所詮、いい人で終わる?

狐さんの恋結び』読了。過日読んだ『恋都の狐さん』の続編です。

 

個人的には前作で恋を成就させたとおぼしき狐さんが、その後失恋し今作では新たな恋が生まれるという話ですが……

なんか、うまく行きすぎている感があるのは恋愛小説だから仕方のないことでしょうか? それに、今作の場合、果たしてこれは恋と言えるのでしょうか? ヒロインの女の子はまだ恋なのかどうか、自分の気持ちがわかっていない感じです。とりあえずは「いい人」とは思ってくれているようですし、二人で出かけたり、食事をしたりといったことには付き合ってくれます。

これをもって恋人と言えるのか、付き合っていると言えるのか、恋愛未経験者のあたしには判断つきかねます。一緒に(二人だけで)遊びに行ったり食事に行ったりする男友達なってたくさんいるよ、という猛女も世の中にはたくさんいるでしょうから、そういう女性から見たら本作のヒロイン春菜のやっていることはオママゴトにしか見えないのではないでしょうか?

仮に二人が付き合ったとしても、よい家柄のお嬢様と、無職で30手前の男性が釣り合うとは思えません。いずれ反対されるのは目に見えていますし、そんなとき狐さんが蛮勇をふるって彼女と二人駆け落ちをするとか、定職に就くとか、そういった成りゆきは想像できません。

やっぱり、いい人で終わってしまうタイプなのではないでしょうか? とはいえ、無職の引きこもりなのに、こうやって出会いがあるなんてズルいと感じます。

性格が悪いのはどっち?

宮木あや子『砂子のなかより青き草』読了。

今回は平安もの。清少納言と中宮定子の物語です。事実というか、史実についてはかなり脚色が入っていると思われますので、それを云々しても仕方ないでしょう。あくまで小説ですから。

ただ、個人的には善玉・清少納言、悪玉・紫式部という構図がしっくりこなかったです。歴史の授業で知る範囲では、性格が悪いのは清少納言の方であり、いわゆる知識をひけらかす高慢ちきな女というイメージで、紫式部の方がまだ性格はよかったと言われています。これが正しいのかどうか、それこそ先入観なのかもしれませんが……。

そういう意味では、本書は定子と少納言の友情というか絆を軸にしていて、才気煥発な清少納言というイメージは結びにくいです。むしろ、本来ならこの時期にはまだ出仕していないはずの紫式部の方が策士然としていて違和感を感じます。

本作では、宮木さんの特徴(とあたしが勝手に思っている)である切なさはやや抑え気味で、切なさをもっと強調するのであれば、道長の権力掌握過程をグロテスクに描写し、そんな男性社会の前で当時の女性にはなすすべもなく、抗うこともできず、ただただ堪え忍ぶしかなかった、という感じにした方がよりいっそう効果的だったのではないかと思います。また一条天皇と定子との愛情などももっと描かれてもよかったかなあ、と思いました。

それにしても、今年は秋に三谷幸喜が清少納言と紫式部を主人公にした舞台を演出しますが、本作を中心に据えつつ舞台がかかる時期に、「女のバトル」という視点でもよいし、「平安朝の女性たち」という視点でもよいし、「宮中の女性」という視点でもよいし、何か書店でフェアがやれそうな気がしますね。

積み重ねと言われても……

ちくま新書『男子の貞操』を読んでいます。

サブタイトルに「僕らの性は、僕らが語る」とありますが、性生活に至るまでに、まずは会社とか学校とか地域社会と言った、社会的ネットワークに属し、そこでしっかりとした関係性を構築することが最初の一歩と書かれています。「絆」という言い方もしていますが、他人とそういう関係を築けることが、異性と同じような信頼関係を築く基礎であり、そこから積み重ねて初めて性生活に達することができるのだと書かれています。

 

そもそも、なぜ性風俗に通う男性が、素人性や処女性、店外デートといった、「サービスだと感じられないようなサービス」という矛盾したことを求めてやまないのかというと、その背景には、プライベートでの人間関係の貧しさがあります。人間関係を築く動機もスキルもなく、家庭や地域、学校や職場といった社会的ネットワークの中で孤立しているがゆえに、人間関係をお金で売り買いするしかない。彼らもまた、「分かりにくい弱者」です。(同書P.183)

 

現状では、そもそも「お金で売り買いする」ほどのお金も持っていないので、悶々と過ごすしかないわけですが(汗)、あたしとして知りたいのは、どうやったら「人間関係を築けるのか」ということです。本書でも、自分本位ではなく相手目線に立って、と言ったことが書かれています。「人から好かれるノウハウ」本、「他人に嫌われないためのノウハウ」本にも似たようなことが書いてあります。でも、その具体的な方法って何なのでしょう?

相手目線って、どうやったらわかるのでしょう? 相手の気持ちになって、というのもどうやったらなれるのでしょう?

あたしみたいに子供のころからクラスの中で、どちらかというと嫌われてきた人間にはわかりません。他人と比べて取り立てて嫌なことをしていたとは思えません。嫌われるようなことを意識的にしていたわけでもありません。あたしはごくごく普通に振る舞ってきたつもりです。

それでも好かれない、むしろ嫌われる。

存在していること、それ自体が他人に嫌悪感を催させるのでしょうか? 何をしても、他人に嫌な思いを与えしまうのでしょうか?

そんな風に生きてきた身としては、どうしたらよいのかわかりません。

相手との信頼関係? そんなの夢のまた夢です。

 

不安でたまらない

きょうは会社休みます。』の第6巻を読み終わりました。今回は大きな問題が起きるわけでもなく、波瀾万丈のない、凪のような巻でした。でも、花笑的には、33歳、そろそろ結婚や出産のことも考えるし、会社からは一生働くつもりなら総合職へと言われるし、それなりに静かではあるものの切実な問題が次々に飛び込んできた巻です。

で、大きな事件の起こらない本巻の最後、なんとなく悩んでいてウジウジしていた花笑が、田之倉くんがデートした後、ドイツビア・ワインフェアに立ち寄り食事をしようということになったシーン。会場はそれなりの賑わいで、悩んでいた花笑は気づくと田之倉くんとはぐれてしまい、ケータイも充電切れで繋がらず、極度の不安に襲われます。「一緒にいられるだけでいい」「このまま会えなくなったらどうしよう」と不安が高まった刹那、田之倉くんが花枝を探し出してくれます。

そしてポロポロと涙が止まらなくなる花笑が、上のカットです。言葉も出ずに泣きじゃくる花笑を田之倉くんはこの後抱きしめます。そして自分が心から愛する人がいることの幸せをかみしめる花笑。そして第6巻は終わります。

うーん、いいですね。キュンキュンします。

ちなみに、田之倉くんの勧めで眼鏡を外し、髪もなんとなくウェーブをかけた花笑がずーっと続いていますが、まだ二人が付き合う前、第1巻の前半では、ひっつめ髪にメガネといういでたちが花笑の定番スタイルでした。

まあ、こんな感じです。あたしは個人的にはこっちの花笑も好きだったりします。

なんて言うのでしょう。本当はかわいいんだけど、全然そんな風に装わない。もちろん、わざとダサくしているわけではなく、自分がカワイイとはまるで思っていない。そんなタイプの女の子が好きです。自分だけが見つけたカワイイ子、そんな女子が好みです。

プラハを旅する

プラハという地名はもちろん知っていますが、だからといって具体的な何かがすぐ思い浮かぶわけではありません。北京なら天安門、上海なら東方明珠といった具合に、中国ならそこそこ思いつくものですが、ヨーロッパに関しては行ったことがないので、せいぜいテレビなどで見る程度の知識に頼って、ロンドンやパリ、ローマなどなら思いつくものがある程度です。

ですから、くどいようですが、プラハと聞いて思い浮かぶ景色はありません。そんな状態で過日読んだ『ゴーレム』は非常に陰鬱な雰囲気で、いつもジメジメしているような、あまり太陽の出ない街のような印象を受けました。

実は、この『ゴーレム』と前後して読んだ河出書房新社の『もうひとつの街』もプラハが舞台で、非常に街の空気、雰囲気がそっくりでした。作品世界が似ていると言った方がよいのでしょうか?

そんなわけで、プラハというと「陰鬱」というイメージを抱いてしまっています。ちなみに、まだ読んではいないのですが、大ヒット作『HHhH(プラハ、1942年)』もプラハが舞台なのですよね?

こうして見ると、このところプラハが舞台の作品って多いのですね。プラハというとカフカでしょうけど、カフカも決して明るい、カラッとしたイメージのある作家ではありませんよね。やはりプラハってそういう街なのでしょうか?

 

図説 プラハ』や『プラハ迷宮の散歩道』などを手元に置きながら、上掲の小説を読むのも面白いでしょうね。

意外とかぶらないものですね

あたしはイヌ派です。ネコは憎んでいると言うほどではありませんが、それほど好きではありません。子供のころに飼っていたインコを、野良猫だったか飼い猫だったかわかりませんが、近所をうろつき回っていた猫に殺され(喰われはしなかったのですが……)、それ以来、好きではなくなりました。それ以前にもイヌ派だったということもありますが、この体験が決定的でした。

で、書店営業をしていると、書店には猫の本が多いことに築かされます。最近でこそオオカミの本がちょっとしたブームのようにたくさん出版されていますが、トータルではやはりネコにはかないません。イヌも多いのですが、やはりネコの方が断然多い気がします。書店員さんも猫好きの方、多いようですね。

書店員女子 → 一人暮らし → 寂しさを紛らわすため → 猫を飼う → アパートなので猫が飼えない → 本を見て癒される

という図式なのでしょうか?

それはともかく、文芸の棚でも、このところこういう本が目に付きます。

 

猫は神さまの贈り物<エッセイ編><エッセイ編>』『猫は神さまの贈り物<小説編><小説編>』の二冊です。姉妹編ですね。いずれもネコに関する作品を集めたものです。ネコ作品ってこんなにもたくさんあるのか、と思わずにはいられません。と思っていた矢先、さらにこんな本を見かけました。

猫好き有名人の最右翼と呼んでもよいかもしれない、中川翔子の『にゃんそろじー』です。こちらも、しょこたんが選りすぐったネコ作品の集成です。で、この三者、前二者はもちろん姉妹編なので収録作品に重複はありませんが、この前二者と後者とで収録作品を比べてみると、思いのほか重f句が少ないのですね。あたしも購入してきっちり見比べたわけではありませんから断言はできませんが、ネットで見る限りそのようです。複数の人が同じようなことを考えて本を編んでも収録作品がかぶらないとは、ネコ本って、本当にたくさんあるのですね。恐れ入ります。

お薦めするか否か

光文社古典新訳文庫の『赤い橋の殺人』読了。

なんでも訳者である日本人研究者が再発見した幻の作品なのだとか。オビなどの惹句もちょっと面白そうという感じがしましたし、フランス文学なので一応は読んでおくか、という気持ちで手に取りました。

内容は、貧乏な境遇から成り上がったクレマンが些細な会話から冷静さを失い、徐々に追い詰められて最後には過去の殺人事件を告白するというストーリーです。この小説の文学史における位置づけなどは訳者解説が詳しく書いていますので、あたしがここで述べるよりもそれを読んでいただいた方がよいでしょう。この作品に対するプラス評価はすべて訳者解説に譲りますので、ここではあたしなりの不満点をあえて述べてみたいと思います。

まず、クレマンの人物造型が理解しづらいです。無神論者でどうしようもない悪漢のように設定されていますが、そこまでの陰影が足りないです。なぜそういう人物になったのかという点も突っ込みが足りないと思います。ですので、パーティーの席でのある殺人事件の話を聞いて動揺するところも唐突すぎると言いますか、これだけの悪党であればあの程度の世間話でうろたえるというのはおかしいと感じてしまいます。

次に探偵役と、解説では書かれているマックスも決して探偵ではなく、単にクレマンの話を聞いているだけの存在です。なんかおかしいな、とは感じるものの謎解きを積極的にしようという姿勢が見られるかというと、決してそんな感じはなく、友人クレマンに悩みがあるなら聞いてあげよう、くらいの立ち位置に感じられます。そして誰からも嫌われるというかつてのクレマン(←ここも、なぜ嫌われるのか、嫌われるほどのイヤな奴だったのかの描写はほとんどありません)に対し、どうしてここまで友情を貫くのか、そのあたりの事情もマックスの人となりもわかりづらいです。

基本的にはかつて殺人事件を起こした男が、そのときに奪った金を元に成り上がり、それなりの名士となったが、事件の発覚を恐れ徐々に平静さを失っていく物語という流れの中で、みょに細々とした描写がなされているところもあれば(←このあたりは、個人的にはゾラの作品に似たものを感じました)、かなり端折ってしまっている部分もあり、登場人物それぞれをもっと丹念に描けば、この倍以上の長さの作品になったのではないかと思いますが、より面白く、謎に満ちつつも、犯人にも共感の出来る作品になったのでは、という気がします。

以上、かなり辛口、辛辣なことを書いてしまいましたが、それは褒め言葉は訳者みずからが巻末の解説で書いているので、それ以上褒めそやしても仕方がないと思ったため、そしてあまり褒めすぎて、この本を読んだ方が落胆してもいけないなあと思ったからです。

ただ、この作品は、上に書いたような、あたしなりに感じる欠点はあるものの、この時代を考えるとやむを得ないのかな、実験的な作品なのかな、という気がします。情景描写の詳しさだけを求めるのであれば先行作品も多々あるでしょうが、推理小説、謎解きの要素を盛り込むとなると、ようやくポーが登場したような時代ですから、まだまだ不十分なものであたとしても仕方ないのではないでしょうか?

そのような意味では、謎解きとしては極めて単純で短絡的な事件しか起こっていませんので本格的とはとても言えませんが、ヨーロッパの推理小説史の中に位置づけて読むべき作品なのだろうなあ、と思います。そして訳者解説によると、この作品は小説(書籍)としてではなく、当初は上演されて受容されていたとのこと。そう考えたとき、肝心なところだけをテンポよく取り出して話を進めていくこの作品は、確かに演劇向きの作品ではあるかな、という気もしました。

礼讃

本日見本出しの新刊『読書礼讃』はアルベルト・マングェルの著作です。

彼の書籍は既に白水社からは『図書館 愛書家の楽園』と『奇想の美術館』の二点を出していて、これが三点目になります。

 

また柏書房からは『読書の歴史』も出ています。

これらのタイトルからも、もっぱら本にまつわるあれやこれやを精力的に書いている方だということがわかります。

それはともかく、今回の新刊のタイトル、さすがに「らいさん」は読めますよね? 白水社には今回の本以外にも『個の礼讃』『日常礼讃』といった本があるので書店から注文の電話がかかってくることがあります。そういうときに「れいさん」と読む人がいらっしゃるのです。

 

これくらいルビが振っていなくても読めて当たり前の単語なのか、底まで求めるのは酷なのか、どうなのでしょう? 一般日本人にアンケートをしたら何割くらいの人がきちんと読めるのでしょうか? という思いもありますが、やはり書店員ならこれくらいは読めて欲しいという気持ちもあります。

「礼」を「らい」と読むのは中国古典をやっている人ならしばしば見かけるはずです。有名な『礼記』は「らいき」と読みますし、その他にも『周礼』は「しゅらい」、『儀礼』は「ぎれい」ではなく「ぎらい」と読み、この三つの古典を総称して「三礼=さんらい」と呼びます。『周礼』など「しゅうれい」ではなく、「しゅうらい」でもなく、「しゅらい」と読むわけですから、このあたりは専門家以外には読めなくても仕方ないところでしょう。ただ、中国古典をやっている人は、このような古典の名称を日常的に目にするので、「礼讃」を「らいさん」と読める確率が高いだろうなあとは思います。

ところで、この礼讃、いま「礼讃」と書きましたが、他社の本などでは「礼賛」という表記も散見されますね。「讃」なのか、「賛」なのか、ということです。これは通用する文字ですが、「讃」は常用漢字ではないのでしょうか? だから「讃」を避けて「賛」と書くようになったのではないでしょうか? 現代日本語ではどちらでもよいみたいですが、そうなると後は文字面、見た目の問題でしょうか? やはりなんか「ごんべん」が付いている方が格好良く見えるのはあたしだけでしょうか?

距離感が難しい

碧野圭書店ガール 3』読了。『書店ガール』『書店ガール 2』と読んできて第三作目です。

 

今回もジュンク堂とおぼしき書店チェーンが舞台ですが、主役の二人が一緒に活躍する機会は少ないです。かたや東京で育児と仕事との両立に悩み、かたや仙台で震災との関わり方に悩む、そんなシチュエーションです。ストーリー自体は、この手の作品の宿命として、あくまでも前向きに前向きに、頑張れば結果はついてくる、一生懸命さはきっと誰かが見ていてくれる、という応援メッセージ的なもので、これまでと変わりありません。

ただ、読んでいて、今回は三年たった東日本大震災のことが大きなテーマとして取り上げられていて、被災者との距離の取り方が難しいな、という気がしました。この作品に限らず、被災者を扱ったものにはしばしばこの難しさが感じられます。簡単に言ってしまうと、さほど被害を受けていない東京の人間は震災を忘れた方がよいのか、それとももっと東北の人に何かした方がよいのか、そんなこんな。

この作品に出てくる東北の人の声が、すべての声を代表しているとは思いませんが、こちらが何を思い、何を考えても「所詮、お前たち東京の人間にはわかりっこねえ」と言われているような気がします。そう言われてしまうと、こちらもわかるわけはないし、辛い体験なんてわかりたいとも思わない、と言い返したくなります。どう接すればよいのか、それともむしろ接しない方がよいのか、とりあえずは考えてみるしかないのか、そんな風に思います。

さて、もう一つのテーマは育児と仕事です。どうしても夫婦共働きだと女性にしわ寄せが行ってしまう日本社会。この作品でも子育てと主婦業と書店人としての葛藤が描かれています。出版社の編集がみんながみんな毎日のように深夜まで働いているというのは、いくらなんでも極端だと思いますが、ここに描かれている夫(出版社の編集)は、それでもまだマシな方なんでしょうか?

途中までは両立に悩み、本来の自分を見失っていた主人公も後半はしっかりと未来を見据え、本来の自分を取り戻し、自信を持って周りの人を巻き込んでいきます。この後半の周りの人を巻き込んでいく過程、パート3まで来たこのシリーズの醍醐味でもあるわけですが、実はあたしが一番苦手としていることはこれです。ここが読んでいて一番辛いです。やはり読んでいると、登場人物に自分を置き換えて読んでしまうのですが、このところが一番面倒で、うざったく感じます。もちろん大きなフェアとか、企画を遂行するのには周囲の協力は必要ですが、ここまでの熱意ってないですし、出せません。こんな巻き込み型の人が周囲にいたら、こちらが疲れてしまいそうで、たぶん自然と距離を取るようになるだろうな、と思います。

それにしても、この業界のもっとドン底を、そろそろこのシリーズでも描いてもよいのではないかと、そんな気がします。

もう死んでいるのかも?

先日、紀伊國屋書店で飴屋法水さんのトークイベントのゲスト朝吹真理子さんの『きことわ』を読みました。イベントの前後にちょこっとだけを言葉を交わす機会がありましたが、あたしなんかよりもはるかに落ち着いた感じが漂っていたのですが、あたしよりかなり年下なんですよね。しかし、本作を読むとその独特の言葉遣い、単語の選び方、やはりあたしよりずっと年上に感じられます。

さて『きことわ』ですが、特に何かがあるという作品ではありません。四半世紀も前、母親が管理人をしている物件(別荘)によく来ていたきこ(貴子)と遊んだ想い出を持つとわ(永遠子)。その別荘をきこの家が手放すことになり、解体も近いというので残っている家具などの整理に訪れ四半世紀ぶりに再会を果たします。そして荷造りをして別れる。ただそれだけの話です。

そのあいまに、きこもとわもそれぞれが記憶している想い出の情景がよみがえり、それが挟み込まれて描かれます。よい喩えになっているか不安ですが、誰かと面と向かって話しているのに、その話ながら頭の中では別のことを考えている、そんな感じです。そして、この作品ではその目の前にいる相手の会話を丹念に描きつつ、頭の中の情景も丹念に描いているのです。更には、そんな自分の周囲の様子、目に映るもの、そしてそこから連想されて心に浮かぶもの、そういったものが一つも漏らさず文字にされている、そんな作品です。

と、書いてしまうと簡単なようですが、実際に自分がそれを書いて見ろといわれれば、すぐにでもその難しさがわかるというもの。そして、朝吹さんの筆致のせいなのでしょう、この作品は推さなかった自分が未来を覗き見て(空想して)描いているのか、あるいは齢を重ねた現在の自分が子供のころを懐かしんで書いているのか、どちらが小説の中の「いま」の時間なのかあやふやです。

そして、読み終わった時に感じたのは、もしかして、二十五年後の別荘で再会したというのは嘘ではないのか。きこは既に亡くなっていて、とわが勝手にきこがそこにいるかのように夢想しているだけではないのか。あるいは逆に、とわが既に亡くなっていて、久しぶりに訪れた別荘できこが永遠との想い出に浸っているだけの話なのではないか。そんな気がしてきました。

たぶん、そう解釈してもよいのではないかと、そんな風に思います。