第18回 就職と中国語辞典[最終回]

当時の東洋大学大学院文学研究科中国哲学専攻は修士課程しかありませんでした。そのため大学院受験の時に、博士後期まである他の大学を受験する人もいましたし、東洋の修士を終えてから他の大学院へ入り直す人もいました。当時は、文部省が「博士を増やせ」と号令をかける少し前で、またバブル時代でしたので、大学院へ入るよりは就職、という雰囲気もありました。

私の場合は、大学院に入る時に両親と二年で修了して就職するという約束でしたので、その先の進学というのは考えていないと言えば嘘になりますが、現実問題としては考えていませんでした。ですから就職問題です。ただ、これも前に書きましたが私は大学4年の時から中国書籍の輸入販売では知られた東方書店でアルバイトをしていましたので、修了後はそのまま社員として就職してしまおうかと考えていました。バブル期だったので他にも選択肢はありましたが、大学院卒というのは就職には不利で、それに東方書店で働くというのも私にとっては魅力的でしたので、これといった就職活動もしていませんでした。その後の氷河期と呼ばれた就職活動を経験された方には怒られるかもしれませんが、4月になればきっとどこかの正社員になっているよ、というのが当時の私の感覚でした。

そんな大学院2年の秋、当時東洋大学大学院に非常勤で教えに来られていた中野達先生から白水社で社員募集をしているというお話をいただきました。公募というのではなく、白水社から知り合いの先生に声がかかり適当の人材を推薦してもらうというものだったようです。当然中野先生以外の先生にも声がかかっていたでしょうし、中野先生も私以外の人にも白羽の矢を立てていたでしょう。ただ、結果的に運よく私が選ばれました。一応「語学書編集部」所属ですが、私の場合当時白水社で進行していた中国語辞典の担当編集者としての入社でした。この中国語辞典の編集にまつわる話は、大阪外国語大学中国語科の同窓会誌に依頼されて一文を草したことがあります(⇒【こちら】)。また東洋大学中国学会報にも主編者である伊地智善継先生について書いたこともあります(⇒【こちら】)。ですから、この「暇つぶしエッセイ」で取り上げるのはやめておきます。どうぞ、そちらをご一読ください。

(第18回 完)

第17回 修士論文

大学院の2年次は当然のことながら修士論文を書かなければなりません。授業は3コマだけでしたからそれほど負担にはならないはずなのですが、上にも述べたとおり、3コマ中2コマは1年次と全く変わらない演習があり、なおかつ新入生がいないため、この2コマのための予習もかなりの労力を強いるものでした。また私は大学4年の時から週に4日から5日のアルバイトをしていましたので、修論のために割ける時間がそれほどふんだんにあるというわけではありませんでした。ただ時間に追われる方が何事も集中してやれる、と誰かが言っていたように、むしろこのくらいのペースがちょうどよかったのだと思います。もし授業もなく毎日自宅でのんびりしていられたら、とても修士論文など書けなかったでしょう。

さて私の修士論文のテーマは卒業論文と同じく秦漢思想史でした。前にも書いたように、なぜ儒教が国教となったのか、なぜ法家を中心に据えた秦帝国はあんなにも簡単に亡んでしまったのか、その理由を自分なりに納得したかったからです。卒業論文では時間が足りなかったこと以上に自分の力不足もあって、秦帝国の歴史をたどるだけで終わってしまいました。ですから修論はその続きでもあります。

卒論と同じく、第一に資料としたのは『史記』と『漢書』でしたが、この頃、雲夢秦簡の発掘成果も広く知られるようになり秦代に関する著作も増えていました。『史記』や『漢書』に関する著作や秦代・漢代に関する書籍は「手当たり次第に」と言うほどでもないですが、かなり買っていました。捜してみると結構あるもので、これらをあちらこちら拾い読みしているうちに夏休みがやってきてしまいました。

卒論を書く頃、ある先輩から資料をどれだけ集められるかを心配しているのはまだまだ序の口で、本気で取り組むようになると集めた資料をどう切り捨てていくかが大仕事だよと言われて、その当時はあまりピンときませんでしたが、その意味が実体験としてわかった感じでした。調べようと思えばいくらでも調べるべき文献はあり、読まなければいけない論文や古典も出てきます。しかし時間的制約や分量的な制約もありそれらの取捨選択が夏休みの課題でした。

時間的な制約については、もっと早くから準備を始めていればいいだろうと言われますが、やはり1年次は授業もあり、気になる論文をコピーしたり本を買ったりしておく程度が関の山です。分量的な制約については、要するにだらだらと長い論文を書けばいいと言うことではない、ということです。偉そうな言い方かもしれませんが、ある程度の分量にまとめ上げるというのも、もちろんその中にきちんと起承転結、問題提起・証明・結論という筋を立てつつですが、とても大切なことであり、一つの能力だと思います。はるか昔、大学受験の頃、国語の試験の話ですが、予備校の教師から「決められた字数で答案を作成するのも大事な能力だ」と言われたのを思い出します。

そんなこんなでなんとか仕上げた修士論文ですが、今思い返しても出来のよくないものです。情けない限りです。ただ論文というのは「慣れ」というのも結構大切で、本当に論文らしい論文が書けるようになるのは、5、6本くらい目からだと親しい先生や先輩からも言われました。そう考えると私など、卒論と修論で2本面ですから、レポートに毛の生えたようなものしか書けなくて当然なのかもしれません。それでも自分なりにいろいろ考え、あれこれ思案し、ああでもないこうでもないと試行錯誤して作り上げたというのは、やはりよい経験だったと思います。

ところで内容や出来はともかくとして、肝心の「なぜ儒教だったのか?」という疑問の答えですが、自分なりの結論としては儒教が他の諸子の思想をうまく取り込み、また帝国体制の維持という現実に対応したことが勝利の原因だったと思いました。戦国末からどの学派も程度の差こそあれ「諸派兼学」的な傾向が見られ、他派の思想を否定するのではなく、「そんなことなら、私の説の中にもあるよ」という風な、諸派を総合して更にその上に立つようになってきます。端的なのは司馬遷の父・談の「六家要旨」でしょう。そういう風潮に乗りつつ、なおかつ漢帝国の存在やその支配を正統化する、なおかつその支配の継続を保証するような理論構築に成功したのが儒家だったと言えます。もっとはっきり言ってしまうと、戦国末から漢代にかけて諸子の思想をうまく折衷し漢帝国向けの理論が形成されていったが、その理論・思想をたまたま「儒家思想」と読んだ、ということなのかもしれません。

(第17回 完)

第16回 大学院2年次

大学院2年次は修士論文を除くと、取らなければならない授業の単位はありませんでした。が、これはどこの大学でも似たり寄ったりでしょうが、主査・副査の先生の授業には最低限1コマ出席することになっていました。私も主査の先生の授業を1コマ、1年次からの継続で出席しました。私の下の学年、つまりこの年の大学院新1年生は3名いたので、2年生の我々がメインとなって授業に出て演習を行なう必要はほとんどありませんでしたが、出る以上は一通り読んで訳して調べて、ということはしなければなりませんでした。

また前回書いた『列子』の授業と『春秋繁露』の授業は新1年生の履修者がいなかったので、引き続き参加しました。『列子』の方は卒業生の人が以前から参加していましたので、昨年と同じメンツでの授業で、ただテキストを『列子』から王弼注『老子』に変わっただけでした。

『老子』は王弼注ということでしたが、たまたまその当時台湾から河上公注の『老子』が輸入されてきたので、なんと我々は2種類の注を比較して読むという授業になりました。この授業は私を含めて3人しか学生がいませんので、1人が王弼注、1人が河上公注を分担して、あとの1名がその週は分担がお休みというローテーションでした。事実上毎週当番が回ってくるような感覚でした。しかし、これまた楽しい授業でした。昨年までは魏晋玄学と一括りにしても人によって思想に差異があることを学びましたが、今回は魏晋玄学ではない河上公注ですから違いがよりはっきりと見えてきます。先生も当初の計画とは異なる河上公注の併読を楽しんでいらっしゃったのではないかと思います。ただこの授業のお陰で、私は老子を迂闊に解釈できなくなってしまいました。これもよい効果ということなのでしょうが、既存の訳注書とかを見ても、本当にこれでいいのかなあ、と思うようになったことは確かです。

もう一つ出ていた『春秋繁露』は、この年にははっきりと先生から紀要に成果を発表しようということが表明されていたので、こちらもそれを意識して訳注を作りました。またいくらなんでも私一人では心許ないですし、力不足ですので既に卒業していた先輩方にも先生から声を掛けていただき、出席してもらうようになりました。その結果、実際に授業料を払っている学生は私一人でしたが、入れ替わり立ち替わりで数名の先輩方が参加していました。これは私にとっても大きな収穫でした。

以前に書いたかもしれませんが(既に読み返す気力がない… ^^; )、東洋大学は学部の1年生、2年生が埼玉県の朝霞校舎で、3年生から大学院までが文京区の白山校舎にわかれています。特にゼミと言うスタイルの授業がないので、3年・4年次に選択科目が重なる程度で、再履修科目でもない限り他の学年と顔を合わせる機会が多くありませんでした。近い方と言えるのかもしれませんが、朝霞と白山は電車1本でいけるわけではないので、上級生が朝霞へ行ったり、下級生が白山へ来たりということも少ないものでした。白山の研究室には1部屋学生の雑談・自習室がありましたが、3年生、4年生ですら来ることが希ですので、わざわざ1年生や2年生が来ることはまずありませんでした。と言うよりも、朝霞で授業があれば、事実上白山へ来ることは不可能に近い状態でした。

と言うわけで、我々の頃から上下の繋がりというか交流が極端に少なくっていた東洋大学でしたので、上級生と一緒に中国の古典を読めるというのは限りなく贅沢で恵まれた環境だったと思います。ただ、先輩方が何人も出席するようになったとはいえ、実際に訳注を作って、読んで訳していたのは私一人でした。これは修士論文の執筆時期だろうと関係なく、この1年間続きました。

(第16回 完)

第15回 『列子』と『春秋繁露』

前回書いた大学院の授業の中で特に印象的だった『列子』について引き続いて書きたいと思います。

現代音による音読を科す、ということは前回書きましたが、今回は授業の内容についてです。多くの人にとっては当たり前のことかもしれませんが、中国思想に限らず哲学なり思想なりを学ぶということは該当テキストをきちんと読みこなすということが大前提です。高校までの現代文などでは、ここで作者の言いたかったことは何か、などという形式の授業も初めに文章を読んでから始めたものです。

しかし高校まで、授業でやったこともない人もいるらしい漢文で書かれた文章を読んで、その中身を理解して、そこから問題点を導き出し、作者の意図を探り、それをどう自分で考えたかを他人と議論するというのは到底無理な話です。

たぶん西洋哲学だろうとインド哲学だろうと、事情は同じではないでしょうか。否、日本文学や日本思想だって古典を対象とするならば同じでしょう。極論すれば、現代日本語で書かれた現代日本の思想だって、それなりの訓練を受けなければ、テキストを読み進むのも相当ハードなことだと思います。

学部時代、学科名こそは中国哲学文学となっていましたが、実際には漢文訓読の練習と文献の扱い方の教授がその内容でした。とても中国古典の1册を持ってきて、そこに書かれている思想を熟読玩味して皆で議論を戦わせる、なんてことは期待できませんでした。

しかし、大学院というのはそれではいけないところです。むしろ学部時代のこのような訓練の土台の上に立って、今度こそ本当にテキストの中身を読むことが科される場だと思います。恐らくレベル的には今述べた、偉そうなことのほんの入り口に過ぎないのでしょうが、大学院の『列子』の授業で私は訓読さえすればそれでよかった授業から、中身を探る授業へと変わったことを気づかされました。

と、ずいぶんと前口上が長くなりましたが、具体的には張湛注に従って『列子』を読むということです。普通、註釈というのは本文を読むための補足であり、本文のわかりにくいところを補うものです。が、この時代は、つまり魏晋玄学時代ですが、註釈の形を借りて自分の思想を述べることが非常に顕著でした。まあ、中国思想の場合、註釈の形で自分の思想を述べるというのは何も魏晋時代には限りませんが…。要するに、本文の助けとして注を使うのではなく、注に述べられた思想に基づいて本文を読むのです。更に『莊子』郭象注なども参考にし、また向秀、王弼など当時の知識人達の註釈に見られる微妙な言葉の違いを意識して、彼ら相互の思想の違いを考える必要もありました。1年間このようにして読んでくると、たとえ主語が書いて無くとも、「ああ王弼はこんなこと言わないよな」とか少しはわかるようになっきますから不思議です。

そうか、こんな読み方もできるんだ、と改めて目から鱗が落ちる思いで、1年間この『列子』の授業を受けたのでした。

さてもう一つ忘れられない授業は『春秋繁露』です。これは全く私一人の授業でした。が、当時この授業を開いていた、今は亡き中下正治先生の元へ中国から王さんという女性の方が研究生として見えていて、授業を聴講していました。当時はまだ日本語もたどたどしく、それが却ってこちらとしては中国語のよい勉強になりましたが…。

この授業、基本的には『春秋繁露』を訓読して訳す、というごくごく普通のスタイルの授業でした。が、中下先生が4月の開講当初から考えていらっしゃったのか今となってはかわかりませんが、作り上げた訳注を大学院紀要に載せようという目標がありました。これは少し説明が必要かもしれませんね。

『春秋繁露』は私が入院した年に読み始めたものではなく、それ以前から中下先生が大学院で読んでいたものです。私が入った時点で恐らく10年以上は読んでいたのではないでしょうか。ただ、私が入る前1年か2年くらいは、古代思想に興味ある学生がいなかったこともあり途絶していました。この年、私が入ったことで、たぶん中下先生が「こいつは『春秋繁露』を読むだろう」と漠然と思われて、改めて開講されたのではないかと思います。私はまだ大学院入りたてのぺーぺーでしたから、現在は各地で活躍されている先輩方に声をかけて、時間があるなら来てもらい、皆で『春秋繁露』を改めて読み始めることにしたのです。と言っても当初は訓練がてら私が1人で読み始め、先輩方にはおかしな点を指摘してもらう形式でした。

こんなわけで始まった訳注ですが、中下先生としてはご自身の定年退職が数年後に迫り、何か形に残るものを残しておきたいと思われたのではないかと思います。また中下先生は本来近代史を専攻とされていらっしゃいましたが、近代中国と言えば公羊学です。私も、そして参加された先輩方も、結局は公羊学を理解しなければ中国はわからないぞ、という考えでこの春秋繁露研究会に参加されていたようです。確かに、主だった中国古典の中で、訳注のないものと言えば真っ先に『春秋繁露』が挙げられるのではないでしょうか。なにせ儒教国教化の立役者・董仲舒の主著と言われながら、管見の及ぶ限り和刻本すら存在しないのですから。

どこでも好きなところ読んでいいぞ、と言われて始まった『春秋繁露』ですが、何篇かは数年前までの先輩が読んでいましたので、先生に聞いて誰も読んでなさそうなところを選びました。今でも鮮明に覚えていますが、一番最初の授業の時、孫詒譲の『札い』(「い」の字は「多」にしんにょう)の『春秋繁露』の項目をコピーしたものが渡されました。ちょうどその頃、私も買っていましたが、該書が東方や内山の店頭に並んでいたのです。

え、いきなり! と思いつつ、なんとか現代語とも古典漢文ともつかぬ孫詒譲の文章を読み始めました。来週からはどこを読む。自分で選べ、と言われ、確か先輩の読んだところがどこであったか来週か再来週になればはっきりするからそれまでの繋ぎで読んでみろ、という話だったと思います。2回目の授業では中程にある、比較的短い篇を選び読み始めましたが、その時はその次の時に先輩が読み終わっているところがはっきりしたので、改めて私がどこを読むかをきちんと決めなくてはならなくなりました。

秦漢思想を学んでいた私は、当時は陰陽五行説とか讖緯思想に興味を持ち始めていました。そこで『春秋繁露』の目次を見ていると後半に陰陽五行とか祭祀関係の篇が並んでいるのに気づきました。その時、なぜ陰陽五行を後回しにしたのか今では覚えていませんが、ともかく祭祀関係の諸篇を読み進めることにしました。ちょうど学部4年の時に『史記』の封禅書を読んでいたことが影響したかもしれません。この頃読んでいた『春秋繁露』は、その後大学院終了時に大学院紀要に発表しました。

(第15回 完)

第14回 大学院1年次

大学院のカリキュラムは学校によってかなり違うのかもしれませんが、東洋大学の場合、というより私が入院した頃は、修士論文を除くと1週間に8科目ほど履修すればよいような状態でした。私はこれをうまく割り振って週に2日だけ行けばよいような時間割を組みました。今となっては記憶が定かではないですが、たぶん1年次に授業の単位はすべて取ってしまったと思います。

大学院の同期は同じく東洋の学部から上がってきたのが1名、他大学から入ってきたのが1名で合計3人でした。私以外の他の2人は現在は大学で中国を教えています。いずれは自分の専門分野の講義を受け持つ日が来るのでしょう。

さて、大学院の授業は決して東洋の先生だけで成り立っているのではなく、他の大学から出講されている先生もいます。授業が始まるに当たって東洋の先生からも、また先輩方からも他大学から来ている先生の授業に誰も出席しないのはまずいから、うまく按排するようにと言われました。たまたまこの時は3名の先生が来ていて、それぞれの専門分野と我々自身の専攻分野との兼ね合いで、うまく新1年生3人がそれぞれ分かれて出ることで解決しました。

大学院はこの当時は修士課程だけですから2年間です。1学年上には大学院進学者が1名しかいませんでした。2学年上は大学院進学者がゼロだったようです。結局、卒業を延ばしている(?)先輩や修了後も聴講に来ている先輩方を含めても、非常に寂しい大学院でした。ですから我々が一気に3名入ったことはかなりのインパクトではなかったかと思います。その後は割とこのくらいの人数ずつ毎年入院する者がいます。

授業にはこういった先輩方も出席されますが、基本的には座っているだけで、担当部分を読んで訳して説明して、といういわゆる演習の実際は1年生である我々の仕事でした。1年生が複数出ている授業もありましたが、ほとんどは私しか1年生がいない授業ばかりでしたので、毎回が発表当番でした。たぶんあとの2人も同じような状況だったと思います。

1年次の授業は、王充の『論衡』、『呂氏春秋』、『列子』張湛注、『史通』が演習形式の授業で、その他に語学科目として現代中国語翻訳法とでも呼ぶべき授業と音韻学がありました。音韻学は今は亡き金岡照光先生の担当講座でしたが、病気のため授業は行なわれず、我々学生が先輩方に指導を受けながら、金岡先生が選んでおいてくれた音韻学のテキストを読み進めるという形式の授業になりました。金岡先生が亡くなられたのは、大学院1年次が終了した3月のことでした。

さらに、1年次に履修した授業はあと1つ、今の私につながる董仲舒『春秋繁露』がありました。他の授業については基本的には人数が少なくなっただけで、学部の3、4年次の演習授業の延長ですから、言を費やしませんが、ほとんど毎回自分が発表で、隣に先輩がいてくれる授業もありましたが、幾つかは先生1人、私1人という授業もあり、その緊張感といい、予習にかける時間といい学部時代とは比べものにならないものでした。

この中で『列子』の授業はちょっと異彩を放っていました。この授業は東洋の先生ではなく他大学から出講されている先生の受け持ちでしたから、私にとっては全く初顔の先生です。古代思想を学んでいる関係上、老荘にも興味はありましたから、履修するのは当然という気持ちで選択しました。もちろん他大学からの先生の授業に穴を開けない、という不文律の中で他の1年生2人の専攻と先生方の授業内容を見比べれば、この授業を私が選択するのは当然とではありましたが…。

しかし、やはりこれまで習ったことのない先生の授業というのは刺激もあり、また授業スタイルの違いも初めこそとまどいましたが新鮮な驚きでした。具体的に言うならば、学部時代まで基本的に東洋の先生は訓読をさせて解釈をさせる、という極めてオーソドックスなスタイルの授業でしたが、『列子』の授業はそうではなかったのです。もちろん訓読・解釈はありますが、その前に音読も課されるのです。

古典作品を現代音で読むことについては異論のある方もいるのでしょうが、私自身は、やはり中国語のリズムになじむという面では非常に効果的だと思います。それにこれからの国際化時代、中国古典を現代中国語で読む(発音する)のがスタンダードであると思い、苦労はしましたが自分としては頑張って取り組みました。自分が出るなんて想像もしていませんが、国際学会で「孔子」を「こうし」と言えば日本だけの話ですが、「コンズ」と言えば、世界中の学者の共通語ですし、「子曰…」も「し、いわく…」ではなく、欧米の学者だって「ズーユエ…」と読んでいるわけですから、互いに同じ土俵に立って議論するためにも現代中国語で読めることも大事だと考えました。「ハンウーティ」と言われて、即座に「漢武帝」と気づけるようになりたいものです。私が現代語で古典を読むことに見いだした意味というのは、むしろこの面の方が大きかったかもしれません。

(第14回 完)

第13回 大学院入試

大学院の入試は東洋大学の場合、10月と3月にありました。どちらを受けても構わないので、つまりチャンスは2回ということです。現在もこの制度のようです。ただ、内部からの受験なら先生方もどういう学生かわかっているので10月入試でも構わないようですが、他大学からの受験の場合は卒業論文が評価の資料になるらしく、3月入試になるようです。これも決まりではなく、なんとなくそういう風になっている程度のものです。ただ現実には内部・外部を問わず10月に受ける人は非常に少ないです。

やはり他大学から受ける人は、3月に「滑り止め」的に東洋を受けることが多いのでしょうか? 私の頃はあまり大学院に進む人も多くなかったので何とも言えませんが、最近はずいぶんと学生が増えています。その理由は99年4月からいよいよ東洋大学の中国哲学専攻にも博士後期課程ができたからです。そのためこの数年大学院の学生がかなり多くなった模様です。後期ができると学部生にもよい影響が出るとは、他大学の大学院へ進学した友人などからも聞いていますので、これで東洋も伝統を活かしてますます発展していってくれるものと期待してます。

さて、そんなことはいいとして私の大学院入試です。私も初めは準備などもあり3月に受けるつもりでいました。が、いろいろ考えているうちにみすみす2回あるチャンスのうち1回を放棄することはないな、と思い始めました。大学院へ進学することは前々から決めていましたし、それなりに中国哲学・文学については興味を持って自分なりに本を読んでましたからもう一度おさらいしておけば何とかなるかな、受からなくても3月の本番の予行演習だと思えば、大学院入試の雰囲気をつかんでおくだけでも充分だ、と考えました。卒論主査の先生には以前から大学院へ進むと話してましたので、そうか受けるか、じゃあ問題を作らなきゃ、程度で受け流されました。

ところがそれとは別に大きな問題が私の家庭で持ち上がりました。なんと地価高騰・バブルの絶頂期に家を買うことにしたのです。その当時住んでいたところは、父親の会社の社宅で、父親の定年まではまだ10年ほどありましたが、住宅ローンのことを考えるともう準備しておかなければ、定年と同時にその家を追い出されることになりかねません。幸いその当時パートをしていた母親のパート先の知り合いに不動産関係の仕事をしている人がいて、あの時期としては地価高騰から忘れられたような値段の物件がありました。まあ、中古住宅で路地の奥というものですが、これで永住の場を見つけることができたので、一安心です。もちろん金銭的にはそれから長く苦労を背負い込むことになりますが、高いマンションの家賃に比べれば、「自分のもの」になるわけですから、苦労の甲斐があると思いました。

で、この住宅購入が大学院入試にとってどういう問題なのか……。別に私はそういう家庭内の問題で自分のリズムが乱されるような柔な性格ではありません。銀行へ行ったり、ローンの手続きをしたりなど、家の中がバタバタしていてもどうということはありませんでした。

一番の問題は、これに伴う引っ越しでした。いろいろ思案の挙げ句、引っ越しは10月の8日に決めました。その年の暦ではこの日は日曜日です。休みは土日しかないですから、前日の土曜日に住んでいる家で引っ越しの準備をして、よく日曜日に運搬という手筈にしたのです。もちろん少しずつ準備は始めてましたし、新しい家の内装工事が終わってからは、小物などの運び込みも始めてました。道が空いていれば車で30分ほどの距離でしたので、それほど苦労はしませんでした。

以上の暦をもう一度確認していただければおわかりと思いますが、8日が日曜日なら9日は月曜日で仕事や学校があります。そして翌日10日は体育の日で休みです。飛び石ではあるが、10日の日もあるから何とか家の中も片づくだろう、というのが最初の腹づもりでした。が、よりによって大学院入試は筆記試験が9日、面接試験が11日だったのです。試験の準備はしなければならないは、家の片づけもしなければならないは、という訳でもうてんてこ舞いでした。それに新しい家ということは通学手段も変わるわけですから、地理不案内な土地で、何時に家を出ればよいのかもわからず、そういう面での負担が大きかったです。

結果的には見事合格しましたからよかったですが、私の大学院入試の最大の障害は自分の家の引っ越しというみっともない状況でした。

勉強面では、東洋の入試科目は中国語・英語(英語は辞書持込可)・中国哲学史・中国文学史という出題科目でしたので、一番力を入れたのは中国文学でした。英語は辞書を持込んでいいのであれば、受験で培った力で何とかなるだろうと思っていました。中国語も基本的には読解ですから、それほどの脅威も感じませんでした。なにしろ中国哲学専攻の大学院ですから、中国哲学・中国文学でそれなりの得点を上げなければ洒落にならないだろうと覚悟して準備をしました。

具体的にやったことは、哲学の方は自分の専門でもあるので、まあ何となくわかっていましたが、文学の方はさっぱりでしたので、文学史のおさらいから始めました。大修館書店から出ていた「中国文化草書」の文学概論と文学史をとにかく時間のある限り読みました。引っ越しの荷物の中でこの本と英和辞典だけは、すぐ持って出られるように一番取りやすいところに置いておきました。とりあえず大雑把な、本当に大雑把な文学史の流れを頭に入れ、どうにかこうにか試験に臨んだというのが事実です。今から振り返ってもよく受かったものだと思います。受験直後は完全に落ちたと思っていました。1日おいて行なわれた面接ではやはり先生方から「文学の得点が悪かった」と指摘されました。私も落ちたとばかり思っていたので3月の入試のために、何か文学史・文学概論の参考書はないですか、と逆に面接の席で質問するような状態でした。ちなみにその時先生方から教えてもらった概論書をその後間もなく購入しました。今ちょっと本棚の中で行方不明なのでわかり次第紹介します。ただ、その当時で既に古本屋でしか入手できない状態でした。

哲学史で読んでいたのは武内義雄「支那思想史」(岩波全書)でした。やはり古本屋で500円で買ったので、書名は「支那…」ですが、現在は「中国…」の名で売られています。

(第13回 完)

第12回 卒論

バイトをしながら週2コマの授業に出席しつつ、卒論を書き始めました。テーマは「秦漢思想史」と、とりあえずは少し大きめの(間口の広い)タイトルにしました。

このテーマは多少、内容面で変遷はありますが、私にとっては実は大学入学以前からのテーマでした。ずいぶん前に書いたように私は徳間書店の「中国の思想」シリーズで中国古典に本格的に(この程度で本格的というのは気恥ずかしいですが……)足を踏み入れたわけですが、最初に読んだ『韓非子』に完全にはまってしまいました。ですから、ごくごく単純に韓非子ファンとして、「なぜ儒家思想が中国で国教となったのか」を知りたくなったのです。知りたいと言うよりも自分なりに納得したいと言った方が正確かもしれません。そこで法家思想の1つの頂点である秦帝国とそれを乗り越え儒家思想を国教と定めた漢王朝にわたる思想史をたどろうと思ったのです。

結果的には時間切れという理由と自分の力不足から秦帝国をざっと見る・眺め回す程度で終わってしまいましたが、いちおう商君の変法以来の秦国の歴史を振り返り、自分なりにまとめたつもりです。

できばえとかは、今更思い出したくもないですが、当時は現在のようにコンピュータが普及してなかったので論文はすべて手書きでした。間違えたら修正液で消して、乾いたらその上からまた書くという作業でした。我が校の先生はこのあたり極めて寛容で、ワープロ原稿でも構わなかったのですが、当時のワープロでは中国語を扱うことは事実上不可能で、また中国古典に出てくる旧字やへんてこりんな漢字を入力することも不可能だったので、古典で論文を書く者も現代文学などで論文を書く者も、ほとんど全員手書きのようでした。これほどコンピュータが発達した今となっては、もう二度とあんなに多量の文章を手で書くことはないだろうなあ、とある種の懐かしさすら覚えます。しかしそれも10年くらい前の話なのですから科学技術の進歩には目を瞠るものがあります。不可能と書きましたが、やるとすれば、途方に暮れそうな「外字作り」でやるしかなかったです。

卒論のためにずいぶんと本を買ったり、図書館で借りて全部コピーしたりということをしましたが、幸いにも国会図書館や内閣文庫・東洋文庫などまで足を運んで資料集めをする必要はありませんでした。基本文献が『史記』ですから、さすがに大学図書館でかなりの資料が集まるものです。

卒論で一番困ったのは中国人の研究論文・著作でした。基本的には論旨の通った論説文体ですから、多少辞書を引きさえすれば、中国語を読むのに苦労はありませんでした。が、問題は中身です。かなりの本でマルクス主義・唯物史観に基づいた論調が見られるのです。

私は決してマルクス主義や共産主義を排除するつもりはありませんし、むしろ学問としては同じ問題を異なる切り口で見せてくれる(我々日本人とは視点が異なる)、という意味においてはむしろ評価すべき点もあると考えています。しかし、中国古代の社会は共産主義とか資本主義とかの遥か以前の段階です。それを共産主義用語で解説されても何のことかさっぱりです。確かに中国では、たとえ古代思想の分野でも共産主義なり唯物史観なり毛沢東語録なりの文言を散りばめて書かないと出版はおろか発表さえさせてもらえない、という噂を聞いていましたから、やむをえないのでしょうが、お陰で中国の著作物を見極める目を少しは養うことができました。またしばらく見ているうちに、前書きだけ毛沢東の言葉を引用し、本文は全くそんな影すら見えないものもあることに気づきました。

最近はこういったこともかなり減ったようですが、古典に関する中国の出版物を選ぶ時は気をつけた方がよいでしょう。見極め方の1つとして注釈にどんな本を引用しているかを見ることです。ひどいのになると始めから終わりまで「マルクス・エンゲルス全集」や「レーニン全集」を引きまくっているのもあります。きちんとした研究書なら、テーマとしている書や該当する時代の正史、関連する古典作品などを引いているはずです。

あと、本文はどうでもよいとして、気の利いた図表や図版が載っているものも、そこの部分だけは役に立ちます。また注釈だけでなく、引用書目にどんな本を挙げているかも、同様に大事なポイントです。この部分はリファレンスとして次のステップへの足がかりにもなります。

さて卒論ですが、先生からは「まず目次を作りなさい」と指導されました。それは、そうすることによって論文の骨格や見通しがはっきりするからです。漠然とテーマだけ決めても、そのテーマに沿ってどういう風に議論を進めていくかは全然考えていない、というのが3年生の終わり頃の状態です。目次とか章立てとかを考えることで、自分の頭の中で問題点が整理できます。やはり論文ですから、自分なりの問題を提起し、それをどう検証していくかという背骨が肝心なわけです。が、いざ目次を考えはじめて、私も書きたいことははっきりしているのに、どう論旨を展開していこうか頭の中は全く真っ白でした。

私の場合、儒教はなぜ国教の地位に就けたのか、という疑問が出発点でしたから、その対局にある秦の法治主義は何がいけなかったのか、ということをまず調べようと思いました。そうすると秦代の法治主義は商君から始まったので、そこから秦国の政治史を追いかけてみようと思いました。

当時、思った以上に秦に関する本(中国で出版されたもの)が手に入りました。時代的にも秦国史というよりは春秋戦国時代ですから、中国史の中でも最も出版点数が豪華な時代の一つではないでしょうか。先に述べた唯物的論調に悪戦苦闘しつつ、そういった本を読んでいきました。そしてそこに引用されている『史記』などの原点に戻って自分なりに解釈し、果たしてその本の主張が妥当かどうか検討していったのです。

しかし秦というのは不思議な国です。どうしても西方の後進国という立場からか、外国の人材をどんどん登用し活用し抜擢しています。もちろん保守派の反撃もあり、いろいろな紆余曲折がありますが、それでも驚くほどです。たとえて言うならば、現在の日本サッカーの監督みたいなものでしょうか。どんどん外国人を呼んできてある程度やらせて、また次の人へバトンタッチ、かなり似ていると言えるかも知れません。

結局、くどいようですが、私の卒論はそんなこんなで秦代だけで終わってしまいました。ほんのちょっと漢初に触れた程度で、儒教国教化などというものの麓までもたどり着きませんでした。仕方なく、この続きは修士論文で、ということにしました。

(第12回 完)

第11回 大学4年次

いよいよ大学4年です。結果としては私は4年終了後そのまま東洋大学の大学院に進学したのですが、「結果として」というわけではありません。実際のところ、私は大学入学以前から大学院まで進もうと決めていました。ですから就職活動もしなければ、前に述べたように教員免状も取ろうとしなかったので教育実習もなく、実にのんびりとした4年生でした。なにしろ卒論を除けば出なければならない(つまり単位にかかわる)授業は2コマしかなかったのですから。

2コマのうち1つは選択科目で西洋哲学の先生が担当の哲学概論だったと思います。このあたり既に記憶が定かではありません……。もう1コマは中哲文科の選択科目で残しておいた哲学の演習授業です。確か内容は『史記』の封禅書でした。演習形式の授業は履修要項によれば3年次あるいは4年次で履修することになっていますが、繰り返すようですが4年になると就職活動やら教育実習やら4年生は実際にはほとんど授業に出てこなくなります。事実上、3年生だけでやっていると言えます。ですから個人的に『史記』の封禅書は卒論テーマとも重なり興味ある内容でしたが、授業としては席に座ってテキストを広げていればよいようなものでした。

ところで、これは極めて個人的なことですが、私は大学入学以来アルバイトというものをしたことがありませんでした。自宅から通っていましたので、衣食住に困ることはなく、親から毎月1万円という小遣いをもらっていたので、取り立ててアルバイトの必要性も感じなかったのです。

確かに勉強のための本代はかかりますが、前にも書いたように中国からの輸入書は当時の私の感覚からすれば信じられないくらいに安く、また時には臨時収入などもありましたから、なんとか小遣いのうちでやってました。

が、4年生になるとそろそろ親も小遣いの打ち切りをほのめかし始めましたし、こちらもほとんど授業がないのにぶらぶらしていてもしょうがないと思いアルバイト捜しを始めました。ただアルバイトをしたことのない人間ですから、アルバイトニュースやフロムエーの見方もよくわからないような有り様でした。

とりあえず授業の関係で週に1日と半日程度は学校へ行かなければならない、というこちらの都合があったので、それを基準に捜しました。別に職種に対しては深く考えていませんでした。むしろ自宅と学校の場所からあまり遠くないところで働ければラッキー、くらいに考えていました。幾つか捜した挙げ句、普段、中国書の購入で利用している東方書店がアルバイトを募集していました。時給は、くどいようですがアルバイト経験のない身としては当時の世間相場もよく知りませんでしたから、高かったのか安かったのかわかりませんが、まあこれで1か月働けば合計で幾らになるから、本を買うにしてもかなり楽だなあ、くらいの感じでした。問題は先にも書いた1日半は勤務できないという所が、自分自身では不安でした。結局実現しませんでしたが、大学3年生になった頃、学校も白山に移り年齢も20歳を過ぎましたから、アルバイトでもするかと思い立ち、当時これまた中国書の購入で時折訪れていた内山書店がバイト募集の張り紙をしてましたので応募しました。が、3年生では週にどう頑張っても3日から4日くらいしか勤務できません。これがネックになって採用には至りませんでした。こういう経験があったので、東方書店も半ば「だめもと」で応募したのです。

東方書店は、中国書の輸入だけではなく自社出版もやっています。これは当時も知ってましたが、その他に中国への輸出もやっていることをその時初めて知りました。そしてアルバイトの募集をしていたのはその輸出部でした。場所は現在は移ってしまいましたが、私が応募した頃は水道橋と神保町の間、やや水道橋寄りのところでした(東京以外の方にはわかりませんね!)。真田広之と手塚理美など芸能人カップルがしばしば結婚式を挙げる神田教会の側でした。電話で応募して、履歴書を持って面接に行き、なんとその日の夕方には採用決定の電話をもらいました。いつから来てくれますか、という話になり、する事もなかったので明日からでもと返事をしましたが、受け入れの準備などもあり確か2、3日後から行き始めたと思います。これが3年生の後期の授業も終わった1月末のことでした。確か1月の30日か31日から私のアルバイトが始まったのです。

ということで、むしろアルバイトの都合で4年次の授業の選択は同じ曜日に授業を固めてしまおうということを優先したのです。幸いうまい具合にそれができ、またバイト先もそれくらいなら構わないよということで許してくれました。

東方書店でバイトをしている時は、ほとんど8割から9割のバイト代は本代に消えました。毎日社内文書などの伝達で私は水道橋のバイト先から自転車で神保町にある東方書店本社総務部と店舗へ行っていたので、直に社内の方々とも親しくなりました。そして店舗には中哲文科で私より6年か7年くらい先輩の人がいたので、とりわけいろいろ教えてもらいました。中国から面白そうな本とか私の専門分野に近い本が入荷すると教えてくれるので、買いそびれもなく(毎日通っているのに買いそびれもないと思いますが……)、卒論に向けとても重宝しました。

結局、東方書店でのバイトは3年生も終わる1月末から始めて、大学の4年次、大学院の2年間とほぼ3年間続きました。もともと少人数の職場でしたので、時には残業などもありましたが、そもそも家と学校との往復しかしていなかった身ですから、取り立ててすることもなく、毎日のバイトもそれほど苦痛ではありませんでした。むしろあまり学校へ行かないと生活のリズムが狂うような気がするので、毎日のバイトで生活のリズムを維持していたと言えるでしょう。それに多少忙しい方が読書をするにも勉強をするにも、却って集中できてよいという誰かの意見ももっともだと思えました。が、何よりもこれまでは月1万円の小遣いでしたから、ふつうに働けば月に6万円から7万円くらいの収入になるので、一気に懐具合が裕福になり、そのことがとてもうれしかったです。

(第11回 完)

第10回 史記正義研究

この3年の時、私にとっては中国語学研修と同じくらい重要な出来事がありました。別にどこへ行ったとかというわけではありません。

ある時、授業の後、私ともう1人友人が『史記』の授業を担当されていた先生に呼ばれました。その友人というのはずっと出典調べなどを協同でやり、お互い中国のことが好きで入学してきた者同士ということもあって、かっこよく言えば切磋琢磨してきた仲と言えるでしょうか。彼は現在大学で中国語の非常勤講師をしてます。

さて、それはともかく、先生から呼ばれて何事かと思っていると、その先生が参加している研究会が文部省の科研費をもらって研究作業をするので、その手伝いをしてくれないかという話でした。具体的には、『史記』の索引を作るという話でしたが、どんな索引なのか当時の私にはさっぱりでした。4年生では就職や卒論もあり、なかなか時間がとれないだろうから、我々にお鉢が回ってきたのですが、こんなチャンスは滅多にないと思い、我が身の非力を顧みず引き受けることにしました。

淡々と書いてますが、これは私にとっては非常にうれしいことでした。それまでも漢文が好きで、中国のことが好きでしたから、クラスの中では誰にも負けないぞという自負は持っていましたが、それが先生に認められたと実感したからです。まあ、先生からすれば、他の大学の先生との共同研究ですから、連れていって恥をかかない程度に漢文が読める学生を捜していたら、たまたま私が目に付いたくらいの気持ちであったのでしょうが。

この研究会は文教大学の水沢利忠先生、謡口明先生、東京大学の戸川芳郎先生、筑波大学の中村俊也先生、京都の青木五郎先生などをメンバーとして、それにそれぞれの先生の下で学んでいる大学院生が参加していました。ただ、筑波大学は大学院生ではなくオーバードクターの方々ばかりで、逆に文教大学はまだ中国専門の学科ができて日が浅く、最上級生がまだ学部の2年生でした。

私と友人は、既にレールが引かれていて、ただ単純に割り当てられた作業を黙々とやればよいのだろうという位に考えていましたが、実際にはそうではありませんでした。具体的にどんな索引にするか先生方の真剣なやりとりがまだまだ続いていたのでした。

初めての顔合わせに連れていっていただいた時は、私にとって他の大学の先生や学生と会う初めての体験でしたので、大学合格発表以来の久々の緊張でした。これが学問の世界というものか、と訳も分からず感動したものです。

この研究会の成果は、それから数年後に汲古書院から『史記正義の研究』として刊行されました。数年後に1冊の本となって出たと言うことは、実はこの研究会の作業が、ほんの一夏で終わるようなものではなかったことを表わしています。

『史記』には上述したように三家注という注釈があります。本来、注釈ですからそれぞれの著者がそれぞれで執筆したものであったはずです。もちろん現在ほど出版・流通事情がよくない時代のことですから、それほど気軽なことであったとは思えませんが、三家注も後からできたものは先にできたものを参照したりしていたかもしれません。実はこの三家注は成立が少しずつ前後しているのですが、果たしてどれほど先行注釈を見ているのかが学界では問題になっています。

これまで三家注と言ってきましたが、それは『集解』『索隠』『正義』の3つを指します。このうち前2者は単行本(注釈ですから『史記』本文に付された形で存在しているので「単注本」とも言います)が残っています。ですから、もともとどんな書であったのかわかります。が、最後の『正義』には単行本(単注本)が残っていないのです。

後世、『史記』を版行する時、この3つの注釈書をまとめて載せるようになり、それが現在我々が一番身近に見る『史記』のテキストになりました。ところが、この3種類の注釈を載せる(「合刻」と言います)時に3者で同じ事を言っている注釈はわざわざ3つとも載せる必要性がないと言うことで、1つを残して削ってしまいました。また合刻した当時の感覚で必要ないと思われるものを削除されてしまったようです。その結果、『史記』の三家注合刻本に載っている三家注は必ずしも本来の姿ではないという事態が起こりました。これはこれでべつに構いません、三家注それぞれの単行本(単注本)が残っていれば……。そうです。『正義』だけは後に単注本が滅んでしまい、今は三家注合刻本から元の姿を想像するしか手はないのです。

ところで中国の古典には、歴史上一度は失われてしまったけれど、後になってひょっこり出現した書というものもあります。そのような例で一番可能性として高いのは、中国では亡くなってしまったけれど、朝鮮・日本には残っているという場合ではないでしょうか。残念ながら日本にも『正義』の単注本は残っていないようですが、過去には存在していたようです。それを見て、『史記』の三家注合刻本の余白などに書き足した(書き留めた)本が日本には残っています。前にも名前を出した瀧川亀太郎はそれを発見して『史記会注考証』の中に失われていた『正義』だとして取り込みました。これには厳しい批判もありましたが、とにかくそれ以来、失われた『正義』の復元が地道に続けられてきたのです。

話がだいぶ専門的な方に流れてしまいましたが、この研究会の中心人物である水沢先生および小澤賢二先生はともに『正義』の復元に努力してきた方で、研究会も最終的には、この正義の索引を作ることで研究の更なる進歩に資することになったようです。もちろん索引だけではなく、これまでの『正義』ならびに『史記』研究を総括した論文も収められています。

今後も、どこからかまだ未発見の『正義』が見つかるかも知れませんが、とにもかくにも今回の作業が『正義』研究の大きな一区切りになったのではないかと、この研究会を通じて私なりに実感しました。

結局、大学3年の時に先生に誘われたこの研究会の作業は実に数年の歳月がかかってしまったのでした。これほど『史記』を丹念に読んだ(と言うよりも、索引作りのために「見た」と言う方が正確かも知れない!)のはこの時が初めてだったので、その後の卒論や修論の時に非常に大きな助けとなりました。また東洋大学以外の先生や学生の方々と知り合うことができたというのも非常に大きな収穫でした。

(第10回 完)

第9回 大学3年次(後)

さて、前回は授業のことよりも、だいぶ愚痴っぽい話をしてしまいましたので、もう少し授業や勉強の話をしたいと思います。

私は秦漢思想をテーマにしていましたので、どうしてもその時代を扱った書として司馬遷の『史記』は避けて通ることができません。もちろん3年生のこの時点では、まだそこまで明確にテーマを決めていたわけではありませんが……。

その『史記』の注釈として現在に至るももっとも権威あると言われているのがこの年の演習で講読した『史記会注考証』です。授業では全書から1篇を取り出して返り点を施した松雲堂のものを使いましたが、原本は古本屋で10万円位するでしょうか。全10冊で、とても手の届かない存在ですが、幸いにも台湾からリプリント(縮刷版)が出ていました。確か1万円くらいだったと思います。縮刷版ですから文字も小さく、年をとったらつらいかも知れませんが、20歳そこそこの学生には十分読める代物です。私はこれを買いました。もちろん授業だけなら先の1編だけのもので構わないのですが、注まで読めば必ず他の変の記述が必要になりますし、この先卒論などで『史記』は必ず使うことになりますから、買っておいても損はないと考えたからです。

この『史記会注考証』ですが、察しのよい方なら書名でおわかりになると思いますが、ものすごい注釈の量です。そもそも『史記』は、三家注と言って、唐代までに付けられた3種類の注釈が『史記』本文と一緒になって出版されることがほとんどです。が、唐代の注釈ですからそれに対する批判・補充も含め歴代さまざまな意見が出されています。それだけ『史記』が中国人(読書人)によく読まれてきたという証明でもありますが……。それらを『史記会注考証』という本では、それなりの吟味をしつつ、かなり広範に集めています。時にはほんの数文字の本文に対して、三家注と考証が延々数頁にわたることもあります。自分の考えを述べている文章ならまだしも、「会注」ですからとにかくいろいろな人の意見が載っています。それらをきちんとその注釈者の原文に帰って確かめ、読み進んでいくのです。こうして調べていくと、時には考証の引用が、正確でないこともあります。自分の都合のよいように引用した、と言ったら聞こえが悪いですが、そのように感じられる部分もありました。

このような引用書の原典チェックはたいへんですが、『史記会注考証』は親切にも巻末に、著者・瀧川亀太郎が参照した日本・中国の書物のリストを載せてくれているのです。実際に「考証」の中で引用している時は、書名は省略、著者名は略称、ということが多いですが、このリストを見ればきちんと正確な名前も書名もわかるようになっています。これは教材に指定されていた1篇だけの本では載っていない部分で、全書の最後にこんな付録があるということは、授業中に先生から聞いて初めて知ったことでした。私は家に戻ってから改めて自分の買った『史記会注考証』の最後を見直しました。日本と禹域(中国)に分け、何人の人の名前が並んでいることでしょうか。それはともかく、もしこれらの引用箇所に出くわした場合、果たして東洋大学の図書館だけで調べきれるものだろうか、という気もしました。が、卒論や各自の課題ではありませんので、特にしっかり原典に当たらないと解釈上問題がある場合を除いて、先生は大学の図書館で見つからない原典までは厳しく要求されませんでした。もちろん先生はどの本なら大学にあるか、だいたいわかっていますから、そうとう珍しいものでないと誤魔化せませんが。

『史記』については、まだ語らなければならないことがありますが、それは稿を改めることにして、残りの『楚辞』と『章太炎年譜』の授業について述べます。

『楚辞』は今は亡き金岡照光先生の授業でした。ただし最晩年の病気がちのお体で、先輩方の話で伺う印象とはだいぶ異なりました。しかし、今振り返ってみると金岡先生のすごさを多少なりとも感じることのできた授業は、その当時の大学院の授業は知りませんので学部のレベルでは、我々のこの授業が最期であったと思います。金岡先生は敦煌学の世界的権威ですから、それに近い授業を受けられればよかったのでしょうが、学部ではまだ無理だと思います。そもそも学部3年生くらいでは「変文」と聞いてわかる人はまずいなかったでしょう。というわけなのかどうかは知りませんが、とにかく我々が読んだのは『楚辞』でした。テキストは朱熹の『楚辞集注』です。中国の本にしてはかなりきれいな印刷・紙質の本でした。授業に進め方は非常にオーソドックスで、その日当たった者が本文を訓読して解釈するというもので、金岡先生はご自分から学生を指名することをされず、「今日はどなたがなさいますか?」と非常に穏やかな口調で学生の自主性を求めていました。ただ学生の側からすれば、むしろこの方が楽であったことも事実です。なぜなら自分たちで前もって相談して担当の順番を決めておけば、あとはその担当者に任せ予習をさぼることができるからです。実に不謹慎な考えですが、おおかたの学生の態度とはこのようなものではないでしょうか。むしろ履修者のほとんどが、1年間で1回は当たることになるんだからと、むしろ積極的に順番決めに加わっていたような気がします。

金岡先生は、わからないことに対しては非常に寛容でした。調べてきてこれ以上はわからなかった、調べきれなかったという我々の発言に対しては極めてやさしく「あ、そうですか」と答えてくれました。が、「やってません=予習をしてきてません・調べてません」という言い方に対しては非常に厳しかったです。否、大学の3年にもなれば、それがふつうなのかも知れませんね。

ある時、担当していた者がうっかりしてほとんど予習をやらないできてしました。金岡先生はかなり怒りながらも、仕方なく他の者を指名しましたが、上述のようにほとんどの学生は担当者にその日の分を任せきってますから、予習してきているわけがありません。結局、クラス全員金岡先生に烈火のごとく怒られたのでした。

『章太炎年譜』はこれまでの授業の中では異質でした。まず私自身、年譜というものをこの授業で初めて読みました。また章太炎と言えば清末の人ですから、いくら一流の学者とはいえ文章は必ずしも我々が漢文としてなじんでいる古典中国語ではありません。古典中国語の痕跡を残しながらも現代文が混じる、非常に読みにくい文章でした。日本で言うと森鴎外や夏目漱石の文章のような感じ、と言えば、正確ではないにしろ感じはつかんでもらえると思います。

ただ文章は年譜ですから、箇条書きに年を追って起こった事柄を並べているだけなので、背景となる歴史事実をわかっていれば、「ああ、これはあのことね」と納得のできるものが多く、少し慣れてくると、それほど読みづらさを感じなくなりました。むしろ一番厄介だったのは、人名でした。友人・知人などになると必ずしも本名で書かれているわけではありませんので、いったいこれが誰なのかさっぱりということがしばしばで、先生に「これは某々のことだ」と言われて初めて、ああそうなのか、とわかる始末でした。後から辞典などで調べてみると、確かにその人物の項に別称や別号として『年譜』に登場した名称を見つけることができました。

そんな感じで中国の近代思想というものにも触れることができたのですが、この時点では私の興味は古代思想にありましたので、それほど強烈な印象が残ったわけではありません。が、今となってはそれが心残りというか、惜しいことをしたなという気持ちでいっぱいです。それはこの後、大学院に進むようになって、私が急激に近代思想にも興味を持つようになったからです。

(第9回 完)