しかし、この可能性は非常に低いですよね。あたしはよくたって、向こう(若い女性)があたしを選ぶ可能性がほぼゼロでしょうから……(汗)

では、お互いに40代だとどうでしょう? あたしとしては、とてもこれから子供を作ろうという気持ちにはなれませんし、生まれてから辛いだけだと思っています。ならば、子供は作らず、残りの人生を共に歩む相手としての伴侶を探すのか? 子供を作らないのであれば、あえて結婚する必要も感じませんね。これまでも友達とか恋人とか無しで生きてきたわけですから、いまさら何のために必要とするのかわかりません。

さて、今回の番組の特集、着眼点はどのあたりにあったのでしょうか?

あっ、そうか。わが家は全部録りのDVDレコーダーがあるから、勝手に録画されていたんだ。後で視てみましょう!

合う、合わない

たまたま視ていたテレビで、結婚について出演者が語っていました。その中で「どうやったら結婚相手と巡り会うのか」といった話になり、既婚の出演者が「どこか、自分と合うところがあると感じるものだ」みたいなことを言っていました。

ふーん、合うねぇ。

芸能人に限らないのでしょうが、なまじ大々的に報道されてしまうから目立つだけであって、芸能人にせよ一般人にせよ、結婚するときは、どんなカップルだってたいていは「この人しかいない!」と信じ切って決断していると思うのですよね。しかし、「永遠の愛」を誓ったはずなのに、誓ったはずの二人がいともあっさりと離婚してしまうのもまた事実、事例に事欠くことはありません。

だから「合う」という気持ちも、あてにならないものではないかと思いますが、それでも「合わない」人と結婚したり付き合ったりすることはないでしょうから(世間にはそういう人も多数いるのでしょうが、あくまで原則論としては)、やはりこの「合う」という感情は大事なのではないかと思います。

しかし、あたしにはその「合う」という気持ちが理解できません。生まれてこの方、同性だろうが異性だろうが、年上だろうが年下だろうが、あるいは同世代だろうが、他人に対して「この人とは合うな」と感じたことがないんです。

合うってどういうこと?

それが正直な気持ちですし、素朴な疑問です。その逆に、「この人とは合わないな」という気持ちはしょっちゅう抱きます。そういう人にはしょっちゅう出逢います。

「合わない」とまでは言わなくとも、「この人とは親しくはなれないな」と感じることもしばしばですし、何度か会ううちに多少は親しくなっても「友達にはなれないな」と感じることがほとんどです。少なくとも仕事上で出逢った人は仕事上の関係でしかなく、仕事を離れてまで親交が続くとは思えません。

もし「合う」人と出会ったらどんな気持ちになるのでしょう?

愛になりたい

このコミックを知っている人はそこそこの年齢ではないかと思うのですが……

宮川匡代の『ONE-愛になりたい』で、1987年の作品ですから、あたしが大学2年のころですね。非常にベタな胸キュン漫画で、結構好きで読んでいました。が、ラストがどうなったのかはまるで覚えていないのです。そんなモヤモヤを抱えていたのですが、最近、書店営業の途次、たまたまコミックのコーナーでこんな作品を目にしてしまいました。

   

『ONE Final 未来のエスキース』(1)(2)(3)(4)です。惹句を見ると「ONE 愛になりたい」の続編だとあります。こんな作品が出ていたとは! 一気に学生のころの気分に引き戻されてしまいます。とりあえず第4巻まであるようですが、これで完結なのか、まだまだ続くのか、どうなんでしょう? そしてかつての二人はどうなっているのか、とても気になります。

こういう子、カワイイわね!

今日の朝日新聞の天声人語にコミック「ひよっこ料理人」のことが載っていました。

あたし、この作品、好きなんです。最初から熱心に読んでいたわけではなく、時々拾い読み程度に読んでいたのですが、好きなコミックでした。それが少し前に連載終了してしまって、ちょっと残念でした。久しぶりに読んだとき、主人公の妃代子(ひよこ)が中年にさしかかっていて、あれよあれよという間におばあちゃんになってエンディングでした。

実は、妃代子がこども料理教室を開き始めたばかりでハム太と結婚する前のころの雰囲気が好きだったんです。別に料理がうまいから胃袋を捕まれた、というわけではなく、こういう感じの女の子、なんかカワイイなあ、と思ってコミックも読んでいたんです。ちなみに、知り合いの書店員さんで、この妃代子に似た感じの子がいて、あたしはとても気に入ってたんですが……(汗)

コミックというのは時々眺めると、自分がこどものころに見ていたマンガとはずいぶんと感じが違いますね。あたしがこどものころは「コミック」という言葉はほとんど使われていなくて、もっぱら「マンガ」でしたから。何が違うって、コマ割りというのでしょうか。あとはセリフやト書きの配置の仕方などもずいぶん違うなあと感じます。

もちろん昔ながらのスタイルの方も多いですが、「こういうコミックが今どきなのか」と思わせる作品も多いものです。コミックってストーリーの前に絵のタッチで読むか読まないかを決めるところがあるので、コマ割りなどでついていけないと思うともうダメですね。

男はそういうもんなんだよ

ほぼ半分読了した『サリンジャーと過ごした日々』は、決してJ.D.サリンジャーの隠された一面を暴いたエピソード、というていの本ではありません。あくまで出版エージェントを舞台にした少女(24歳ならもうレディー?)の成長譚と言った方がよいかも知れません。もちろんサリンジャーは出てきますが、彼によってストーリーが展開していくわけではありません。

もちろんサリンジャーの名前もその作品名も頻出しますが……

   

閑話休題。

まだ半分くらいしか読んでいないので感想は読み終わってからにします。ちょっと目を惹く文章があったので、それについて書きます。

それは主人公の女性が同棲している彼氏と外へ食事へ行ったときのことです。二人が食事をしているお店で彼氏がじっと別の女の子を見ていたのです。用事があるからと先に帰った主人公。一時間ほど遅れて帰ってきた彼氏。そして、そこでの二人の会話です。彼氏は、世の男というものはすべて女の子を見るものだ、と開き直った言い種です。「男は女を見るのが好きなんだ」とのたまわります。「はい、はい」と気のない返事をしている主人公に対して彼氏はこう言います。

きみは、人生はおとぎ話で、男はひとりの女と恋に落ちればほかの女には見向きもしないと思っている。だけど、そりゃうそだ。(P.150)

彼女はあえて反論もしませんが、彼氏はまだまだご託を並べます。それは別によいのです。あたしが気になったのは上のセリフです。果たして、この言葉は真実でしょうか?

あたしはそうとは思いません。完全に「見向きもしない」で一人の女の人を愛せるのかと聞かれたら、「はい」とは断言しにくいかも知れませんが、それでも、あたしはそうありたいと思います。だって、あたしはやっぱりいまだに高校時代に好きだった乾さんが忘れられないですし、他の女性を好きになってしまったら、乾さんに対する思いが嘘だったと自分で証明しているような気がするのです。

こういう考えっておかしいのでしょうか?

まだあげ初めし前髪の

いきなり島崎藤村ですが、朝の通勤BGMの影響です。

このところ、朝の電車内ではほぼ毎日のように乃木坂46の「透明な色」を聴きながらの出勤だったのですが、久しぶりに沢田聖子を聴いたのです。

  

沢田聖子と聞いても知らない人ばかりだと思うのですが、名前がちょっとだけ異なる松田聖子とデビューは同い年。だから、あたしが中学生のころだと思います。沢田聖子はテレビに出るアイドルと言うのではなく、当時の言葉で言うところのニューミュージックというジャンルの歌手と位置付けられていたと思います。そもそもが「イルカの妹」という触れ込みでのデビューでしたから、若干フォークな香りもありましたけど、そろそろフォークが古臭いイメージが付いてきて、ニューミュージックという言葉が生まれたのだと思います。有名なところではチューリップとかオフコース、荒井由実といったところもニューミュージックに括られていたと思います。

 

で、あたしは、それほど音楽を聴いて昔を懐かしがるタイプではないのですが、沢田聖子だけは別で、彼女の曲を聴くと、どうしても中学高校時代、彼女の曲を聴きまくっていた時代にタイムスリップしてしまいます。そうなると、これもまた必然的に高校時代に大好きだった乾さんのことが思い出され、今回のタイトルに結びつくというわけです。

えっ、高校時代が初恋? と言われてしまうと、実はよくわかりません。もしかすると、いまだに恋なんてしていないのかも知れませんし、初恋はどれだったかなんて確定的に言えるものなのでしょうか?

そんな沢田聖子の曲の中でも、たぶんファンの間でも人気は上位に入る一曲がこのシオンです。彼女の師匠イルカの作詞作曲で、男の子が好きになった女の子をシオンの花にたとえて歌った曲です。もちろん自分の気持ちを伝えることもせず、遠くから見ているだけの関係なのですが、そんな青い感じが当時はたまらなく好きでした。確か、優木まおみがカバーしていたと思います。(優木まおみって歌手だったでしょうか?)

そう、あたしは高校時代に、やはり自分も乾さんをこのシオンになぞられていたのです。もちろん同じクラスでしたし、席が近かったので話をする機会はよくあったので、歌の世界のように遠くから見ているだけ、ということはなかったですが、思いを伝えられない、という意味では同じだったかも知れません。

いや、口では毎日のように「乾さん、大好き」と言っていましたが、日常的な挨拶と受け取られていたようです。全く本気にされませんでした。

と、そんな連想が駆け巡る朝の通勤電車。こういう妄想に明け暮れていると、ふとした弾みで痴漢行為に奔ってしまうのでしょうね。気をつけなければ! あたしは健全にも、イメージは飛んで跳んで、島崎藤村の「初恋」へと向かったのでした。

自然と遠距離恋愛

アンソロジーもの第三弾、こんどは『本屋さんのアンソロジー』を読んでいます。

この中の「彼女のいたカフェ」は設定としては池袋のジュンク堂書店を舞台としている感じで、そこの喫茶コーナーでアルバイトとして働いていた女の子が書籍売り場に異動願いを出し、数年後には正社員になり、大阪店、福岡店、新潟店と転勤を繰り返し、三十過ぎくらいでまた池袋に戻ってくるというストーリーです。この支店のある場所がまさしくジュンク堂という感じです(笑)。

が、あたしが注目したのはそんなところではありません。同書195ページあたりからのくだりです。主人公が新潟店勤務になっているときの描写です。大阪、福岡と数年ずつ渡り歩いてきたので、池袋店を離れてだいぶたつ主人公ですが、この新潟で池袋時代に顔なじみだった出版社の営業マンと再会するのです。営業マンはもちろん新潟地区担当。

その再会をきっかけに、彼が新潟にきたときは二人で食事にいくようにもなった。(P.195)

うーん、食事くらいなら、まあ、時にあるかな(?)とは思います。しかし、さらに

彼とは、ごく自然と付き合うようになった。(P.196)

という展開には「ちょっと、ちょっと」と言いたくなります。

定期的に出張でくる営業マンと恋仲になるなんて、そう簡単なもの、自然なものなのでしょうか? そんなんだったら、あたしだってこんなに苦労しないわよ! それともこの作品の中の営業マンは毎月のように来ていたのでしょうか?

しかし、来るたびに食事に誘うって、書店員さんだって遅番の日もあれば、忙しいときもあるでしょうから、そんなにしょっちゅう誘っては迷惑になるのではないでしょうか? あたしなんか、そう考えちゃいますね。だからいけないのでしょうか?

相手に好意を持っていれば、忙しくたって断わらないし、なんとか時間を作ってくれる、そんなものなのでしょうか? だとしたら、あたしなんか絶対無理だわ。忙しくなくても、理由をつけて断わられそうだもの。

対人的なスペース?

河出文庫の『異性』を読んでいます。

角田さんと穂村さんのやりとり、面白いです。でも、参考になるのかと問われると、うーん、あたしみたいに交際経験のない人にはわからないことも多いです。なんだかんだ言っても、角田さんも穂村さんもこれまでに何回か恋愛をして、恋人もでき、お付き合いもしてきている二人です。だからこそわかる、言えるという部分はあるにせよ、あたしのような未経験者には、結局「勝者の語り」にしか聞こえないところも多々あります。

そんな本書の中に「対人的なスペース」という言葉が出てきます。「モテ要素であるところのスペース」なんて言われています。あるいは「異性進入用のスペース」とも言っています。つまりは内面的な余裕のようなもので、これが他人から見えるから、そこに他人が入り込んでくるということらしいです。で、モテない人はこのスペースが小さいとか無いとか、そういうことになっているみたいです。

あたしの場合、たぶん他人を寄せ付けないところがあるので、あたし自身にはこのスペースはほとんどないと思います。だから入ってくる人なんていないでしょう。いや、スペースがそもそも無いから入れないのですよね。また逆に、あたしが誰かのスペースを見つけることがあるか、あったかというと、これもまたわかりません。そんなスペースを他人が持っているなんて考えたこともないですから。

あえて言えば、もしそういうスペースを見つけられたとしても、あたしには入る資格がないと判断するでしょう。この人のスペースには入れるのはあたし以外の誰かだろう、あたしを入れてくれるスペースを持っている人なんてこの世にはいないだろう、そう思います。だって、あたし自身があたしを入れたいと思いませんから。もちろん、そんなスペースを見たことも入ったこともないあたしが思っていることですけど……

あと、本書には「主電源」という言葉も出てきます。これもモテの話題に出てくるタームで、主電源がオフになっている人はいくら格好つけてもダメなんだそうです。まずは自分の主電源をオンにしろ、というのが穂村さんのご高説のようです。ただ、ここであたしが穂村さんや角田さんに言いたいのは、「その主電源とやら、本当に誰にでもあるのですか?」ということ。

あたしが思うに、そもそもこの主電源が付いていない人ってのもいると思うのです。生まれつき付いていない人、持っていない人は、そもそもオン・オフ以前の問題ではないでしょうか? 穂村さんも角田さんもその可能性については何も言及していませんが、もしかして誰にでも付いているもの、誰でも持っているものと思っているのでしょうか? それはあまりにも脳天気ではないかと、あたしなどは思ってしまうのです。

最後のKISS

角田光代さんの『おまえじゃなきゃだめなんだ』を読み始めました。たぶん、明日には読み終わると思います。

感想は改めて書きますが、作品の一つに「最後のキス」というタイトルのものがあり、谷村有美のこの歌を思い出してしまいました(汗)。恋人とさよならすることになって、まだ寝ている彼に最後のキスをして部屋を出て行く、という歌詞の歌です。小説の方はそういうストーリーではありませんが……

さて、これは短篇連作集で、ほぼすべての作品が、もう若くはない女性たちの恋愛模様を綴っています。家庭を持って幸せに暮らす人、いまだ独身で仕事に打ち込んでいる人、あるいは新しい恋を見つけようとしている人、別れを乗り越え次の恋に向おうとしている人、さまざまです。

毎回こういう作品を読んでいて思うのは、とりあえず作品中の時間軸で主人公に現在進行形の恋人・配偶者がいるか、いないかに関係なく、すべての主人公が一度や二度は恋愛を経験しているということに対する違和感です。

いや、それなりに人生を送ってきたら恋愛の一つや二つしていて普通でしょ、という意見はわかりますし、もっともだと思います。でも、本当に世の中の人は、それなりに生きていれば、一度や二度は異性と付き合ったことがあるものなのでしょうか? そうでない人だっているのではないか、そう思います。と言うより、かく言うあたしがそうなんです。いわゆる「恋人イナイ歴=年齢」っていうやつです。

作品中で「もう何年、恋人いないのだろう」なんてセリフを読むと、あたしの場合、「ああ、それはかわいそうね」と思うよりも、「何年か前にはちゃんと恋人がいたんでしょ?」と思ってしまいます。たとえ、いま恋人がいなくたって、かつていたことがあるならいいじゃない、それで満足しなさいよ、と思っちゃうのです。世の中には生まれてこの方恋人ができたことがない人だっているのよ、それを考えたら、たとえ一時期とはいえ恋人がいたことのあるあんたは幸せじゃない、そう思うのです。

この作品中で、恋人も作らず仕事に打ち込んでいる女性が、恋愛し結婚した女性に対して、バカにし見下す感情を抱き、それが嫉妬だとその時は気づいていなかった、というような場面があります。恋人がいない人は往々にして「恋にうつつを抜かしているなんてバカのすることだ」と見下して自分が精神的に優位に立とうとする傾向があるものです。

でも、あたしはそうではありませんでした。むしろ「恋人はおろか、友達も作れないあたしって、ダメな人間なんだ、人間としてどこかおかしいんだ」と考え、見下すというよりは自分を卑下する方に奔りがちでした。たぶん、それは正しい自己分析だと思います。恐らく、あたしは人間として、どこか欠けている、何かが足りないのだと思います。

正夢になるか?

夢をほとんど見ないという人もいるようですが、あたしは割と夢を見るタイプです。もちろん、まるっきり夢など見ずに朝までぐっすりという日もありますが、たいていは夢を見ます。それも一晩に一つではなく、いくつか見ることもあります。

実は、高校時代にあたしが呪われた子供だと噂されたという、まるで奇妙な夢を見たと書きましたが、実は同じ晩にもう一つ夢を見ていまして、それはこんな内容でした。

これまでも「新年の抱負」とか「一年を振り返って」といったことは考えないと、このダイアリーで述べてきましたが、夢の中であたしはなぜか今年の抱負を述べているのです。それが

今年は女の子とディズニーランドへ行く

というものでした。

なんでディスニーランドなのか、あたしにもわかりません。いや、恋人同士が行くところと言えばディズニーランドだろ、という青臭くも単純な発想なんだと思います。キティラーのあたしが、サンリオ・ピューロランドではなく、ディズニーランドへ行こうというのが、いかにも夢っぽいです。それにしても、まるで高校生のような発想だと、われながら思います。

この新年の抱負を、Facebookに書き込んだところ、数時間のうちに「姪っ子と行くんだろ」というコメントが複数寄せられました。

「おお、その手があったか」と寄せられたコメントに感心するあたし。確かに、妹のところの姪っ子も「女の子」には違いありませんし、妹家族と一緒にディズニーランドへ行くという可能性もなくはないとは思います。そうすれば、この新年の抱負というか希望は叶ってしまいます。

いや、それは意味が違うでしょ!

ちなみに妹家族は、妹家族だけで、あるいは地元の友達家族と一緒にディズニーランドへ行ったことは数回あるみたいですが、あたしは一緒に行ったことはありません。別に一緒に行きたかったという気はさらさらないですし、誘って欲しいと思っているわけでもありません。どうせ一緒に行っても、あたしの財布を当てにされるだけなのはわかっていますから、誘われない方が、正直なところ気楽です。ホッとします。

しかし、夢の中で高らかに掲げた今年の目標が、その刹那、こうも易々とお笑いのオチのように落とされると、新年早々憂鬱な気分になります。決して、笑いごとではありません。

で、実際問題、「誰か一緒にディズニーランドへ行きたい人でもいるの?」と聞かれれば、別にディズニーランドへ行きたいという気はさらさらないのですが、誘われれば二つ返事で承諾しそうな気はします。