コンプリートしてるつもり?

李琴峰さんの『五つ数えれば三日月が』読了。

今回の作品は中篇二つ。どちらも舞台は日本で主人公は台湾出身の女性、日本語を勉強して日本にやってきて、日本で暮らしているという設定です。

前作の『独り舞』は、同性愛がもっと前面に出ていて、非常に興味深かったところもあれば、人によっては理解に苦しむところもあったのではないかと思います。頭ではわかっていても、なかなか同性愛への理解って広がっていないですから。

それに対して本作は、同性は後景に退き、うっすらと感じられる(あくまで、あたしには、ですが……)作品になっていました。そういう意味では読みやすいし、作品世界に入って行きやすいとも思います。あたしなりの感想を言ってしまえば、主人公の抱いている感情は同性愛なのか否か、それすら主人公はつかみかねているように感じられました。

同性愛という孤独、異郷に暮らすという孤独、その両者が相俟って近しい誰かにすがりたくなるのかな、それが果たして友情なのか、愛情なのか、淡い恋なのか、あたしにもよくわかりませんが、いずれにせよ主人公はこの後どのような一歩を踏み出したのか、その後が気になる作品です。

李琴峰山の単行本はまだこの二冊だと思いますのでコンプリートしていますが、実はつい先日『黒い豚の毛、白い豚の毛』を読み終えた閻連科さんも、邦訳作品はコンプリートしています。写真は、わが書架の閻連科コーナーです。

雑誌などで発表された邦訳はわかりませんが、単行本としてはこれですべて揃っていると思います。あえて瑕疵を指摘するのであれば閻連科作品も収録しているアンソロジー『作家たちの愚かしくも愛すべき中国』が未読、未所持であるという点でしょうか。

あたし自身は、決して作家を追うという読書ではなく、広く雑多に読みまくるタイプです。ただ、気に入ると他の作品も読んでみたくなるのは人情でしょう。一般にはどうなのでしょう? やはり作家を追うという読書スタイルの人が多いのでしょうか?

些細なことだけど……

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2年はもつ? 2年しかもたない?

わが家には本が何冊あるのかわかりませんが、1万冊もあるでしょうか? いや、そこまではないかしら?

とにかく、数えたことがないのでわからないのですが、書籍収蔵のための書棚が足りなくなってきました。奥行きの深いものも持っていますが、本というのは、特に文庫や新書、ごくごく普通の単行本であれば、意外と奥行きが必要ないものです。正直なところ、15cmもあれば十分です。

奥行きが深い書棚は展覧会の図録や雑誌など大型の本を収納するときだけ必要になります。ですから、このところ購入する書棚はどれも薄っぺらいものばかりです。既製品ですと、天井まで届きそうな背の高いタイプですと、奥行き18cmというのが一番薄型のもののようです。

というわけで右の写真は、そんなわが家の2階の廊下の書棚です。既に1階のあたしの部屋は、書棚を置くスペースがないので、2階の廊下にまで書籍スペースが広がってきてしまっている状態です。

ご覧のように、主に文庫・新書が並んでいます。2階なのであまり重い本は増やさないようにしたいところですが、そう都合よくはいかないのも現実でして、この書棚も見てのとおり満杯なので、このたび新しい書棚を追加購入しました。

左の写真が新しい書棚です。昨日までの関西ツアー中に配達され、今朝組み立てをしたところです。

空いているスペースの都合上、幅45cmの書棚を二つ購入しましたので、90cm分になります。廊下の床からほぼ天井までの高さがあります。

左側の書棚の真ん中あたりにスイッチが見えると思いますが、ちょうどここに廊下のライトのスイッチがあるので、その部分だけ背板を切ってスイッチが見えるようにしました。ですので、ここの部分には本を並べることはできません。

それでも、ひとまずこれだけのスペースが確保されたので、しばらくは本の置き場所には困らないでしょう。といって、果たして何年もつのでしょうか?

夜中に歩き回る人が多すぎる?

スティーヴン・ミルハウザーの『私たち異者は』を読んでいます。

短篇集ということですが、一篇は比較的長めだと思いますので、読み応えがあります。緻密な描写がさすがだと感じさせます。

で、読んでいてふと感じたのは、夜中に歩き回る人が多いなあ、ということです。別に夜を舞台にしているからといってホラーだというわけではありません。そもそも小説のテーマや舞台が夜だというのではなく、寝られずに、あるいは眠らずに街を徘徊する人たちが比較的多く出てくるなあと感じられるということです。

これから本格的な夏になると寝苦しい夜もあるでしょうし、外をほつき歩いても寒くはないでしょうから、小説になりそうなハプニングやらストーリーやらが生まれやすいのでしょうか?

それで思い出したのが、やはりミルハウザーの作品『魔法の夜』です。

こちらは、アメリカの、とある田舎街の一晩の物語です。上に書いたように、夏の暑い夜、暑さで寝られない人、または眠らない人たちが複数登場し、街の中を歩き回ったり、家の中で悶々としていたり、それぞれがそれぞれに一晩を過ごしています。そんな様をオムニバス形式で描いた、ファンタジーっぽい作品です。

ご覧のように、装丁も非常にメルヘンチックといいますか、可愛らしい感じです。夏の読書感想文にちょうどよい長さの作品です。もちろん中高生でも読める内容の作品ですので、この夏に是非どうぞ!

読んでから見るか、見てから読むか

売れ行き好調につき、ただいま重版中のハン・ガン『回復する人間』の中に「左手」という作品が収録されています。

とある男性サラリーマンの左手についての物語なのですが、この作品を読んだ後にテレビでこんなCMを見かけました。

Apple WatchのCMです。手にハマってウォッチが勝手に動き出してしまうというCMになっています。

「左手」を読んだ人であれば、このCMにウンウンと頷いてしまうことは間違いないでしょうし、このCMを読んだ人であれば「左手」が面白く感じられるのではないでしょうか?

もちろん、「左手」の主人公はApple Watchを左手に身につけてはおりませんが……

あたしを作った一冊?

昨日の朝日新聞夕刊の記事です。

定期的に連載されているので、目に留まったときは読んでいますが、今回はなんと『オレンジだけが果物じゃない』が取り上げられていました。ありがとうございます。

自分を作った本というコーナーですが、振り返ってあたしにとっての一冊と言ったら何になるでしょうか?

やはり『韓非子』でしょうね。あたしを作ったと言うよりも、その後の人生を決定づけたと言ってよい一冊です。出会ったのは中学三年生の時です。

ある意味、あたしの人生はその時に決まったと言ってよいのかもしれません。

愛してると言ってくれ

ハン・ガン『回復する人間』読了。

既に本でもいくつか作品が紹介されているハン・ガンの短篇集です。ヒリヒリとした、胸が締め付けられるような作品世界もあれば、どこか飄々とした雰囲気の作品もあり、統一感は維持しながらもバラエティーに富んだ作品集です。

そんな中、あたしが一番印象に残ったのは「青い石」です。

主人公は女子高生で、クラスメートの家へ遊びに行ったりしているうちに、クラスメートの叔父さんとも親しくなり、いつの間にか淡い恋心を抱いてしまうという、思春期の甘酸っぱい初恋を描いた作品です。大人になった主人公が当時を振り返って語る構成が、そんな甘酸っぱさをより強めているのだと思います。

さて、この作品が一番印象深いのは、設定などいろいろ異なるところはあるのですが、この作品出てくる叔父さんが往年の人気ドラマ「愛してると言ってくれ」に出てくる豊川悦司をイメージさせるからです。豊川悦司は耳の聞こえない画家でしたが、この作品の叔父さんも健康に不安を抱える画家なんです。そのアトリエに若い女性が通うようになり、互いに心を通わせていくというストーリー展開。ハン・ガンが実はこのドラマを知っていたのではないかという疑いを抱かせます。

ちなみに、あえてドラマに引きつけるならば、本作の主人公に当たるのは常盤貴子です。常盤貴子と親しくなるのが気に入らないトヨエツの妹役に矢田亜希子がデビュー作として登場しています。本作ではクラスメートが主人公と叔父さんの仲に影響を与えることはないので矢田亜希子の役柄には当たりませんが、やはりどうしてもそんなイメージを重ねながら読んでしまいました。

なお「訳者あとがき」によると、この短篇はその後著者によって長篇作品に仕立て直されているとのことです。どんな長篇に変わったのか、読みたくてうずうずします。いずれ邦訳が刊行されるのでしょうか?

夢をそのまま物語にしたような作品

営業回りをしていると、当然のことながら本のないようについて問われることがあります。

歴史などの専門書に近い商品の場合は、タイトルや目次で書店の方も理解しやすいので、それほど突っ込んで聞かれることは多くないのですが、文芸書、特に海外文学の場合ですと「どんな話?」と聞かれることがしばしばあります。

ここで簡単なストーリーを喋ってしまえばよいのですが、こちらも全部の自社刊行物を読んでいるわけではありませんので、答えに窮することもあります。あとがきを読んだり、企画書を思い出したりして答えることもありますので、時に勘違いして別の本の紹介をしてしまったこともあります(汗)。

さて、最近は、自社の海外文学は比較的読んでいる方なのです、だいたいどの作品も内容を説明することができます。謎解きのような作品がほぼないので「ネタばらし」になる可能性が低いのが幸いです。

で、Uブックスの新刊『カッコウが鳴くあの一瞬』です。

この作品については、どんな作品なのか説明に苦労します。『黄泥街』の残雪の短篇集ですと、まずは最初に説明できますが、その後が続きません。

『黄泥街』もものすごい作品でしたが、一応はストーリーがあったと思います。しかし『カッコウが鳴くあの一瞬』の方が、あたしの力不足なのか、巧く説明できるようなストーリーが見つけられません。

いえ、部分的にはちゃんとした世界があり、ストーリーもあるのです。ただ、全体を俯瞰したときに一貫したストーリーが見えにくいのです。だからといって、まとまりのない、脈絡のない文章の寄せ集めというのではありません。

あたしなりに解釈しますと、この作品は夢を文章化したものではないかと感じます。

ふだん、あたしたちが寝ているときに見る夢は、夢の中では笑ったり泣いたり、喜んだり苦しんだりといろいろなことが起こりますが、起きてからそれを他人に説明しようとすると、いろいろなところで矛盾とか辻褄の合わないところが出てくるものです。だからといって一貫した話にしようとすると、こんどは自分が見た夢からどんどん遠ざかってしまうことになります。

本書は、そんな夢の世界をそのまま、矛盾しているところも、辻褄が合わないところも、前後がうまく繋がらないところも、すべてそのまま文章に書き留めて提示してある、そんな印象を受けました。これをやってのける著者・残雪ってすごいなあとただただ感心するばかりです。

短篇集を三つ続けて

ゴールデンウィークだからって出かけるなんて思わないでください。そんな政府や経済界の策略に乗ったりはしません。自宅に籠もっています。近所のコンビニやスーパーに時々出かけることが数回、これがあたしのゴールデンウィークです。

では何をしていたのかと言いますと、読書です。

いや、読書三昧と呼ぶにはPCの前に座っている時間もあれば、テレビを視ている時間もそこそこありましたので、読書もしていた、と言う方が正確だと思います。

で、読んでいたのは、まずは『路地裏の子供たち』です。ゴールデンウィークに入る前から読み始めていたので、この連休の前半で読み終わりました。

スチュアート・ダイベックの短篇集で、シカゴの街で何となく不満があるようなないような、思うように生きているような生きていないような、そんなわけもなくむしゃくしゃしているような若者が描かれています。タイトルは「子供たち」ですが、登場するのはもう少し年が上、中学生、高校生といったところでしょうか。大人でもなく子供でもなく、といった世代です。

次に読んだのは『海の乙女の惜しみなさ』です。

こちらも短篇集ですが、登場人物たちの年齢はグッと上がって、人生の折り返し地点を過ぎ、よーく見れば先の方に人生のゴールが見えつつあるような世代です。

だからといって悲壮な作品ではありません。もちろん黄昏た感じはありますが、まだまだ夕日を浴びて光り輝いている世代です。真昼の太陽の力強さこそありませんが。

ちなみに、アマゾンのトップページで検索窓に「海の乙女の惜しみなさ」と入力して検索すると同じデニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』はヒットするのですが『煙の樹』はヒットしません。なぜなんでしょう?

さて、最後に読み始め、いま途中まで読んでいるところなのは『カッコウが鳴くあの一瞬』です。中国の作家、残雪の、こちらも短篇集です。いみじくもゴールデンウィークに短篇集ばかり読むことになってしまいましたが、その理由はあたしの勤務先が続けざまに短篇集を刊行したからに他なりません。

令和の世に路地裏なんて

路地裏の子供たち』読了。

ダイベックの最初の短篇集と言うだけあって、原書が刊行されたのはかなり以前の1980年になります。時代は昭和ですね。

日本の年号による時代区分をアメリカ作家の作品に持ち込むのはどうかと思いますが、とはいえ、この作品にはどことなく懐かしい、昭和を彷彿とさせる世界が描かれています。

確かに、描かれている街の様子はアメリカです。シカゴには行ったことがありませんが(と言う前に、アメリカに行ったことがありません!)、シカゴを知っている人であれば、作品に描かれている街の様子を思い浮かべながら読むことができるのでしょう。そういう意味では、あたしにはイメージできないところは確かに存在します。

しかし、何と言うのでしょう、作品世界から漂ってくる空気というのでしょうか、そういったものには昭和の風景に通じるものが感じられるのです。下町であったり、町外れであったり、新興住宅街であったり、場所はいろいろイメージできますが、とにかく昭和を感じられる作品です。決して平成や、ましてや令和などではありえない、そんな空気が漂っています。

文体も、これだけで判断できるものではありませんが、最近の作家の文体とはリムと言いますか、言い回しと言いますか、なんかちょっと異なります。翻訳を読んでいるだけでそんな判断を下してよいものかとも思いますが、やはり最近の作品を読んでいるときとはちょっと異なる読書の時間を味わいました。

令和の初日に、昭和の香りのする作品を読み終わるなんて、なんとも不思議なものです。それに路地裏って、今の若い人はどんな情景をイメージするのでしょうか?