つまり、ケルトって?

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誰一人幸せにならない

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高校図書館という違和感

最近『高校図書館デイズ』という本を読みました。

本自体は面白いです。いま高校に通っている人はもとより、高校を卒業した人、特に大学生なんかは読むと懐かしさがこみ上げてくるのではないでしょうか? そう思います。

ただ、一つだけ違和感を感じるのです。

それはタイトル。

高校の図書館を舞台にした本だからそれでいいじゃない、何か問題でも?

と言われると返す言葉に困りつつ、その「高校の図書館」というのが気になるんです、と言い返したくなります。

そもそも高校に図書館ってありました?

あるに決まってるだろ、当然じゃないか、と答える方がほとんどだと思うのですが、皆さんがおっしゃっているのは本当に図書館でしたでしょうか?

ここからは完全な揚げ足取りなんですけど、高校にあったのって図書室であって図書館ではなかったのではないでしょうか? 少なくともあたしの場合、小中高にあったのは図書室であって、図書館というのは市立や区立の施設、そして学校併設のは大学に入って初めて見た、体験した、使ってみたものでした。

図書室も図書館も同じじゃない、と言われれば、ほぼそうなんですが、図書室だと校舎の一角、やや広い一部屋を使っているもの、図書館だと別の建物、というイメージがあります。家庭科室、音楽室、理科室、職員室はあっても、家庭科館、音楽館、理科館、職員館なんてないですよね。

それと同じで、高校にあったのも図書館ではなく図書室だったのではないか、というわけです。本書の舞台となっている札幌南高校も、図書館ではなく図書室があるようですが、生徒は「図書館」と呼んでいる(いた)のでしょうか?

と、揚げ足取りをしてきたわけですが、本のタイトルとしては、「高校図書室デイズ」ではやはりしっくりきませんね。世間的にも「図書館」の方がはるかに人口に膾炙していますし、あえて「図書室」というタイトルにしたら、なんだか変な感じがします。筑摩書房が「図書館」というタイトルにしたのは正解なんでしょう。

で、そのついでに札幌南高校のウェブサイトで校内案内図を見ましたら、同校の図書室って校舎のほぼ中心にあるのですね。実際に生徒の校内における動線がどうなっているのはわかりませんが、生徒が行きやすいところにあるというのは素晴らしいことではないでしょうか?

あたしなど、小学校は辛うじて覚えているのですが、中学と高校の図書室が学校内のどこにあったのか思い出せないんですから! それだけふだんの学校生活の動線上になかったということです。もちろん少し離れている方が静かに本を読めるという理由もあるのでしょうが……

この痛さがたまらなくいいのです

別に、嫌われても構わないのです。でも、私の存在をあなたの心の中で抹消しないで。人に嫌われることや悪意を持たれることなんかもう慣れっこです。痛くも痒くもありません。でも、好きの反対は嫌いではなくて無関心だから。爪の先程度で良い、私に関心を持っていてください。それがたとえ悪意でも構わない。(P.144)

宮木あや子さんの新刊『ヴィオレッタの尖骨』を読んでいます。

短篇集です。上の引用はその中の一編「紫陽花坂」の一節。自分を傷つけずにはいられない登場人物たちの痛み。相変わらずの宮木さん節で、たまりません。この痛さ、切なさ、読んでいてゾクゾクします。

それにしても、このタイトルはどういう意味なのでしょうか? やはりフランス映画「ヴィオレッタ」を意識しているのでしょうか?

あと「尖骨」って言葉、あるのでしょうか? 宮木さんの造語でしょうか?