第8回 大学3年次(前)

ようやく大学3年生に突入です。うちの大学は1年生、2年生は朝霞校舎(埼玉県朝霞市)で学び、3年生から大学院までは白山校舎(東京都文京区)で学びます。私の場合、通学がかなり楽になりました。そして本好きのメッカ・神保町が通学路に入りました。

ちなみに私は大学受験・合格発表・入学手続きとすべて白山校舎でしたので、また過去問すら見ないような受験生でしたので、東洋大学に入るということは模試で来たこともある文京区のあの学校に通うのだと勝手に思いこんでいました。しかし4月になって履修要覧など実際の始業準備にかかわる事務手続きが始まる段になって初めて「受け渡し場所:朝霞校舎」とあるのに気づきました。「朝霞校舎」って何? というのが率直な感想でした。そこで恐る恐る大学入試の募集要項を見直しました。すると、「1・2年次朝霞校舎」という文字がありました。その時点まで頭の中には全く「朝霞」などという文字がなかったものですからかなりの衝撃でした。

今更こんなことを書いてもしょうがないですね。話を3年生の時に戻しましょう。3年になるとさすがに「一般教養」的な授業はなくなります。選択科目として中哲文科の場合、同じ文学部の哲学科・インド哲学科の授業などを履修することも可能でした。中国哲学と文学にはそれぞれ「特講」「演習」という名の授業が2つずつあり(つまり合計8つです)、「特講」「演習」それぞれの中から3つを選択することになっていました(3年・4年の2年間で)。いちおう卒論のテーマが哲学的な人は哲学を2つ文学を1つ、逆に文学的な人は文学を2つ哲学を1つ選ぶという暗黙の了解がありましたが、授業内容と開講時間によって選べばよく、堅苦しい決まりというほどのものではありません。時には4つずつすべて履修する剛の者もいました。

私の場合、教員免許にしろ学芸員・図書館司書にしろ資格というものを全く取るつもりもなく、それ故そのための授業を履修してこなかったので、学科の授業の選択は比較的自由にできました。ただ、どう頑張って取りこぼしなく履修しても、1年で履修できる単位に上限があるため、4年次に卒論とあと授業1科目が残るようにできています。そして、ここでもまた暗黙の了解のようなものがあり、4年次には、確かに制度上は卒論と1つの授業だけ出ればそれで構わないのですが、自分の卒論担当の先生の演習科目には単位にかかわらず4年の時にも出席しなければならないのです。もちろん出ない学生もかなりいましたが、多くの学生は自分の担当の先生の授業の単位を4年次に残しておく履修の仕方をしていました。

そんなわけで私は哲学特講を2つ、哲学演習を2つ、それに文学特講・文学演習を1つずつ、合計6つを履修すればよかったのですが、哲学演習を1つ4年次に回しました。

では次にこの年に履修した科目(主として演習形式)を書き並べてみます。
中国哲学特講 : 塩鉄論 章太炎先生自訂年譜
中国哲学演習 : 史記会注考証
中国文学特講 : 世説新語
中学文学演習 : 楚辞集注
中国現代文学演習 : 長生塔(巴金)

この他に講義形式として中国哲学史概説、中国文学史概説、中国現代文学史概説、文字学の授業がありました。

書名だけは立派に並んでいますが、どれも全篇を通読したわけではありません。ほとんどの科目は先生がこの数年来ずっと講読を続けているもので、昨年度の続きから読み始める場合がほとんどでした。そしてこれまで繰り返し述べてきたように、原文だけでなく注も読み、出典調査をしながらですから、我々の年もせいぜい1篇か2篇も読むことができれば「御の字」という状態でした。結局は「中国の古典文献の取り扱い方を学ぶ」ことの方がメインで、例えば『塩鉄論』に書かれている内容を皆で吟味して議論を戦わす、というものではありません。中哲文科の場合、いわゆる「ゼミ」というものがなく、どの授業も平均20人から30人くらいの学生が履修していましたから、事実上そのような授業を行なうことは不可能といっても過言ではありませんでした。

ただこの中で『世説新語』の授業だけは、履修時間の関係もあってか3年生の履修者は私を含め3人か4人で、あとは10名ほどの4年生がいただけでした。が、4年生は就職や卒論、教育実習など授業に出てこないことが多く、実際の授業は我々3年生数人でやってました。この授業は前期のうちは序論や本文の初めの辺りを少し読んだのですが、後期からは夏休みの課題を承け、各自が『世説新語』の中から興味ある人物を選び、その人のエピソードを全書から集め、そこからその人物の人物像を自分なりに考え発表するというものでした。学生は事実上3人しかいませんから、事前準備も含め協同作業のような感じで進みました。レジュメもあらかじめ配ったりしておいたので、議論も盛り上がり私個人としてはなかなか楽しい授業でした。

『塩鉄論』は王利器が注釈を施したものがテキストでした。ここまで幸いにも我々が履修してきた教材はほとんど「虎の巻」とでも言うべき、訓読・現代語訳付きの本が出ていました。が、この本には手頃な翻訳書がなかったのです。せいぜい部分訳程度で、この年読んだ部分はその部分訳には含まれていませんでした。あれこれ捜していたところ、運良く古本屋で岩波文庫の『塩鉄論』を見つけることができました。もちろん新刊書としては品切状態でしたので、古い文庫本のくせに1000円もしました。ただ、今となっては古い品切・絶版ものの岩波文庫は1000円なら安い方ですね。なおこの岩波文庫は数年前に復刊されています。

岩波文庫で昔『塩鉄論』が出ていたということは、あまり学生の間には知られていませんでした。やはりその時点で品切になっているとわからないものです。図書館なら置いてあったはずですが、そもそもあると思っていなかったためか、クラスの中で持っている人はいないようでした。もちろん図書館の本はせいぜい1冊か2冊しかないですから、誰かが(他の学年・学部の人も含め)借りてしまったらおしまいでしょうが……。そのため、私が持っていた岩波文庫はちょっとした人気者でした。なにしろ、その岩波文庫は訳こそ載ってないものの、『塩鉄論』全書に訓読がつけられていたからです。

岩波文庫で思い出しましたが、同じくこの年に履修した『楚辞』も、その当時は品切でしたが、かつて岩波文庫にありました。そしてこれも同じですが数年前に復刊されました。ただ、この当時の岩波文庫は往々にして訓読文だけで現代語訳がありません。当時の日本人の教養レベルなら、訓読がそのまま現代語訳として通用したのでしょう。が、現代の私たちにはそれではちょっと困ります。むしろほとんどのクラスメートは訓読よりも現代語訳の方を求めていました。

この辺りで、本当に中国学が好きで入学してきた者とそうでない者との差が出てきます。好きな学生は訓読だけで十分なのです。なぜなら解釈は自分でやるのが勉強だと思っているからです。時には既存の訓読が当てにならないと感じることもあります。最悪の場合、間違っている訓読もあるほどです。間違っているというよりは、自分の解釈に従って訓読するとそのような訓読にはならない、と言う方が正確でしょうか。

が、とりあえず好きでも嫌いというわけでもなく入学してきた学生はそんな解釈がどうのこうのと言ったことには興味がないのでしょう。単純に現代語訳だけを求めます。入試に漢文がなかったということからも、また比較的大人数で演習も行なわれていたということからもわかるように、うまく3年生まで進んできた者もかなりいます。人によっては漢文訓読の基礎が全くできていない人もいました。私立の高校の場合、受験科目に漢文がなければ、授業で漢文を選択しなくてもよいらしく、漢文の授業を受けたことがないのに中哲文科に入学してきた学生もいるようです。

ただ、これも考えようだと思います。自分はミーハーかも知れないけど,NHKのドキュメンタリーや漫画などで中国に興味を持ったから入学してきた。高校時代には漢文の授業がなかったから漢文を読むのは苦手だけど、大学で一から勉強すればいいや。こんな風に考えて入ってきた学生もいたと思います。しかし、大学というのはそういう面では冷たいところです。最低限(これも人により先生により差がありますが)のことは、各自が自分でやっておくものだという考えが支配的です。ですから、漢文訓読の基礎は「授業で」ではなく「自分で」身につけなければならないのです。

例えば、中国哲学史と中国文学史の授業は3年生であります。別にこれは概説と銘打っていますが、決して古代から近現代までの通史の授業ではありません。先生が毎年毎年適当なテーマを選んでそれについて1年間かけて講義をするのです。もし中国哲学史・文学史の概略を講義するような授業であるなら、3年生でやっても意味がないでしょう。1年生の時にやるべきだと思います。が、実際には上に述べたような授業内容なので3年生に配当されていました。ですから、中国哲学史・文学史の大略を学ぶのは、これもまた各自が自分でやらなければならないのです。

これが大学の学問のやり方と言えばそうなのでしょうが、やはり我々世代の気質にはちょっとなじみにくいものもありました。結局、好きで入学した者は、なんとか自分でやり抜け、そうでない者は中哲文科を卒業したというのに、なにもつかむことができずに卒業していくことになるのです。ちなみに中哲文科の学生で卒業時に、中国歴代王朝の順番をきちんと言える人はほんの一握りでしょう。もちろん中にはきちんと成立年・滅亡年まで言える人もいますが。ましてや四書五経、十三経・二十四史を言える学生はよほど奇特な学生です。

(第8回 完)

第7回 短期語学研修(後)

前回はちょっとくだらない身の回りの話をだらだらと書いてしまったみたいで、反省してます。ところで今回の研修中の最大の話題は「B型肝炎」の大流行でした。北京はまだそれほどでもなかったのですが、南の方、上海あたりではかなりの猛威のようでした。我々の研修でも、他の大学のコースの人の中には、もともと上海や南京の大学を希望していたけど肝炎が怖いから、寒さをこらえて北京に変更した、という人がかなりいたようです。業者の方も中国でかなり死者が出ていたので、できれば南方の大学はやめてほしいと要請していたようでした。

笑ってしまうような話ですが、我々も着いたらすぐに(翌日だったかも知れない!)肝炎の薬だと言われて学校の事務の方にもらった粉薬を飲まされました。なんか砂糖のようなざらざらとした茶色いもので、幼稚園児の握り拳くらいの量がビニール袋に入っていました。

確か漢方薬って飲み続けることによって体質から変えていくんだよな、1ヶ月の留学でこれっぽっち飲んで効くのかな、と仲間と言いながら飲んだ記憶があります。

この肝炎、我々の留学中に徐々に感染地域が中国大陸を北上して、天津でも死者が出たというニュースが漏れ伝わってきました。我々の卒業旅行は洛陽・西安・上海・蘇州を回るもので、上海から出国でした。が、あまりの肝炎の猛威に、当初、留学先の学校の先生方は行き先を変更した方がよいという意見でした。しかし、ほどなく肝炎も下火になったということで予定どおりのコースで旅行しました。ここまで書いて思い出しましたが、先の肝炎の薬はこの旅行の直前に飲まされたものだったかも知れません。そうなるとますます効き目は怪しいですね。

結局、我々十数人のうち3分の1くらいの人が肝炎を怖がって旅行に参加しませんでした。もちろん参加しなければ、その分留学費用も安くなりますし、既に行ったことのある人にとってはそれほど食指を動かされる目的地でもなかったのでしょう。

実はこの卒業旅行は、もう一つ初期の計画からの変更がありました。そもそもこの留学を申し込んだ時点では各都市間の移動は飛行機を使うことになっていました。が、留学前数か月の間に、中国国内機の墜落事故が相継ぎ、急遽全行程列車の旅行に代わりました。無駄な時間が増え、その分訪問都市での滞在時間は減ってしまいましたが、列車の旅なんてそうそうパックツアーでは経験できませんから、むしろ私は大歓迎でした。ハイライトはなんといっても西安を晩に発ち、翌日の晩に上海に到着するという26時間余りの列車での移動でした。途中でも下車して1日くらいぶらぶらして、また次の都市へ向かう、なんてできたら最高だったのでしょうが、それは無理でしょう。

さて上海に着いて宿泊先は上海外国語大学の寮でしたが、翌日の晩にベッドにねっころがってテレビをぼんやり見ていたら、死者は何名、負傷者は何名で、その家族が中国へ向かう準備をして数日中には日本を出発するとアナウンサーが言っているのが聞き取れました。今考えるとずいぶん耳がよくなっていたものです。

このニュースを聞いて、ふーん、なんか事故でもあったのか、くらいにしか思っていませんでしたが、日本へ帰って初めて知りました。あの「上海列車事故」だったんですね。我々が晩に上海に着いたその日の早朝の事故だったようです。日本では私の家族が、私の乗っていた列車じゃないかと、家族用の日程表を見ながらハラハラしていたそうです。この時点で我々はこの事故について、自分で新聞を買うかテレビのニュースを見ない限り一切わからない状態でした。上海に到着した時は、そんな様子は駅にも町にもなく(到着が深夜だったせいもありますが)、むしろこの町の5人に1人は肝炎の患者だということの方が恐怖でした。ちなみに肝炎を恐れる仲間の中には上海で買い物をしても決してお釣りを受け取らない者がいました。紙幣・硬貨などを経由した感染を怖がったのです。

飛行機が危ないから列車に変えたら列車事故、とまあ今となっては絵に描いたような笑い話ですが、決して他人事ではないです。たぶん上海列車事故で亡くなった高校生ではないと思いますが、我々が北京で学んでいた間も、そして卒業旅行で方々を回っていた時も日本の高校生の団体を見かけました。北京では我々が中国語を勉強していること見破って、通訳を頼んでくる高校生もいたといいます。幸いにも私は通訳を頼まれませんでしたが、それは私が中国語をしゃべれそうにないと思ったのか、それとも全く中国人だと思われてしまったのか……。

そんなこんなで高校のうちから中国へ来られるなんて羨ましいなあと思いつつ彼らを眺めていたものです。もし私が見かけた高校生が犠牲になったのだとしたら、やはり多少は心が痛みます。少なくともこのニュースを聞いたごく普通の日本人よりは、私にとってははるかに身近な事件でした。

しんみりとしたくらい話はやめて留学中のことに話を戻します。今回の語学研修に参加した仲間は皆大学で第1外国語か第2外国語かの違いはあるにせよ中国語を学んでいる人たちばかりでした。もちろん既に中国へ来たことのある人もいました。しかし、中国の歴史や哲学・文学を専攻にしている人は私以外にはいませんでした。先生が引率して北京市内や郊外、卒業旅行に連れていってくれましたが、名所旧跡の説明にはおかしなものもかなりありました。我々がただのパックツアー客ではなく語学研修生だということで、旅行の時の添乗員の人もほとんどすべて中国語で話をしてきます。が、歴史的なこと、文化的なことになるとピンインのヒアリングは皆ほとんどできているのにそれが漢字に置き換わらないのです。つまり音は入ってくるけれど意味が入ってこないのです。

これはちょっと自慢話ですが、そのような時はほとんど私の独壇場でした、私はガイドさんの言っていることは音だけでなく意味も飲み込めました。そりゃそうですね。大学で専門に学んでいることばかりなので、他のメンバーと違って比較的楽に音から漢字に変換できるのですから。そこでガイドさんが説明して皆がポカンとしていると、私が日本語で説明し直すということがしばしばありました。

自分が学んだこと知っていることを、その舞台に立って実際に味わうというのは、別に日本にいても同じですが、格別なものがあります。また、行った時には知らなかったけれど、後から本を読んだりして「あそこはそんなところだったのか」などと更に興味を膨らますこともできます。少なくとも私の場合、ますます中国学を学ぶ意欲がわいた短期語学研修だったと言えます。

この研修中、私はカメラ小僧で、ずいぶんと写真を撮りました。そのうちの100枚をPhotoCDにしました。そして更にその中から何枚かをこのHPに載せてあります。ぜひご覧ください。ただ私が中国へ行ったのは1988年ですから、今とはずいぶん違うと思います。この頃もかなり改革開放で北京の町は変わりつつありましたが、この数年と比べたら大したことはありません。中国のここ10年ほどの、特に都市部での物価上昇と為替レートの変化を考え合わせても、私が留学してた当時の方が、「中国は安い!」を実感できました。今では北京ではバス・地下鉄の料金と外貨交換の時くらいしか「角」「分」という単位を見かけませんが、この当時はかなり「元」以下が活躍していました。

(第7回 完)

第6回 短期語学研修(前)

大学3年生になって、と本来なら第6回は書き出されるはずでしょうが、大学の2年から3年になる春休みに私は人生において大きな経験をしました。それは初めての海外旅行です。ちなみに飛行機に乗るのも初めてでした。

2年生の時、夏休みに学科の先輩数名が短期語学研修として中国へ行きました。現在は非常に多くの学生の方が夏休みや春休みを利用して中国旅行をしてますし、短期語学研修にも行ってます。また1年や2年学校を休学して長期の留学に行く人も増えているようです。

しかし、東洋大学が特殊だったのか、この当時としてはまだその程度であったと言うべきか、私の先輩方を見回しても中国旅行の経験者は非常に少数でした。1週間程度の家族や友達との旅行ですら、中国へ言ったことのある人は希でした。

そんな中、割と親しかった先輩が中国へ行ってきた、そして中国の話を聞かされるにつけ自分でも行ってみたいと思うようになったのです。確かに短期研修1ヶ月は、宿泊場所と3度の食事、それに1ヶ月4週間の授業料を考えると、東京で一人暮らしをして大学に通うよりはるかに安い費用ですませることができます。それに4週間の研修のあとさらに1週間中国国内の卒業旅行もどきもあります。ただのパックツアーなどと比べたら確かに割安です。でもやはり一般サラリーマン家庭にはそれなりのまとまった金が必要になります。

そこで私は、今から考えるとずいぶんと強引な取引を親としました。その当時、両親は盛んに私に車の免許を取るように言ってました。私は東京生まれ東京育ちで、なおかつ乗り物に弱いという条件が重なって、あまり車の免許を取る必要性を感じていませんでした。何であんな混んだ道を車で行くんだろう、電車ならすぐに着くのに、と思っていたのです。が、今後のことやちょっと出かけるにしても車の免許があれば便利だという親の説得に応じて1つの条件を出しました。そうです、教習所に通う代わりに、中国へ行かせてくれ、というものです。まあ、よくうちの親もこんな条件を飲んだと思います。いちおうこの要求は認められました。

さてこれで見事中国行きが決まったわけですが、手続きなどは全くやってませんでした。1ヶ月くらいの語学研修を「留学」と呼ぶのは問題がありますが、日本ではさまざまな募集パンフレットなどでも「留学」と書いてあるようなので、私も留学という言葉を時に応じて使います。

まず、今回の中国行きのきっかけにもなったのは東方書店や内山書店の店頭に置いてあった「中国留学」のパンフレットです。公費もありますが、おいてあるパンフレットは基本的には私費留学のものが多いです。扱っている業者も幾つかあります。業者によって日程・留学先の都市・大学に差があります。費用にはそれほどの差はなかったと思いますので、決めた理由は都市と大学によりました。と言っても行ったことのない中国ですから、あくまで印象でしかありません。業者について大手とか中小とかあるのかもしれませんが、その時点では全くわかりませんでしたから、先に行った先輩などに聞いたりしました。

結局、私は「毎日コミュニケーションズ」の語学留学コースに決めました。研修先は「北京外国語学院」です。今は外国語大学というのかな?当時も今も外国人向け語学教育の総本山・語言学院を選ばなかったのは、今となってはあまり理由を思い出せないのですが、確か日本人が多すぎてとても語学研修にならない、という噂を聞いたからだったと思います。ただ結果的に中心部へ出る交通の便としては外国語学院は語言より若干便利で、近くには北東方向に友誼賓館、南にシャングリアホテルがあり、ちょっとした買い物にも便利でした。

語学研修の中身についてここにあれこれ書くいても、語学研修や長期留学の体験記を載せたホームページがインターネットの世界には山ほどありますから、ここでは私の体験したちょっと面白いことなどを書きます。

まず、私の参加した研修団にはほぼ同年齢の男女が十数名参加してました。ほぼ半々の割合で東京出発組と大阪出発組がいて、現地で合流しました。私を含むごく少数の人を除いて、大部分は友達同士2人で申し込んでいるようでした。が、たった十数人ですからすぐに仲良くなりました。

クラスははじめは人数が少ないこともあって1クラスでしたが、どうみても語学力に差があるので初級クラスと中級クラスに分かれました。ふたを開けてみると大学2年生1年生の人は初級クラス、3年生4年生の人が中級クラスになったようです。私は学科が第1外国語に中国語を指定していたこともあり、また中国語のサークルに入って中国を勉強していたので中級クラスに入れましたが、やはり1・2年とはいえこれまでの学習量(学習年)の違いが出るようです。これは経験談ですが、語学研修は現地に行けば嫌でも中国語を使わなければならないんだから、向こうに行けば上手になるよ、というのは全くの誤りです。むしろ日本で十分勉強していった人こそ現地でほんの半年学ぶだけで飛躍的に向上するものだと思います。

授業は月曜から金曜の午前中のみ50分授業が4コマです。つまり1週間で20コマ、4週間の研修ですから80コマですね。これがすべて中国語オンリーの授業なんですから、嫌でもヒアリング力は向上してしまいます。中国語も英語と同じで、わかってくると普通に話している時の単語はごくごく簡単なものばかりです。

でもなによりも、これが肝心だと思いますが、私の場合着いた翌日に仲間と一緒に天安門までバスなどを乗り継いで行ったのですが、車掌さんに話した中国語がきちんと通じて、1往復か2往復でしたけど会話が成り立ったという経験が、自分の発音でも通じるんだという自信になっていました。巷間よく言われますが、語学の上達には自信を持つことが一番なんだとつくづく実感しました。

というわけで、午後は自由時間です。でも私が行ったのは春休みです。ちょうど2月下旬から3月いっぱいという時季です。行った先は北京です。もうおわかりですね。結構寒いんです。それでも3月になると晴れていれば散策するぶんには暖かいと感じられるようになりましたが、ずいぶん厚着をしてました。学校は北京の郊外にあったので、天安門など中心部へ行くには1時間弱かかります。昼食を済ませて夕食前までに戻るとなると、結構強行軍です。それでも結構出歩いたりしてました。特にどこへ行くというわけでもなくぶらぶらその辺を、ということもありました。でも、日本人の性なのか、それとも初めての海外旅行のせいなのか、おみやげを買いに歩き回ることもありました。もちろん1ヶ月もいましたからそれほど慌てて買ったりはせず、いくつものお店を見て歩き少しでも安いところを捜しました。はじめのうちは中国の物価の安さに「にわか成金」状態でしたが、すぐに中国の物価水準になれてしまいました。当時の私の感覚では100元札が日本の1万円札くらいの気持ちでした。

先にも書いた中国語サークルの後輩から餞別をもらっていましたので、彼らに何かおみやげをと思っていたのですが、後輩からは1人500円ずつ、10人で5000円もらってます。これを当時の為替レートで中国元に換算して、ちょうどそれくらいの金額のものを買おうとしたのですが、日本円で500円というのはかなり高価なものです。さすがに宝石とか絨毯みたいなものには手が届きませんが、ちょっとした民芸品などを選ぼうと思うと、1人に幾つか買わないと、とても500円にならないのです。それに10個も買うとなると、当時の中国の品揃えでは、これまた選択肢が狭まってしまいますし、あまり荷物にならないようにコンパクトなものとなると、ますます選ぶのがたいへんです。それでもなんとか手頃なものを見つけて買って帰りました。

(第6回 完)

第5回 大学2年次

大学1年の夏休み以降は、上に述べたような課題も無事作り上げ、ある程度ペースをつかんだというか、やり方のこつを飲み込んだような気持ちを持つことができ、なんとか終えました。2年生になると講義形式の授業としては「文献学」がありました。演習は「老子」と「漢書司馬遷伝」でした。「老子」は江戸期の和刻本の復刻したものを使いました。確か宇佐見某の版です。「漢書」は初めは先生が指定した「仁寿本二十四史」を使いました。これは図書館でコピーをとりました。しかし文字が見にくいこともあり、中華書局本を個人的には併用しました。

この司馬遷伝はまず冒頭に「重黎」という司馬遷の先祖の話があります。このあたりはほとんど伝説と言っていい事柄なのですが、書いてあることがさっぱりで、かなり苦労しました。仕方がないので王先謙の「漢書補注」を使い始め、それを読み進むことになりました。これが泥沼への第一歩でした。結局、この演習は「重黎」だけで前期をすべて使ってしまいました。ただこちらとしてはわからないことを調べられるだけ資料を漁り、皆で議論して納得を得られるまでやりあうという、いかにも演習らしい授業を楽しんでいました。ちなみに後期もいろいろ行き詰まるところがあり、1年が終わっても司馬遷は生まれませんでした。我々はその後、この授業のことを「漢書司馬談伝」と読ぶようになりました。それはせいぜいお父さんの司馬談しか授業で読み進んだ範囲には出てこなかったからです。

2年次というのは今振り返ると、1年生の時に中国学とはどういうものかをつかめたか否かで、その印象がずいぶん変わるものだと思います。中国学をつかむなんていうのは大袈裟ですが、要するに漢文を読んだり出典を調べたりすることに苦痛を感じなくなることができるかということだと思います。苦痛を感じないようにするには、何人かの友達同士で出典調べを共同でやるのがいいと思います。私も友人と出典調べを半分に分け、授業までにそれぞれ出典を見つけコピーし、なおかつお互いにそれぞれの分担部分を訓読・解釈して相手に伝えるという作業をしてました。わからなかったところは相手の意見を仰ぎます。2人してわからなければ授業でその部分について先生がどうコメントするかを待ちます。不幸にして先生がそこにあまり注意を払わず素通りしてしまった場合には質問をします。

以上は特別特殊な勉強方法でもなければ、これで一気に漢文が読めるようになるという奇策でもありません。しかし、私には非常に有効な方法でした。ところでこの頃だと思いますが、出典を調べるのに「中国叢書綜録」を使うようになりました。ある本を探したい時に、有名な本なら単行本として発行されたものが、たとえ古い時代のものでも、存在するかもしれません。しかしそれほど有名でない本の場合、そんなものが単行本として大学図書館などに収蔵されていることはまれです。そもそも、そんなものは自筆稿本かなにかが中国の図書館に1本あるだけでしょう。

ではどうやってその本を見つけるのかと言いますと、中国の本(特に古典に類するもの)はたいていの場合、何らかの叢書に収められています。比較的多く見られるのはその著者の他の著作と一緒にその人の著作集的な形でまとめられているものです。恐らく最近の人の著作でない限り、中国人の書いたものは、必ず何かしらの叢書に含まれていると言っても過言ではないでしょう。少なくとも大学の授業で必要とするレベルの範囲では。これらの叢書の内容について逐一書いてあるのが上記「中国叢書綜録」です。本によっては複数の叢書に入っているものもあります。そんな時は研究室や図書館に置いてある叢書のものを使えばいいわけです。入っている叢書によって多少中味に異同がある場合もあります。それも叢書綜録を注意深く見ると書いてあります。この叢書綜録の主な叢書についてだけ拾い出したような内容一覧が大修館書店発行、近藤春雄著「中国学芸大事典」に付録としてついています。初めてこの付録を見た時にはなんて便利なものだろうと思いましたが、叢書綜録を知ってからはほとんど見なくなりました。

この叢書綜録は例えば論語とか、孟子といった個々の著作を調べると、それを含んでいる叢書の名前が並んでいるという構成ですが、論語と言っても一種類ではないですから、数多く並んでいます。それぞれについて含んでいる叢書の名前が並んでいますが、私などはむしろ論語にはどんな版本なり、関連書があるのだろうかということを調べるのにも、この叢書綜録は役立っています。分厚い3冊本で、今でも中国関係の書籍を扱っている本屋でなら手に入ると思います。

(第5回 完)

第4回 大学1年の夏の課題

 前回はだいぶ註釈について長々述べてしまいましたので、私の大学1年次についてもう少しお話しします。

 前期中はあまり予習もしませんでした。もちろん演習で自分が指名されることがなかったからでもあります。私が本格的に上に述べたような中国古典の勉強の仕方を自分で実践したのは夏休みです。

夏休みに1つの課題が出されました。それは適当な古典を選んで、訓読・現代語訳をつけて後期に提出するというものです。もちろん自分なりの註釈も付けな ければなりませんので、引用されている書物には全部当たらなくてはなりません。私は課題に「韓非子」を選びました。もちろん全文をやるなんてことは不可能 なので、その中の1篇を選びました。選んだのは「孤憤」です。訳本は幾つかありましたので、それを参考にして、たいして苦労はしませんでした。もちろん本 文だけに訓読・註釈を施しても課題にはなりませんので、多少は註釈の付いているテキストを選ぼうと思いました。そこで選んだのが冨山房の「漢文大系」に収 められている「韓非子翼毳」です。これなら本文には返り点もあり、そこそこ註釈もあり、かっこよかったからです。これには第2回にも書いた、私の中国思想 体験記が大きく影響していると思います。

私の選んだ版本は日本人の注釈書ですから、注で引用している書物にも日本人の著作が多く含まれていました。「物氏曰」なんていうのがしばしば目に付きま した。初めは何のことかわからなかったのですが、初出のところを探したら、それが「物茂卿」だとわかりました。

 ここでようやく「物氏」が荻生徂徠だとわかりました。こんな調子で出典調べをしていきましたが、いまだに1人だけどんな人だかわからない人物がいます。たまに思い出しては調べていますが、さっぱりです。

この夏休みの課題では基本的には大学の図書館で原典調べをしたのですが、上記のように邦人の著作の場合、うまい具合にうちの図書館で見当たらないものも ありましたので、内閣文庫に行きました。お堀端で明るい静かなところで、非常に気分よく調べることができましたので、これから原典調べなどをする方で、関 東在住でしたら、是非お奨めします。「漢籍分類目録」も京大人文研の目録よりは調べやすいと思います。

なおこの時の課題は、当時は今ほどパソコンも普及していなかったので手書きでしたが、コピーも含め、すべてルーズリーフにまとめました。これだと新たに 資料などが見つかったときに該当の部分に挿入しやすいですし、差し替え・並び替えが楽です。この方法は少なくともパソコンを使っていない方には是非お奨め します。

(第4回 完)

第3回 大学1年次

 めでたく東洋大学に入ったわけですが、1年生の時はそれほど中国哲学の授業は多くありませんでした。一般教育の授業がかなりあり、こういったものを取りこぼすのはあとあとバカらしいと思い、とりあえずきちんと出席して単位確保を目指しました。

 中国関係の授業は中国語と中国哲学・中国文学・概論の授業がそれぞれ週1回ずつでした。これもこの数年でカリキュラム改変があり、だいぶ違っているよう です。概論は担当の先生が論語の中から「仁」が出てくる部分を書き出したプリントを作ってきて、それを講読しながら「仁」について考えるというオーソドッ クスな講義形式の授業でした。

哲学・文学のそれぞれ1コマはどちらも哲学・文学という名称はあるものの、訓読の訓練と文献の扱い方を身につけることを主眼にした授業でした。教材は哲学が「論語集注」で、簡野道明氏が校訂しものです。文学は「孟子集注」の「序」でした。

 本文自体はそれほど難しいものではありませんでしたし、もともと漢文が好きだったので苦にはなりませんでした。しかし注の方はかなり苦労しました。なに せ高校時代の漢文には「注」などというものは存在しません。この場合の注とは小説などの巻末にある語釈などや事項注ではなく、漢文の本文の間(途中)にあ る、割書きのものです。いわゆる「割り注」というものですが、こういうものの存在を初めて知ったので新鮮な驚きと共に、なんか面倒くさいなあというのが正 直な感想でした。

この割り注にはいろいろな古典が引用されています。中国人の古典に対する註釈態度というのは、自分の考え・意見を直接書き表わすのではなく、自分の意見 を代弁してくれる古典の言葉を引用するというものなので、古典の引用が多くなるのです。もちろんそれだけではなく、本文と同じことを言っているとか、本文 と同じ語句が使われているというだけで引用されているものもあります。そういう引用書を一つ一つ丹念に原典に当たって、引用文が間違っていないかチェック するのです。何のためにそんなことをするの? というのは中国哲学を学び始めた学生が等しく感じる疑問だと思います。私も初めはそう思いました。特に同じ 語句を使っているだけで引かれているときなどは、その思いがいっそう強くなります。しかし果たして同じ語句だから引用したのかどうかを見分けるには、引用 書の原典チェックという作業を繰り返すことによって身に付くものであり、その意味では大切な作業だったと思っています。それに特に1年生にとって重要なの は、この作業を通じていろいろな書物に接する機会が増えるということです。接するにはその古典を探し出さなくてはなりません。その本がどこにある かを探すのは結構楽しい作業です。この場合、「どこにあるか」というのは「図書館にあるかどうか」という意味もありますが、時には現在も残っている本かど うかということを確認する作業も入ります。中には長い歴史の流れの中で失われてしまった古典もたくさんあります。そういう本の場合は確認すべき原典という ものがありません。でも「もうその本は失われてしまっている本だ」ということを確認するだけでも大きな収穫です。

ここでもう少しまとめておきますと、註釈には今述べたように、同じ語句が使われているから引用しました、というような全く無駄と言えるような註釈と、本 文をより深く理解するために大変有意義な註釈の2種類が存在します。後者の場合にも、外見上は似た語句が含まれる他の古典の一節が引用されていることが多 いのですが、その引用書の引用された部分のさらに前後を読むことによって、どういう文脈の中で、いま問題となっている語句が使われているのかがわかり、そ れが原文の文脈と合うか合わないか、そういうことを吟味しながら読むことを学ぶのです。

 なお付言しますと、註釈にはもちろん地名や人名などに、もう少し詳しい情報を付け加える、現在我々が言う「注」もありますし、引用なんかせず自説を述べ るタイプの註釈もあります。さらに幾つかの引用を並べて、特にその引用で述べられている意見が割れている場合など、それらについて自分はどの意見に賛成す る、という結論を述べている場合もあります。

ここまで述べてきたことを振り返れば、時代が下がるにつれて古典の蓄積が増えますから、引用できる古典も増えるということはおわかりになると思います。 つまり唐の時代の註釈よりも清の時代の註釈の方がより多くの引用がある、ということが平均して言えます。ですから授業で先生が指定したテキストが比較的最 近の注釈書であると、引用書調べが予習の中で大きな割合を占めることになります。これも原文の理解のためには一長一短です。慣れてくればいちいち原典を見 なくても構わないような引用書もわかってきますが、そういうことをここで書いてはちょっとまずいですね。

(第3回 完)

第2回 なぜ中国学を選んだか

 私が中国古典に興味を持ったのは「第1回」に述べたことが理由ですが、もう一つ、高校時代に徳間書店の「中国 の思想」シリーズを読んだのも理由になっています。第1回で述べたように中国古典に興味を持った私は、とにかくそれを読んでみたいと思い、本屋でその手の 本を探しました。そうしたところ、このシリーズを見つけたのです。日本語訳も付いていて手頃でした。また父が仕事の関係で出版社とつきあいがあったので、 それをいくらか安く入手できるとう条件も大きなものでした。

 この徳間書店のシリーズは第1巻が「韓非子」でした。その時点でせいぜい「論語」「孟子」「孫子」「呉子」くらいしか、それも名前くらいしか知らなかっ た高校生にとって「韓非子」は強烈でした。全くその通りだと思いながら読み進みました。この影響はこの後いろいろと影響していきますが、それは後述しま す。

 今思うと、日本語訳とはいえこのシリーズで代表的な古典のエッセンスは読んだような気がします。このシリーズでは引き続いて「史記」「十八史略」「三国志」を読みました。

 また上に述べた父の仕事の関係で横山光輝氏の「水滸伝」と「三国志」が我が家にはありました。それまではなんか暗い劇画タッチの絵に親しみを持てず、ま さしく「積んどく」状態だったのですが、このような経緯で一気に読んでしまいました。ただ「三国志」は、この頃はまだ赤壁の戦いの手前までしか漫画が進ん でいなかったので、やはり自宅にあった吉川英治氏の「三国志」でその後を読み、漫画はそこで打ち切りました。

 もうここまで進んでくれば、中国学を選ぶのにそれほどの迷いはありませんでした。

(第2回 完)

第1回 大学入学まで

 自己紹介にも書きましたように、私は大学・大学院時代と中国思想を専門に勉強していた人間です。中国思想とい うとなにやら難しく聞こえますが、どんな分野でも難しいところもあればやさしいところもあります。と言うわけで、未熟者である私が自戒の念を込めて、何 故、中国思想を学ぶに至ったかを語りたいと思います。

最初は、つまり大学受験の時は、西洋思想でも東洋思想でも構いませんでした。とにかく哲学を勉強してみたかったのです。ただインド哲学とか、日本思想と いうのは考えに入っていませんでした。あくまで中国思想か西洋哲学かってところですね。入学してから却って日本思想やインドその他の哲学にも興味を持ちま したが、振り返って考えてみると中国思想を選んで正解だったと思います。

その理由は「書籍が安い」に尽きます。現在はけっこう高くなってしまいましたが、私が学生の頃は中国からの輸入書籍は、いわゆる洋書に比べてかなり安 かったのです。たぶん、「安くはない」と言った現在でも洋書に比べれば相対的に安いことに変わりはないと思います。でも、安い分、紙の質や印刷水準はそれ に応じて高くはありません。ページが跳んでいるとか、逆さまの製本ということもしばしばです。それに加え、欧米からの輸入書の場合はどうか知りませんが、 このような乱丁本・落丁本などを返品して交換してもらうということもなかなかできません。購入した日本のお店に在庫があれば可能ですが、印刷部数なども少 ないので、そういった機会も多くはありません。

そうは言っても、最低限、授業に必要な資料などを買いそろえるのに、中国書の場合、かなり安く購入できるという魅力は、貧乏学生にはたまらないものでした。

このような経済的理由の他に、もっと積年の理由というのがあります。言ってしまえば簡単ですが、私は日本史が好きだったのです。これだけでは中国思想と すぐには繋がりませんね。もう少し詳しく言いますと、つまり日本史関係の本を読んでいて、その中に中国古典の言葉がやたらと多く出てくるのに興味を持った のが最初でした。端的な例を挙げると、有名な武田信玄の旗印「風林火山」は中国古典『孫子』の中の一節です。当時、愛読していた歴史関係の雑誌などに孫子 や呉子といった中国古典が、それこそあらゆる知恵の宝庫のように書かれていたのを読んで、自分も読んでみたいなあと漠然と思ったのが最初でした。「歴史読 本」やビジネス誌「プレジデント」などでは、ほとんど定期的に中国特集をしていましたので、そんな特集の号を読んでは夢を膨らませたものでした。ナポレオ ンが『孫子』を座右に手放さなかったというのは有名な話らしいですね。

ところでいざ受験に当たり、中国関係の学部学科を探すと、思ったほど数が多くなかったという記憶があります。現在はどうなのでしょう。仕事柄、各大学で の中国語履修者の数が増えているということは知っていますが、中国学科などが増えているという話はほとんど聞きませんね。一頃より、中国語学科は増えたか もしれませんが、私の場合及び私が受験した頃に関して言えば、中国哲学を学べる大学は少ないものでした。

当時はやはり京大・東大(あえて京大を先に書きます)が東西の両雄という感じでした、偏差値的には。私の住む関東地区で考えたのは早稲田、東洋、大東文 化、二松学舎というところでしょうか。この中であえて東洋を選んだ理由というのは特にないです。京大や早稲田を受けるほどの学力がなかったというに尽きま す。ただ東洋大学は高校時代に受けた模試で会場になっていたことがあったので、ちょっぴり親近感はありました。

受験は学力的には全く問題はなかったので過去問すらやらずに本番に臨みました。国語の試験で漢文がなかったのには試験場で問題用紙を配られて初めて知 り、驚いてしまいました。まさか中国哲学文学科を受験するのに漢文がないなんて、これが正直な感想で、一瞬、配り忘れの問題用紙があるのではないかと思 い、更に必死で配られた用紙を何度も見直したものでした。

(第1回 完)