クスッとした笑い

ぼくは覚えている』読了。

開くとわかるように、「ぼくは覚えている」で始まる文章を並べた作品です。詩のようにも見えます。確かに詩のように、リズミカルに読めるところもあります。でもすべてを読み終わると、これが作者の学生時代を中心とした自伝的な作品であると思えてきます。否、思えるのではなく、実際のところ、そうなのでしょう。

子供の頃から学生時代にかけての、作者の記憶に残った細々とした事柄が、「ぼくは覚えている」という書き出しの後に、延々と書き綴られます。作者の年齢を反映して、描かれる世界は1950年代が中心のようで、あたしにはちょっとわからないところもあります。また年代の問題だけでなく、あたしがアメリカ文化やアメリカ社会に対して知識が無いことから理解できない項目も多々あります。そして、何と言ってもこれが最大の原因ではないかと思いますが、作者がやはりかなり変わった人物であることによる理解の難しさもあります。確か作者はゲイだったはずです。同性愛の描写も散見されます。

そんな理解の困難さはあるものの、やはりクスッと笑ってしまう項目、うんうん、その感じ、わかる、という描写が全体の多数を占めています。ちょっとエッチな描写など、思春期を通り越してきた世代であれば、誰でも多かれ少なかれこんな経験をしたり、こんな妄想を抱いたりしたことがあるのではないでしょうか?

高校生や大学生が読んだらどんな感想を抱くのか興味深いですが、青春をはるか昔に終えた世代が読んだら、ちょっぴり懐かしく、当時の青臭かった自分を思い出せるのではないでしょうか?

アダムとイブ

アダムとイヴ 語り継がれる「中心の神話」』読了。日本人ですら、わが国の伊弉諾、伊弉冉よりもこっちの方に親しみを持っているというのは皮肉なものですが、こうして語られると、アダムとイブについても知らないことが多かったということがわかります。

著者お得意の美術から文学などにわたるアダムとイブ像の変遷を豊富な図版を交えて書いているのでわかりやすいことこの上ないですが、あえて言えば、せっかくの図版が小さすぎることでしょうか。図版によってはもう少し大きく載せてくれないと、本文で注目しているところがどこなのかよくわかりません。

個人的には、カインとアベルがアダムとイブの子供だったと初めて知ったり、さらにその二人の下にもう一人子供がいて、アダムがイブよりも先に死んでしまったことなど、キリスト教や西洋文化史に詳しい人なら常識のようなことをこの本で知りました。そして、なんとなく「エデンの東」は西でも南でも北でもなく、なんで東なのかわかったような気がしました。

 

凍りの掌

一部で話題のコミック『凍りの掌』読了。

絵のタッチはほのぼのとして、ある意味、映画「火垂るの墓」を思い出させます。が、内容はその「火垂るの墓」と同様、かなりキツイものです。

 

最初に驚かされたのは、主人公が東洋大学生だったということ。なんだ、先輩なのかと感じました。

シベリア抑留体験の中ではもっと厳しい体験をした人もいたかも知れませんが、この主人公が味わったものもかなり壮絶です。日常的に人の死と向き合うなんて現在の我々にはあり得ませんし、それに対して何の感慨も催さなくなるなんて信じられない感覚の麻痺だと思います。

本書を読んで感じることは、結局敵味方の違いはあれど、どちらにしてもうまく立ち回ってうまい汁を吸う人間がいて、一番底辺の人間は常に虐げられるだけなんだということ。関東軍や満鉄の偉い連中は終戦間際のうのうと帰国したはずなのに、何も知らされることなくソ連軍に蹂躙された下級兵士はこんな目に遭ったわけなのですね。

そして、中国人にしろ朝鮮人にしろロシア人にしろ、たとえ敵味方とはいえ個人レベルでは友情までは行かなくともそれなりの交流が生まれるということに多少の救いを感じました。どうして国レベルにこの気持ちを活かせないのか……

最後に、やはり共産党は一筋縄ではいかない存在であるということです。極限状態の日本人捕虜に徹底的な洗脳を施し、日本へ送り込む、それを待ち受ける日本人の偏見、差別。これも哀しい現実だったのでしょう。

それにしても、著者が直接体験していないことなので、ストーリーがかなりアバウトです。たぶん語り手である著者の父(主人公)の記憶も曖昧なところが多いのでしょう。それを小説的な脚色で補わなかったところにむしろ共感を覚えます。やろうと思えばいくらでももっと悲惨な物語にも哀しい物語にもできたはずです。それをせずに聞いたままを淡々と絵にした著者の態度は立派だと思います。