辛うじて想像はできるけど、理解はできない

82年生まれ、キム・ジヨン』読了。

印象的な装丁です。一見すると、河出書房新社から出ているミュリエル・スパーク作品の装丁を思わせるようなカバー装画ですが、あちらがマグリットを明るくアレンジしているような雰囲気があるのに対し、こちらは非常に寒々としています。この装画が本書の内容をよく表わしていると思います。

本書を読んで、韓国の女性は大変だなあという他人事のような感想を抱きそうになりますが、訳者あとがきなどにもあるように、日本でも大学の医学部入試であからさまな女性差別が発覚した直後とあって、日本も変わらないのだと改めて実感しました。いや、たぶん世界中、ほとんどの国でいまだに多くの女性が似たような状況に置かれているのではないでしょうか。

それにしても経済発展という裏付けがあってこそですが、韓国の女性を取り巻く状況が祖母・母・娘と三代を経ただけでこうも劇的に変わってしまうとは。そこへ持ってきての経済危機。女性が自立していくのと男性が自信を喪失するのとが好対照です。

で、あたしの感想なのですが、不幸にしてか幸いにしてなのか、あたしは結婚していませんので、妻の葛藤というものを知りませんし、理解のしようがありません。それでもチョン・デヒョン氏はかなり頑張っている、妻を理解しようと努力していると思います。にもかかわらず、妻があんなことになってしまうわけで、なんともいたたまれません。

いや、女性から見たら、デヒョン氏だってまだまだ努力が足りない、女性の気持ちが何もわかっていない、ということなのかも知れません。しかし、これまた幸か不幸か、あたしには妻どころか、これまでの人生で女性とお付き合いしたことがないので、恋人と呼べる存在すらいなかったので、男性が女性を思いやる、女性の身になって考える、思いを致すという経験がありません。これまであたしの理解を超えることです。

キム・ジヨンよりももっと苛酷な運命を生きた、生きている女性は大勢いるでしょうし、だからといって全員がジヨンのようになってしまうわけではありません。もっと快活な性格であればこうはならなかったのではないか、という気もしますが、そんな性格に育てられてしまう時代だったのでしょうか。そんな風に個人の性格、傾向に問題を矮小化してしまうのが一番よくないのでしょうが、一方で『』(晶文社)に出てくる力強く運命を切り開く女性を見ていると、同じ韓国女性でもずいぶんと違うものだと思います。

また、経済危機で弱ってしまう男性側については、同じく晶文社の『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』を併せて読むとよいのかも知れません。で、気づいたのですが、このダイアリーで取り上げた韓国文学3作品、翻訳はすべて齋藤真理子さんなんですね。

台湾から南洋、そしてまた台湾へ

自転車泥棒』読了。

まずは、これが遺作と言いますか、恐らく出版されたものとしては最後の仕事となったであろう訳者・天野健太郎さんのご冥福をお祈りします。

さて『自転車泥棒』です。多くの人は映画の「自転車泥棒」を思い出すのかも知れませんが(それすら思い出さない人も多いかも知れませんが……)、本書は台湾の呉明益の作品です。自転車とともに失踪した主人公の父親、その行方と失踪理由を主人公が追いかけるというのが大きな流れです。そこに台湾の自転車マニアや古物商などさまざまな人が絡み、また父の人生をたどるうちに知ることになる戦争中のこと、戦後の台湾のこと。そういった諸々が絡み合った骨太な作品です。

先に翻訳された『歩道橋の魔術師』が連作短篇であったのに比べると歯応えはバッチリです。

しかし、両作品とも、かつて台北駅前にあった「中華商場」が舞台となっている(『自転車泥棒』の主人公一家もかつて住んでいた)ので、両書は姉妹篇的な読み方ができます。否、中華商場という場の持つ雰囲気をあらかじめ知っておくためにも、『歩道橋の魔術師』を読んでおくのがよいと思います。

その一方、本作では上述したように、日本統治時代の台湾も描かれます。台湾島のみならず、日本軍の侵略にあわせ、東南アジアや南洋の各地も本書の重要な舞台となっています。高座の海軍工廠も出て来ます。

 

なので、台湾を統治している日本軍という点では、甘耀明『鬼殺し(上)』『鬼殺し(下)』などを併読するとよいと思います。呉明益、甘耀明といった台湾の中堅実力作家たちが、共に日本統治時代の台湾を舞台とした作品を競うように書いていることに不思議な縁を感じます。

 

そして、日本軍として南洋戦線へ赴いた台湾人、特に先住民について手軽に知りたいのであれば、平凡社新書『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊』を、更に『自転車車泥棒』には、登場人物の一人が日本で戦闘機を作っていたというシーンも出て来ますが、そのあたりの事情であれば『僕たちが零戦をつくった 台湾少年工の手記』を一読されるとよいかと思います。

そして、そんな台湾の近現代史、日本統治から国民党統治時代にわたる苦難の歴史については、『自転車泥棒』『歩道橋の魔術師』と同じく天野健太郎訳『台湾海峡一九四九』が何よりも参考になるでしょう。

もちろん、この時代を扱った、いまや古典とも言える司馬遼太郎『台湾紀行』も忘れては行けないと思いますが。

本書の感想を一言で述べるのはとても難しいのですが、あえて言うのであれば、タイトルに反し本書の中で自転車は一度も盗まれていません。むしろ託されたと言うべきでしょうし、本書は一台の自転車を通じて紡がれた台湾史なのだと思います。

黄泥街を探して

先のダイアリーで写真を紹介した長沙晩報。

よく見ると「黄泥街書市旧影」写真の下に、次のページがあることを示す矢印のようなボタンがあって、更に何枚か当時の黄泥街の写真が見られます。確かに、かつては本屋街として賑わっていたようですね。

ちなみに、実際の黄泥街について書かれた『黄泥街』という書籍も中国で出版されているようです。

さて、その写真の更に下にこんな文章が載っています。

我们都见识过长沙黄泥街书市的繁华。那时临近新年,黄泥街肯定摩肩接踵、车水马龙;每家书店门前都挂满了喜气洋洋的年画、挂历。

曾经长沙黄泥街书市的名头真是太大了,列全国四大书市之首。该书市以黄泥街为主体,共辐射“五街六巷”,至1996年中期,共计开有书店286家,名列全国图书发行二渠道之首,当年文运街、长康路、长治路、府后街、南阳街等街道,均开满书店。

1997年11月7日,黄泥街书市整体搬迁到定王台,当年11月16日,定王台书市正式开业。从此黄泥街书市成为历史,而定王台书市则浮出水面。

黄泥街书市随着改革开放春潮涌动而诞生于1983年,距今已整整三十年。可惜,目前罗斯旦先生匆匆从相册中找到的旧影,仅仅只展现了黄泥街发展过程中的一个侧影。最鼎盛时期的黄泥街书市的风光,还有待罗老师继续在他的底片中去寻找……

本屋が他所へ移ったりして、黄泥街の賑わいはこのような写真の中だけのものとなってしまった、といったようなことが書かれています。これって、『黄泥街』を読んだ方なら気づくと思いますが、同書の話者(主人公?)の感慨に通じるところがあるように感じられないでしょうか。

こんなふうに寂れてしまった実際の黄泥街のイメージが、残雪の『黄泥街』創作に影響を及ぼしているとか、現実の黄泥街の興廃に着想を得て『黄泥街』が書かれたなんて想像するのはいきすぎでしょうか、ね?

みんな好きなんですかね? って何を?

先程、Instagramに投稿したこの写真。

皆さんおわかりのように閻連科の『愉楽』とミロスラフ・ペンコフの『西欧の東』です。

前者は中国の長編小説、後者はブルガリア出身作家の短篇集です。

この両者の何処に共通項があるのかと言いますと、前者はレーニンの遺体を買い取って村に展示し、それを観光資源としてお金を稼ごうと考えた村人たちの物語です。そして後者の短編の一つに「レーニン買います」という作品があります。

そう、共通項はレーニン、それも商品としてのレーニンです。

いやー、思わぬところでレーニン人気を知りました。

後者の短篇集は、かなり雰囲気の異なる作品が並んでいて、同じ作家の作品とは思えないような作品世界ですが、その中で「レーニン買います」はクスッと笑える小品でした。

岩波文庫のノディエ

今回の関西ツアーの途次、書店の棚をつらつら眺めていましたら、岩波文庫の『ノディエ幻想短篇集』が並んでいるのを見かけました。

同書は数年前、ある本の中で言及されていたので読んでみたいと思った一冊です。ただ、その当時、岩波文庫で出ていたはずのそれは品切れで、都内の大型店を探しまわった記憶があります。

が、見つからず、たまたま関西ツアーの折に仲良しの書店さんが自店チェーンで見つけてくれたので手に入れることができたという想い出があります。

そして今回、普通に並んでいた『ノディエ幻想短篇集』を手に取って奥付を見ましたら、この夏に重版されたもののようでした。

えーっ、なんで重版なんてしたのよ。でもまあ、読者としては嬉しいことではあるのですが、数年前に探しまわったあれは何だったのか、という脱力感も少々。

待てば海路の日和ありと言いますが、辛抱強く待つことが肝心なのでしょうか? とはいえ、読みたいと思った時が買い時でもあります。必要な時に手に入らなければ意味がないですから……

幸いにして数年前のあたしは定価で購入できたわけですが、もしこれが古書市場で高止まりしているような状況であれば、今回ものすごーく後悔していたでしょうね。

やはりフィレンツェには一度行ってみたいものです

岩波新書の『フィレンツェ 比類なき文化都市の歴史』読了。

フィレンツェと聞くと、ルネサンスを代表する街、というイメージがあります。

それはそれで間違いないようですが、本書を読むとそれだけではないフィレンツェの一面が見えてきます。

古代から現代までを通して見ると、メディチ家の影響というのが、あたしの想像ほどは大きくはなく、むしろ市民全体の力がフィレンツェという街を作り上げていったのだという印象です。

ただ、やはり街の規模が小さいからか、歴史の中ではしばしば他国の影響を被り、翻弄されもしています。それでもフィレンツェらしらを失わずに現在までなんとか生き延びてきたのはさすがとしか言いようがありません。

フィレンツェどころか、ヨーロッパは一度も行ったことがないあたしですが、昔から「ヨーロッパに行くならどこへ行ってみたい?」と聞かれると「フィレンツェ」と即答していました。本書を読んで、ますます行って見たいと思った次第です。

海の漢は最後に海に還ったのかしら?

マーティン・イーデン』読了。

前半は、荒くれの海の漢マーティンがひょんなことからブルジョア階級のお嬢様ルースと知り合い、その生活、上品さに憧れ、なんとか彼女にふさわしい男になろうと自分を磨く奮闘物語、上昇物語です。そして、もともと才能があったのでしょう、マーティンは海綿が水を吸い込むように新しい知識をどんどん吸収していきます。

図書館にまで通って本を読み漁り、自分でも文章を書くようになります。それを雑誌社へ送っても送っても採用にはならず、悪態をつきながら借金をしてでも文章を書きつづけます。そんなマーティンに対してはルースは知らないうちに愛情を抱くようになり、マーティンにきちんとした仕事に就くように勧めます。しかし、型にはまった生活のできないマーティンは、自分の書いたものはいつか売れると信じており、そのうちきっと文筆業で食べていけるようになると自信満々で就職などしようとしません。

半ばは、身分違い、階層違いとはわかっていながら、マーティンがしっかりとした仕事にさえ就けば結婚できると信じて、そうさせようとするルースと、あくまで筆一本で食べていこうとするマーティンとのすれ違いが描かれます。そして破局。結局ルースはマーティンのことを信じ切ることができなかったわけです。

さて後半。

書いた物がさっぱり売れずに野垂れ死ぬような惨めなマーティンが描かれるのか、はたまた文章が当たって富と名声を手に入れるマーティンの成功譚なのか。ジャック・ロンドンの自伝的な作品と言われる本書ですから、作家としては成功するストーリーが予想され、実際にこれまで書いたものが次々と出版され、途方もない大金が手に入ります。これまでマーティンに辛く当たってきた周囲の人間たちも掌を返したような態度です。

ここまではありがちな流れです。となると、最後はルースも戻ってきて、ハッピーエンドな大団円になるとかと言えば、そうではありませんでした。

書いて物が売れるようになった頃からマーティンは、最初は歯牙にも掛けなかったのに、ひとたびヒットするやどんな作品でも高値で買いたいと言ってくる出版社に対して完全に気持ちが冷めてしまいます。出版社や周囲の人間がよいと言ってくれる作品は今の自分が書いたものではない、すべて自分がどん底にいた時に書いたものだ、その当時と今と自分は何も変わっていないのに、当時は評価されず今になって評価されるのはどうしてだ、という懐疑がマーティンの心を占めているのです。

掌を返した連中の中にはもちろんルースもいます。しかし、その時のマーティンには、あれほど恋い焦がれたルースへの愛情は全く残っておらず、彼女が縒りを戻そうとするのを拒否します。

このあたりの成りゆきはカッコいいなあと思いつつ、さあマーティン、ではこれからどうするの、という疑問もあります。手に入れた大金で南太平洋の島に土地を買ってのんびり暮らす、という願望のような夢のようなことをマーティンは考え始め、ひとまず南太平洋へ向かう船の切符を買います。ここでもマーティンは船長の隣の席で食事をするという好待遇を受けるものの、その状況に違和感を感じています。

そしてある晩、太平洋のど真ん中で、一人こっそりと船の窓から外へ出て、海へ飛び込みます。もちろん誰もそんなことには気づかず、船は進んで行ってしまいます。

半ば以降、この小説はハッピーエンドではなく、バッドエンドで終わるだろうなあと予想していましたが、まさかこんな最後とは。太平洋の波間にプカプカと浮いているマーティンがその後どうなったのかは描かれていません。

そのまま力尽きて死んだのか、他の船に救助されたのか、あるいはサメに襲われてしまったのか。本作の描き方を見ていると、船に乗り込んだ時点で、既に生きた人間としてのマーティンは船に乗り込んでいなかったのではないか、という気がします。ではマーティンはどこへ行ったのか?

成功によって得られた大金を言われるままに周囲の人に分け与えた時に、その大金の中に思い出として残ったのではないかな、特に親切にしてくれた人の心の中に、そんな風に思えます。マーティンにとって成功とは何だったのか、彼は満足して船から下りたのでしょうか?

読み方を間違えているのかも知れませんが……

どんどん読める割りに、あまり読み進んでいないような気もする、新刊の『マーティン・イーデン』です。

いや、非常に面白いんです。

とりあえず、全体の4分の1は過ぎて、だいたい3分の1くらい読み終わったところです。

ろくな教育も受けていないので全く教養を身につけていない主人公マーティンがひょんなことから知り合った三つ年上のお嬢様。そのお嬢様に釣り合うような人間になろうと涙ぐましい奮闘をするのです。それが切なくて切なくて……

マーティン、とっても愛おしいです。

この後、マーティンが晴れてお嬢様と結ばれるのか結ばれないのか、過去に読んでいる人であれば結末を知っているのでしょうが、初めて読むあたしはとにかくそんな結末も気になりますが、いま現在のマーティンの気持ちの揺れ動きがたまりません。

マーティンも絶対に自分とは釣り合わないとわかっているんだと思います。それとも教養を身につけジェントルマンになれればお嬢様と結ばれる可能性はあると信じているのでしょうか? ある意味、アメリカンドリームの物語なのでしょうか?

あたしだったら、鼻から諦めて努力しようなんて考えないだろうから、心の中でマーティンに「無駄な努力はやめておきなよ」とつぶやきつつも、「頑張れ、頑張れ」と応援している部分もあるのです。この身悶えそうな片思いのストーリーに現在どっぷりハマってしまっているのです。

一方、お嬢様の方は自分の言動によって下層の男性が教養に目覚め立派になっていくことに喜びを感じているようで、そこにはまるっきり恋愛感情などはないようです。いや、恋愛の種くらいは芽生えているのかも知れませんが、本人は全く無自覚です。むしろ蒙を啓かせてやっているということに充足を覚えているだけのようです。

この意識のすれ違いもたまりません。ただ、もしお嬢様の方がマーティンに対する自分の恋愛感情に気づいてしまったらどうなるのでしょう? ありきたりな表現ですが、いわゆる身分違いの恋ですよね。当然親には反対されるでしょう。その時にどういう行動を取るのか、楽しみです。

いや、結局この二人の恋愛物語は何の進展もなく物語は進行していくのでしょうか? とにかくこの長篇にハマっている現在です。果たして、『マーティン・イーデン』というのはこういう読み方、味わい方で正しいのでしょうか? 帯の惹句が気になりますね、絶望って……

実らぬ恋ですか? それはそれでたまりません。

結局どこも閉店してしまいましたよね

書店ガール7』を読み終わりました。

まだまだ続きが読みたいとも思いますが、ただ続きを書いたとしてもどんな展開が考え得るでしょうか? 沼津の小さな本屋のその後? やはり店長の職をなげうって東松島へ向かう?

うーん、それはそれでそれぞれに男女のロマンス的なストーリーは考えられますが、本屋の物語としては発展が考えられません。

残念ながら、スタートのペガサス書房にしても、今回の櫂文堂書店にしても、どんなに書店員が頑張ってもお店は閉店してしまいました。結果だけを追っていくと、結局本屋は閉店していくばかりな気がします。もちろん、今回も全国に千坪クラスのお店を数軒立ち上げる、なんていう展開も描かれていますが、至極あっさりと描かれているように、そこに物語を見出すことは難しいです。

そうなると、結局は「本屋は閉店するもの」という物語しか残らないのかな、と悲しくなります。

「いい本屋だったのに」という声は、ある書店が閉店になるたびに聞こえてきます。「だったら普段から、そこでもっと本を買ってればよかったんだ」という声も聞こえてきます。「いい本屋だったのに」という人に限って、そこで本を買ったことがなかったり、昔は買っていたけれど最近はとんとご無沙汰だったりするものです。

話を『書店ガール7』に戻しますと、沼津の書店も東松島の書店も、「自分一人、なんとか食えれば」のレベルでも数年もつでしょうか? 非常に疑問です。もちろん本以外の商材を扱うことによって利益を確保する、という方法を講じれば話は別ですが、それでも本屋を続けていけるほどの副業(?)ってあるのでしょうか?

主人公たちの奮闘はわかりますが、地方でどれだけ頑張れるのか、あたしは疑問です。やはり東京や大阪など大都市圏ですと周囲にそれなりの人口があるので細々と続けていくことは可能でしょうが、人もまばらな地方では……

そうなると、ことは本屋とか出版界とかの問題ではなく、都市と地方の格差、過疎の問題、限界集落をどうするか、そういった問題になってきてしまい、『書店ガール』ではないですね。前巻までの舞台のひとつであった常磐線の駅の書店にしても、地方の駅にあったらどうでしょう?

いや、地方の鉄道駅にはそもそも本屋なんかないですよね? 来る電車は一日に数本か十数本、乗降客数も数えられるほどでは、本屋でなくても商売にならないでしょう。

愚痴っぽくなってしまいましたが、東京一極集中を何とかしないと、本屋に限らずどんな商売も地方では成り立たなくなってしまいますよね。