トレンドは中世?

中公新書『承久の乱』読了。

これで中公新書の日本中世史もの『応仁の乱』『観応の擾乱』の三部作(?)を読了いたしました。ちょうど歴史を遡るような順番で読んできたわけですね。刊行の順番もそうでしたし。

それにしても、日本史では中世がちょっとしたブームなのでしょうか? 摂関政治の終焉、院政の時代から織豊政権の前くらいまでの出版が増えているような気がします。ブームと言うよりも、これまでは戦国や幕末維新の人気が極端で、鎌倉や室町はあまりにも脚光が当たらなすぎただけだったのかもしれません。そんな声も聞きました。

で、『承久の乱』です。

読み終えて思い出したのは、NHK大河ドラマ「草燃える」です。岩下志麻の北条政子に、石坂浩二の源頼朝、幼い頃のあたしが初めて見た大河ドラマでした。

この作品から大河ドラマを見るようになり、「徳川家康」くらいまで見続けていたと思います。その後は見たり見なかったりで、しっかり見ていたのは「独眼竜政宗」くらいでしょうか、その後はほぼ全く見なくなりました(汗)。

閑話休題。

「承久の乱」がエポックメーキングな事件であったことはわかりました。あたしの勝手なイメージですが、平氏政権が信長、源氏三代が秀吉、乱後の北条得宗体制が家康(=江戸幕府)と似ているように感じました。

これまでの認識と異なっていたのは、三代将軍・実朝が後鳥羽院と協調し、皇族を四代将軍に迎えて自身は大殿(隠居後の家康の大御所みたいなもの?)として後見する、そんな政権構想を考えていた点です。公暁が実朝を暗殺しなかったら、どんな鎌倉幕府が続いていたのでしょう?

しかし、あの時点で何故に実朝は公暁への譲位を考えていなかったのでしょう。あの当時、源氏は他にもいたはずですが、頼朝の血を引く者でなければ鎌倉将軍にはふさわしくない、という暗黙の了解があったように感じますが、それでも頼家の子供が二人いたわけですし、どちらかが四代将軍になってもよかったのではないかと思うのですがね。

それにしても、繰り返しになりますが、こういう本が刊行されてから、改めて「草燃える」を見直したら、どんな感想が出てくるでしょう? いま、このタイミングで再放送をしてもよいのではないでしょうかね? あるいは「太平記」「北条時宗」などを再放送しても面白いかも知れません。

継承順についてどう考えていたのだろうか?

承久の乱』読了。

感想は改めて書くとして、前半部分を読んでいてちょっと疑問に感じたことがありました。

公暁を唆して実朝を殺させた黒幕がいたのか否か、それはわかりませんが、当時の実朝や幕府が子供のできない実朝の後継として天皇の子供を考えていたというのが驚きでした。

当時の常識と言うか、彼らの認識はわかりませんが、順当に考えて実朝に子供ができなかったら、兄・頼家の子供である公暁が次の将軍とは思わなかったのでしょうか? 待っていれば次の将軍になれたのにわざわざ叔父を殺してしまった公暁。公暁がいるのに天皇の皇子を将軍に迎えようとしていた実朝や幕閣の首脳。

うーん、当時の感覚がわかりません!

こういう本が待ち望まれていた?

 

中公新書『オスマン帝国』読了。長い長いオスマン帝国の歴史を簡便な一冊でまとめ上げるのは難儀なことらしく、著者が言うように、本書以外では20年近く前に講談社現代新書で刊行された『オスマン帝国』くらいではないでしょうか。

あたしの勤務先も、中東史、オスマン帝国を扱った書籍を出していますが、やはり時代やテーマを区切ったものばかりで、他社の書籍も本書のような概説はなかなか見当たりません。オスマン帝国を扱った書籍はそれなりに売れるので、やはり本書のような通史を待っていた読者は多かったのではないでしょうか?

で、本書ですが、非常にわかりやすいです。皇帝たちの年代記を縦糸に、そこに当時の政治状況や国際情勢などを横糸として絡め、各章の始めには地図もよいされていて、記述もわかりやすかったです。最後に著者も述べていましたが、各時代を同じ分量で書くようにしてあることで、門外漢には非常に読みやすく、頭に入ってきやすい内容でした。

恐らく多くの読者にとっては、オスマンの末期、列強に翻弄され崩壊していく過程が一番興味深いのかも知れませんが、それについては類書が何冊も出ていますので、やはりあたしのような専門外の人間には、どの皇帝の時代もバランスよく記述されている本書のようなタイプが、最初の一冊としてはふさわしかったと思います。

辛い、です。「普通」って何でしょう?

娘について』読了。

 

亜紀書房がスタートさせた《となりの国のものがたり》シリーズ、第一作の『フィフティ・ピープル』がさまざまな人間模様を描きつつ、そこに人生の悲喜こもごもがあふれていて、「うんうん、そうだね」と相槌を打ちながら読めたのに対し、本作は読み進めるのが辛かったです。

ストーリーは初老の女性の独白で進みます。若い頃は教師をしていて、恐らく結婚後娘を育てるために退職し、夫を亡くした後は老人ホームへ派遣されて働いています。そんな一人暮らしの彼女の元へ金銭的に窮乏した娘が戻ってきます。娘は大学院まで出て、現在は大学の非常勤講師をしています。

いい歳をして結婚もしていない娘が戻ってきたというだけでも世間に対して恥ずかしく感じる母親でしたが、それだけではなく、娘はパートナーを連れて戻ってきたのです。そのパートナーとは女性。つまり娘は同性愛者だったのです。

自分の子育ては、どこをどう間違えてしまったのだろうと悩みつつ、娘やそのパートナーに文句を言いつつもすべては言えずに飲み込む母親。一方で、勤め先の老人ホームでは、経費節約の名の下に人間の尊厳も顧みられないような介護の現実が横たわります。いや、そんなのはとても介護と呼べるようなものではなく、自分が担当する老婆の最後くらいは尊厳を持って旅立たせたいと思う母親は、自宅でも職場でも八方塞がりの状況です。

そして、娘は同じく同性愛者の同僚が学校から不当に解雇されたことに対する抗議行動を起こし、集会で反対者の暴力を受け大けがを負います。世間の常識から判断すれば自分も娘を糾弾し責め立てる反対者側に立っているものの、その一方では娘たちが責め立てられている現場では必死で娘を助けたいと願う母の立場。

とにかく主人公は、どうしたらよいのか、この先どうなっていくのか、わからないし、考えられないし、判断もできない、ごくごく普通の人です。今の時代、同性愛にももっと理解の目を向けるべきでしょうが、現実にはこの母親のような感覚が一般的であり、まだまだ「普通」なのだと思います。しかし、娘を前にして自分の「普通」が危機にさらされ、そして世間の目も、近所の手前も気になる主人公。

皮肉なのは、娘に対して「結婚して子供を作れ、あんな相手とは家庭は作れない」と責めるのに、老人ホームで世話をしている老婆を悲惨な状態から助けたいと思った時には逆に「あなたはこの方とは家族ではないから」と施設側から拒絶されるところです。家族って何なのでしょう?

その解を著者は読者に委ねたまま、本作は幕を下ろします。

変わっているようで変わっていない? 変わっていないようで変わっている?

岩波新書『フランス現代史』読了。

仕事柄、フランス史については一通りの知識は入れておかなければという思いと、年末年始にかけて収まることのないフランスのデモのニュースを見ていて素朴な疑問を持ったのが手に取った理由でした。

結論から言いますと、戦後のフランス史が実にコンパクトにまとめられていて、非常にわかりやすかったです。門外漢にはこれくらいの分量と書きぶりがちょうどよいです。

ただ、政治史を中心に扱っているので、それに関わる経済や社会の状況などについては言及されていますが、文化思潮などについてはほぼ触れられていませんので、そういう点に興味がある方は別の書籍を探してください。

それにしても、読んでいてキーワードと思われるのは分断と統合です。そうすると思い出されるのが、あたしの勤務先から出ている『社会統合と宗教的なもの』『共和国か宗教か、それとも』の二冊です。ただ、この両書どちらも扱っているのは十九世紀フランスのことです。つまり、フランスってこの二百年近く、ずっと分断と統合を繰り返していたのでしょうか。

そして、この両書にある宗教という点については、本書ではメインテーマとはなっていません。ただし、十九世紀の経験を踏まえてなのか、「ライシテ」というキーワードは登場しますし、なにより移民問題からの隣人としてのムスリム、イスラム過激派によるテロという現代フランスを揺るがす大きな問題として扱われています。たぶん、宗教問題に深入りすると本書の紙幅では語り尽くせないでしょうし、コンパクトな新書という形で戦後フランス史を俯瞰するというテーマにそぐわなくなってしまうので、あえて正面からは取り上げていないのだと思います。

その他、同じ新書サイズであれば文庫クセジュの『第五共和制』『世界のなかのライシテ』『アルジェリア戦争』『フランスにおける脱宗教性の歴史』といった書籍も併せて読んでいただきたいところです。

次は中華? 東アジアをうろうろしてます

フィフティ・ピープル』読了。

ソウル郊外とおぼしきベッドタウンに立つ大きな総合病院。そこに働く人、患者としてやってくる人、病院の近所に住む人、そしてそういう人たちと何らかの関わりがある人、全部で五十人以上の人たちがうっすらと繋がっている短篇集です。

これだけの登場人物がいると、全員ががっつり関わり合うということはありえず、本当にうっすらとした関係です。でも、最後の最後、地域の一大危機に直面して、それぞれがお互いに出来る限りのことをして危機を脱しようとする奮闘する姿、出来過ぎのように感じられるのは恐らく著者の願望が混じっているからではないかと思います。

実際には、登場人物たちのエピソードには解決困難な問題が多数横たわっていて、それがこの後解決されるのか不明です。希望を持たせるようなエンディングが全員に用意されているわけでもありません。むしろ訳者あとがきにもありましたが、過ぎ去ってしまうと些細なこと、誰も覚えてすらいないこととして葬り去られてしまうのかも知れません。

それではいけない。おかしいことはおかしいと声を挙げないと。小さな力だけれど合わせればあの危機を乗り越えることが出来たではないか、そういう著者のメッセージが聞こえてきます。

さて、読み終わったので次はどうしましょう? 同じシリーズの2冊目、『娘について』へ進みましょうか?

しかし、このところちょっと韓国ものが続いていたような気がするので、ホームグラウンドである中国へ戻りましょうか?

幸い、『中国奇想小説集』という興味深い新刊が刊行されたところですし。井波さんの中国ものを読むのも久しぶりな気がします。古典ですので、現代社会に惹きつけて読んだり考えたりせず、気楽に、それこそ「気晴らし」に読めそうです。

あるいは台湾もの『我的日本 台湾作家が旅した日本』にしようかしら?

こちらは小説ではなくエッセイです。特に台湾の作家たちが日本を訪れた時の見聞記ですので、身近であると共に思わぬ発見があるかもしれません。

ひとまず、中国ものの2冊を読んでからまた韓国へ戻ることにしようと思います。しかし、その間に東アジアを雄飛して欧米や南米に飛び立つことがあるかもしれませんが、それはそれでまた面白いのではないでしょうか?

フィフティ・ピープルの身近さ

亜紀書房の新シリーズ《となりの国のものがたり》の『フィフティ・ピープル』を少しずつ寝床で読んでいます。

ネタバレにはならないと思うので書いてしまいますと、本作はいろいろな人物を主人公とした短篇集ですが、その主人公たちが少しずつ関わっています。主人公たちの結びつける舞台となるのは、ある町の大きな病院です。そこで働く人たち(医師や看護婦とは限りません)、患者、その周辺の人たちがそれぞれの短篇の主人公となっているのです。

それがどうして身近に感じられるのかと言いますと、あたしの勤務先の近所には病院が多いです。駅から職場へ向かう道の途中に、そんな病院の一つの通用口があり、朝な夕なに出入りする人を見かけます。

「あの人はお医者さんなんだろうか?」
「あの女性は看護婦さんかな?」
「事務の人なんだろうか?」
「医者っぽくは見えないけど、どういう仕事をしているのだろうか?」

などなど、出入りしている人を見かけるとそんなことを考えてしまいます。本作『フィフティ・ピープル』を読んでいると、なんとなくその病院が舞台で、日常的に見かけている人たちが主人公たちに重なってしまい、そんなことから個人的に非常な親しみを持ちながら読んでいます。

こういう読者の仕方というのも、時には面白いものです。

鯨はあまりにも大きかった

』読了。ちなみに、この作品で晶文社の《韓国文学のオクリモノ》シリーズはコンプリートです。

それにしても、最後の最後に超弩級の作品が待ち構えていましたが、長さを感じさせない物語でした。そして「二組の母娘の物語」と気軽に紹介してしまうにはあまりにも壮大かつ悲しすぎました。

物語の中で流れる時間は100年にも満たないでしょう。ラストの時間はほぼ現代、現在です。つまりは韓国の現代史なわけです。伝統的な韓国に生きる女性の悲哀、しかし、それでも強く生きる女性たちの生き様、そんな風にまとめてよいものか、ちょっと躊躇ってしまいます。それほど一筋縄では言い表わせない作品でした。

母娘が二組出てくるとはいえ、よりスポットが当たっているのはクムボクとチュニの母娘ですが、成功物語でもなければ、ハッピーエンドでもありません。あえて言えば「盛者必衰」とでも言えましょうか。ただそれも、それなりの成功を収めたクムボクには当てはまると言えますが、チュニには当てはまりそうにありません。

著者はこの不幸な娘たちに安易なハッピーエンドを与えず、孤独の中で死に至らせる。それどころか生まれて間もない生命さえ死んでしまうのだが、悲惨さだけが残る感じがしないのは、チュニや一つ目を語る際にあふれ出る著者の優しさのためだろうか。

とは「訳者あとがき」にある言葉です。確かに悲惨さだけが残るわけではありませんが、だからといって希望が持てるような書きぶりかと問われれば、頷くことはできません。彼女たちの生き様は悲しすぎます。

せめてもの救いは、チュニは苦痛を感じることはできても、不幸を感じることはできなかったのではないかと思われる点でしょうか。母のクムボクは社会的な成功を収め、使い切れないほどの大金も手にし、自分の欲望に正直に生きた女性ですが、どこか幸せになりきれない影を引きずっています。

それに対して、いわゆる知的障害のあるチュニは、そういった世間の評価基準の外に生きているわけで、その人生は筆舌に尽くしがたい苦痛に何度も見舞われるのですが、幸不幸という判断基準を持っていない、理解できないことがささやかな幸せなのかも知れません。でもそれではあまりにも悲しいです。

ところで、最後にチュニは、恐らく彼女の人生で唯一の理解者であり友達だった象のジャンボの背中に乗って天高く昇っていきます。その場面は、テレビアニメ「フランダーズの犬」の最終回、ネロがパトラッシュと共に天使に導かれて昇天していく場面を彷彿とさせるものでした。そんな風に感じたのはあたしだけでしょうか?

『トラペジウム』に5人目はいるのか?

乃木坂46の高山一実のデビュー作品『トラペジウム』読了。

主人公は高山自身を多少ダブらせているところはあるのかな、という気もします。その主人公が、自分の住む町の東西南北の美少女を集め、アイドルとしてデビューしようとする物語です。

房総半島突端の田舎町に、そうそう都合よく美少女が東西南北にいるものだろうか、という疑問はさておき、見事に見つけて仲良くなった主人公はあの手この手でアイドルになるべく、世間に認知してもらうべく奮闘します。

このあたりのプロセス、アイドルを夢見る中高生には共感を持って読まれるのでしょうか? ただかなり稚拙で杜撰な計画です。とはいえ、そこは小説なので、トントン拍子とは言えないまでも、そこそこ主人公の予定どおりに事は運び、見事に歌手デビューのチャンスをつかむ主人公たち4人組。

が、どうなのでしょう? ここまで主人公のアイドルになりたいという夢のため、そんなことはまるで予想もしていない他の3人が利用されているわけです。主人公は最後まで自分の夢のために仲間を引きずり込んだ、利用したということを打ち明けません。その邪さが、もしかするとよりリアルで本作の魅力になっているのかも知れません。

結局、さあデビューだ、これからアイドル人生が始まる、という土壇場で仲間三人はアイドルになることを望まず、主人公から離れていきます。このあたりからの展開がちょっと速くて、主人公は結局一人で再びアイドルへの夢を追いかけ、それを手に入れたようです。ちょうど作者・高山一実と同い年くらいになっている十年後、四人が再び集まります。そして友人の写真を見に行き、「トラペジウム」というタイトルの作品を眺めて終わります。

なんか、食い足りない気分の残る作品です。いや、よくかけていると思うし、ありがちな仲良し四人組のサクセスストーリーをひとひねりしているところは巧いと思います。

でも、上述したようにアイドルデビューのところからの展開がちょっと速く、そこをもう少し掘り下げてもよかったのかな、主人公はその後どうやってアイドルになれたのか、アイドルへの道を降りた三人がその後どういう人生を歩んだのか、もっと知りたいと思いました。まあ、ここで四者四様の生き様を作品にするのは作者の経験や現在の忙しさからすると無理かも知れません。いい加減連載が長くなってきて、編集部からそろそろまとめてくれと急かされて強引にエンディングに持っていたような印象を受けます。

わが家の韓流コーナー

わが家の書棚のほんの一部です。

ご覧のように、韓国文学の翻訳作品を並べています。

この一、二年、書店店頭でも韓国の作品の翻訳が増え、それなりのボリューム、存在感を発揮していますが、見事にはまっています。

韓国文学と言えば、クオンの始めたシリーズ《新しい韓国の文学》かもしれませんが、あたしはその流れにはちょっと出遅れ、同シリーズでは『殺人者の記憶法』しか読んでいません(汗)。『菜食主義者』とか、読みたいのがいくつもあるのですが、まだ手が回っておりません。

その一方、晶文社の《韓国文学のオクリモノ》はすべて制覇しております。棚に『ギリシャ語の時間』が見当たらず、ちょうどすき間ができていますが、同僚に貸しているところです。最後の『』も、あと三分の一くらいで読み終わります。

先頃スタートした亜紀書房の《となりの国のものがたり》も既刊2冊、既に所持しております。『鯨』を読み終わったら取りかかるつもりです。