魔術師はいったい何者だったのか?

まだ発売前ですが、出版社の特権、数日前に手に入る新刊『歩道橋の魔術師』、読了しました。

本書は著者・呉明益の子供のころを描いたとおぼしき作品ですが、自伝とか半生記と言ったものではありません。かといって、古きよき台北の庶民の生活を偲ぶといったら、これもまた著者の意図を曲解していると指摘されるかも知れません。

さて、本作品を読む前に、まずは作品の舞台についてひとくさり。

タイトルにもなっている歩道橋を、日本の歩道橋のようなものと想像するとちょっと違います。あえて言えば、最近の鉄道駅の駅前にある「ペデストリアンデッキ」のような大規模なものをイメージした方がよいかも知れません。もちろんそんなきれいなものでもなければ、オシャレなものでもありません。もっと猥雑で、いかがわしく、薄汚れていて、混沌としたものです。あたしが言いたいのは、日本の一般的な歩道橋のように人がすれ違うのがせいぜいの細いものではなく、もっと幅の広い、だからそこに茣蓙を広げてちょっとした商売や見世物なら十分にできるような幅のあるものを想像して欲しいということです。

そんなやや太めの歩道橋によって結ばれていたのが台北の中華商場という、今で言うショッピングモールです。3階建ての長い長い建物です。全部で8棟あって、その2階部分が歩道橋で繋がっているのです。

中華商場06.jpg
中華商場06”。采用合理使用授权,来自Wikipedia

と、現在形で書きましたが、この中華商場、いま台北に行っても見ることはできません。とうの昔に取り壊されました。中国語版のウィキペディアに「中華商場」という項目があるので、中国語のわかる方はそちらをご覧になれば、歴史・沿革がわかるはずです。上の写真もそこに掲載されていた写真です。あるいは自分で「中華商場」でググってみれば、当時の中華商場の写真が多数ヒットするはずです。ちなみに、あたしは「中華商場 台北 1980年代」でググってみました。上掲以外にもかなりいろいろな写真が見つかります。

さらにYouTubeにはこんな動画もアップされていました。ナレーションは中国語ですが、字幕があるのでなんとなく意味は取れないでしょうか? まあ、意味はわからなくても、中華商場がどんなところだったか、それは十分に伝わってくると思います。

この猥雑な感じ、近代化を進める行政側が取り壊したくなるのもわかる気がしますし、香港の九龍城に近いものを感じます。

さて中華商場ですが、現在は無いと言っても、当時はどのあたりにあったのか気になる方も多いのではないでしょうか? そんな方はこちらのページをご覧ください。台北の地図が三つ並んでいます。最初の日本統治時代、最後の現在に挟まれて、真ん中に高度成長期として1980年の台北地図が表示されています。この地図のほぼ真ん中右寄りに「総統府」という青い丸があります。その左上に、やはり丸いロータリのような部分が見えると思います。「紅楼」と書いてあるところです。この丸いロータリーの右側に南北に細く、ちょっと色の付いた部分がありますが、そこが中華商場で、縦に中華商場の四文字が並んでいるのが見つけられると思います。

地図でわかるように中華商場は南北に延びたモールですが、東西に通りが何本も走っているので、その通りで建物が分断されています。だから8つの建物になっていて、それぞれを結ぶのが歩道橋だというわけです。「訳者あとがき」にもありますが、この中華商場をイメージすると、どうも大きな通りの真ん中、名古屋や札幌の大通公園みたいな部分に建物が建っている感じがします。そして通りの整備に併せて取り壊されてしまった、というところでしょうか?

さて現在の台北に中華商場は無いとはいえ、この作品に出てくる街の名前、全部が全部無くなってしまっているわけではありません。登場するとおりの名前などは現在も台北に残っているところが多いです。上の地図はGoogleマップで台北の該当部分を拡大表示したものです。

中国文学や台湾文学に詳しくなく、本作で初めて読んだという方のために、少し地理的なものを上の地図を頼りに補足しておきます。まず画面中央に縦に走っている、黄色く塗られた通りが中華商場のあったとおり「中華路」です。真ん中あたりに「西門站」という文字が見えると思いますが、これが本文中にもしばしば登場する西門町の中心と考えてください。現在の地下鉄西門駅です。その西門駅のすぐ右側(東側)には「中山堂」が見えます。この中山堂の東に縦に走っているのが「重慶南路」です。この重慶南路を挟んで中山堂と反対側にあるのが二二八和平紀念公園、本文では「新公園」として出てきます。

地図の上部に台北市萬華運動中心というのが見えますが、その南側を東西に走るのが「漢口街」で、この通り沿いに「第一百貨店」があったわけです。地図を拡大してもらうと表示されると思いますが、漢口街の一本南側の通りが「武昌街」で「獅子林ビル」はこの通りにあり、現在は新光影城となっています。この他作品中に出てくる地名では、漢口街の北に「開封街」が見えます。この地図の表示地域のもう少し南に行けば「桂林路」があります。

2015年4月19日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

袁世凱

岩波新書『袁世凱』読了。

 

以前に、やはり同著者の岩波新書『李鴻章』を読んでいたので、その後を継いだ袁世凱にもたいへん興味があります。著者はこれまでの袁世凱像を改めたいという思いがあるようですが、幸か不幸か、あたし自身はそれほど袁世凱に対して悪い印象を持ってはいませんでした。もちろん康有為らの戊戌の変法を潰し、孫文らの革命の果実を横取りしたといった世間並みの感想がないわけではありませんが、康有為や光緒帝、孫文ら革命派の稚拙さも感じるところであったので、袁世凱の方が彼らより一枚も二枚も上手だったなと思っていました。

さて、本書を読んでそんな袁世凱像が変わったのかと言われると、ちょっと意外な感じがしたのは、もっとギラギラとした権力欲の強い人かと思っていましたが、読んだ限りではそれほどでもなく、決して権謀術数の限りを尽くして政敵を葬ったりといった暗い感じは受けませんでした。とにかく、その時その時で相対的によい選択をしていっただけ、そんな気さえします。

最も肝心な、彼が清朝についてどう思っていたのかとなると、基本は立憲君主制であり、あくまで清朝皇帝を戴いた国家運営を望んでいたのだと思います。溥儀をはじめとした皇族に対してかなりの優待条件を付けたのも、あわよくば復辟も考えていたのかなと個人的には思います。もちろん内憂外患、多難な中国の現状を考えると、なによりも肝心なのは国を滅ぼさないこと、列強の侵略をなんとか最小限でしのぎつつ、その列強の支持を得て国を立て直すのが最大の目標であって、そのために清朝皇帝が使い物になるのか否か、そこを冷静に判断したのではないかと思います。

最終的な疑問である、なんでみずから皇帝になろうとしたのか? これについては著者も書いているように、まだまだ当時の中国では「国の真ん中には皇帝がいる」という意識が抜けきっていない、皇帝が存在しない共和政、民主制というものがどんなものなのか、たぶん袁世凱自身も実感としては感じられていなかったのが大きいのではないかと思いました。

さて、袁世凱、皇帝即位が失敗に終わり失意のうちに逝去、と一般には言われています。確かにそういう「気落ち」はあったのでしょうが、それでもその後の中国で続く混迷を考えると、あまりにも早い人生ではないでしょうか。孫文にもそう感じるのですが、あと10年か15年壮健で活躍していたら、その後の中国はずいぶんと変わったものになっていたのではないかと思います。

 

この続きは、同じく岩波新書の「シリーズ 中国近現代史」などに進んでいただくのがよいかも知れませんが、この後の軍閥混戦のありさまは『覇王と革命 中国軍閥史1915-28』がとてもダイナミックで面白いと思います。

それにしても、あれだけ外国に蹂躙されていても、まだ地域ごとの利権で争っている中国近代。清朝がそもそも地方分権的な政権だったということがあったにしても、もう少しなんとかならなかったのかという気もします。が、それでも決してヨーロッパのような分裂国家には至らず、しっかり中国としてまとまって一つ国家に収斂していくところはすごいと思います。

2015年3月14日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

Androidアプリ「三姑六婆」続報

先日ここでレポートしたAndroidアプリ「三姑六婆」について追加報告です。

と言っても、それほど大きなことではありません。ちょっとした追加情報です。

前回のレポートで、タブレット版は起動時に画面に「まず性別を選んでください。云々」というメッセージが出ていないと書きましたが、本日、Google Playでアップデートされまして、タブレット版でもそのメッセージが起動時に表示されるようになりました。

また、「子」と「女」のキーが、それぞれ「仔」と「囡」になっているという問題も、今回のアップデートで解消されました。これでスマホ版とタブレット版とで同じになったということでしょうか? 細かいところまでは検証できていないので、この程度の報告でご寛恕ください。

それにしても、Google Playで「三姑六婆」と検索すると、似たようなアプリとして「親戚来了」「親属称謂」という似たようなアプリが表示されます。「三姑六婆」が計算機タイプのインターフェースなのに対し、この二つはちょっと異なりますね。使い勝手はどうなのでしょうか? 機会があればこちらも検証してみたいと想います。

ところで、個人的にはこのアプリはとても便利だと想うのですが、中国語の量詞と名詞の組み合わせを示してくれるアプリってないものでしょうか? 例えば、ある名詞を入力すると、それに対応する量詞が表示される、量詞を入力すると、それで数える名詞が表示される、といったアプリです。昔、SQLでちょこっと作ってみたんですけどね……

2015年3月9日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

「三姑六婆」レポート

日本では近かろうが遠かろうが、親戚の男性はだいたい「おじさん」、女性は「おばさん」で通ってしまいます。父方だろうと母方だろうとほとんど頓着しません。伯父と叔父のような兄弟の順序に拘ったり、あえて岳父などと言ったりすることもありますが、一般的にはそこまで神経を使わなくてもなんとかなります。

が、中国語ではこの親族呼称がかなり厄介です。父方か母方か、あるいは妻方か夫方か、自分よりも年上か年下か、そういった細かなことを区別して呼称も使い分けられています。もちろん、かつてのような大家族も減り、都会では日本と同じように核家族化が進み、更には一人っ子政策のために今後ますます家族、親族の構成員が減る傾向にある中国でも、親族呼称簡素化の流れが速くなることはあっても、遅くなることはないでしょう。とはいえ、現状ではやはり日本より複雑であることには変わりありません。

そんな中国語の親族呼称を簡単に調べられるスマホアプリがありました。知り合いの中国語の先生の紹介で知りました。「三姑六婆」というアプリで、Android版のみがあるようです。iPhoneユーザー向けに同様のアプリがあるのかはしりません。で、インストールして使ってみました。

起動すると上のような画面が現われます。「最初に性別を選んでください」とありますので、ディスプレイ左下の「女」あるいは「男」で自分の、あるいは調べたい呼称の中心となる人の性別を指定します。なお、しばらくするとこのメッセージは消えます。

ちなみに、上の画面はタブレットにインストールした時の起動画面です。こちらでは性別を選びなさいというメッセージは出ていません。またAndroidタブレットでは標準的だと想われる横向き(ワイド?)のレイアウトには対応していないようなので、ふだん横長でタブレットを使っている人は90度回転させ、縦長画面で使用することになります。なお、文字キーで「弟」「妹」の下の文字がちょっと違うのはタブレット版とスマホ版の仕様なのか、あるいはあたしの機種(のフォント環境)が原因なのかはわかりません。

ここから実際の親族呼称を調べていくわけですが、画面には最初から「我」と表示されていますので、「的」キーと「父」「母」などのキーを繰り返すことによって、家系図を辿るような手順で目的の人までキーを押します。最後に「=」キーを押せば、目的の親族呼称が表示されるというしくみです。ディスプレイの上部には小さい字で、そこまで入力したキーが表示されています。戻るときは「AC」の左側にある「円を描いている矢印」キーを押します。

ちなみに、自分を女性に指定したまま「妻」キーを押すと、上図のように見つけられないというメッセージが出ます。女性である自分から見た「妻」って何だ(?)というところでしょうか(笑)。同性婚が普及すれば、いずれここにも解答が表示されるのでしょうか?

また、同じことをスマホ版でやると、上図のように、もう少し丁寧なメッセージが表示されます。

お遊びはこれくらいにして、もう少し真面目に使ってみます。「我」という表示があるので「的」「母」「的」「妹」「的」「仔(スマホ版だと「子」)」「=」と入力してみた結果が上図です。年上か年下かを聞いてきます。やや遠い親戚の場合、最後にほぼ必ずこの質問が表示されます。中国語では自分より年上なのか年下なのかどれほど重視していかがわかります。

「年長」「年軽」を押せば、上図のように答えが表示されます。もちろん「年長」「年軽」を聞かれずに答えが出ることも多々ありますが。

さて、この親族呼称電卓、どこまででもキーを押し「的」で繋いで行くことができそうです。果たしてどのくらいまで行けるのか? いや、そもそもそんなところまで固有の単語が存在するのでしょうか? たぶんそこまでの単語はないでしょうね? 第一、そこまでの親戚づきあいは、いかに大家族の中国人でもしていないでしょうから。

と、以上、ごくごく簡単な「三姑六婆」の使用(試用?)レポートでした。

2015年3月8日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

本当の友好に産みの苦しみ?

中国の旧正月、春節の大型連休で日本にもたくさんの中国人が来ているようです。来ていると言うだけでなく、中国人が来ることを当て込んで、なんとか地元や商品を売り込もうと必死の日本、という構図も報道などからはうかがえます。政治の世界がこれだけ冷え込んでいるというのに、民間レベルでは全く関係なく動いているところがおもしろいものです。

さて、このところ中国人の所得増加、それに伴う海外旅行ブームによって世界各地で中国人と地元の人との軋轢が生じているようで、時々ニュースでも報じられます。多いのはマナーの悪さ。ほぼそれに尽きるという感じです。ただこれは、まるっきり習慣も文化も異なる海外に来たら、誰だって多かれ少なかれあることで、ネットなどではそれをかなり極端に誇張して報じているようですが、多くの中国人が海外旅行を経験するようになれば、おのずと国内でもそういう知識や経験が伝わり徐々に国際ルールを学んでいくのではないかと思います。なので、あたしは個人的には長い目で見るしかない、と思っています。

ただ、一般に日本人が、わからなければおとなしくして、周囲の様子をうかがう、というタイプなのに対して、中国人はところ構わず、自分のやりたいように振る舞う、という面があるのかもしれません。だから余計に海外で面倒なことになっているのではないでしょうか?

そんな中国人の海外でのふるまいの中で個人的に興味を引かれるのは香港や台湾の反応です。本来、香港も台湾も中国と言ってよい土地ですが、中国本土とのつきあいが増えるにつれ、自分たちとのあまりの違いに困惑し、ひどい場合には「こんな連中と同じ中国人とは思いたくない」という意見まで出ている始末。なまじつきあいが深まった固めに生じた摩擦でしょうね。

さて、日本です。

日本にもたくさんの中国人が来ているようです。日本人もかつては「一衣帯水」などといって中国人とわかり合える、根っこは同じ、的な意識を抱いている人が多かったと思いますが、昨今の反中意識の高まりで、自分たち日本人と中国人は根本的に違うと考える人が増えていると思います。ですから、日本に来ている中国人と摩擦があったとしても香港や台湾の人よりは受け止められるのではないかと思います。

いや、むしろこういう摩擦はもっと起きた方がよいのではないかと思います。そして、その摩擦をきちんとお互いに理解しないと両国が本当に仲良くなることは出来ないのではないか、そんな気がします。当面は中国人がいっぱい日本に来て買い物をしてくれる、たくさんお金を落としていってくれるから大歓迎、という中国人の訪日歓迎ムードが大勢でしょうが、個々の場面では「もう中国人は二度と来るな」的な思いをしている・した人も多いと思います。

でも、だからといって本当に来ない方がよいと思ってはいけないと思います。逆にもっともっと中国人には日本に来てもらって、実際の日本を見、実際の日本人と接してもらい、多少は日本人ともめ事を起こしつつも、日本を理解してもらいたいと思います。

日本を訪れた中国人が日本を好きになってくれなくても構いません。ただ、少なくとも日本を理解してもらいたい、とは思います。大学時代の恩師が中国からの留学生に「親日家になってくれなくても構わない。知日家になってくれ」と常に言っていたことが、今でも耳に残っているから、あたしもそう思うのでしょう。そして、そんな来日中国人とのトラブルは、本当の日中友好のための産みの苦しみだと思います。

2015年2月21日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

殷-中国史最古の王朝

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2015年2月16日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

中国 無秩序の末路

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2015年2月10日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

貧者を喰らう

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2015年1月26日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー

今も連綿と生き続けるルサンチマン

アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち』読了。

本書に出てくる主役三人、アフガーニー、梁啓超、タゴールの名前をどのくらいの日本人が知っているでしょうか? さすがにタゴールはノーベル文学賞受賞者なので知名度も高いと思いますが、他の二人はどうでしょう?

本書はそんな、日本ではあまり知られていない人物にスポット当てた本ですが、本書の中にももっとたくさんの知られていない人物が出てきます。でも、個々の人物を知ることが本書のポイントではありません。むしろ時代精神を言ったものを感じることの方が大事なのではないでしょうか。

舞台となる時代は帝国主義時代です。当時のアジアはヨーロッパ諸国の植民地として搾取と貧困にあえいでいました。そんな状況を打破すべく、アジア各国の知識人たちは何を考え、どう行動したのか。当然のことながら、ヨーロッパ諸国が作った直ミンチ政府に仕え、西洋流の思想に触れ、それに感化されていった者もいましたし、ナショナリズムに目覚めた者もいました。自国の現状をどう変えていくか、最初は西洋をモデルにしていたものの、すぐにそれではいつまでたっても西洋の搾取から抜け出せないことに気づきますが、ではどうしたらよいのか、その答えは簡単には見つかりません。

そんなアジア諸国に対して、日本は日露戦争で大国ロシアを破り、アジアの国家の気概を西洋に示したヒーローとして当時のアジアの知識人たちの目には映ったようです。彼らの多くが日本にやってきました。しかし、その日本に裏切られ落胆するのも早かったです。確かに著者が言うように、日本のアジア侵攻は西洋からの解放という側面は持っていたものの、結局日本はアジアの裏切り者になってしまったような印象を受けます。

本書は、イスラーム社会にページを割く比率が高いですが、梁啓超を中心とした中国にもかなり紙幅を割いています。中国は非イスラーム社会として独特の歴史を歩むわけですが、昨今の中国の台頭、その国際社会への挑戦、独自の価値観・規準・原則の押しつけなど、そういった行動の根がこういったところにあったのかな、と観じられます。

とにかく、イスラーム諸国も中国も。、おしなべて西洋流の押しつけに反発していたわけですが、100年後の今日も、やはり世界は西洋流の価値観を基準として動いているわけで、このアジア諸国の鬱屈した思いは、そう簡単には消え去りはしないだろうと思います。とにかく、本書は100年前のことを題材としつつも、今のことを考えさせる本だと思います。

2014年12月7日 | カテゴリー : 罔殆庵博客 | 投稿者 : 染井吉野 ナンシー