カテゴリーアーカイブ: 罔殆庵博客
中国のこと、漢文・中国語のこと、中国の哲学・歴史・文学について
紙幅が足りなかった?
まだまだ道半ば
二十四史のお値段
中国史を学ぶ者にとっての基本的な文献として中華書局の「点校本二十四史」があります。中華書局は中国の出版社ですから、「二十四史」ももちろん中国で出版されている本です。欧米の本なら洋書と呼ばれるのでしょうが、中国の場合、その世界の人は「中文書(ちゅうぶんしょ)」と呼んでいます。
ご覧のように、わが家にも揃っています。『史記』から『清史稿』までなので二十五史になるのでしょうか、すべて揃えてあります。いい加減売り払ってもよいのでしょうが、買ってくれる人がいるのか……
ところで、この二十四史、もちろんばら売りなんてせず、『史記』なら全十冊、『三国志』なら全五冊セットでの販売となります。「二十四史」を買った、あたしが学生のころ、つまり1980年代後半ですが、そのころはちょっと頑張れば手が届く値段でした。その当時、東方書店や内山書店で中文書を購入すると、元建ての表示価格「1元」が日本円で「200円」くらいでした。
本の値段は「10.25元」などと表示されていて、日本円に換算するときは点を省いて2倍する、この場合ですと「2050円」という具合に換算すればよかったのです。それがしばらくすると円高が進み、ほぼ点を省くだけの換算率に変わりました。となると日本円でほぼ半額になったのかと言いますと、元建ての価格が倍以上になっていたので、日本で買う場合にそれほど安くなったりはしませんでした。
で、ふと思い立って、中華書局のサイトで「二十四史」の値段を調べてみました。いったい今はいくらになっているのでしょう? 全部調べるのは面倒なので「四史」と呼ばれる『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』、それに『資治通鑑』を調べてみました。すると現在は順番に、380元、470元、310元、126元、588元でした。これが東方書店などで現在ではいくらで売られているのかと言いますと、12,355円、15,552円、13,392円、5,443円、28,576円でした。今さっきウェブで調べたものなので変動しているかも知れません。悪しからず。
この値段、ものすごく上がっている気はしませんが、それでもあたしが学生のころよりはだいぶ値上がっているように感じます。ちなみに、あたしが所持している「四史」は、やはり順番に10.1元、14.2元、12.5元、4.7元、58.2元という値段が付いています。現在の中華書局の値段と比べると、それぞれ37.6倍、33.1倍、24.8倍、26.8倍、10.1倍です。これが改革開放の結果なのでしょうか?
この十年ほど中国へ行っていないのですが、それまではしばしば訪中していて、いろいろと値段の変遷を記録しておりました(コチラ)。訪中していないこの十年で、また一段と物価が上がっているような気がします。十年前ですら、「もう中国は安く旅行ができる場所ではない」と、北京や上海で買い物をしていると感じたものですが、それが今なら地方都市にまで及んでいるのでしょうか?
総統って誰だ?
新刊の『総統は開戦理由を必要としている』が配本になりました。早いお店ではもう店頭に並んでいるでしょうし、週明けには各地のお店に並ぶだろうと思います。
ところで、このタイトルにある「総統」って誰のことかわかりますよね? 店頭ではタイトル(正題)だけでなくサブタイトル(副題)とか、オビの文章とか、いろいろヒントがありますし、そもそも置かれている棚を見れば一目瞭然かと思いますが、ヒトラーのことです。
ヒトラーの「総統」という呼称は、あたしも正確なところは知らないのですが、確かあの当時のドイツには大統領がいたはずですし、単なる首相ではなかったので、ヒトラーにだけ与えられた呼称だったと思います。いや、単に呼称というのではなく役職だったのだと思います。
現在の日本語で「総統」とだけ言えば、十中八九、ヒトラーを指しますが、『蔡英文 新時代の台湾へ』を刊行しているあたしの勤務先的には台湾の蔡英文「総統」も忘れてはならないところです。ついでに言えば、もうじき『蔡英文自伝』なんていうのも刊行予定ですから。
閑話休題。
そうです、この台湾のトップについても、日本語では蒋介石以来、「総統」という呼称が使われていて、管見の及ぶかぎり、「総統」を使うのは台湾のトップとヒトラーくらいだろうと思います。ヒトラーにつきましては上に簡単に触れましたが、台湾の場合は単純に中国語で「総統」と言うので、そのまま同じ漢字だから日本語でも「総統」と言っているわけです。
が、台湾へ行ってみると、アメリカのオバマも「総統」と呼ばれます。つまり中国語の「総統」は「大統領」という意味なのです。となると、同じ漢字だからそのまま「蔡英文総統」と表記し、そのまま「さいえいぶんそうとう」と日本語読みもしていますが、もしきちんと翻訳しようとしたら「ツァイ・インウェン大統領」という表記にすべきなのではないでしょうか? 少なくとも同じ漢字を使っていない他国の元首に対してはこのような措置が執られているはずです。
そこで感じるのは語感です。あまり意識していない日本人が多いのかも知れませんが、台湾のトップに対して「総統」という呼称を使うのは、どうしてもヒトラーとナチスを連想させて、あまりプラスの印象を与えないのではないかということです。それほど「総統」と言えばヒトラーと結びついてしまっているということですが、この際、台湾のトップについては「総統」ではなく、「大統領」という呼称に変えてみては如何かと思う次第です。
もちろん台湾で名称変更が行なわれて、大陸でも使っている「主席」となれば、日本もそのまま「主席」を使うように変わるのでしょうが、台湾が大陸の真似をすることはありえないでしょう。台湾のニュースで、この「総統」という呼称を聞くたびに、あたしは毎度そんな風に思ってしまうのです。
まあ、日中・日台間に関しては「総統」に限らず、同じ漢字なので、翻訳せずに、なんでも漢字のまま使ってしまう傾向があり、あまりにも日本語として通用しているものは別として、果たしてそれでよいのだろうかと思うこともたびたびなのですが……
現代の地方誌
果たして利用されたのか?
大地の作家・閻連科
中国農民の生き様
出版社の特権、閻連科の新刊『年月日』を読みました。ゲラでは既に読んでいたのですが、今回本の形になり、初めて著者による「日本の読者へ」と「訳者あとがき」を読みました。
順序は逆になりますが、「訳者あとがき」によると、本書は同じく閻連科の『父を想う』と重なる部分が多いとのこと。
今年刊行された閻連科の散文集『父を想う』(飯塚容訳、河出書房新社、二〇一六年)には、農民だった彼の父親の姿が描かれています。…(中略)…この姿はまさに先じいです。またその少し前にこんな描写があります。…(中略)…この子どものころの閻連科は、まるで先じいのそばをついて回るメナシのようです。(本書150頁)
これまで閻連科というと「発禁作家」「反体制派」的な見方がほとんどだったと想いますが、本書に関して言えばそんなところは感じられず、素朴で温かさ溢れる作品に仕上がっています。そして、来る12日には、その閻連科氏と『父を想う』の訳者・飯塚容さんのトークイベントが予定されています。この「訳者あとがき」はトークイベントが決まる前に書かれていたはずですが、いみじくも、トークイベントに対する訳者・谷川氏からのエールというか、テーマ設定のようにも感じられます。
またこの「訳者あとがき」にも書いてありますが、この作品は『愉楽』とはまるで異なるテイストではあるのですが、舞台が同じ地区ということもあり、その後日談のようにも読めます。レーニンの遺体購入計画を巡る雑伎団で翻弄された村人たちが、もうあんなふうに金に踊らされるのはまっぴらだ、百姓は百姓らしく土にまみれて実直に働こうじゃないか、と決意して数年、ようやく平穏が訪れたと思った村を大飢饉が襲う。生き抜くために村を捨て町へ働き口を求めに行く村人たち。しかし、自分の畑にたった一本生えてきたトウモロコシを見つけ、村に残ることにした先じいさん。盲目の飼い犬と共に、このトウモロコシを無事に実らせ、来年村人たちが戻ってきたときに植える種とするために、食べるものも飲むものもなくなった村で必死のサバイバルを繰り広げます。しかし、わずかに見つけた食べ物をネズミに狙われ、ようやく見つけた泉には恐ろしいオオカミが待ち受けていて……
それでもなんとかトウモロコシを必死に守り育てる一人と一匹。いや、すでに先じいさんの気持ちとしては盲目の犬は犬ではなく息子です。表4オビの文小は思わず涙を誘われます。そんな先じいさんと盲目の犬、二人はトウモロコシを実らすことができるのか? そして村人たちが帰ってくるとき、二人は笑って村人を迎えることができたのか? それは本書をお読みください。
さて、閻連科氏による「日本の読者へ」には
「へえ、こんな小説も書く人だったんだ。こんな小説を書くことができたんだ!」と感嘆のため息を漏らしてくださることを願っています。たった一人でも、ほんの数人の読者のため息でも、私にとってはそれが最高で最大の褒賞です。(本書146頁)
とあります。今回、本書の刊行に合わせて閻連科氏が来日し、国内数か所でシンポジウムに参加されます。それだけではなく新宿と渋谷の書店でトークイベントも開催されます。書店イベントは閻連科氏が日本の読者と接する機会を持ちたいという強い意向で実現しましたが、閻連科氏の希望どおり、「こんな小説を書くことができたんだ」と直接伝えられる好機です。
ただ、これまで邦訳された作品を読んでいると、農民に対する温かい眼差しは共通しています。この『年月日』は決して「こんな小説」ではないと、あたしには思えます。あえて言うならば、本書は現代版『大地』ではないか、そんなふうにも感じられます。