関西ならでは?

恋都の狐さん』読了。

本書を知ったのは先日の関西出張の折でした。自分の勤務先がもっぱら海外文学ばかりで、ほとんど日本文学を敢行していないので、ふだんの営業でも海外文学の棚は目にしていますが、日本文学の棚はそれほど注意深く見ることはありません。が、出張に出た時に、担当の人を待っていたりする時、何気なく日本文学の棚も見ることがありまして、これは東京にいる時もそうなのですが、この本に限って言えば、「こんな本、見たことないなあ」という感じで目に飛び込んできたのです。

帯に書いてある梗概を読めば納得です。この本はまずは奈良を中心とした関西で売れるだろうなあという気がしました。なにせ舞台は奈良。主人公の女子大生が、人生初の恋に目覚めるというストーリーなわけですから。関西のとある書店さんで、熱の籠もったポップ付きでこの本が平積みされていたのです。

で、既に本書は発売から少し時間がたっていまして、既に第二弾と言いますか続編と言いますか、『美都で恋めぐり』という作品も刊行されています。こちらはこれから読む予定ですが、どちらも、装丁があたし好みです。

とりあえず第一弾の方ですが、人物の心理描写が途中から駆け足になるというか、恋に目覚めると「暴走機関車」と化すのか、ややドタバタして慌ただしく、急ぎ足になってしまい残念なのですが、世間を見るとなにかにつけて羨ましく感じられ、どんなカップルにも嫉妬の炎を燃やしてしまう情けない主人公には、前半はものすごく感情移入が出来ました。

ただ、そんなことより本書を読むと、改めて奈良の街をゆっくり歩いてみたいなあという気分にさせてくれます。観光客が多すぎる京都ではなく、奈良を敢えて歩きたくなる、そんな本です。神社仏閣の行事に関する蘊蓄がうまい具合に織り込まれている割りに、街の雰囲気の描写が少ないのが玉に瑕だと思いますが、それでも奈良を見直すきっかけにはなりそうです。

 

 

自分でやっちゃえ!

自分でやった方が早い病』読了。

あたし自身は、やはり基本的には人に頼むよりも自分でやってしまった方が早いと思ってしまうタイプです。もちろん、人を育てるには任せる、やらせる、ということも必要なのはわかっていますが、その一方で、「この人にこれを任せてもダメでしょ」ということも考えてしまうわけで、どの人に何を任せるか、それを判断するのが難しいと思います。

で、この本ですが、いくつか気になる点が……

同書では、人に任せられず、自分で何でもやってしまうと仕事量が増え、休日出勤も日常的になり、体を壊すことになると警告しています。でもあたしからすると、休日出勤しないとならないなんて、自分の能力が足りないだけだと思います。能力があれば、仕事が集中したって定時の仕事でこなせるはずです。それが出来ないのは能力が足らないだけでしょう。あるいは要領が悪いだけだと思います。

また、人に任せることによって、仕事抜きにした信頼関係、友情が芽生えるようになり、転職してもあるいは退職後も人付き合いが続くとかいてあります。人に任せられない人は退職した途端に年賀状が減って寂しくなると書いてあります。

果たしてそうでしょうか? あたしなど、いま現在でも年賀状は10通前後です。そもそも仕事上で知り合った人はあくまで仕事上のつきあいであって、プライベートで会ったりといったつきあいが生じるとは思っていませんし、そんなことは期待していません。定年後が孤独で寂しいなんて書かれても、あたしには何ら響くところがありません。

本書では、意外と周りの人との繋がりといったことを強調しているのですが、そういうところを強調されればされるほどしらけてしまうのはあたしだけでしょうか?

河出書房はカルヴィーノがお好き?

書店で面白そうな本を見つけました。

河出書房新社さんの『もうひとつの街』です。印象的なカバー画もいい感じですね。チェコの作品のようです。いわゆる海外文学の王道である英米やフランスではなく、東欧などの作品が紹介されるのはよいことだと思います。

で、この本を手にとってオビなどの文章を読んでいましたら、カルヴィーノとかボルヘスなどの名前が出てきて、そういう作品との関連、影響をうかがわせているのです。こういう名前がちりばめられると、ガイブン好きは食指が動きやすくなるのかもしれません。ただ、あたしの場合、「あれ、どっかで見たような……」という既視感が。

思い出しました。

地図集』です。この本のオビにもカルヴィーノとボルヘスが出てくるんですよ。そして出版社も同じく河出書房新社さん。

うーん、河出って、カルヴィーノとかボルヘス好きな編集者がいらっしゃるのでしょうか?

ちなみに、ただいま編集者(正社員、契約社員)募集していますね。

この切実さを理解できるか?

既に一度感想を書いていますが、めでたく重版が決まったので再び書きます。

神は死んだ』の話です。

この作品は連作短篇集で、第一話で神様が死んでしまい、第二話以降は神のいなくなった世界の退廃ぶり、無軌道ぶりを描いた作品です。第二話以降のハチャメチャは、神の不在をベースとしつつも、現代社会への痛烈な批判になっていて、既に似たような事象はアメリカや日本で日常的に見られるものとなっているような気がします。そういう意味では「神の不在」を借りた社会批判であり、現在の社会はまるで既に神がいなくなったようなものだ、と言っているような気がします。

さて、第一話が個人的には一番面白く読めました。

いきなり砂漠をさまよう、今にも死にそうな神様が登場し、結局のところ野垂れ死にます。なんでそんなことになったのか、まるっきり説明されていません。とにかくアフリカの大地で、黒人の美女として現われ、野垂れ死んでいくのです。その途中、なまじ美人であるが故に、あやうくレイプされそうになりますが、死体のふりをしたのか、体を動かす力すら残っていなかったのか、ギリギリのところで難を逃れます。しかし、それも束の間。結局は野垂れ死に、犬に食われてしまうわけです。

先にも書いたように、日本人にとっての「神」と、欧米人にとっての「神」とは、全くその存在感や重みも異なるでしょうから、あたしには笑いながら読めましたが、果たして……

 

そして恩師を思い出しました

文春新書の『習近平の密約』読了。前後して刊行された講談社現代新書の『「反日」中国の真実』と併読するとよいかと思います。

 

文春の方は習近平時代とこれからの日中関係を、講談社の方は習近平時代に至るまでの日中関係を取り上げているというのが大雑把な違いでしょうか? ですから一部重複するような記述も見られます。

で、後から読んだ文春新書ですが、加藤氏の「あとがき」に次のようにありました。

強がっているように見えても、実は多くの矛盾を抱え、もがき苦しんでいるのが内情である。

こういう中国の真の姿、多くの日本人には理解されていないのでしょうか? あたしなどほんの数回の中国旅行の体験しかありませんが、それでも中国人がみずからのメンツのために振り上げた拳を下ろせないでいる様子が理解できます。

反日デモなども、ある程度は現状に対する不満(←決して日本に対する不満だけでなく)のガス抜きとしての効果があるわけで、ガス抜きとして機能している限りは当局も目をつむっているのでしょう。ですから、適度に、あくまで適度に日本がそういう刺激を与えてくれることは中国政府にとっても実は好ましいのではないかと思います。

もしこれで日本がまるっきり中国人の心を逆なでするような行為をしなくなったりしたら、民衆の不満は日本へ向かわず政府に向かうでしょうから、そうなってはマズイと中国政府は思っているはずです。もちろん、その逆に日本があまりにも挑発的な態度を繰り返せば民衆の激高も手が付けられなくなりますし、政府としても日本に対して強く出ないとならなくなるので、これも困る状態でしょう。そこらあたりのさじ加減をわかって日本政府が対応できていればよいのですが……

さて、この「あとがき」にはもう一つ、こんな注意を引く文章がありました。

習近平政権の掲げる強国化路線が確実に進み、日本を大国と見なさなくなったとき、「反日」デモも起きなくなる。

この文章を読んで大学時代の恩師の言葉を思い出しました。あたしが学生の頃は中国はまだ改革開放を始めたばかりで、日本の戦後間もない頃の雰囲気でした。むしろ台頭著しかったのは韓国です。韓国も日本に対する対抗意識はものすごく、現在と同様な嫌日感情がありました。

そんな情勢下、あたしの恩師は、韓国がさっさと経済成長を遂げ、日本を完全に追い抜いてくれればよい。そうすれば嫌日感情なんてなくなるから、と語っていました。日本に反感を持つのは、それはまだまだ自国が日本にかなわない、日本に負けているという事実を素直に認めたくない気持ちの裏返しなわけで、名実共に誰が見ても日本より優れているとなったら、そんなわだかまりはなくなるというものです。

あたしの恩師はそんなことを教えてくれました。恩師亡き今、上掲の文章を読んで、中韓の違いはあるものの、恩師の謦咳に接したような気がしました。

これが現実なのか?

書店ガール 2』読了しました。かつて『書店ガール』ではなく、『ブックストア・ウォーズ』を読んだ人間としては、「続編だ!」という喜びがまずあります。

 

でも、今回は最初からPHP文庫です。どうして新潮社は自分のところで文庫化しなかったのでしょう? そしてみすみす第二弾をPHP文庫から出されるようなことになってしまったのでしょう?

本好きに読んでもらいたいからこそ、文庫ではなく単行本で出して欲しかったと思うのは、あたしのわがままでしょうか? ただ逆に、こういう本を単行本では出せないというところが、出版会の現実なのかもしれません。

なにはともあれ、書店員の方にはこの本を読んで、「所詮、小説さ」なんて思わないで、本を売る楽しさを奮い起こして欲しいと思いますし、出版社の人間もこの本を読んで、そういう書店員さんを応援するような気持ちを抱いて欲しいと思います。

文学談義だった?

昨晩の丸善&ジュンク堂書店渋谷店でのトークイベントについて。トークの主人公は万城目学さんと津村記久子さんのお二人。大阪繋がりというか、関西繋がりのお二人で、そんな二人が東京で対談しているなんて不思議な気もします。

さて、万城目さん。

あたしは『プリンセス・トヨトミ』だけしか読んだことがありません。

  

とても面白く読みましたが、映画の方は見ていません。それくらいの読書体験です。ただ、かつて吉祥寺の駅ビル・ユザワヤの地下に啓文堂書店吉祥寺店があったころ、営業でお邪魔した折、ちょうどお店に見えていたが万城目さんを、文芸担当の方に紹介していただいたことがあります。あいさつくらいしかしておりませんが、素朴な感じの印象を覚えています。

素朴という言い方は褒めてないように聞こえてしまうかもしれませんが、そうではありません。こちらの勝手な思い込み、偏見ですが、どうしても世の作家先生と呼ばれる方は偏屈で偉そうにふんぞり返っているというイメージがあって、仕事上は関わることはあっても、決して親しくお付き合いはしたくないという、そんなイメージを抱きがちです。

とんでもなく、映画やドラマの悪影響だとはわかっていますが、なんとなくそんな風に思っていたのですが、よい意味で万城目さんはあたしの予想を裏切ってくれました。そして、昨夜の万城目さん。やはり、そんな印象通りの方でした。

次に津村さん。

実はあたし、以前、津村さんにサインをいただいたことがあります。でも、逢ったことはありませんでした。逢ってもいないのにサインをもらうってどういうこと? と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、詳細はこちらです。

で、あたしが読んでいる津村さんの作品は『婚礼、葬礼、その他』『ワーカーズ・ダイジェスト』だけです。

 

このところは『やりたいことは二度寝だけ』を読まなければ、買わなければ、とずーっと思っているのですが、なんとなく機会を失してここまで来てしまいました。

そして、初めて逢った、というか、見たというか、目にした津村さんは写真で拝見していたとおりの方、いや、もう少しチャーミングかな、という印象です。「そうか関西の人だから、関西弁だよね」という発見が新鮮でした。

それにしても、お二人、サッカーが好きなんですね。ほとんどサッカーに興味を持っていないあたしには、ほとんどついていけない(話の内容だけでなく、語るお二人の熱さにも)談義でしたが、トークイベント自体はとっても面白い、抱腹絶倒、ボケとツッコミの掛け合い漫才のような展開で、あっという間のひとときでした。

 

こんなトークイベント!

講談社現代新書の『中国共産党の経済政策』と日経プレミアシリーズの『中国台頭の終焉』を読み終えました。

 

中国モノというと、得てして権力闘争など政治を中心に追ったものが多く、そういう観点からいたずらに中国強理論を煽ったり、逆に中国賛美に流れたりしがちなものが多く見受けられます。確かに中国に数年滞在したり、長年中国相手に仕事をしていると、他人の著作が語る中国像に異議申し立てをしたくなる気持ちもわかります。自分こそは中国の真の姿を理解していると言いたくなる気持ちもわかります。

ただ、近頃、そういう本に少し飽きてきました。そんなときに読んだのがこの両書です。どちらも、中国の経済データや統計を使って中国の経済成長を分析した本です。経済用語、金融用語を知らないと、ちょっと理解しづらいところもありますが、使っているデータ、観察しているはずの中国の実勢はどちらも同じものや似たようなものが多く、議論のベースは共通しているところが多々あると思われます。

が、一方は比較的楽観的な見通しに立ち、むしろそれに乗り、それを利用して日本も飛躍すべきだと説き、一方はかなり悲観的に中国の将来を語っています。著者はどちらも数年間ずつ北京の日本大使館で働いた経験を持ちます。その勤務した時期の違い、あるいは著者の年齢の違いがこういう結論を導いているのでしょうか?

もし、あたしが書店のビジネスや国際情勢の担当者であれば、是非ともこの両書の著者の対談をセッティングしたいところです。もちろんそれを仕切れる司会者、アンカーマンが必要になるかもしれませんが、変な感情に流れず、データに語らせる中国論として非常に面白い対談が実現するのではないかと思うのですが……

もちろん、この両者は対立する本ではありません。恐らく同じデータを、一方は出来るだけよい方に、そして中国と中国人の努力を好意的に見ようとし、もう一方は最悪の状況を想定しつつ、過剰な期待を持たずに導き出したものなのだと思います。

 

一見似ている両書のこの違い!

講談社現代新書『中国共産党の経済政策』を読み終わりました。著者はついこの前まで中国の日本大使館に勤務していた経済のスペシャリストです。中国モノの本と言えば、政治権力を巡る暗闘、闘争を中心に、中国は崩壊する、あるいはさらに強大になるということを主題としたものが多いですが、この本はそういった権力闘争からは一歩も二歩も距離をおいています。ですので、読んでいても、読み終わってからも、とても新鮮な感じがします。

純粋に経済や金融の観点から中国を見るとこんな風に分析できるんだ、ということがわかりますが、経済に詳しくないと用語や分析手法の点でやや難しいかもしれません。もちろん、中国という国は経済論理で動くような単純な国ではなく、権力闘争次第では経済的な得失を無視したダイナミックな動きだって起こりうるのだ、という意見もあるかと思います。でも、著者たちの述べることは、過去の流れを踏まえていますので、やはり説得力を感じます。

これまでの中国モノとは一線を画す書籍と言えるのではないでしょうか? で、それを読み終わって現在は日経プレミアシリーズの『中国台頭の終焉』を読み始めました。

こちらの本も、著者はやはり日本大使館に勤務していた経済の専門家です。前者よりも一世代年上になります。内容は、まだ最初の方だけしか読んでいませんが、前者と同様、権力闘争などには目もくれず、という言い方をしたら語弊があるかもしれませんが、経済的な諸現象とデータを追って記述されていて、この点は全く同じ立ち位置ではないかと思われます。

ところがこの両書、言っていることがまるで違います。前者は中国経済は思ったほど落ち込むことはなく、まだまだ成長の余地は残っている、むしろ日本にとっては中国の成長がビジネスチャンスであり、日本のさらなる成長の鍵になるわけだから、中国が発展するように手を貸し、日本も十分利益を得よう、という主張です。

それに対して後者は、中国の経済的崩壊は既に始まっている、そのリスクを日本は真剣に考えないといけないという主張のようです。同じようなテーマを同じようなデータを使って述べているのに、どうしてこうも極端に結論が異なるのでしょうか? 不思議です。どなたかわかりやすく解説して欲しいものです。