最後にもう一つ?

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中途半端なプライド?

感情8号線』を読んでいます。

この本を手に取る人って、たぶん環八沿いに住んでいる、あるいは住んでいた、という人が多いのではないでしょうか? あたしもその一人です。

登場人物が少しずつ重なっているという構成はありがちな連作短篇ですから、別にこの作品でなくとも似たような小説は掃いて捨てるほどあると思います。それでも、この作品に惹かれ手に取るのは、この作者を追っているファン以外では、環八に何かしら縁のある人だからでしょう。

しかし、舞台となっているのは荻窪、八幡山、千歳船橋、上野毛、二子玉川、田園調布。

おいおい、抜けてませんか?

どこが?

高井戸ですよ、高井戸!

えっ、環八沿いにそんなとこ、あったっけ?

ありますよ、あります。井の頭線の高井戸駅、高架になった駅の下を環八が通っているではないですか!

とまあ、小学一年生から大学四年生までという、もっとも多感な時期を高井戸で過ごしたあたしからすると、自分の住んでいた高井戸だけ抜かされていることに、ちょっと忸怩たる思いが……。

高井戸だって、これらの街に決して劣らない街だぞ、と声を大にして言いたいところですが、二子玉川や田園調布と比べられると知名度にしても何にしても低く見られるのは致し方ない、という自覚はあります。それでも、八幡山や千歳船橋と比べたら、勝るとも劣らないという気持ちはあるのですが、世間には通用しないのでしょうか?

ただし、こんなあたしの思いも、荻窪以北の環八沿いに住んでいる方からすれば、そちらは相手にもされていないわけで、「何を言ってんだか」ということなのでしょうか? 確かに、あたしも「高井戸が入ってない」と訴えたいとは思っても、井荻とか平和台とか、練馬・板橋方面の環八沿いはまるで眼中にありません。ましてや東京の東の方の環八など、どこを走っているのかすらわかっていないのですから、極めて中途半端な異議申し立てです。

ただ、言い訳をさせてもらいますと、環八って、あたしが高井戸に住んでいた頃は、荻窪の北を少し行ったところで終わっていたんです。東京の東の方は東の方で別途環八が作られていたはずですが、荻窪から田園調布に至る西側の環八とは結ばれていなかったのです。つまり全然「環状」ではなかったのです。

その当時のあたしの意識でも、環八は荻窪まで、というのが一般的な感覚で、その後の、谷原まで延びて関越と繋がりましたが(それ以前にも細い道で繋がっているには繋がっていたと思います)、それは笹目通りであって環八ではありませんでしたから。

それに、この小説に登場する、いわゆる環八は、その当時交通量が増えたことから渋滞が激しくなり、少し東側を走る環七と共に「通りの上に排気ガスによる雲ができる」とまで言われたこともありまして、それなりにニュースにもなっていました。ですから、環八と言えば荻窪から南へ延びている、中途半端な環状道路というのが一般的な認識だったと思います。

で、高井戸あたりに住んでいると、世田谷の一部地域とは伍しているような気持ちを持ちつつも、荻窪以北に対しては馬鹿にして見下すという中途半端なプライドの塊を持ってしまうのです……(-_-;)

ゴメンナサイ。

お金と地位と名声さえあれば……

まずは以下の文章。

十年のあいだで、お金と地位と名声さえあれば、美しくない女でもそれなりに気持ちよく生きていけることを学んだ。美しい女じゃなきゃ連れて行ってもらえないようなお店。美しい女じゃなきゃ着られないような服。美しい女じゃなきゃ与えてもらえないような賞賛。それらはすべて自分の名前とお金で買えた。本当は醜いくらいに焼け爛れていた恋心を理性の沼に沈めて殺し、夫の信也も同じようにして手に入れた。代わりに、何かを失った。たぶんすごく大切なものだった。でも今の私にはそれがなんだったのか思い出せない。(P.114)

帝国の女』の一節です。

あたしは「お金さえあれば何でも手に入る」という意見には賛成です。「何でも」というのが言いすぎであることもわかっています。お金では決して買えないものがあることはわかっています。

しかし、幸せのうち8割、否、9割方はお金があれば手に入るとも思います。幸せのうち、それだけ手に入れば、残りの1割かそこら手に入らなくても、誰を恨むことがありましょうか? もう十分です。100パーセント手に入れようなんて贅沢の極みです。

だから、上の引用の中の後半部分、「大切なもの」を失ったという感覚はわかりません。いや、金も名声も地位もないあたしには、すべてがわからないのですが、なんとか創造力を総動員して考えても、「別にそれだけ手に入ったのなら、多少失ったものがあったっていいじゃない」と思います。

なおかつ、お金によって手に入れられるものはお金さえあれば確実に手に入りますが、お金では手に入らないものというのは、他の手段によって必ず手に入れることが出来るのかと言えば、そうとは限りません。そんなあやふやなものに血眼になるのであれば、お金で確実に手に入れられるものをコツコツと増やしていった方がよほどよいのではないか、あたしはそう考えるのです。

そして、お金も地位も名声も持っていないあたしは、人生において何かを手に入れたという実感をまるで味わうことなく一生を終えるのだと思います。

仕事と恋愛? 「別れる」って何?

宮木あや子さんの『帝国の女』を読んでいます。なんか、どっかで読んでことがあるような気もしながら、それでも楽しんでます。

そんな中で、ちょっと気になった一節を……

この先、新たな恋愛を始めて結婚に至って「幸せな家庭」を築くまで、果たして私は閉経せずにいられるだろうか。彼氏がいる、という女としてのある種の資格を剥奪された私が伴侶を見付けるためには、またイチから恋愛を始めなければならない。その永遠のような距離を考えると果てしなく気が重い。そして腹も痛い。(P.078)

ものすごく美人なんだけど、男より仕事を選んでしまった主人公が男にふられた後の独白です。年齢的に若いころのような恋はできない、恋愛が結婚に直結してしまうお年頃。別に結婚という形にこだわらなくても、パートナーという付き合いもあるとは思いますが、まだまだ日本では「結婚が幸せ」という価値観も根強く残っていて、こういう葛藤を抱えてしまうのでしょうか?

ただ、仕事か恋愛かというのは女性特有のものではなく、答えの出し方とか、その答えの方向性こそ異なるものの、男性にだってついて回るものではあると思います。彼女から仕事を奪うようなことをしてもよいのだろうか、彼女の仕事を、否、仕事をしている彼女を尊重できるだろうか。そんなところでしょうか?

と、疑問形で書くのは、あたしがそういった男女の機微を全く理解できないからです。この手の小説やドラマ、映画って、なんだかんだ言っても登場人物たちは恋愛をしているわけで、最終的に結ばれたり別れたりするにせよ、一時は相手がいるわけです。だからこそ悩むのでしょうし、ケンカもするのでしょう。

が、あたしと言えば、そんな経験まるでなく、だから悩むことも腹を立てることもなく、ましてやケンカする相手だっていません。「彼氏(彼女)と別れて何年?」というありがちな質問も、あたしの場合は生まれてこの方ずーっとシングルなので、「別れる」という経験がありません。

もちろん、告白した・されたことも皆無なので、ふられたこともなければ、ふったこともないです。これはこれで幸せな一生を送ってきたと言えるのか、それとも不幸なの人生だったのか? この一節の後、主人公は久しぶりに会った同期の友人に、自分は仕事を選んだ、相手のことを慮ることができず、大切なことを言葉に出して伝えられなかったと告白します。これはこれで悲痛な叫びです。

ということで、あたしも他人を慮ることができないので、だから恋愛ができないのではないかと思います。いや、現にこれまで恋愛をしてきていないわけですので、自分の人生をもって証明しているようなものですが……(汗)。

読書の効果?

読了した『書店主フィクリーのものがたり』ですが、他社のガイブンってどうしてこんなにあっという間に読み終わるのでしょう?

つまり、自分の勤務先から出ているガイブンは、読み終えるのにもっと時間がかかるということなんですが、その理由は、本の面白さの違いではなく、ページ数や1ぺーじあたりの文字数が関係しているのかなと、本書を読んで深く感じた次第。

閑話休題。

本書の最後の最後、307頁からの、イズメイとランビアーズの会話が秀逸です。

「訳者あとがき」でも引用されていますが、このランビアーズのセリフ、

いいかい。本屋はまっとうな人間を惹きつける。A・Jやアメリアみたいな善良な人間をね。おれは、本のことを話すのが好きな人間と本について話すのが好きだ。おれは紙が好きだ。紙の感触が好きだ、ズボンの尻のポケットに入ってる本の感触が好きだ。新しい本の匂いも好きなんだ。(P.308)

本好きには、一人で密かに楽しみたい、味わいたいという人もいるでしょうけど、本書を読んできた人であれば、このランビアーズの溢れるような思いには共感できるのではないでしょうか?