価値観が同じ人

よく「結婚相手に求める条件は?」といった質問に、「価値観が同じ人」と答える人がいます。表現は異なるものの、ほぼ同趣旨のことを答える人は多いようですし、第一条件として上げなくとも、「そうであるのに越したことはない」と思う人はほとんどではないでしょうか。

ここまで重く表現しなくても、あるものを見たり聞いたりしたときに、自分と同じような感想を持つ人は好ましいと思うものです。さらに言えば、「ウマが合う」ということでしょうか。「なんか一緒にいてしっくりくる」とか、「そうそうと共感するところが多い」なんていうのも同じようなことだと思います。

が、あたしの場合、男女を問わず、そういう人に巡り会ったことがありません。

多少仲良くなったとしても、「あっ、やっぱりこの人とは合わないな」と思うことがしばしばで、それはたぶん、あたしの方が他人に対して壁を作ってしまっているからだろうとはわかっているものの、いつの間にかできていた壁、自分では意識して作った覚えのない壁なので、その壁の越え方、壊し方もわかりません。

そんな中、こんな人に巡り会いました。「ごんさん」です。

「ごんさん」は高校生の女の子で、世界史の授業で涙を流しそうになるくらい歴史上の人物に思いを寄せ、ほとんど号泣しそうになるという。あたしは、号泣まではしないものの、この感覚はよーく理解できます。そして教師の授業はつまらないので、勝手に世界史の図説のページをパラパラとめくり、次のような感想を漏らすのです。

 

 横長の判型の図説には、右のページに世界地図があって、その時代時代の勢力図が色分けされている。地図の左のほうではローマ帝国が広がり、めくっていくと真ん中のトルコがどんどん大きくなり、そうこうするうちに右のほうでモンゴル帝国が想像を超えた範囲に勢力を伸ばす。
 こんなに広いところまで! こんなに遠いところまで!
 今のわたしたちが車を使っても何日もかかるような距離を、彼らは馬で走って行く。そう思い浮かべるだけで、いても立ってもいられない気持ちになる。

 

この感想。あたしがずっと思っている気持ちと全く同じです。特にモンゴル帝国の拡張については、あたしも学生時代からクラスメートや周囲の人に、モンゴル高原から馬だけで、ヨーロッパまで駆けていったんだよ、としょっちゅう言っていた時期がありまして、まさしく「ごんさん」と同じ感想を抱いていたのです。

そりゃ、厳密に言えば、同じ人間がモンゴル高原からヨーロッパまで馬で駆けていったわけではありません。しかし、「あっちの部族が服従しなかったから」「この前の闘いに非協力的だったから」といった程度の理由で、「よし、そっちがその気なら目にもの見せてやる」式にドンドン西へと進んでヨーロッパまで行ってしまうなんて、なんていう連中なのでしょう。それこそ体中の血液が沸騰しそうな気さえします。

はい、「ごんさん」は実在の人物ではありません。そんなに親しい女子高生など、あたしにはおりません。「ごんさん」は、柴崎友香さんの小説『星よりひそかに』の登場人物の一人です。上掲の引用は、その79ページに出てきます。

それでも、あたしはこの部分を読んだときにものすごい衝撃を受けました。こんなにあたしと同じようなことを考えている人がいる、と。

しかし、冷静になって考えると、これは小説の中の人物です。ですから、この人物のつぶやきや気持ちは、すべて作者である柴崎さんが作り出したものです。ということは、柴崎さんもこういう感覚をお持ちなのでしょうか?

いやいや、作家というものはいろいろな人を取材して作品を創り上げるわけで、必ずしも作者自身が投影されているとは限らないでしょう。この「ごんちゃん」のキャラクターも柴崎さんが作品の構想を練る中で創り上げていった人物です。

とはいえ、モンゴル帝国について、馬であんなところまで行った、という登場人物の考えを柴崎さんはどこから作り出したのでしょうか? あたしは柴崎さんには何度かお目にかかったことがありますが、こういう話題で話をした記憶はありませんので、柴崎さんが別の誰かから仕入れたものでしょう。もちろん、モンゴル帝国に対してこういう感想を持つ人は、それこそごまんといるのでしょうけど。

ところで、この「ごんさん」ってどんな感じの子なのでしょう?

本を選ぶ? 選べない?

午前中にちょっと買い物がてら、本屋さんへ行きました。妹のところの子供がこの春、小学生と幼稚園児になる(なった?)ので「何か本でも買ってあげるか」と思ったからです。

いや、思うことは少し前から思っていて、具体的にどんなものがよいか、本屋さんで実物を見てこようと思ったわけです。

自分の読みたい本を選ぶなら簡単ですが、他人に、それも幼い子供に買ってあげる本を選ぶのは簡単ではありませんね。あたしとしては、まずは漢字辞典、国語辞典あたりにしよう、という心づもりだったのですが、これも小学館、三省堂、旺文社、ベネッセ、学研などなど何社からも出ていて、どれがよいのか皆目見当が付きません。これが自分が買う漢和辞典であれば、とりあえず全部買おうという気にもなるのですが、まさかそういうわけにもいきません。とりあえず「版が一番新しいのがいいかな?」などと思いつつ、いくつか手に取って見てました。

出版社によっては子供が好きそうなキャラクターをあしらったものがありますが、せいぜいが函と表紙に使っているだけで、本文は通常版とまるっきり変わりませんので、これにどういう意味があるのか、大人目線では疑問です。でもちょうど売り場で作業をしていた書店員さんと話をしていたら、たとえそんなイラストでもそこに子供が興味を示して日常的に本を手に取ってくれるようになるのであれば大いに効果があると思えるようになってきました。そうです。本は手に取ってもらえなければ何の意味もありません。親戚の大人が子供に本を贈ってやったという自己満足でしかなかったら意味がないですから。

そんなアドバイスを受けつつ、次に感じたのは通常版と卓上版です。いくつかの出版社は国語辞典でも通常版と卓上版の二種類を用意していました。卓上版の方が一回りか二回り大きく、文字も当然大きくなっています。「これは見やすい!」と感じるのは老眼のある初老の人だけで、子供にとってはどちらがよいのだろうと思いました。これが高学年ならともかく、まだまだピカピカの小学一年生です。大きな辞典は扱うのに苦労するのではないでしょうか? そんな気もします。ちなみに、妹のところの姪っ子は幼稚園の卒園時に卒園祝いとして国語辞典をもらってきています。いま書いた卓上版の方です。ならば、これとセットの漢字辞典を買ってあげればよいかなとも思いますが、それがどれなのか、すぐにはわからず、またこれだけ辞典が並んでいると、「あれ、妹に見せてもらった卒園祝いの国語辞典はどれだったかな?」とわからなくなってきてしまいました。

続いて購入候補として考えているのは図鑑です。見て楽しめる図鑑は、国語辞典や漢字辞典以上に、子供も楽しんでくれるのではないでしょうか? ちょっとした世の中の疑問に答えてくれるような図鑑から、乗り物、動植物など、いろいろありますね。経済的に余裕があるのであれば、そういうものを全部揃えて買ってあげたくなりますが、ここは心を鬼にして(?)、なにかこれというものを一冊買ってあげようと考えているのですが、これもちょっと目移りしてしまいます。

先程、国語辞典の卓上版は重くて大きくて子供には扱いづらいのではと書きましたが、それを言ったら図鑑はそれこそ卓上版よりもっと大きくて重いですよね。もちろんポケット版のみに辞典もありますが、図版が命の図鑑でミニを選択するなんてありえません。ただ、図鑑って、物によってはかなり高いものもあります。「へえー、こんなにするんだ」というのが偽らざる感想です。

で、結局、何を買ったのと聞かれそうですが、実は買っていません。本日はとりあえずどんなものがあるか見ただけです。特に図鑑は、妹に、姪っ子たちが何に興味を持っているかを確認してからにしようかな、と思います。乗り物が好きなら乗り物図鑑、動物が好きなら動物図鑑、とまあ、そんなことを考えています。

あとは、どこで買うかも問題です。

妹一家は静岡に住んでいるので、たまに来たり、こちらから行ったりすることはありますが、そうそう頻繁に逢うわけではありません。本屋で買って持ち帰り、自分で荷造りして発送するのでしょうか? だったらアマゾンなどのネット書店で購入し、受取人を妹にしておけば発送の手間がかかりません。特に最近のネット書店は送料無料がほとんどですから、発送の手間も費用もかからずに済みます。

おい! それじゃあ、せっかく相談に乗ってくれて、アドバイスまでしてくれた書店員さんの気持ちはどうなるんだ! と責められそうですが、確かにそうなんですよね。ネット書店は本選びのアドバイスをしてくれるわけではありませんし、相談に乗ってくれるわけでもありません。読者レビューがありますが、あれはリアル本屋で言えば、棚の前で「この本面白かったよ」と友達同士で話している他のお客の声、くらいのものでしかありません。あてにもなれば、ならないときもある、その程度のものでしょう。

もし姪っ子と一緒に本屋に行ったのであれば、その場で子供が気に入った本を買ってあげるということもできますし、するでしょうけど、自分一人で選んでいると、どうしてもその後のことまで考えてしまって……

それにしても、妹の家にはほとんど本がありません。今の時代、リビングに文学全集や百科事典が並んでいる必要はないでしょうが、やはり小さい頃から本と触れあえる環境を用意してあげるというのも親として大事なことなのではないかと勝手に思っているあたしです。ちなみにわが家は学生時代からの流れで数千冊、もしかしたら万に届く本が所狭しと並んでいるので、姪っ子、甥っ子たちはわが家に来ると家に本があるというのはどういうことか身を以て体験できるわけですが。

勝手に「おふらんす強化月間」やらなくちゃ?

文庫クセジュの『十九世紀フランス哲学』読了です。

何で読み始めたかというと、あくまで個人的な興味です。別にこの時代に詳しいわけではありません。いえいえ、フランス哲学について詳しいわけではありません。むしろ何も知らないと言った方がよいくらいです。だから、逆に読んでみたくなりました。なにせ、十九世紀のフランスと言えば、文学・芸術の世界は綺羅星の如く大スターがたくさんいます。それに比べると哲学の分野ではこれといって見るべきものが見当たらない、というのが通説。

確かにこのあたりの西洋哲学を思い出してみると、18世紀以来、カント、ヘーゲルなどドイツ哲学が主流で、さらにマルクスやニーチェ、ショーペンハウアーなど、どれもフランスではありませんよね。この本を読む前に少し年表を繰ってみたのですが、コント、トクヴィル、それくらいしか有名どころはいない、いや、これですら一般的な西洋哲学史の中では扱われていないかもしれない当落線上の人物でしょう。

でも、十九世紀のフランスの歴史を年表で見てみると、大革命を受け、帝政や共和政、王政がめまぐるしく入れ替わります。こんな歴史を前にして、人々が何も考えないわけはないんです。革命は成功だったのか、革命がもたらしたものは何だったのか、といった問いかけが当時のフランス知識人の中には必ずあったはずです。ですから、当時のフランスの思想界が面白くないわけがない、そう思って読み始めました。

結論から言いますと、予備知識のないあたしには、かなりハードルの高い本でした。でも、この時代(大革命から第一次大戦まで)のフランスの思想界を引っ張った人物は一通り網羅されていると思いますし、特にどちらかに偏った記述になっていると言うことはなく、至極平明に、そして構成に記述されているのではないかと思います(←基礎的な知識もないくせに偉そうに言うな?)。文献や思想の核心などもうまく本文の中に取り上げられていて、ここに書かれていることくらいを押さえておけば、十九世紀のフランスの思想界についてはもう十分ではないでしょうか? ただ、あえて本書の書名と異なって、あたしが思想というのは、読後感としても、これらを哲学と呼ぶよりは思想と呼ぶ方がふさわしいのではないかと感じたからです。「十九世紀フランス思想入門」とした方が内容をよく表わしているのではないかと感じます。

それにしても、今回読み終わって改めて気づかされたのは、ドイツはプロテスタントの国、フランスはカトリックの国だという違いです。案外、歴史とか文学とか、もちろん思想でも、こういうベースになる部分の際というのを押さえておかないと、肝心なところで読み誤るのではないかという気がしました。わが恩師が、中国人は出身地に注目せよと教えてくれたことが思い出されます。表立ってで来ないけれど、厳然としてある立ち位置の違いとでも言うのでしょうか、そんな感じです。

あと、実はあたしの勤務先で既に品切れとなっているのですが、本書を読んだなら、同じく文庫クセジュの『フランスにおける脱宗教性の歴史』を読まないといけないと気づかされました。本書の中にもライシテ、政教分離という言葉が何回も出てきます。当時のフランス思想界の一つの重要なポイントだったのでしょう。

それにしても、フランス史の大きな流れ、主要な人名、作品名、きちんと勉強しないとなりませんね。少し前に岩波新書の『フランス史10講』を読んで、自分のフランスに関する知識の不足を嘆いたばかりですが、これは本格的にフランス史を勉強しないとならないようです。一人で勝手に「おふらんす強化月間」をやるとしますか!

さて、最後にこの『十九世紀フランス哲学』について注文を付けるとすれば、もう少し実際の政治の動きや歴史の流れと、各人の思想を結びつけた記述が欲しかったです。それぞれの思想の説明もなかなか消化できなかったのですが、それらがどうしてこの歴史的背景の中で出てきたのか、どういう政治状況の中から生まれてきたのか、そのあたりの説明がほとんどなされていないので不満が残ります。

あたしが専門だった中国思想では、一部例外もありますが、基本的に思想は政治思想であり、経世済民ですので、認識がどうの、神がどうのといった七面倒くさい議論に入ることはあまりなかったので……(汗)

いつになく冗舌?

現代の作家たちは、ペル・ジムフェレールが指摘したように、もはや社会的地位というものを叩きのめそうとするお坊っちゃんではないし、ましてや社会不適合者の群れですらなく、むしろ社会的地位のエベレストに登ろうとする、社会的地位に飢えた中流階級や労働者階級出身の人々のことだ。マドリード生まれの金髪やブルネットの子供たち、人生を中の上で終えたいと願っている、中の下の人々。彼らは社会的地位を拒まない。必死になってそれを求める。それを得るためには大量の汗をかかなければならない。本にサインする、微笑む、見知らぬ土地を旅する、微笑む、ワイドショーで道化を演じる、大いに微笑む、お世話になっている人には絶対に歯向かわない、ブックフェアに出席する、どんな間抜けな質問にも愛想よく答える、最悪の状況でも微笑む、賢そうな顔をする、人口の増加を抑制する、いつもお礼を言う。(P.155、「クトゥルフ神話」より)

 

出版社の特権、刊行前の新刊を手に入れることができる! ということを別に自慢したいわけではありませんが、最新刊『鼻持ちならないガウチョ』、読了しました。

 

今回も、先の『売女の人殺し』同様、短編集ではありますが、かなり感じが異なります。『売女』はボラーニョ自身とおぼしき主人公が登場する作品も含まれていて、小説というよりは自伝といった趣を濃厚に感じさせる作品集でありましたが(ただし、あたしはそういう自伝的な作品よりも、純粋にフィクションの作品の方が面白く読めましたが)、今回は最後の二篇が講演原稿であり、その他の作品も、それほど濃厚に自伝的な感じを漂わせているわけではありませんでした。むしろ、もう少し大きく広く、ボラーニョが生きたチリ、そして南米の社会を描いているような作品集と言ったらよいのかな、と思いました。(そういう意味では「ジム」は『売女』に収録されていても違和感がないような気がします。)

秀逸なのは、やはり表題作である「鼻持ちならないガウチョ」、そして「鼠警察」の二篇です。「ガウチョ」は解説などを読めばわかるように「ドン・キホーテ」を彷彿とさせる滑稽さなのでしょうが、「ドン・キホーテ」を読んでいなくても、知らなくても主人公の滑稽さ、田舎暮らしをすることになった都会人のズレ、何とも言えない淋しさをたたえた笑いがこぼれます。

「鼠警察」はカフカの作品へのオマージュと言うことですが、こちらもそれを知らなくとも何の問題もなく読めます(現にあたしがそうです)。むしろ『2666』を読んだ人には、ネズミの世界を借りた「2666」なのではないかとすら思えるのではないでしょうか? あちこちでネズミが無残にも殺される凄惨なシーンの連続にもかかわらず、どこかユーモラスに感じるのは、読みながら頭の中で小太りなネズミの姿を思い浮かべながら読んでいたからでしょうか? このネズミ連続殺人事件(いや、殺鼠事件)も「2666」同様、犯人とおぼしきネズミが捕まりますが、これまた「2666」同様、すべての殺人の犯人(いや、殺鼠の犯鼠)がそのネズミ一匹ではないのでしょう。そして、逮捕後も殺戮は続くのだと思われます。

最後の講演の部分に至るまで、あたしは『2666』と『売女の人殺し』しか読んだことはないのですが、今回のボラーニョはとても冗舌に感じました。もちろん過日、セルバンテス文化センターでのイベントで、ボラーニョ生前のドキュメンタリーを見て、決して寡黙な人ではないという印象は持っていましたが、今回の作品集ではさらにボラーニョの声が聞こえる気がしました。

  

これだけの大長編を書いているボラーニョですから、体の中から言葉があふれ出してくるのだとは思うのですが、これまでの作品では決して冗舌であるという印象は受けませんでした。しかし、今回の作品ではボラーニョがやけにおしゃべりになった、そういう印象を受けました。これは、今後の<ボラーニョ・コレクション>も楽しみですし、まだ未読の『野生の探偵たち』を読むのがますます愉しみになりました。

人体のもっとも強い筋肉は舌である

 英語が話される国がある。でもそこでは、わたしたちみたいには英語を話さない。わたしたちは母語を、旅行の手荷物のなか、化粧ポーチに隠して、外国で、他人に向かって英語を話す。想像しにくいことだけれど、彼らにとっては英語が母語だ。しかもそれが唯一のことばであることもしばしば。このことについて、彼らはみじんの疑念も抱かない。
 この世界で、彼らは困惑しているにちがいない。だって世界のどんな説明書も、どんなくだらない曲の歌詞も、レストランのメニューも、仕事上の連絡も、エレベーターの昇降ボタンさえ、彼らの母語で記されているのだから。彼らがなにを話しているのか、どんなときでも、みんなにわかる。私的なメモには、特別な暗号が必要かもしれない。彼らがどこにいようとも、みなが彼らに無制限にアクセスできる。だれもが、なにもかもが。
 英語話者を守るため、あるプロジェクトがすでに進行中だと聞いた。話者の死に絶えた、もうだれにも必要とされていないちいさな言語のひとつの使用を、彼らに認めるという計画だ。英語話者も、自分たちだけのものが持てるように。

『逃亡派』より。

世界の同志よ、ペンを執れ!

昨日に引き続き、『逃亡派』から。

 

 ヤスミンは感じのよいイスラム教徒だ。かつてふたりで、夜どおしおしゃべりした。彼女はわたしにあるプロジェクトについて語った。それは、自分の国の国民がみな本を書くようしむけること。彼女は言った。本を書くのに必要なのは、仕事のあとの、ほんのすこしの自由な時間。パソコンさえ、かならずしもいらない。勇気を出してやってみる価値はある。ベストセラーも夢じゃない。そうなれば、社会的にひろく知られて、書いた努力も報われる。ヤスミンは、これは貧しさから抜けだすもっともよい方法だと言った。そして、ただしみんながおたがいの本を読みあえばの話だけど、とため息をついた。
 読書を、親しいひとに対する兄弟姉妹の義務とするなんて、わたしはすごく気に入った。(P.74)

 

なんか、とっても面白そう! あたしもペンを執ろうかしら?

どこにでもいる、どこにもいない

このところは毎晩寝る前に、エクス・リブリスの新刊『逃亡派』を読んでいます。

なんとも一言では言い表わせない作品です。基本は短編集なのですが、それぞれの話が繋がっているような、いないような、いきなりテイストの異なる作品に変わったり……。前作『昼の家、夜の家』を読んでいないので、これが著者の持ち味なのか否か、なんとも判断できません。

 

が、そんな中、とても光る文章が散見されますので、まだ読み終わってはいませんが、ご紹介いたします。

 

彼女はわたしに時間についての講義を始めた。彼女が言うには、定住し農耕する民族は、循環する時間を好む。そこではあらゆる事象が、かならず初めに戻る。胚にかえる。そして、成熟と死のおなじプロセスをくりかえす。いっぽう、移動を常とする遊牧民や商人たちは、自分たちのため、旅にもっとふさわしい、べつの時間を考えなくてはならなかった。それが線的時間で、こっちのほうがずっと便利だ。なぜならこれは、目的までの達成度や、成長の割合をはかるから。一秒はそれぞれちがう一秒であって、けっしてくりかえされたりしない。つまり、リスクだって、精一杯生きる望みだって、ほんの一秒も無駄にしないで、それを受けとめる。でもじっさいのところ、これはつらい発見だ。推移した時間がもとに戻らないとすれば、喪失と哀悼は日常になる。だから、こういう人びとの口からは、「むなしい」とか「尽きた」とか、その種のことばは聞かれない。(P.53、「どこにでもいる、どこにもいない」より)

 

なかなか考えさせる文章です。哲学的とも言えるのではないでしょうか?

これにつづく「空港」という作品もなかなか面白いです。そして61頁からの「臆病者の列車」はとっても不思議な作品です。そんな列車、ちょっと乗ってみたくなります。

何が欲しい?

私の欲しいものリスト』読了。本国では映画も公開されているとか。大人の苦い味わいの作品になっているのではないでしょうか?

ネタバレ的に書いてしまいますと、主人公は40代後半のごくごく平凡な主婦です。若い頃から手伝っていた手芸店をそのまま引き継ぎ、その傍ら、自分の手芸作品などをブログに書いていたら、それが多くの女性の支持を集める人気サイトになっていて、雑誌の取材を受けるようになります。そんな彼女が近所の友達に勧められるまま宝くじを買ったところ、それが高額賞金を当ててしまいます。

さて、このお金をどうするか。夫にも打ち明けず、一人悶々と悩む主人公。ノートに自分の欲しいものややりたいことを書き出します。それらすべて、このお金があればかなうわけですが、主人公は逡巡します。当選金額が描かれた小切手をクローゼットの中に隠し、何事もなかったように日々を過ごし、時々小切手を取り出してはため息をつく。そんなある日、夫が仕事の研修と称して出張に出かけますが、その留守中、小切手がなくなっていることに気づきます。夫が持ち出したことは明らか。出張先に連絡を入れるも、そのような人は来ていない、そもそも研修などやっていないと言われてしまいます。

で、ここまではフランスだろうと日本だろうとありがちなストーリーです。夫は小切手を持ち出したはよいが、贅沢なことをしてみても心の空虚がますます広がるばかり。そして妻に対する裏切り行為の代償が重くのしかかってきます。妻も平凡で幸せだった生活が崩壊し、手芸店を譲渡し旅に出ます。たぶん、日本の小説であれば、子供を鎹に夫婦をもう一度お互いを認め許し合い、温かな家庭を取り戻すという結末が予想されますが、そこはフランス小説です。そうはなりません。

夫は酒浸りとなり、妻への罪の意識にさいなまれつつ、ぼろ雑巾のようになって寂しい最期を迎えます。妻は旅先で知り合った男性と新しい恋を始め、これからの生活を考えます。なんとたくましい女性でしょう、と思わされます。日本だったらこうはならないな、と思います。それにこの夫婦の危機に二人の子供はまるっきり役割を演じることなく終わります。「子は鎹」というのは日本だけのものなのでしょうか?

こういう終わり方が幸せなのかどうか、日本人であるあたしには断言できません。あたしのように感じる日本人は多いのではないかと思います。ただ、こういう生き方もあるのか、というふうに納得できるところも多々ありますし、お金で幸せは買えるのか、手に入れられるのかという命題は日本もフランスも変わらない気がします。

そして、そういうことよりも、こういう結末に行き着くというのがフランス小説としては普通なのだとしたら、このようなフランス人的人生を知ることができるという意味で、この小説を読む愉しみ、異文化を知るという意味での海外小説の味わい方が堪能できる作品ではないでしょうか?

LOVE LETTER

もうじき読み終わる『危険な関係』には歯の浮くような台詞が満載です。ただ、ヴァルモンの言葉には心がなく、白々しいものを感じますが、ダンスニーの言葉は本当に読んでいるこちらが身悶えしてしまうようなものが多々あります。そんな中から一つ。

お目にかかれる幸福なときを待ちわびながら、このお手紙をつづる楽しさに浸りきっています。あなたのことを考えて、あなたから遠く離れている悲しみを和らげているのです。あなたに僕の気持ちを書き記し、あなたの気持ちを思い返してみるのは、この心にとって真の喜びなのです。そしてそのおかげで、こんな会えない時間でさえもが僕の恋に対し、無数の貴重な宝物を与えてくれるのです。(第百五十の手紙)

思い出します。

「会えない時間が、愛、育てるのさ。目をつぶれば、君がいる」とは郷ひろみ「よろしく哀愁」の歌詞の一節ですが、これは永遠の真実なのですね。

誤植でしょ?

柴田元幸さん編集の雑誌「MONKEY Vol.2」に、翻訳家・岸本佐知子さんのエッセイが載っています。今回のテーマは上海。かつて友人と上海を訪れたときの想い出が語られています。

上海と聞いては読まずにはいられませんので、店頭で立ち読み!(←買えよ!)

ただ、ちょっと気になった点が二つ。

まずは「友誼商店」。

かつての中国は外国人用の紙幣と中国人用の紙幣というのがあって、額面は同じで買い物をするときも同じ値段で使われるのですが、闇市場ではその価値にかなりの差が開いているという時代がありました。まだまだ自由な外国人旅行者が少なかった時代、外国人は外国人向けの商店、デパートで買い物をするというのが通り相場で、それがこの「友誼商店」でした。確かに、中国人向けの商店の粗悪でみすぼらしい商品に比べ、それなりの商品が揃っていた記憶があります。当時、北京では大使館街に、上海では南京路からちょっと入ったところに位置していました。

で、岸本さんのエッセイにも上海の友誼商店へいった話が出てくるのですが、「誼」の字が「さんずい」に「宜」という、いかにもパソコンで作字したようなおかしな形の漢字が使われていました。きっと岸本さんの手書きのメモか、当時撮った写真の文字を再現したのでしょう。でもこれ間違っています。「さんずい」に見えたのは中国語簡体字の「ごんべん」です。実際の文字は「谊」という形だったはずです。中国語を習ったことのない日本人が「ごんべん」の簡体字を「さんずい」と見間違えるのはよくあることです。

次にパンダのこと。

「パンダ」でもなく「大熊猫」でもなく「シェンマオ」だったと書いてありますが、「シェンマオ」とは「熊猫」の部分の中国語発音です。もう少し正確に(?)カタカナ表記するとすれば「シオンマオ」でしょうが、「シェンマオ」でも構いません。いずれのせよパンダのことです。ですから、パンダのことで間違いないのです。あえて「大熊猫」と言いたければ「ターシェンマオ」です。

それにしても、岸本さんのエッセイに出てくる上海、いまの上海とはまるっきり異なる、あたしの感覚としては「古き良き」が残っていた最後の時期ではなかったかと思います。この当時、いまで言う「浦東」地区へ渡っても何もなかったはずです。岸本さんは黄浦江遊覧フェアリーに載ったようですが、あたしは黄浦江を渡る渡し船に乗ったことがあります。上海には明治以来多くの日本人が渡っていますが、たいていは日本から船で渡航し、この上海のバンドにたどり着いたと思われます。(大型船の場合、もう少し河口に近いところに停泊したこともあったようですが……) そんな当時の日本時の大陸雄飛のロマンを感じるには黄浦江の上からバンドを眺めるに限ります。あの街並みはなんとも言えないものです。