ガイブン蟻地獄

今日から出張です。土曜の晩に帰京予定です。その行きの新幹線で手持ちの本を読み終えてしまったので、大阪に着いてまずは書籍の調達。

何を選びましょうか?

ところで、このところ寝しなに毎晩『危険な関係』を読んでいます。たぶんそれが影響したのでしょう。現代新書の『フランス文学と愛』を買いました。

移動の車中で読み始めましたが、ダメです。野崎さんが紹介する文学作品、片っ端から読みたくなります。これでは時間とお金がいくらあっても足りません。

まさしく蟻地獄。抜け出せません。読みたいと思った本を全部読み終われば、蟻地獄から抜け出せるのでしょうか? いや、たぶん読み終わったと思った時には、また次の読みたい本が壁として立ちはだかっているのでしょう。

でも、いま「壁」と言いましたが、そんなに嫌な壁ではありません。心地のよい囲われ方です。それにこの蟻地獄の底には虫は棲んでいないはずですし!

司馬遷と百田尚樹

違和感のあるタイトルですが、最近の百田尚樹に関するいろいろな人の発言を見ていると、作品と作者の関係について考えさせられます。大ヒットしているらしい映画「永遠の0」についても、あたしは見ていなし、原作も読んでいないので意見を言えるような立場ではありませんが、それでも岡田准一、井上真央といった人気訳者二人が主演で特攻隊の映画であるとくれば、作者がどんなに戦争反対、平和が大事と主張しても、あの時代を美化しているように思われてしまうのも仕方ないのではないかと思います。

今回の映画に限らず、安倍と仲が良いという時点で、あたしは虫が好かないのですが、個人的な主義・主張や信条と作品は切り離して考えるべきなのか、それとも一体と見なすべきなのか、難しいところです。どんなに作者が嫌いでも、素晴らしい作品なら、それはそれで評価しようという意見にも一理あると思いますし、作品には作者の人柄がにじみ出るものだから決して切り離せないという意見にも大きくうなずいてしまいます。

そんなことを考えていて思い出したのは司馬遷の言葉です。

司馬遷と言えば中国の古典中の古典、『史記』の作者です。紀元前100年くらいのころに生きていた人です。時の皇帝・武帝の怒りを買って宮刑に処せられ、それでも生き恥さらして(←泰淳を思い出しますね)『史記』を完成させた歴史家です。『史記』が歴史書なのか、はたまた司馬遷の小説なのか、この「小説」というのは現代の小説と意味ではなく、歴史書が客観的で公正なものであるという建前に対し、『史記』が司馬遷の歴史観を色濃く反映している作品であるという意味でやむなく使った単語です。

その司馬遷には「任安に報ずるの書」という文章があります。「任安」とは人の名前で「ジンアン」と読みます。有名なエピソードなので知っている方も多いと思いますが、当時の漢帝国(世界史で習ったところの前漢)は北の異民族・匈奴(きょうど)との死闘を繰り返していました。長らく漢の方が劣勢だったのですが、武帝の時代になり、漢の国力がついてくると有能な将軍も輩出し匈奴を打ち破るようになってきました。そんな漢側の大将の一人・李陵が匈奴の大軍に囲まれ降伏するという事件が起き、武帝が烈火の如く怒ります。君側の重臣たちは武帝におもねり李陵を非難するのですが、司馬遷だけは李陵は立派に闘いやむを得ず降伏したのだと弁明したため死刑を宣告されるのです。

本来ならこのまま死刑になるところ、司馬遷には父親の遺言によって古代から現代までの歴史書を仕上げるという一族の使命があり死ぬわけにはいきません。そこで死刑をあがなう手段として宮刑に処せられるという方法を選んだのです。男子にとって求刑とは男子でなくなることですから屈辱的な刑罰です。それでも歴史書を完成させるためには他人からなんと言われようと生きながらえなければならない、というのが司馬遷の思いだったわけです。

その後、時間をおいて、そんな気持ちを友人の任安に伝えた手紙が「任安に報ずるの書」です。『文選』(←「もんぜん」と読みます)に収録されていますので古代から日本人にもかなり知られている文章です。ここで、ようやく百田尚樹の話からつながるわけですが、この手紙の中に作品と作者の関係について有名な一節が載っているのです。大意だけを紹介しますと、

「周の文王は囚われの身となって『周易』に説明を付し、孔子は災厄に遭って『春秋』を作り、屈原は放逐されて『離騒』を賦した。また左丘明は視力をなくして『国語』を編み、孫子は脚を斬られて『兵法』を整えた。呂不韋は蜀に左遷させられて世間に『呂覽』が伝わり、韓非は秦に囚えられて「説難」「孤憤」という文章を作った。『詩経』三百篇はおおむね聖人や賢者が発憤して作ったものであり、すべて人の思いがそこに凝縮されているのである」

中国古典に不案内な人にはちんぷんかんぷんな文章かもしれませんが、古典作品はどれも個人の熱い思いによって作られているのだと言うことを述べ、自分の歴史書も司馬遷一族が受け継いできた歴史的な使命がそこに宿されているのだという表明です。こういう文章を学生時代に読んできた人間には、やはり作者が嫌いだと作品も嫌いだし評価もしないという結論に行き着いてしまうのです。

あたし、身悶えてます

毎日少しずつ『危険な関係』を読んでいます。

映画こそまだ見ていないのですが、コミックの方は既に読んでいるので、おおよそのストーリーはわかっております。なので、比較的スムーズに読んでいけます。

 

放蕩者であるヴァルモンの手紙は、嘘偽りで塗り固められているとはいえ、それでもよくもまああんなセリフが次から次へと出てくるものだと敬服してしまいます。あんな言葉を囁かれたら、たいていの女性は堕ちるのではないか、そんな気がします。一方のダンスニーはうぶです。本当にまだるっこしい感じがして、あと一歩を踏み込めないでいます。

でも、そんな恥じらい、勇気のなさ、それでも一途な気持ち、すべてが共感できます。しばしば本書を読みながら、わが身に置き換えて悶々としております。あたしのセシルは誰? いまどこにいるの? そんな気持ちです。

結末がどうなるのか、コミックで知っているわけですが、それでもさすがの文章力です。そんなことを感じさせずに、ぐいぐいと引き込まれてしまいます。ただ、上流階級がこんなことばかりにうつつを抜かしているからフランス革命が起きてしまうんだろうなあ、とも思うのです。

パンダだからこそ

パンダが来た道』読了。

本書の副題は「人と歩んだ150年」です。しかし、本書を読むと「人と歩んだ」のか、それとも「否応なく歩かされた」のか、はたまた「人につきまとわれた」のか、いろいろ考えさせられます。

パンダなどを知らないヨーロッパ人が初めてパンダを見たら、その動きといい、毛皮の色といい、一瞬で虜になってしまうのも理解できます。そしてそれは捕獲してヨーロッパへ持ち帰ろうとする気持ちもわかります。あの頃のヨーロッパ人はアフリカでもアジアでも現地のことのなどお構いなし、自分たちのやっていることはすべて正義だと言わんばかりの行動でしたから。

しかし、じきに生態調査、保護、繁殖といった動きが生まれ、世界の野生動物保護のシンボルにまで上り詰めます。現実問題として、現段階でパンダは保護しないと絶滅が危惧されるような動物なのか、いったい野生のパンダは何頭生息しているのか、まるっきりわかっていないようです。それでも野生動物保護という国際的な運動においてパンダが果たした役割というのはあまりにも大きいものです。ロゴマークとしても白と黒の模様はモノクロ印刷でも問題なしという現金なところから、実物のパンダを見れば(特に赤ちゃんパンダなど)、ほとんどの人を魅了する愛くるしさなどはシンボルとするにふさわしい動物でしょう。

本書は、このように世界中で愛され、大事にされるパンダが、それでもまだ解明されていない問題が多いことを教えてくれます。パンダほど世界中の関心を集め、資金も集め、多くの学者が研究している動物ですらこの有様です。パンダのようにメジャーでない動物、愛くるしくはない動物の研究の現状を想像すると暗澹たる気持ちになります。

本書を読んでいて、パンダよりももっと過酷な状況に置かれ、実際に絶滅が危惧されているにもかかわらず、ほとんど世間の関心も資金も集めていない動物を大賞に活動している人々の怨嗟の声が聞こえるような気がしました。「パンダは恵まれているよなぁ」という恨みに満ちたつぶやきです。

そういう声を聞きつつも、全体の底上げを図るためにもパンダのような人気を博すシンボル的動物の役割というのは大木のではないか、パンダにもっともっと引っ張ってもらわなければ、という気持ちも起こさせます。

「パンダが来た道」は「多くの動物が、いま歩んでいる道」でもあるのでしょう。そして、そんな道など見当たらないたくさんの動物たちもいるのでしょう。

19世紀のフランス

岩波新書の、新刊ではないのですが、つい最近、ふと購入して読み終わった『フランス史10講』がとても面白かったです。

内容としては、西洋史専攻、フランス文学やフランス哲学専攻の学生であれば当然知っていてしかるべき、という内容なのでしょうが、あたしのようにフランスについてはまるで門外漢の人間にはかなり歯応えのある内容でした。中国学専攻のあたしが、何を間違えたか西洋史の授業に紛れ込んでしまったかのような体験でした。

全体は、フランク王国から現代フランスまで、いわゆるフランスという国が現在の形になる源流から説き起こしているわけですが、ゲルマン民族の移動とか、フランス大革命、ナポレオン時代、パリ・コミューンなど、一応は世界史で聞いたような単語はそこらじゅうに散見します。が、改めてフランス史という流れの中で読んでいくと、一筋縄ではいかない内容を含んでいて、一回読んだだけでは理解できないところが多々ありました。著者は東大の先生ですから、東大だとこういうレベルで授業をしているのかな、という気もしました。

で、読んでいてわからないながらも興味を持ちつつ進めていくと、19世紀というのが、なかなかフランス史の中で面白い時代のように感じられてきました。フランス大革命を過ぎ、ナポレオン帝政、更にそれが終わって共和政とか王政とか、またまたまナポレオン三世が出てきたり、そんなことをしている間に第一次世界大戦の時代へ突入していく、大雑把につかんだのはこんな感じです。

ただ、全体的には哲学の分野ではあまりパッとしない時代だったようなんです。同書を読んだ限りでは、これだけ政治が転変すれば、それに併せて哲学思想も百家争鳴になりそうですが、あまりパッとしなかった時代のようです。でも、3月に文庫クセジュで『19世紀フランス哲学』というのが出る予定なので、どんな時代なのか教えてくれるのではないでしょうか? あと、刊行間もない弊社の新刊『革命と反動の図像学』などは大いに啓発してくれるのではないでしょうか? それに、このところまたブームが来ている感のあるトクヴィルも19世紀でしたよね?

  

うーん、やはり19世紀のフランス思想界、面白そうです。

ちなみに、文学・芸術分野では、19世紀は綺羅星のごとき名前がいくらでも挙がりますね。佐藤賢一さんの「小説フランス革命」の後のフランス史を概説した書物を、学界の方を集結して、あたしの勤務先から出せないものでしょうか? そう『フランス史10講』をもっとパワーアップさせたもので、資料的価値もあり、レファレンス本としても有用なものを!

人妻を落とす?

毎晩寝床で読んでいる『パンダが来た道 人と歩んだ150年』が、もうすぐ読み終わりそうなので、この次は『危険な関係』の予定です。

 

でもその前に、同僚から借りた『子爵ヴァルモン』を読んでみました。

 

『危険な関係』をほぼ忠実に漫画化した作品で、なかなか読み応えがあって面白かったです。

そして、ヴァルモン! 確かに、見てくれが格好いいのでモテるのは当然なのでしょうが、人妻を籠絡するとは! それも相当に貞淑な人妻を、です。最初は警戒され、むしろ毛嫌いされていたはずなのに、最後は虜にさせてしまうなんて、非常に勉強になります。できることなら見倣いたいです。

肝心なのは、まず最初に、良くも悪くも強烈な印象を相手の心に残すということなのでしょうか?

キスばかり?

買い忘れていたコミック『きょうは会社休みます。(5)』を購入、そして読了。やはり文字の本に比べると、コミックは簡単に読み終わります(汗)。

さて、このコミックも第5巻まで来ました。二人の中が劇的に進展しているような感じはありませんし、恋のライバルとか試練が次々に襲ってくる感じでもありません。なんとなくゆるーく、少しずつ愛を育んでいると言えばよいのか、モタモタしていると言えばよいのか……

でも、この主人公・花笑さんの気持ちもわからなくはないですし、本当に心の底から素直で、よい子なんでしょうね。ちょっと腰が軽そうなところはありますが、誰とでもうまくやっていきたいという気持ちの表われなのでしょうか?

ただ、そんなことよりもこの第5巻、二人のキスシーンがやたらと多いような気がします。そりゃ付き合っている恋人同士なんだからキスしたっていいでしょうけど、第4巻まではこんなにキスしていなかったような……

何かが吹っ切れたのでしょうか? お互いに。

キス、か……。あたしには縁のない単語だわ。

この一節を!

Uブックスの近刊『ユニヴァーサル野球協会』を読んでいます。現実と妄想との境界がだんだん曖昧になるところが面白いですが、途中、こんな一節が非常に興味深かったのでご紹介します。

戦争はどの世代の人間にとっても不可欠なものらしい。民族魂を強化する一大野外劇なのだ。コラムニストが宇宙での無血戦争を強く提唱している。それには同感だが、絶対に実現できはしまい。単なる机上の論理にすぎないからだ。人々が必要としているのは戦傷者名簿であり、略奪したりされたりする占領地の広さ、戦略および報復機能を持つ仕切られた舞台セット、断ち切られたり修復されたりする物資供給および情報伝達ルート、軍艦の総トン数、そして次々に得点を重ねるみたいに貯えた死者、墜落した飛行機、捕虜だ。戦争には誰でも参加できるのに、宇宙戦争は少数の者だけに限られる。だから、戦争はいわば、月への欲情から大衆を解放するための売春宿みたいなものだ。(P.197)

別の本書は戦争小説ではありませんので、念のため。

空想なのか妄想なのか

白水Uブックスの新刊『ユニヴァーサル野球協会』は金曜日に見本出しでしたので、書店店頭にはまだ並んでおりません。が、出版社の特権と言いますか、本は出来上がってきていますので読み始めております。

まだ最初の四分の一ほどですが、この物語、自分なりの野球ゲームを考案した男性の頭の中で繰り広げられる架空のメジャー・リーグ、ユニヴァーサル野球協会の話なんです。全8チームの名前から順位、所属する選手や監督まで、主人公がきっちりと創り上げ、毎晩頭の中でゲームを楽しんでいるという寸法です。基本的にはサイコロを振って、その出た目によって進んで行くボードゲームのようなものらしいのですが、試合のシーンや選手の表情はもとより、ベンチの中の人びとの様子、観客の反応まで、実にリアルにイメージされています。

そう、読んでいると、ある男性がテレビであるいは球場で野球を観戦し、それを克明に記録しているかのような錯覚を覚えます。とはいえ、そこに出てくるチーム名も選手名もすべては主人この男性の頭の中のこと。言うなれば空想です、いや、妄想です。彼は、しかし、その妄想の野球リーグの記録をノートに記録し、時にそれをめくっては過去の対戦を思い出したりもしているのです。ここまで来るとどちらが現実で、どちらが妄想なのかわかりません。

と、そんな本書を読んでいて思ったのは、やはり弊社の書籍『みんなの空想地図』です。

この本も、こう言っては著者に失礼ですが、現実には存在しない、あくまで著者の頭の中で創り上げた架空の都市の地図です。妄想もここまで極めれば立派な芸術になるという一つの典型だと思います。ですから、『ユニヴァーサル野球協会』も、言うなれば「みんなの空想メジャー・リーグ」と呼ぶべきものなのかもしれません。

そんなことを考えながら読んでおります。配本は17日です。お手に届くまで、いましばらくお待ちください。

年末年始に読書はできる?

書店営業の途次、津村記久子さんの新刊が出ているのに気づきました。

ポースケ』です。また、なんとけったいな書名でしょうか。

穂村弘さんも新刊が出ていたんですね。

いじわるな天使』、文庫です。

どちらもこの年末年始の読書用に買い求めたいところですが、いまのわが家には妹家族が来ていて、それだけならよいのですが、なにせ小さい子供がいますので、とても読書どころではありません。うーん、悩ましい。

あと、皆川さんも新刊が出ていましたね。

影を買う店』です。皆川さんと言えば『アルモニカ・ディアボリカ』も買いたいのですが、『開かせていただき光栄です』をまだ読んでいないので、これは二冊同時購入がよさそうですね。

 

そんなことより(と言っては失礼ですが)、全5巻の「アヴィニョン」も着々と進んでいるのですね。第3巻、『アヴィニョン五重奏III コンスタンス』の刊行ではありませんか!

そんな中、最も興味を惹かれたのは実はこちら、『チベット文学の現在』でした。

ああ、読みたい本がたまっていく……