灯台下暗し

先日、岩波新書の『インド哲学10講』を読んだのですが、その中で野田又夫が引かれていました。

 

恥ずかしながら、野田又夫って全然知らなくて、ただ引かれている文章などが興味深かったので、著作を調べてみたら手頃なところで岩波文庫の『哲学の三つの伝統 他十二篇』がありました。というわけで、こんどはそれを読み始めたところです。

が、パラパラとページをめくっていた時に、この文庫の底本となった『野田又夫著作集』というのが、あたしの勤務先から出ている本だということを知りました!

えーっ、という感じです。驚きました。なんとなく縁を感じると共に、悔しい思いもいっぱいです。

で、勤務先で少し調べてみると、1981年頃に刊行された全5巻本でした。もちろん現在は品切れです。と言うよりも、そんな本が出ていたということを、今の今まで知りませんでした。あたしが入社したのは著作集刊行から10年ほど後になりますが、周囲に尋ねてみると、どうやらあたしが入社した時点で既に品切れ状態だったようです。

うーん、それでは知らなくても仕方ないですね。しかし、この間、一度も問い合わせすら受けたことなかったというのは、野田又夫というのは知る人ぞ知る学者だったのでしょうか。なにも知らなくて、本当に恥ずかしいです。

しかし、いま読んでいる岩波文庫、非常にわかりやすいですし面白いです。こんな学者がいたんだと、目から鱗です。

脱亜入欧なのか、中体西用なのか?

先日『ネバーホーム』を読み終わり、いまは『地下鉄道』を読んでいます。

 

その前は『海峡を渡る幽霊 李昂短篇集』『中国が愛を知ったころ 張愛玲短篇選』といった中国もの、『あまりにも真昼の恋愛』『野蛮なアリスさん』『殺人者の記憶法』といった韓国ものばかり読み続けていたので、少しは欧米ものを読もうと思った次第です。

 

  

別にアジアより欧米が好きとか、そういった区別はありません。どこの国の作品であろうと面白いと思えるか思えないか、それだけのことです。とはいえ、やはりその国の文化や歴史を意識するしないにかかわらず、作品にはそういったものが反映されるわけなので、やはり国によって同じようなテーマを描いていてもずいぶんと異なるものだということを感じます。

と、意識して脱亜入欧を試みていたのですが、カバンに入れて移動の電車の中で読んでいるのは『傾城の恋/封鎖』とこれまた中国もの。うーん、あたしはやはり中国から、アジアから離れられないのでしょうか? 別にそれならそれでいいんですけどね。

で、真実は?

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『独り舞』の「ジーホイ」について

独り舞』の主人公の名は「趙紀恵」です。小説の中で本人は「ちょう・のりえ」と名乗っています。台湾で暮らしていた頃は「趙迎梅」という名だったのですが、すべてを捨てて日本へやって来て、人生をやり直そうとしたときに、自分で日本風の名前を付けたということになっています。

「紀恵」は中国で読むと「ジーホイ」、ピンインで書くと「jihui」です。台湾の人だから注音字母で表記したいところですが、あいにくあたしはピンインしか知らないので申し訳ない。

さて、本文中で主人公が改名をするシーンにも、そして本文中のどこにも書いてはいないのですが、あたしにはこの名前にいろいろな意味がこめられているのではないかと思えます。

「jihui」で中国語辞典を検索すればいくつか見つかりますが、「擊毀」は「破壊する」という意味ですから、「これまでの自分を破壊する」のか、「旧態依然とした社会を破壊する」のか、いずれかなのはわかりませんが、そんな意味がこめられているのではないかと思います。

主人公自身は、たぶんこんな意識を持って名前を変え、文字を選んだのではないかと思います。

しかし、その他にも「jihui」にはいくつかの漢字を当てることができます。

「機會」は「機会、チャンス」という意味。主人公の来日が「これまでの自分を変える機会」であるという含意だと思います。

「集會」ならば、そのまま「集会」です。ゲイやレズビアンなどのパーティーが作品中にはしばしば描かれています。そんなシーンが思い出されます。

「忌諱」だと「忌み憚る」となり、同性愛者である自分の存在に対する周囲の人間や社会からの視線、偏見が主人公にはこのように感じられたのではないでしょうか?

そして「際會」は「巡り会う」です。主人公は台湾で日本で、そして旅した土地でさまざまな出会いをします。その時には気づいていないようですが、主人公にとってその一つ一つが大切なものになっていたはずです。

中途半端に中国語を囓っただけですが、主人公の改名には上掲のような意味が託されていたのではないかと感じました。