スクープ

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新しいアジア文学?

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極めて現代的な~『クリミア戦争』~

またしても、ちょっと時間がかかってしまいましたが、『クリミア戦争(下)』読了しました。

 

先にも書きましたが、クリミア戦争ってつくづく面白い戦争だと感じました。

まず対立の構図ですが、トルコ対ロシアです。オスマン帝国はイスラム教、ツァーリが治める帝政ロシアはロシア正教ですから、一見するとイスラム教対キリスト教という宗教戦争の構図です。が、キリスト教国であるイギリスとフランスがロシアではなくトルコの側についてロシアと戦ったわけです。そこにはキリスト教の中のロシア正教とローマ・カトリックという対立軸があるわけで、さらにはイギリスはカトリックではなくイギリス国教会ですので、イギリスとフランスも決して一枚岩というわけではありません。

ではなんでこんな構図になったのかというと、結局本書を読んでいて感じたのは「ロシア憎し」というヨーロッパ諸国(この場合は英仏ですが)の意識です。特にイギリスには、ロシアが少しでもヨーロッパに入って来ようものなら絶対に許さない、徹底的に戦って追い出す、ヨーロッパには一歩たりとも入れないぞ、という意志があったようです。ですから、その萌芽となりそうなバルト海への進出、黒海への進出、カフカス地方への進出といったロシアの拡張政策をことごとく潰しにかかるわけです。英仏にはロシアに対する憎しみだけでなく、その後進性ゆえの蔑視が非常にあったことも見て取れます。いまだ帝政の後れた国にわれわれが敗れるはずがないという自信、そんなものも感じられます。

で、本書ですが、上下巻を通じて、当事者であるトルコは蚊帳の外的な印象が強いです。所詮、英仏から見たらトルコもロシアも後れた野蛮な国、という意識があったみたいで、衰退の兆しが見えるトルコはともかく、強大な軍隊を要するロシアの膨張政策はとにかく驚異だったようで、それを挫き、ロシアの野望を粉砕するのが目的の戦争だったようです。

それにもかかわらず、英仏の指揮官たちは本当に戦う気があったのか、少なくともどんな風にこの戦争を終わらせるつもりだったのか、本書の記述を読んでいると実にだらだらとした戦いが続いて嫌になります。実際に戦地で戦っていた兵士たちはもっと悲惨だったのではないでしょうか? イギリスはとにかくロシアを止めたい、という思いらしいですが、一方のフランスはナポレオンの栄光よ再びというナポレオン三世の時代ですから、やはり英仏は同床異夢ですね。

本書のような書籍を「戦記物」に分類できるのかわかりませんが、全編を通じて緊迫した戦闘場面はほとんどなく、むしろ本当に戦争中なのかと思えるようなのんびりした展開が多いです。数時間戦ったら死体や負傷者の回収のために数時間の停戦があるなんて、ちょっと信じられない戦いの現場です。

そして一応は戦争が終わったにもかかわらず、イギリスは不完全燃焼、フランスはロシアと手を結んでオーストリアを牽制などという遠交近攻、合従連衡のヨーロッパ情勢です。ですから本書は最初の章と最後の賞がそういった国際政治の生々しさを描いていて一番テンポよく読めました。

そして、これも先に書いたことですが、クリミア戦争当時のヨーロッパはとても160年前のこととは思えないほど現在の状況に符合するように思えます。後れてやってきた巨大な国というのは本書で言えばロシアですが、現在のアジア情勢に照らしてみると間違いなく中国です。スラブ民族が雑居している東ヨーロッパは、さしずめ華僑が多く住んでいる東南アジアのようで、ロシアの進出・膨張をなんとかしたい英仏は、まさに日米という構図ではないでしょうか?

歴史を鑑とすべきと改めて思わせる本です。

ハリウッドを活写?

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若い女性の成長記?

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グロいのと軽いのが……

日本翻訳大賞を受賞した『エウロペアナ』を読んだとき、次の部分で衝撃を受けました。

グダンスクでは一人のドイツ兵が発狂したという。戦前に付き合っていた女性がユダヤ人であることを知らなかったばかりか、その彼女はアウシュヴィッツの強制収容所へ連行されていたのだ。友人たちは彼をからかおうとして、こう言った。グダンスク解剖学研究所の所長から聞いた話だけど、お前がこの一週間のあいだ体を洗っている石鹸はお前の彼女の死体から作られたものなんだよ、と。その後、兵士はドイツ国内の精神病院に収容された。(P.33)

からかったとありますが、実際にこういう事例はあったのではないでしょうか? この描写の直前にも収容所に送られたユダヤ人がどうなったかについて、かなりグロテスクな描写があります。

しかし、本書での筆者の筆致は実に淡々としています。上掲のような描写も、だからどうなのだ、という感情がほとばしり出るのではなく、ただあったことをそのまま書き連ねているだけのように感じます。

感情を失ってしまったのか、あるいは戦後の平和な時代を生きている自分たちが、ありきたりの感情で描写したとしても所詮あの悲惨さを表現しきれるものではないと諦めているのか。

いや、ここまで来ると悲惨という言葉も何か違うような気がします。むしろ絶望に近いかも知れません。それでもそんな時代をくぐり抜け、いま自分たちは生きている、どうやってあの絶望から立ち直ったのか、本当に立ち直っているのか、そんな問いかけを受けているような気もしました。

そして、こういう目を背けたくなるような描写と隣り合わせで、実にユーモラスな記述が挟み込まれているのが本書の特徴です。この揺れ幅の大きさ、それがそのまま二十世紀という時代の振幅の大きさに当てはまるのではないでしょうか?