読書嫌いを作るには

光文社古典新訳文庫の『羊飼いの指輪』の「訳者あとがき」がなかなか興味深いです。

全体としては、《ファンタジー》を子供たちの教育に活用するというイタリアの取り組みを紹介しています。そういう活動は、日本とイタリアの風土や伝統、行政と学校と家庭との関わり合い方の違いなど、そのままでは日本に導入できない、導入しても失敗するだけという懸念もあるでしょうが、非常に興味深いですし、実験的にやってみる価値はあるのではないかと思われます。もちろん、既に似たような取り組みを実践している学校や地区はあるのかもしれませんが。

そんな「訳者あとがき」の中で、日本での取り組みとして訳者に批判されているのが「朝読」です。

「朝読」は、ご存じのとおり、子どもたちを読書好きにしようというもっともらしい名目を掲げ、二〇年ほど前から全国の学校にひろがった運動で、朝の決められた時間にみんなでいっせいに本を読む「読書タイム」を設けるというものだ。「朝読」を実施するに当たっての教師向けマニュアルに、こんな記述がある。「九時三五分に『朝の読書』を開始する。九時三五分のチャイムと同時に『読書を始めます』と、始まりを告げる。九時四五分に読書を終了し、本を閉じさせる。九時四五分のチャイムと同時に『朝の読書カードに今日の記録をしましょう』などと告げる……」。これでほんとうに読書好きになるのだろうかと疑問を抱かずにはいられない(ちなみにロダーリは、「子どもを読書嫌いにする九ヶ条」のなかで、学校で読書を強制すると、子どもたちに「本を読むことは、大人が命令し、大人の側からの権威の行使と結びついた、避けがたい苦痛の一つである」という教訓を与えるだけだと述べている[『幼児のためのお話のつくり方』作品社・窪田富男訳])。

訳者の関口さんは、なにか「朝読」に恨みでもあるのか、ずいぶんな言い方だと思います。確かに、「朝読」に対する批判、非難はわかります。かえって読書嫌いを作ることにならないか、という指摘は当初から言われていたはずです。でも、「朝読」の効用もかなりありますし、この活動によって本が好きになった、本を読むようになったという子供もたくさんいることを見落としていると思います。

また、上に引用されている「マニュアル」の現物は読んだことがありませんが、「朝読」のサイトにあるガイド的な文章では、そこまで高圧的、強制的なものとは感じません。むしろ、それよりも逸脱して、マンガとまではいかなくても、かなり砕けた本を読んでいる子供もいますし、ただ本を広げて文字を眺めているだけの子供もいて、読むことを強制している感じはありません。これらは数年間、ヤングアダルト出版会で何校もの朝読の実際を見学してきた者として間違いなく言えることです。また先生方から話を聞きますと、朝読をすると落ち着いて授業ができるようになる、全体の成績が上がったなどの声も聞いています。それに「朝読」は必須ではないので、各学校でかなり自由なやり方で取り組んでいるというのが、あたしの印象です。

そもそも学校で読書を強制と言いますが、学校というのは少なからずそういうところではないでしょうか。完全に生徒の自主性や自由に任せていたら、学校という公の場は成り立ちません。ある程度個人の自由を制限しても全体に会わせるということを学ばせる場が学校だとあたしは思います。体育の授業でサッカーをやったからといって全生徒をサッカー選手にしようとしているわけではないように、本を読ませるということも教育の一つの手段として、もう少し長い目で見るべきではないでしょうか。

あっ、もちろん訳者の関口さんが紹介しているイタリアの取り組みは非常に面白いと思うので、「朝読」と共にうまく日本にも取り込めたらよいなあと思います。「朝読」がうまく定着しなかった学校だってあるはずです。そういうところで、別な選択肢があるというのはよいことだとおもいますので。

いや、そもそも生徒全員が読書好き、本好きにならないといけないのでしょうか?

編集者の腕前

通勤電車の車中や営業回りの途次に『チャイナ・セブン』を読んでいます。

まだ途中なので、感想などは改めて書きたいと思いますが、現時点で一つだけ書いておきます。

せっかく定評のある著者だし、内容もとても面白いのに、ルビの間違いが目に付きます。人名や地名などの固有名詞は難しいものですが、それでも「?」というものがチラホラ。また中国語での読み方をカタカナで振ってくれているのはありがたいですが、これも中国語がわかる人からすると「?」と思ってしまうところが散見されます。

著者の遠藤さんは当然中国語のスペシャリストですから間違えることはないと思うので、そうなると出版社の編集者のチェックがあまりと考えざるをえません。それなりに歴史と伝統ある出版社だと思いますが残念です。

とはいえ、昨今は由緒ある出版社でも、「これが、あの出版社から出ている書籍か?」と首をひねりたくなるようなものがしばしば目に付きます。どこの出版社も編集者の技量が落ちているのでしょうか? あるいはリストラで人手が足りず、労働過多になっていて、一点一点の作品にじっくり取り組む余裕がなくなっているのでしょうか?

そうなると、ますます本の質が下がり売れなくなってしまうのですが……。

あっ、もちろんこれは、あたしの勤務先についても自戒を込めて書いていることです。

関連書籍? 併売推奨?

書店回りの店頭で見かけました。

まずは明石書店の『アメリカの黒人保守思想』です。弊社の近刊『懸け橋()』と一緒に並べると相乗効果が期待できそうな本ではないかと思います。

 

続いては、航思社の『平等の方法』です。これも弊社の『ランシエール』との併売がお薦めです。訳者の市田良彦さんが両方に関わっています。

 

そして次は、ナカニシヤ出版の『フランクフルト学派と反ユダヤ主義』です。いま書店での売り上げも好調と聞く、中公新書の『フランクフルト学派』と並べてみては如何でしょう? 単行本と新書なので、管理上並べにくい書店も多いとは思いますが。

 

最後に、これも弊社の近刊『獣と主権者Ⅰ』と、筑摩書房の『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』です。ちなみに、デリダは、今年が没後10年ということで、この他にもたくさんの書籍が今年は刊行されました。ちょっとした《デリダ・フェア》ができるのではないでしょうか。

 

こうしてみると、一緒に並べたらよさそうな本って、たくさんありますね!

白い、そして暮れなずむブティック通り

『暗いブティック通り』読了。

主人公は探偵社に勤める男で、もう決して若くはない。そして記憶を失っていて、探偵社で数年来働く以前のことは何一つ覚えていない。現在の名前すら後から便宜的につけられたものである。その彼が、探偵社の閉鎖を機に自分の過去を探る旅に出る、というのがストーリー。

と、こう書くと、この作品を通じて主人公が誰なのか、なぜ記憶を失うことになったのかが解明される、一種の謎解き物語が予想されます。確かに、主人公が誰なのか、本当の名前は何で、どんなことをしていたのか、どんな交友関係があったのかは、ほぼ明らかになります。記憶を失うことになったと思われる出来事もだいたい明らかになります。

でも、どうでしょう、この読後感。謎がまるっきり解明されていないかのようなもやもやとした感じ。

主人公は自分の過去を求めてパリの町を歩き回ります。行き先々で自分の過去に関わったと思われる人に出会い、話を聞き、記憶の糸を少しずつたぐり寄せていきます。最初はある人物だったように誘導しつつ、実はその人物の友人だった、というあたりは鮮やかな展開です。ただ、いろいろな関係者に会い、そこから自分を取り巻く人について知見を増やしていくものの、それらの人が最後はどうなったのか、それも謎のままです。主人公本人すら、すべての記憶が取り戻されていない以上、周縁人物がどうなったかなどわかるわけないのですが、主人公の過去が十分に明らかになっておらず、むしろまだ多くの謎を残してる以上、これら周縁人物たちの謎ももやもやとして残ります。

訳者があとがきで書いているように、記憶をなくしたとおぼしき出来事から探偵社で働くまでの十数年が謎のままですし、幼い頃のこともわかっていません。聞き取りをするうちに、徐々に記憶が断片的に戻ってくるかのように差し込まれる過去の情景は主人公の頭の中に現われたフラッシュバックなのでしょうが、果たして本当にあったことなのか。そもそも主人公は記憶を取り戻したとは、とても言えるまでには至っていませんし。

こういうのがフランス流、あるいはモディアノ流なのでしょうか? 「さあ、ここから先は読者の皆さんそれぞれでお考えください」と言われているようです。 本当はこれで前編終了、さらにドラマチックな展開の後編がありそうな感じです。

ところで主人公はパリを歩き回ります。街路の名前とそこにある建物や雰囲気はかなり細かく描写されています。パリに詳しい読者なら「ああ、あそこね」という風に、町歩きを楽しみながら読めるのでしょうが、あいにくパリに疎いあたしには、どの通りも同じ映像しか思い浮かばず、通りごとの表情が見えてこないのが残念です。

「女がいる」の中に自分がいる?

エクス・リブリスの新刊『女がいる』読了。「女がいる」で始まる断章、それも散文詩のような文章で綴られた小説です。

先の『エウロペアナ』同様、ストーリーがあるわけではなく、そういう意味では、物語を楽しみたい人には物足りないかもしれません。本作はどこから読み始めてもよいし、どこで読み終えてもよい作品だと思いますし、著者がなぜここまで書いたのか、まだ先があるのではないか、どうしてここで終わっているのか、そんな風にも感じられます。

97の断章は、著者というか語り手の周囲の女性について語られています。女性でない人も出てきますが、それが特に全体に影響を与えることはありませんし、実は「女がいる」で始まらない章もあります。そういう細部に拘らず、全体を読み通してみると、たいていの人は、ここで語られる断章の一つくらいは共感できる、自分でも体験したことがある、というような思いにとらわれるのではないでしょうか? そういうところに注目すると、本作は仏寺にある五百羅漢(→この中に自分を見つけることができる)のような作品であると感じました。

語り手は、もうそれほど若くはない男性で、その語り手が元妻や現在の妻、そして母親について語ります。「妻」と書きましたが、ヨーロッパのことですから、必ずしも法律的な婚姻関係にあるとは限らない感じを、読んでいると受けます。いわゆる同居人とかパートナーと呼ぶべきでしょうか? 語り手が中年のようなので、その「妻」も中年で、若さに弾け、魅力あふれる女性としては描かれてはいません。むしろ生活や人生に疲れ、時にはイライラして語り手にあたるような情緒不安定な面も見え隠れします。この不安定さが、東欧の特色なのでしょうか? と、簡単に結びつけてしまってはいけないのでしょうが……

個人的には、63章の意地悪な感じ、73章の初々しい感じが好きです。そして85章を、そのまま大好きな女性に送りたいなあ、と思いました。そんな風に、たいていの人は、特に中年にさしかかった人なら、どこかしらに自分を投影できる作品ではないでしょうか。

北欧文学が読みたいの?

本日の朝日新聞読書欄に、立教大学で行なわれる北欧ミステリー・フェスの記事が載っていました。北欧というとミステリーなんでしょうか? ほとんどミステリーを読まないあたしにはいまひとつピンと来ないのですが、たぶん、そうなのでしょう。

でも、別にミステリーじゃなくても、フツーに北欧の文学作品を読みたいという人だって大勢いるのではないでしょうか?

あっ、別にミステリーは文学ではないという偏見とか、そういったものを持っているわけではありません。単純に書店の棚構成を見ていると、ミステリーやファンタジーは別に独立した棚になっていることが多いので、これら以外の文学とは読者層とか売れ方とか、かなり異なるのかなあと漠然と感じているだけで、優劣を付けるつもりはありません。

好き嫌いはもちろんあるでしょうが、ミステリーを一括りに好きとか嫌いとか言えませんし、ミステリー以外の文学をまとめて好きとか嫌いとか、そんな風にも言えません。あまりに当たり前な意見ではありますが、作品それぞれだと思います。

閑話休題。

上記のフェスに合わせ、書店でコーナーやフェアをやっているのかどうかは知りません。別に北欧に限らず、意欲的な書店員さんなら、ある月はフランス文学フェア、ある月はラテン文学フェア、といった具合に、そういう取り組みや仕掛けを行なっているものです。もちろん、こういうイベントがあるから、それに絡めてフェアを開催するというのは常道ですので、たぶん都内の書店でも探してみれば北欧ミステリーフェアをやっているところ、更にはもう少し広げて北欧文学フェアとか、あるいは文芸書に留まらず、北欧フェアなんてコーナー作りをしているところもあるのではないかと思います。書店それぞれで、大いに盛り上がってもらいたいと思います。

ところで、上にも書いたように、フツーに北欧の文学が読みたいなあと思った本好きがいたとして、「さて、何を読もうか」と考えたとき、どういう行動を取るでしょうか? 図書館へ行くのでしょうか? でも、かなり大きな図書館でないと、海外文学作品が揃っているとは思えません。未確認ですが、そんな気がします。では、本屋に行くのか? これも図書館以上に、大型の書店でないと、海外文学作品はろくに置いてもいないでしょう。都会に住んでいる人であれば、ちょっと都心部へ出たときに大型書店へ立ち寄れば、海外文学コーナーの一角に「北欧」のコーナーがあるのではないかと思います。

では、そんな都会に住んでいない人はどうするか。ネットで調べるしかないのでしょうか? 昨今は、お年寄りでもPCやスマホを使いこなす時代ですから、田舎の人だから、老人だからといった先入観は捨ててかからないとなりません。では、ネットでどうやって検索するのか?

いきなり、「北欧文学」でググるのでしょうか?

たぶん、そうではなく、多くの人はアマゾンなどのネット書店で検索するのではないでしょうか? で、あたしもやってみました。ただし、検索と言うよりは、もっとオーソドックスな方法です。

アマゾンのトップページに「カテゴリーからさがす」から「本」を選び、さらにその下位ジャンルで「文学・評論」を選択します。さらにその下の分類には「ミステリー」も見えますが、今回は「フツーの文学作品なので「文芸作品」をチョイスします。そうすると、「日本文学」「中国文学」などに並んで「英米文学」「ドイツ文学」などが見えます。よしよし、これで「北欧文学」を選べばよいのか、と探してみても見当たりません。残るは「その他の外国文学」です。

その他ってどこよ、と言いたくなりますが、「アジア文学」や「ラテン文学」はカテゴリーとしてありますから、たぶん北欧や東欧を指すのでしょうね。ちなみに、イランとかイラクあたりの中東文学は「アジア文学」に入るのでしょうか? トルコはどこでしょうね? アフリカだってあるはずなのに……

仕方ありません。「その他の外国文学」を選びます。基本的にカテゴリーをたどっていく方法ではここまでが限度です。これ以上は絞り込めません。「詳細検索」とかを使えばよいのかもしれませんが、とりあえずはカテゴリーをたどっていく方法ではここまでです。この中から北欧のものを探すなんて面倒でやってられませんよね。こっちはただ単に北欧文学にはどんなものがあるかざっと眺め、装丁とかタイトルとかで面白そうなものがあったら読んでみようかな、くらいのつもりでアマゾンのサイトを利用したのに、望むような結果は得られませんでした。

では、アマゾンではなく紀伊國屋書店のサイトならどうでしょうか?

こちらもトップページの「和書」からカテゴリーをたどっていくことにします。「和書」→「文芸」→「海外文学」→「その他ヨーロッパ文学」と、ここまでしかたどれません。やはり出版されている邦訳の点数、そもそもの人気(需要?)に差があるとはいえ、北欧だけを取り出すことはできないようです。

他のサイトもついでに調べてみました。丸善&ジュンク堂書店のサイトはこういったカテゴリーをたどっていくことはできないようです。楽天ブックスのサイトは、「本」→「小説・エッセイ」→「外国の小説」までしかたどれません。セブンネットショッピングだと、「文芸」→「海外文学」→「他ヨーロッパ文学」までです。

こういうとき、ネットで意外と使えないと思います。こういう場合の検索がうまくなるためには、また別なスキルが必要になるようです。それはそれで読者にはハードルが高いのではないかと思います。

やはり、こういう時はリアル書店ではないでしょうか? 上で、大型書店でないと海外文学はほとんど置いていない、と書きました。それはそれで正しいのですが、それでも少しでも海外文学を置いている書店であれば、「英米」「フランス」「ラテン」「中国」といったプレートが棚に表示されているのではないでしょうか? ネットでは検索の便を考え、そのカテゴリーに含まれる商品が少ない場合、わざわざカテゴリーを立てることをしないのかもしれません。でもリアル書店であれば、たとえ一冊か二冊しかなくても「北欧」とか「東欧」というプレートを立てることは可能です。もしかすると、書店員さんの趣味で、英米やフランス文学に比べ、すいぶんと北欧の占める割合の大きな書店があるかもしれません。

いずれにせよ、リアル書店であれば、それも大型の書店であれば、そういう棚プレートによって「北欧文学」を読みたい人の需要を満たすことは可能です。もちろんネットと同じように「英米」や「フランス」「ドイツ」はあっても、あとは一括りに「その他のヨーロッパ」という棚プレートの書店もあるでしょうけど、気の利いた書店であれば、「その他」の中もプレートこそないものの北欧と東欧はうっすらと分けているはずです。

こんなところが、やはりリアル書店のよいところ、ネット書店に対するアドバンテージではないかと思います。

ちなみに、アマゾンのサイトで、上記のようなやり方で、あたしの専門である中国文学についてたどりますと、「中国文学」の下には西遊記や三国志のような古典文学から、魯迅のような近代文学、そして現代の中国作家の作品まで、すべて一緒くたになって登場します。これはこれで使い勝手のたいそう悪いものではないでしょうか?

その後に変化なし?

前々から気になっていたNHKブックス『「デモ」とは何か』、読了。数年前に刊行された書籍ですが、まるで古びていないと感じました。

前半は、戦前からの日本のデモの流れを簡単におさらい。著者も書いていますが、日本ではデモというとどうしても否定的な感じで受け止められがちですが、どうしてそうなっていったのかが説かれています。著者に言わせると、デモは欧米では当たり前の権利として認知されているそうですが、日本では、あたしのようなフツーの人間にはどうしても左翼的で極端な運動といったイメージが強く連想され、一般人には馴染みのない、むしろ関わらない方がよさそうなもの、という印象が強いと思います。こういうイメージ戦略は政治家や官僚がうまいこと創り上げていったのだと思います。

後半は現在のデモについて。近年になって日本でもようやく政治的な左とか右と言ったカラーのない、一般の人も気軽に参加できるデモのスタイルができてきたと述べています。にもかかわらず、マスコミがそれを真正面から伝えようとしていなかったということも書かれています。一般の人よりマスコミ人の方がデモに対する偏見、先入観が強いのでしょうか?

しかし、それもここ数年ようやく薄れてきて、市民参加の祝祭的なデモが広く行なわれ、マスコミも報じるようになったといいます。確かに、それは事実でしょう。そして本書がそんな数年前に書かれた本ですので、記述もそこで終わっています。

それから数年。果たして、著者が書いたような市民が参加するデモが日本の政治を動かせたのか? そのことを考えると、デモが無意味だとは思いませんが、無力だとつくづく感じさせられます。そんな印象を抱きながら、続いて読み始めたのが集英社新書『安倍官邸と新聞 「二極化する報道」の危機』です。

安倍政権の巧みな情報操作、マスコミ操作によって、新聞を中心とした日本のマスコミは二極化していると書かれています。そこまで単純に二極化、二分化できるか否かはともかく、前著のように直接民主主義が育ってきたと思える日本で、どうしてここまで極端に民主主義、立憲主義、議会制を無視するような安倍政権が生まれてきてしまったのか?

両書で共通に取り上げられている話題の一つに原発問題があります。東日本大震災後、一度事故が起きたら取り返しの付かないことになる原発はもうやめよう、というのが日本国民大多数の気持ちだったと思います。もちろん、即刻廃止から、期限を切って徐々に削減まで温度差はあるにしろ、原発はもうやめる、ということでは一致を見ていたと思います。にもかかわらず、日本国民は原発推進を唱える安倍自民党政権にあれだけの票を与えたわけです。

確かに、一票の格差など選挙制度に大きな不備や問題があるのは事実ですが、それでもああいったデモ、知識人たちの主張に耳を傾ければ、そしてなによりもこれからを生きる子供たちの未来を考えたら、あそこまで自民党に票を与えるという選択肢はないと思うのはあたしだけでしょうか。いや、最大の問題はあまりにも頼りない野党、非自民勢力なのですが。

でも、日本人の民意って那辺にあるのか……

日本人の感性、外国人でなくても不思議です。

海外小説にもいろいろある

狼少女たちの聖ルーシー寮』を毎晩寝床で読んでいるのですが、なかなか進みません(汗)。短篇集ですし、そんなに難しいことが書いてある作品ではないはずです。謎解きでもなければ、登場人物が大勢いてその関係性が複雑に絡み合ってという作品でもありません。装丁からもわかるように、読みやすいストーリーのはずです。それなのに、なかなか読めないのです。作品世界に入っていけない、というのが正しい現状の説明だと思います。

うーん、なんででしょう? 単なる相性でしょうか? でも、そういうのってありますよね。で、ちょうど見本が出来てきた弊社の新刊、ボラーニョ・コレクションの『通話』を読み始めてみました。

すると、どうでしょう。こっちはすらすら読めるのです。こちらも短篇集ですが、あっという間に最初の一篇を読了しました。たぶん、作品自体の面白さ、エンターテインメント性から言えば「ルーシー」の方が遙かに面白く、万人受けする作品だと思うのですが、「通話」の方が断然頭に入ってくるのです。やはり、相性でしょうか?

あっ、いま、あたし、「頭に入ってくる」と書きましたね。あたしって、たぶん小説を心や気持ちで読んでいるのではなく、頭で読んでいるんですね。だからでしょうか? でも、宮木あや子さんとかの切ない作品なんて、頭ではなく気持ちで読んでいると思うのですが……

うーん、いい曲。高校時代を思い出します。うちは共学だったので。こういうのは「心で」聞いてるはずです!

モンスターとデーモン

昨日の、紀伊國屋書店新宿本店での古屋美登里さんと岸本佐知子さんのトークイベント。トークのテーマは『モンスターズ』でした。

さて、この本に出てくるモンスターたちは、実際のモンスターは実は少数派で、ほとんどの作品にモンスターは出てきません。むしろ、モンスターに見えてしまう、モンスターだと思い込んでしまう、といった側面のあるストーリーばかりです。そういう意味では、萩尾望都「イグアナの娘」なんていう作品をイメージしてもらえるとよいのかもしれません。

 

そういう、心理学的な深読みも出来る作品だと思います。ところで、ちょっとずれてしまいますが、この本の主役はモンスターです。日本ですと、ホラーと言えば、こういったモンスターが登場するものだけでなく、特に映画では顕著かもしれませんが、「ジョーズ」などの動物パニックもの、「オーメン」や「サスペリア」などの悪魔が登場するものも、広くホラーとして許容されているような気がします。

  

もちろん、細かく分ければできますが、日本では意外とそのあたりがルーズかなという気がするのですが、アメリカではどうなのでしょうか? 本書には、モンスターは出てきますが、悪魔は出てきません。フランケンシュタインやドラキュラ、ゴジラまで出てくるというのに、悪魔は出てきません。アメリカではモンスターとデーモンは、日本以上に峻別されているのでしょうか? やはりキリスト教圏だからでしょうか?

もちろん、本書が「モンスターズ」ではなく、「ホラー作品集」だったら、デーモンも登場したのでしょうか。それもよくわかりません。あたしにはちょっと理解できない、想像できない感覚です。もちろん、モンスターとデーモンが異なることは理解していますが。日本で言う、怨霊や幽霊とお化けの違いでしょうか? 前者は人間が変わったもの、後者は人間とは関わりないものという認識を持っています。でも、日本でも、お化けの範疇に幽霊なんかが入ってくることはありますよね。妖怪だってお化けだし、お岩さんをお化けと言ったりするし……

微妙ですね。ただ、少なくともキリスト教圏では、悪魔とは神に対峙するものですから、独特の地位を持っているのだと思います。

プラハは行ったことはないのですが……

Uブックスの新刊『ウッツ男爵』を読んでいます。いよいよ物語は佳境に入ったところです。面白いです。

ところで、この作品の舞台はプラハです。プラハというと、もちろん行ったことはない街ですが、このところ『ゴーレム』や『もうひとつの街』といった、プラハを舞台にした小説を続けざまに読んで、あたしなりに思い描くイメージというのがありました。それは陰鬱です。それ以外に言葉は見つからないというくらいに陰鬱という言葉がピッタリです。

 

しかし、『ウッツ男爵』は若干テイストが異なります。確かに陰鬱の片鱗は時折顔を覗かせますが、どちらかというと、もう少しカラッとしたイメージが浮かび上がってきます。もちろん、太陽がさんさんと降り注ぐような晴れやかさはありません。やはり曇り空、曇天の似合う街というイメージが崩れることはありません。池内紀さんの訳文のなせる業なのか、ウッツ男爵の飄々としたイメージがそうさせるのか……

で、ググってみました。「プラハ」をキーワードにしてググって、「画像」のタブを選ぶと、こんな感じです。

夜景なので暗いものもありますが、全体的には中世の面影を残した美しい街並みの写真ばかりがヒットします。素敵な街です。ぜひ一度は行ってみたいと思います。でも、あたしが読んだ小説に出てくるプラハって、こういう感じではないのです。もちろん中世にタイムスリップしたかのような街並みは感じていましたが、こんな素敵な感じではないのです。

なんで、こうも印象が違うのか。そうです。ユダヤ人です。

上に挙げた作品はどれもユダヤ人が作品に非常に大きな影を落としているように感じられました。プラハと言ったらユダヤ人、それが定番の組み合わせであるかのようにユダヤ人が作品のあちこちに見え隠れします。不勉強で、プラハの歴史やその地におけるユダヤ人のこと、ほとんど何も知らないのですが、専門家にとっては当たり前の組み合わせ、プラハにとってユダヤ人は欠くべからざる要素なのでしょうか。

そんな気持ちを抱いて、こんどは「プラハ ゲットー」というキーワードで検索した画像が上掲です。いきなり色調が異なった写真ばかりです。そして、あたしがこれらの小説を読んでイメージしているプラハは、むしろこちらなんです。これが小説から喚起されるプラハという街です。

どちらもプラハなんですよね。やはり不思議な魅力をたたえた街だと思います。