死を愛してしまったひと

ようやく読み終わった『不浄の血』から、ちょっと惹かれた文章をご紹介します。

そうね、あたしは墓場に横たわっていたようなものね。墓場に長く暮らしていると、だんだん愛着がわいて、苦じゃなくなってくるのよ。あの人は青酸カリの錠剤をくれたわ。自分でも似たような毒薬を肌身離さず持ってた。奥さんも息子さんも。あたしたちみんな死と隣り合わせに生きてた。ひとには死を愛することができるの。死を愛してしまったひとは、それしかもう愛せなくなってしまう。解放の時がやってきて、あの牢獄から出るようにって言われたけど、出ようなんて気にならなかった。腰が引けて、まるで屠殺場に引きずられていく仔牛みたいだったわ。(P.265)

この暗さ、なんとも言えない重苦しさ。それがこの作家の真骨頂でしょうか?

スピノザの妬み

来るべき民主主義』を読み始めました。

小平市の都道建設の是非はともかく、一小平市民としてこの本は読んでおくべきだろうと思ったのがきっかけです。もちろん、問題となっている雑木林、鷹の台の駅を出て、広い公園を抜けて津田塾大学へ向かう途中、その津田塾大学の向かいが雑木林ですので、何度も通ったことのある場所です。

さて、本書の初めの方で國分さんはスピノザの妬みについて注釈を付けていらっしゃいます。そこがちょっと気になったので取り上げてみたいと思います。別に國分さんの主張に文句を付けるとか、スピノザの解釈が間違っているだなんて大それたことを言おうというのではありません。

問題の注は第二章に付された14番目の注です。同書243ページで國分さんは

特別なことの利益を享受した人間は、特別な人間でいてくれないと困るのだ。もしその人間が自分と同じ立場の普通の人間ならば、自分と変わらないにもかかわらずその人だけ特別なことの利益を享受して「ずるい」と感じざるをえないからである。そう感じた時に人は、その「ずるい」人間を引きずり下ろそうとする。

と書いています。この文章に間違いはないのですが、あたしはちょっと違います。少なくとも、そんなとき、あたしならこう思います。

つまり、妬んだりしないし、引きずり下ろそうとも思わない。ただ、自分と同じ立場の普通の人が特別なことの利益を享受しているのを見たら、自分はそんな普通の人以下なんだ、普通ですらないんだ、と自分を卑下するようになると思います。もう「ずるい」なんて思って妬む元気も気力も喪失している感じです。

あたしに限らず、昨今の日本の若者って、こんな感じではないでしょうか?

人生だって?

往復の電車の中や書店回りの移動の時間に読んでいるUブックスの新刊『第三の警官』は、いわゆるSFというジャンルに入るのでしょうか? 奇想天外なストーリーです。

そんな作品中から、主人公が出会った盗人のことばが面白いのでご紹介します。主人公から人生について問われ、「ない方がましだ」と言いきった後のセリフです。

人生なんてものは腹の足しにはならないし、喉の渇きをいやしてくれるわけでもない。そいつをパイプにつめて一服できるといったものでもないし、雨露をしのぐ野に役立つわけでもない。一夜黒ビールを飲みあかし、激情に身を震わせながら丸裸にした人生ってやつをベッドに引きずりこんでみても、何のことはない一抱えの闇がわびしくそこにあるばかりなのだ。人生なんてものは大いなる錯誤にほかならず、それなしで済ませた方がいっそせいせいする代物だ。そう、軋むベッドとか外国産ベーコンなどと正に同類なのだ。(P.70)

こうは言っても、この盗人、それなりに人生を楽しんでいるように感じられるのですが、ここまで達観しているからこそ楽しめているのでしょうか?

ある悪魔の独白

寝しなに『不浄の血』を読んでいます。その中の一つ「鏡(ある悪魔の独白)」の中に気に入った文がありましたので……

おれさまの掟によれば、罪こそが善行で、悪口はおれの祈り、頑固さはおれのパン、あつかましさはおれの葡萄酒、偉ぶることはおれの骨の髄。おれにできることは、ぺちゃくちゃやることと、にやにやすることのふたつだけ。(P.99)

さすが悪魔、というセリフです。

この『不浄の血』は、短編集ですが、どれもリズムがよくて読みやすいです。ただ寝床で読んでいるとじきに眠くなってしまうので、まだ半分くらいしか読み終えていませんが……

そんな趣味はないはずですけど……

別の本を読み始めたりしていて、しばらく「積ん読」になっていた『あなたはなぜ「嫌悪感」をいだくのか』をまた読み始めました。

その中で「ネクロフィリア」について述べたところがあります。

ネクロフィリア愛好者の知的レベルは標準であることが多く、精神障害者でもサディスティックでもない。むしろ、一貫して最もよくみられる性格的特徴は、きわめて自己評価が低いことだ。ネクロフィリアについてのフロイト派の説明によると、自己評価の低さが原因となるのはどうやら、「大切な他者(自分に重要な影響を与える人物)」がいないことのほかに、性的に拒否されるのではないかという恐怖心といった他の問題や、さらには自分の死を恐れるがゆえの「反動形成」とされる場合もある。(P.246)

自己評価が低くて、大切な人がいないなんて、まるっきりあたしのことを言われているみたいです。でも、あたしは決してネクロフィリアには興味ありませんし、願望もありませんので、念のため。

ただ、生きている人は苦手だから死んでいる人へ興味が向かうという感覚自体は理解できます。時に「人間は嫌いだけど動物は裏切らないから好き」という人がいますが、それと似た感じでしょうか? いや、完全に誤った理解でしょうか?

とにかく、自己評価が低いのは事実なんですが、あたしにはこういう異常性愛の趣味はまるっきりありませんのでご安心くださいませ。

とはいえ、存在がそもそも異常だと言われることもしばしばなんですが……(汗)

それにしても、こういうことをした人が「生き返らせるための儀式」だと主張しているのは興味深いですね。自分の生命のエネルギーを死体に注ぐことによって死者にもう一度生命を与えようという発想、古代にあってはそういう発想がごく普通に唱えられても不思議だとは思いません。中国の房中術なども、男性の陽の気だけではだめなので、女性と交わることによって女性の陰の気を取り込もうという思想が根底にありますから(則天武后のように陰陽が逆の発想ももちろんあります)。

しかし、自分の生命のエネルギーって他人を蘇らせられるほど旺盛なものなのかどうか、そこが問題ではないでしょうか? 自分がどうにかこうにか生きている人間には、とても他人の生命の面倒まで見ようという元気はないはずだと思います。

 

こんな女性に逢ってみたい、か?

夢みる人びと』収録の「夢みる人びと」から、こんな一節。

語り手の一人が自分の若い頃の恋物語を語るところです。旅の途中で出逢った女性と恋に落ちてしまった部分です。

君のような詩人たちが使う、涙、心、あこがれ、星々¥などという言葉の意味を私が理解できるようになったのも、こうしていまだに憶えていられるのも、その女のひとのおかげなのだ。そうだ、殊に星々という言葉についてはそう言えるな。ミラ、その女のひとには、星を思わせる風情があったのだよ。そのひととほかの女たちをくらべると、ごみと星空ほどのちがいなのだ。ミラ、君もたぶん、これまで生きてきたあいだに、そういうたぐいの女に出遇ったことがあるだろう。内部から光を放ち、暗闇のなかで輝き、松明のあかりのようにゆらめく女を。(P.107)

すごいべた褒めですね。こんな女性いるのでしょうか? いるならあたしも会ってみたいものです。さらにこの女性との会話を思い出して語るシーンです。

とうとうオララが言った。「いいえ、心はありますわ。でも、それはミラノの小さな白い別荘の庭に埋めてあるの。」
「永久に埋めておくの?」と、私はきいた。
「そう、永久によ。そこはどこよりも美しい場所だから。」
私は嫉妬にかられて、さらにたずねた。「そのミラノの白い別荘には、君の心を永久に引きとめておくようなものがあるというわけ?」
「さあ、わからないわ。もう今はそれほどでもないかもしれない。庭の草取りをする人もいないし、ピアノの調律をする人もいないのだから。誰か知らない人が住んでいるかもね。でも、月が昇れば、月光はあるでしょう。それに、死んだ人たちの魂もあるはず。」(P.111)

いかにも男を手玉に取る女性特有の物言いという感じがしますね。上の引用でご理解いただけると思いますが、主人公が恋した女性の名前がオララ、そしてオララとの恋物語を主人公はミラという人に語って聞かせている、という長い、長いシーンです。

こういう女性って、たぶん男性から見たら、深入りしてはいけないとわかっていながら、どんどんのめり込んでしまい、気づいたときには戻れないところまで来てしまっているのでしょうね。

 

エルシノーアの一夜

作品が三つ収録されているUブックスの『夢みる人びと』の一つめ、「エルシノーアの一夜」読了。

 

今回も『ピサへの道』に負けず劣らず、読み応えのある作品です。その中から印象深かった箇所を……

もうひとつおかしなことがある。自分たちの人生にはこれという出来ごともなかった二人が、夫や子供や孫のいる既婚の女友達のことを話すとき、あわれみと軽蔑のそぶりを見せる。あの臆病な連中は、気の毒に、退屈で平板な人生を生きているのね、という調子である。自分たちには夫も子供も恋人もいないけれど、だからといって、私たちこそロマンチックで冒険にみちた人生を選んだのだと思うさまたげにはならない。つまり、二人にとっては、可能性のみが関心をそそるのだ。現実にはなんの意味も認めない。あらゆる可能性をわが手におさめ、決して手ばなさない。一定の選択をして、限られた現実に堕落するよりも、そのほうがましなのだ。今でもなお、ことの成りゆき次第では、縄ばしごをつたって駆けおちもできるし、秘密結婚をするかもしれない。誰も止めることはできない。したがって、二人が心をゆるす親友といえば、同類の老嬢とか、不幸な結婚をした女たち、つまり可能性に生きる円卓の仲間たちなのだった。しあわせな結婚をし、現実に満足しきった女友達に対しては、可能性に生きる女たちは心やさしくも別の言語を使って話すのだ。そういう相手はいくらか低い階級に属する者たちで、言葉をかわすには通訳が必要だとでもいうように。(同書、P.43)

以上は、この物語の主人公でもある姉妹のことを述べた箇所です。若いころから美しく、社交界の中心にいた二人ですが、なぜかどちらも結婚をせずにきてしまったのです。もちろん求愛者には事欠かなかった二人ですが、ここにあるように結婚することによって未来の可能性を捨ててしまうことを潔しとせず、結婚もできるし、しないこともできる、恋人を作ることもできるし、作らないでいることもできるという自由な人生、つまり可能性にあふれた人生を選んだ結果、老境にさしかかろうという年齢になってしまったのです。

あたしはこんな高貴な考えを持っているわけではありませんが、なぜかとてもシンパシーを感じてしまいました(汗)。

運命の出逢い?

いま通勤電車の中で読んでいる『ピサへの道』の中で、ちょっと気になった箇所をご紹介します。

二人とも、仮りにもう一度出会うことがあっても決して繰りかえしのきかない、なんとも奇妙な気分でいたというのが真相だろう。相手がなにに心を動かされているのか、お互いなにもわかってはいない。しかもひどく興奮し、気を張りつめて、互いの心がなにか特別な共感で響きあうのを感じたのだ。なかばうつろでいながら、そのくせ妙に醒めて敏感になっていたわしは、じつに身勝手に娘を手にいれた。娘がどこからきたのか、どこへ消えてゆくのかなど考えようともせず、ただこの美しいものを、自分が孤独でいるに耐えない今の今、運命が心優しくもよこしてくれた贈りものとして受けとったのだ。戸外にひろがるこの大都会、パリが送ってきた小さな野育ちの精霊、それがこの娘なのだと思えた。パリという都はどのようなときであれ、思いがけないものを人に恵んでくれる。まさにその恵みが必要な瞬間、この娘をとどけてくれたのだ。娘の側がこちらをどう思ったか、なにを感じていたのか、わしにはなにも言えない。あのときは念頭にも浮かばなかったが、今にして思えば、娘にとってわしもなにかを象徴していたにちがいない。個人としてのわしなど、たぶん存在すらしていなかったのではあるまいか。

 

こんな電気が走ったような出逢い、あるんですかね?

読書感想文

夏休みも残り一週間。さあ、宿題だと思っている児童、学生の人たちが多いのでしょう。ようやく猛暑日も一段落し、少し涼しく(?)なってきたので、宿題をやるにはうってつけなのかもしれません。この時期はお父さんも早々と帰宅して宿題を手伝っているのでしょうか? 皆さん大変ですね。

あたしは以前書いたように、宿題は7月中に終わらせるのを基本としていましたので、お盆明けのこんな時期まで宿題をため込んだことはありません。せいぜいが毎日書かなければならない日記とか、ある程度日時の縛りのあるものくらいでした。

ただ、いま思い返してみますと、毎日毎日日記を書いたという記憶、よくありがちな絵日記など書いた記憶がないのです。あたしの担任はそういう宿題を出さなかったのでしょうか? 工作とか観察はあった記憶があります。そして、子供たちがどうも一番苦手としてあげがちな読書感想文、これも書いたような記憶がありません。

読書感想文はなにがイヤかって、感想文を書くだけでなく、その前に本を読まなければならない、というのがたぶん多くの子供の不満の一因でしょう。これは本が嫌いな子にとってはますます本嫌いにさせてしまう原因ともなっていて、実際には先生の間でも賛否両論あるようです。本好きな子でも感想文は苦手、嫌いという子は多いようです。読んで面白かったのに、なんで感想文を書かないといけないの、という素朴な疑問でしょう。

ただ、これは自分の考えを整理して他人に伝えるために重要な訓練なわけですから、やはりある程度はやらないとならないのではないかと思います。ですから、小学校の低学年や中学年くらいまでは感想文ではなく、内容要約のような宿題でもよいのではないかなと個人的には思います。どんな話だったのかを書く、それだけでも十分な教育的効果は得られると思います。

また、感想文は得てして、「この本を読んで、僕は一回り成長したような気がします」的なコメントを期待されているところもあります。先生は否定するでしょうけど、学校教育における読書感想文はそういう感想を持って欲しいという暗黙のプレッシャーがあります。間違っても『老子』を読んで、「みずからは主体的にはなにもせず、ただ自然のままに任せておけばよいのだと思いました」なんて感想は書いてはいけないのでしょう。

まあ、そんなことをしなくても、現在なら読書感想文の代行サービスなんてネットで探せばいくらでも出てきますから、お金さえ出せば誰かがやってくれますね。教育もなにもあったものではないですが……。

個人的には、例えば本屋で大手出版社の「夏の文庫100」の小冊子をもらってきて、そこに出ている作品100本の紹介文を読み、自分はどれを読みたくなったか、どうしてそれを選んだのかを書かせる、という宿題なんかを出してみても面白いのではないか、という気がします(小学生、中学生にはちょっとハードルが高いでしょうか?)けど、いかがでしょうか?

 

まさに碩学

昨日から通勤電車の中で読んでいるのは『平安朝の生活と文学』です。

著者は源氏物語研究の泰斗、池田亀鑑です。いまや、池田亀鑑と書いて「いけだ・きかん」と読める人も少なくなっているのではないでしょうか? そもそも、このような書かず、いきなり「池田亀鑑」と書かれたら、それが人名だとわかってもらえない可能性が高いのではないでしょうか? 仕方ないでしょうね。いわゆる大家、大学者といった方ですから。

もちろん、あたしは実際に逢ったことはありませんし、授業を受けたわけでもありません。と言うよりも、あたしが生まれるはるか以前に亡くなっていますから、逢いたくたって逢えません。今の時代、学界の趨勢がどうなのかわかりませんし、あたしは日本文学の専門家ではありませんから、あくまで外野の素人です。それでも『源氏物語』と言えば池田亀鑑、というくらいの知識はあります。

そんな碩学が平安朝の文化についてわかりやすく書いているのが本書です。いろいろなところから出版されてきたみたいで、現在はこの筑摩書房の文庫になっております。ところどころ、平安文学の原文をそのまま引いているところもありますので、古典に全く親しみのない人には厳しいかもしれませんが、多少は学校の授業でも読みましたよ、程度の覚えがあれば理解は可能だと思います。そして、文章は実にわかりやすいです。著者の平安文学に対するものすごーいバックボーンから紡がれる言葉は実に平明で、研究書という感じは全く受けません。むしろエッセイに近い感覚で読めます。難しい考証などは省き、滔々と講義を進めている趣があります。それでいて、表面をなぞっただけの薄っぺらな感じはなく、著者の該博な知識が行間から垣間見える文章です。

これぞまさしく真の学者。完全に知識を自分のものにして、古典を咀嚼しつくした上で、自分の言葉でやさしく語ってくれています。なまじ知識だけが過多になり、自家薬籠中のものにできていない学者の文章ですとこうはいきません。池田亀鑑というと、もう十年以上前に、やはり岩波文庫で『古典学入門』が復刊された時に買って読みました。

この本も実にわかりやすい、読みやすい文章でした。これだけのことを、軽々と書いてしまうにはどれだけの素養を内に蓄えたらよいのでしょう、そんな思いに駆られた記憶があります。

どちらも高校生でも十分読めます。夏の読書にどうでしょうか? 学問が本当に身につくとはどういうことか、わかるのではないでしょうか?